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Little Story 01
『鳩の生活 -五竜亭シリーズより-』
まるで、仕掛け時計の鳩のような生活だな、と、言われたことがある。
そう言われた瞬間、怒るより先にすとんと納得してしまったので、これは完全に私の負け。……というか、実際、彼の言葉があまりにも的を得すぎていたため、すごくすっきりした気持ちになったことを、まだはっきりと覚えている。
おそらくあのときの彼は、私に納得させるために、そんなことを言ったわけではなかったのだろう。もちろん、からかうためでもない。多分、この生活では新しいものは何も得られないと、私に気づかせたかった……のではないかと、今さらながら思う。
「そうかもしれない。言われてみたら、その通りね。ぴったりの表現だわ」
「いや、だからさ……そうじゃねぇだろ。もっと怒るとか、していいんだぜ?」
思わず口をついて出た感想に、彼はちょっと困ったように笑って、私の瞳を覗き込んだ。さりげなく私の言葉が本気かどうかを探り、次の言葉を探す。そんな細やかなことができる彼を、私はとても……何と言うか、すごい、人だと思った。盗賊という職種は……いや、冒険者という人種はおそらく、自身の職種に見合った能力の他に、こんな風にすごい芸当のできる人にしかつとまらないのだろう。
「怒るなんて、無理よ。だって、すごく納得したわ。その通りだなって」
発せられた言葉を確かめるように、彼がもう一度、私の瞳を見る。心の奥まで見透かされるような、強い視線。裸にされたような気持ちになるけれど、勇気を奮い起こして、私もまっすぐに彼を見返す。——大丈夫。今は何も隠していない。嘘もついていない。今私が口に出したのは、心の底からの真実だから。だから……大丈夫。
「……ふぅん。そっか」
何でもない雑談に相槌を打つように優しく締めくくって、彼は私から視線を外した。言葉を呑みこんだようにも見えたけれど、それは、きっとそれで正解。彼の口から出てくる予定だった言葉は、どんな方向に向かったとしても、決して私の……そして彼自身のためにならなかったと思う。
おそらく、彼もそのとき、同じことを感じたに違いない。だから、その会話からほどなくして彼はこの部屋を去り、そして……以来訪れることは、ない。
——わかっている。それで正解。
私には、彼のような能力はない。自分の仕事を、毎日、失敗しないように繰り返すのが精いっぱい。仕掛け時計の鳩のように、ここに留まって時を知らせる仕事がお似合い。
だから私は……もう二度と冒険者には、戻れない。
*
彼に言われたように、私の毎日は規則正しく、朝の六時から始まる。
父からこの仕事を受け継ぐ前、もっと小さな子どもだった頃も、仕事に就く父と一緒に起きていたから、この時間になると勝手に目が覚めてしまう。きっと、父もそうだったのだろう。父の父も、そのまた父も……同じようにこの時間、この場所で目覚めていたに違いない。
身支度を整え、朝食は軽いものに熱いお茶を一杯。窓を開けて外の風を入れ、床の埃を掃き出し、洗濯をして干し……朝の日課がすべて終わると、時刻は計ったかのように8時少し前。そのまま、仕事場である管理室の方に移動して、仕事をはじめる。
私の仕事は、橋の管理人だ。
私の父の、その父の父の……どのくらい前からかはわからないけれど、父の話によると私の家では数代前から、このセルフィスの街にある『落とされ橋』の管理を生業にしていたという。
父によると、父の父の父の……どこかの先祖がこの地に住み始めた頃は、このセルフィスの街も今ほど大きくなく治安も不確かで、毎日、ユキリア内海から海賊が攻めてくるか、はたまた川の上流にある森の向こうから蛮族が攻めてくるか、皆が怯えながら暮らしていたそうだ(もちろん、父だってその父から聞いた話、そしてその父だってその父から……という伝聞をもとに話しているのだから、どこまで本当の話かはよくわからない)。どちらにせよ、当時悪者は船に乗って街に乗り込んでくるものだったのだそうで、それに目を付けたご先祖様が、街を守るためにここに橋を作った……と、父は自慢げに、少女だった私を膝に乗せ、何度も繰り返し、話して聞かせたものだ。
「だからな、この橋は街を守るかなめで、俺たちは街を守る勇者の家系だったのさ。この橋は人や物を渡し、そして同時に街を守る武器でもあったというわけさ」
「ぶきって、はしが? けんみたいな? おとうさん、はしでどうやってたたかうの?」
父の話が半分もわからず、私は何度も同じようなことを、彼に尋ねた。父の代には既にこのセルフィスは大きく、そして治安もそこそこ安定しており……もっと言うと、海賊も蛮族も川から乗り込んでくる気配すらなかったため、『落とされ橋』の管理人という仕事は完全に形骸化。つまりは暇になっていた父は、私のしつこい質問に嫌な顔一つせず、きちんと毎回、丁寧に答えてくれたものだ。
「剣っていうか、カタパルトとかの方が近いかな。……ベル、カタパルトってわかるか? 家くらい大きい装置で、敵を一気にやっつけるのさ。すごいだろ?」
「カタパルトって、わかんない……」
「そうか。じゃあ……そうだな、大きい落とし穴って言ったら、わかるかな? 橋を、おっきな落とし穴みたいに使って、敵をやっつけるのさ」
「おとうさん、みずにあなはほれないよ?」
「あー、そうだなぁ。そうなんだけど……じゃあ、どういえばいいかなあ……?」
父が管理人だった頃は、そんな風に日がな一日、私は父と話をして過ごした。もちろん、先祖のルーツや橋の管理人という仕事についての話だけではなく、もっと面白い話——たとえば、父が若い頃、冒険者だったときの話などもよく聞いた記憶がある。
こちらの話は伝聞の一切ない、父自身の経験した冒険譚だったため、隅々にまで血が通った、聞くだけでもわくわくと胸が躍る話だった。竜の腹に抱かれた財宝や、それを得られぬまま死んだ亡霊。宝のほんの一部を奪い、間一髪での脱出。それに協力してくれた、背中を預けられる仲間……そして、そんなものたちの話をする時の、少年のような表情になる父の横顔が、私は好きだった。
「お前も、所帯を持つ前に冒険に出たらどうだ? ……あー、でも、女の子に冒険は危ないか。お前、男に生まれりゃよかったのになあ」
いろいろな冒険の話をして現実に帰ってくると、父は必ず私の頭を撫で、そんな言葉で話を締めくくった。
おそらく、本心だったと思う。物心ついたときにはすでに二人きりだった家族で、父は私を娘としてとても可愛がってくれていたけれど……それでもその言葉は、どう言い訳しても隠せない、本心だったのだろうと、思う。
「だいじょうぶだよ。あぶなくないよ! わたしも、ぼうけんにいく!」
さすがに、今さら男に生まれ直すことはできないことくらいわかっていたので、私はそう、父に答えた。もちろん、その場限りの言葉のつもりだった。だから……父が、私の言葉を覚えていて、冒険に行けと言い出した時は、本当にびっくりした。
結局、嬉しそうな父を裏切れず、流されるまま冒険に出てはみたけれど、結果は散々。出発して一週間もたたないうちにからまれ(しかも、モンスターでも海賊でもない、ただのチンピラに!)ひどい目に遭うし、危険な場所では足がすくんで仲間の足を引っ張るし……父のように素敵な冒険譚一つ得られず、私は『落とされ橋』に帰ってきた。
父はそんな私に少なからず落胆したとは思うけれど、一応娘の前ではその感情を上手に隠し、淡々と私に、橋の管理人の仕事を教えてくれた。そして……父は亡くなり、私がこの仕事を継いで……今に至る。
「よう、ベル! おはようさん!」
またしても深い想いの海に沈みそうになっていた私に、窓の外から声がかかる。
「おはようございます。今日も……バザールの荷運びですか?」
川に面した窓を大きく開けて橋の下を見下ろすと、馴染みの商船がご自慢の美しい金糸刺しゅうの帆をそよがせ、下流の方から上ってきたところだった。太鼓腹の船長が機嫌よく声をかけてくるところを見ると、今日の荷物は良いお金になるものに違いない。
「ああ、いつもの通り。……また、明日には通るから。よろしくな」
「はい。お気をつけて」
やわらかく、短い汽笛が一発。あいさつ代わりに鳴らされた聞きなれた音を見送ってから、私はゆっくりと本棚に近づいた。
狭い管理室には、ちいさな机と椅子と、そして机の上に六冊の本が入ったちいさな棚がひとつ、ある。
すべて、仕事と共に、父から譲り受けたものだ。父によると、海賊や蛮族の心配が薄れ始めた頃(つまりは、管理人の仕事が暇になってきた頃)から、先代たちが時間を潰すために、ぽつぽつと買い足していったものだという。
「昔はまあ……何か面白いもんだったのかもしれないけど、今はただの古い本だ。読むのも大変かもしれないから、次の者に渡すまで、飾っておくだけでいいんだよ」
自分がその数冊の本に全く手をつけなかった言い訳なのか、父はそれについてさらりと言い添えた。実際、父には必要なかっただろう。彼には、ちいさな私という格好の話し相手と、若い頃に積み重ねてきた自身の冒険譚があったのだから。
自分が、自分の足で歩いて紡いだ冒険譚に、こんな古い本たちが敵うわけもない。しかも、それを話して聞かせる観客もいる。——父には、この古く、ホコリをかぶった本たちは本当に全く、必要ではなかったはずだ。……でも。
私は椅子に座り、棚から本を一冊取り出した。もう、何度読んだかわからないほど読み込んだ本だが、全部で六冊しかないのだから仕方がない。昔の文体で読みづらいけれど、それも時間を潰すためのスパイスだと思えばちょうど良い。
ページをめくりながら私は、ゆっくりと物語の世界に沈み込んでいく。自分の冒険譚をわずかしか持たない私には、時間を潰すための、架空の物語が必要だ。
川の流れのようにゆるゆると、いつもの時間は過ぎていく。時折、外を行き来する船の気配やあいさつ代わりの汽笛に顔を上げ、窓の外を過ぎる船たちを見送りながら、私はいつものように午前の時間を過ごした。
自分の冒険譚を持つ父や……そしておそらく、私を鳩のようだと言った盗賊の彼にとっても、退屈極まりない日常の時間。でも、私にはまったく、不満はない。
ちいさな棘のようなささやかな寂しさはあるけれど、私はこの生活が好きだ。止まっているからこそ、わずかに揺れ動く他が見える、本当にささやかなこの生活が。
——さあ、本も大分読んだ。そろそろ、昼がやってくる。ぽっぽう。
*
お昼を少し過ぎた頃。お茶の時間にはまだほんの少し早い頃から、毎日申し合わせたようにすうっと船の往来がなくなる時間が来る。
これは、船に乗る人たちが食事や休息を取るため……というよりは、街の中にある運河にも似た川を通るのに、わざわざ都合の悪い時間を選ぶ人は少ない、というだけの理由なのだと思う。
人でも物でも、暗くなる前に動かしておいた方がいろいろと面倒がない。特にセルフィスの街は、街道沿いに大きな門がある他はぐるりと壁に囲まれ、夜間は勝手に出入りすることができないつくりだ。港にも、夜間は基本的に入港できないなど、それと相当の決まりごとがある。暗い闇の中で船を操るのが危険だということ以上に、危険を冒してまで船を動かす必要がない……というのが、この時間以降、ぱったり船の往来がなくなる理由ではないだろうか。
この時間までいつもの通り読書を続け、私はゆっくりと椅子から立ち上がった。
いつもはこの後、住んでいる部屋部分に戻って遅い昼食を取り、一日の仕事を終える。週に一度くらいは川沿いを散歩がてら港の方に下り、午後の市場で必要なものを買ったりすることもあるが、何となく川のそばを離れがたくて、このまま、家で過ごすことが大多数。父も、そしておそらくはその父も……つまり、橋の管理人という生業に就いた者は、皆、そうだっただろう。何となく……本当に何となくだが、川のそばでその息遣いを聞いていた方が、自分にとっても皆にとっても、いいような気がするのだ。
「……そう、だよね。お父さん」
窓辺で川の流れを眺めながら、今はもういない父に、そっと話しかけてみる。
きっと、代々の管理人が、川の息遣いを聞いていたいと思った結果だろう——父や、その先祖たちの墓は、家の裏手にある丘の上と決められていた。今日はこれから、そういった歴代の管理人たちに花を手向けに行こうか、と一瞬考えたが、思い直して、居住部分の台所へと向かう。
私が、そう思うタイミングなら、きっとあの人たちも、そう思うはず。
よく考えてみたら、今日は父の月命日だ。しばらく姿を見ていないし、そろそろ……きっとお父さんは、話し相手が欲しいと思うはず。私じゃなくて、もっと親しい人。私が持っていくようなお花じゃなくて、大好きなお酒を持ってきてくれる人。古い本のように同じ話しかしない私じゃなくて、毎回新しい冒険譚を聞かせてくれる人……そう。父の——無二の親友と言うべき人だ。
予感がする。自慢じゃないが、勘は鋭い方だ。きっとあの人たちは、そろそろやってくる。だから……私が用意すべきものは、丘の上に持っていく花ではない。
私は急いで、台所の奥から粉と砂糖を取り出した。牛乳もバターも、貰ったばかりだ。材料を量り、器にふるい入れる。力を込めて、バターに砂糖を練りこむ。
お茶の時間には遅いけれど、日没までに間に合えば大丈夫。急げ、急げ……あと少しで、夕焼けとあの人たちがやってくる!
*
「よう、ベル。久しぶりだな。元気だったか?」
「わぁ〜、あまくていいにお〜い! びぃびぃのだいすきな、おかしのにおいだよ〜!」
そして。やはり彼らは、夕闇と共にやってきた。
「いらっしゃい、カールスさん。ヴィヴィも。いつもありがとうございます。父のこと……忘れずにいて下さって」
「それ、嫌味かい? 最近は、しばらくご無沙汰だったからな」
「いいえ、まさか! 思い出していただけて、本当に嬉しいんですよ。父も……私も」
父の親友である片目の傭兵と初めて会ったのは、父の死後、しばらく経ってからのことだった。彼は、私が書いた父の訃報を知らせる手紙を見て、飛んできてくれたのだ。
ちいさな頃から何度も話には出てきていたから、初めて実物の彼を見た時は、何だかとても不思議な感じだったのを覚えている。『片目を眼帯で覆った、岩のような大男』『頼りがいがあり、誰からも好感を持たれる奴』『唯一、背中を預けられる、大切な仲間』……そんな父の物語に出てくる登場人物が、私の手紙を読んで、本から出てきてくれたような気さえ覚えた。
本当に、聞いていた通りの人物だった。小さな可愛らしいフェアリーが彼を気に入ってついてきているのも、『誰からも好感を持たれる』証拠のようで、嬉しかった。事件に巻き込まれて殺された父の仇を取りたいと言う私に、力強くうなずいてくれたのも、こう言っては何だが、物語の通りだと、別の意味で感動した。
「忘れるわけない。オブザーは俺の大切な仲間で、親友だ。……それはもちろん、奴が死んでも変わらない。だから、忘れるわけなんてない」
ここが、父の話に登場する酒場ではなく私の家で、彼が手にしているのがエールのジョッキではなくお茶の入ったカップと焼き菓子でも、彼の言葉は、いつでも父の物語に出てくる傭兵・カールス=グスタフのそれだった。初めて会ったときはとても感動したが、今ではこの変わらない安定感に、とてもほっとする。
「……もちろん、お前もだ、ベル。お前も、俺にとって大切なんだぞ?」
「えっ?」
物語の人物の思いがけない言葉に顔を上げると、向こうもつられたのか、慌てた様子で言い添えてきた。
「あ、いや、大丈夫。恋愛感情とか、そういう変な意味はないから! 俺が言っているのは、大切な親友の娘は、親友と同じくらい大切だってことだ。他意はない、他意は!」
「わかってます。大丈夫ですよ。ありがとうございます」
「びぃびぃはね〜。かーるすもべるも、み〜んな、だいすきだよ〜! べるのくっきーも、だいすきだよ〜♪」
仲間の窮地を察したのか、フェアリーのヴィヴィが可愛らしくカールスさんに口添える。父の言っていた通り、彼は分け隔てなく愛されているなと、改めて思った。男にも、女にも。人間にも、フェアリーにも。橋の管理人にも。そして、冒険者……盗賊にも?
「そっか。……ま、ベルは俺やヴィヴィより、もっと別の意味で、好きだっていう奴がいるしなぁ!」
「えっ……?」
「……悪いな。連れて来なくて。まあ今度、二人きりで愛を深めてくれ。それより……」
心を読まれたのかと思って飛び上るほど驚いたが、そうではなかったようだ。ニヤリと一瞬笑ってから、彼が、元の真剣な表情へと戻る。
「今日は、二つ用事があって、ここに来た。一つは、オブザーの墓参り。そしてもう一つは……ベル、お前に話を聞くことだ」
*
「怪しい積荷の船、ですか?」
父の親友である歴戦の傭兵は——おそらく、私を巻き込まないようにとの配慮からだろう——自身の目的について、多くを語らなかった。だからその情報が何につながるのかはまったく分からないが、彼はここ数週間の『落とされ橋』付近における船の往来について知りたいのだという。
「そうだ。妙な積荷があったとか、船員が見たこともない奴らだったとか……」
「元々ここでは、積荷のチェックは行いませんよ。上の広場で行われるバザールの荷を運ぶ船がほとんどですから、外国の船だってまあまあ通りますし。全体の半分は、馴染みの薄い船じゃないかと思います」
私の言葉に、カールスさんはわかりやすく肩を落とした。もっと、しっかりしたチェックを行っているものと思っていたのだろうか? そうだとしたら申し訳ないけれど……おそらく、父の父のそのまた父の代から、ここでそんなことは一切していない。この『落とされ橋』管理人の仕事は、そういったものではないのだ。
「ごめんなさい、カールスさん。父から、聞いていませんでしたか? ここは、橋を通る船や人をチェックする場所ではないんです。私たち管理人に代々、唯一課せられているのは……文字通り、橋を落とすこと、だけなんです」
「橋を、落とす……?」
彼のきょとんとした表情が、この橋について父から全く聞いていなかったことを雄弁に物語っていた。この話自体は、以前は街中が知っていたことだから話しても構わないのだが……こんな昔話、信じてもらえるかがはなはだ疑問だ。
「セルフィスという街ができ、この『落とされ橋』ができた頃、まだまだ治安は不確かで、人々は日々、海賊や蛮族の襲来におびえていたそうです」
……しまった。つい癖で、話の一番初めから語りだしてしまった。この辺を省かないと、この話だけで三日はかかってしまうのに!
「……っと、それはまあ、長くなるので、ともかく。それで、その対策として先祖は、この橋をつくるときに仕掛けを作ったんです。作動させれば、橋が、簡単に落ちるような仕掛けを」
「橋を落として、敵の侵入を防ぐってことか。……確かにそれは、基本の作戦だ」
通じるかどうか半信半疑ではあったけれど、さすがは歴戦の傭兵。カールスさんは一旦、私の話を丸ごと、呑みこんでくれることにしたらしい。あごに手を当て、何かの考察に入っているようだ。考え込む彼の手助けになることを祈りつつ、私は言葉を継ぎ足す。
「橋の管理人の仕事は、橋の周辺まで危険が来ていないかどうかを見張ること。そして、危険が訪れたら、管理人の判断で速やかに橋を落とし、水からの危機であれば橋によってそれを攻撃。陸からの危機であれば川によって道を断ちます。『落とされ橋』の管理人とはそういう仕事だと……私は、父から教えられました」
父は、父の父から。その父はその父から……という説明は省いた。必要がない気もしたし、逆におかしな話だが、彼は既にそれを知っているような気もしたからだ。
「その仕掛けってのは……お前さん以外に扱うことはできないのか?」
ヴィヴィが、彼女の顔より大きい焼き菓子を二枚食べる間、カールスさんは黙ったまま考え、彼女が三枚目を手に取ったところでそう、切り出した。思った通り、彼はその『仕掛け』に興味を持っている。でも……どんなに父の大切な人だとしても、こればかりは譲れない。
「扱えない、決まりになっています。魔法のような力で管理者に……と特定されているわけではありませんが、管理者にのみ、その方法が伝えられる決まりです」
なるべくきっぱりと聞こえるように、頑張ってそう、伝えた。
「もっと言うと、この『落とされ橋』ができて以来、幸いなことに橋が落とされたことはありません。この先も、そうであることを祈っています。そのために、私は毎日、ここで橋を……そして、装置を見守っているんです」
「そうか。わかった。……頑張れ。お前さんの仕事を、これからも」
カールスさんの眼帯で覆われていない方の目が、傭兵から父の友人のそれへと戻った。ほっと、安堵の息が漏れる。——自分でも気づかない間に、息をつめてしまっていたようだ。
「はい。ありがとうございます」
「何だか、疲れさせちまったみたいだな。今日は、そろそろ退散するよ。……また、近いうちに寄らせてもらうと思う。それまで、元気でな」
父の友人は優しい顔でそう言うと、連れのフェアリーに手を差し出した。美しい文鳥のように、フェアリーがその手を伝って、彼の肩へと跳ねながら飛び歩いていく。
「ごちそうさま〜! クッキー、おいしかったよ〜」
「そう? それならよかったわ。また来てね。ヴィヴィも」
二人を見送るため、外へ出る方の扉を開ける。陽はすっかり落ち、外は藍色の絵の具を薄く溶いたような色の空気になっていた。カンテラを貸そうと戻りかける私を、カールスさんが制する。
「いらないよ。今日はもう、魚当たり亭にでも宿を取るから。……本当は今日中にセルフィスを出るつもりだったけど、つい長っ尻しちまったから、街道の扉も閉まる時間だろうし。遅くまで悪かったな、ベル」
うちから目と鼻の先にあるはたごやを示され、私は素直にうなずいた。あそこまでなら、カンテラなど必要ない。何か貸して、返すための手間をかけさせるよりはいっそ、何も貸さない方がいいだろう。
「じゃあ」
「はい」
「べる〜、またね〜!」
暗がりの中、簡単なあいさつを交わして、カールスさんとヴィヴィは去って行った。
……さて。もう真っ暗。私も、仕掛け時計の中に帰らなくちゃ。
*
二人が去った後、カンテラに灯を入れた。外の闇が急に濃くなり、かちりと夜に切り替わる。
部屋にカンテラがいるような時間にはいつもなら、軽い夕食を済ませている頃合いだ。食事を済ませた後は特に何もすることがないので、いつも早々に寝てしまう。
ただ、今日はお客様と一緒に焼き菓子をつまんだせいか、あまりお腹がすいていない。いつもとは少し違う違和感。少し、居心地の悪い感じだ。
「何も、食べなくてもいいかしら……?」
何となくじっと座っていられず、独り言と共に、食べ残された焼き菓子を小さな器に片づけていく。ヴィヴィが喜ぶようにと、可愛らしい形の抜型を使った菓子。カールスさんには少し可愛らしすぎたかもしれないけれど、味は同じだから、勘弁してもらおうと決めていた(ごめんなさい)。
焼き菓子は、一つの形を十ずつ作った。花の形が十、鳥の形が十、星の形が十……で、全部で三十。ヴィヴィが三つくらい食べた他は、私とカールスさんが二つずつくらいだから、思ったより残ってしまったはず。花の形が五、鳥の形が八、星の形が八……あれ? 思ったより、残りの焼き菓子が少ないような……。
不思議に思いながらも、テーブルを片づけていくと、ヴィヴィに出した小さなカップの影に、花の形の菓子がふたつ、そっと隠すように置かれているのを見つけた。——ヴィヴィは花の形を気に入ってくれていたから、私たちに取られないよう隠したのかしら? それとも、持って帰りたくなった? 言ってくれれば包んだのに。でも、ヴィヴィの顔より大きなお菓子だったから、持って帰るにしても、自分ではポケットどころか、カバンにすら入らない大きさね……。
初めは子どものようなヴィヴィの行動を、微笑ましく思っただけだった。しかし次の瞬間、何か引っかかるような感触を覚えて、立ちすくむ。
——数の合わない焼き菓子。隠す場所のない大きさ。持って行き、持って帰る。バザールへ向かう船と、荷を下ろして港へ帰る船……。
「……そうか、数が合わないんだ!」
閃く。そのまま弾かれるように、外へと向かう。表はもう、夜の闇が空気を支配する時間だったが、羽織るものを用意するのももどかしく、私はそのまま、魚当たり亭へと走る。夜に外出するなんて、いつ以来のことだろう? いつもとは違う自分の行動に、少し居心地の悪さを感じながらも、不思議と胸が高鳴る。
今はただ、カールスさんと話がしたかった。私の、いつもの生活の中に滑り込んできた、ほんの少しの違和感について。——おそらく、彼が私に求めていた情報は、これだ。
焦りで、足がもつれる。でも、止まれない。早く、早く……今ここにある情報を、それを必要とする冒険者に、届けなくては!
*
「おや、いらっしゃい、『落とされ橋』の」
魚当たり亭の扉を開くと、はたごや特有の匂いと喧騒が、一気に押し寄せてきた。薄い煙に包まれるような感触。料理の匂いと、酒の匂い。客の発する熱気。がちゃがちゃと、何かが触れ合う音。しゃべり声。笑い声——そこまで広くはない店内にいる十数人が、皆でこのはたごやという舞台を作り上げているようだ。
「今日はどうした? 珍しいね、こんな時間に」
ご近所同士で顔なじみの店主が、こちらに愛想良く笑顔を向けてくる。
「こんばんは、ご主人。すみません。こちらに今日宿を取っている人で……」
「……ベル! どうした? おねんねの時間じゃなかったか?」
店主に私が尋ねるより早く、入口近くに座っていたカールスさんが目ざとく私を見つけ、さっとこちらに近づいてきた。多少呑んでいるのか、頬に赤みが差している。
「さっきは邪魔したな。用事がないなら、一緒にメシでも良かったか。ヴィヴィも、まだ焼き菓子が食べたかったって……ん? ベル、どうした?」
初めのうちはご機嫌な感じだったのに、私の表情から何かを感じたのか、彼の表情にも緊張が混ざってきた。多少お酒は入っているようだが、このくらいなら、話しても大丈夫だろう。
「あの……船のことで、ちょっとお話が。大したことじゃないかもしれないけれど、お伝えした方がいいかと思って」
大勢の人たちの目があるこのはたごやで、どこまで話をするべきだろうか。……そんな思いで口ごもった私の肩を、カールスさんの大きな手のひらが、そっと包む。
「ああ、そうだな。悪い悪い。それは、急いだ方がいいな。……じゃあ、今から聞きに行くから。それでいいかな?」
「あ……ええ、はい。大丈夫です。でも……」
どうしよう。ほんの些細なことを伝えるだけなのに、わざわざまた、家にまで来てもらうべきなのだろうか。悪い気もするのだけれど……。
「べる〜。さっきのくっきー、またたべたいな〜。いいかなぁ〜? いいよね〜?」
「……と、ヴィヴィも言ってることだし、頼むよ。悪いな、夜、一人暮らしの家に、オジサンが邪魔して」
対外的には完璧に体裁を保ちながらも、有無を言わさぬ流れで、カールスさんが私の背中を押す。だから、それに甘えることにした。
「いいえ。……ごめんなさい。私も慌てていたから、カンテラも持たずに来てしまって。一人では不安だと思っていたところなんです。送ってもらえると、助かります」
本当にただ飛び出した家は、帰って気づいたのだが、鍵もかけないままだった。
カンテラの灯もそのまま。お茶を片づけるのも途中でそのまま。ひざ掛けもテーブルに放り出してそのまま。——運が悪ければ、海賊や蛮族ではなく泥棒か火に、セルフィスの街ではなく私の家が襲われていたところだ。夜道より、帰ってきたとき泥棒と鉢合わせしたり、火事に遭遇などする方がうんと恐ろしい。……カールスさんに来てもらったのは、そういう意味でも正解だったような気がする。
「あ、すみません。片づけていなくて。すぐに、お茶を淹れますね」
「いや、茶は結構。それより、話が欲しい」
そう言われながらも、自分自身を落ち着けるため、私は新しいお茶を用意した。ヴィヴィのために、容器に入れた焼き菓子を、もう一度皿へと移す。花の形が五、鳥の形が七、星の形が八……無意識に数を数えているのは、さっきこれで思い出せたことがあったからだろうか。容器から全部出して、ヴィヴィの前に置いてやる。
「わぁい! おはなは、さっきとおなじ〜? おなじにおいで、おなじあじ〜?」
「ええ。さっきの残りよ。これで……思い出せたんです」
初めはヴィヴィに、おしまいはカールスさんに向けた言葉だった。カールスさんの真剣な目が、まっすぐにこちらを見る。まるで、弓の名手が獲物に照準を合わせる時の鋭さだ。
「思い出せたんです。数が、合わないって。上りと、下りの船の数。上って行って、下りてこない船があるんです」
「だが……一応、上の方にも船着場はあるんだろう?」
今にも矢が飛んできそうなピリピリした空気に、思わず肩をすくめる。確かに、船は様々な場所からやってくるため、全てがその日のうちに港へと戻るわけではない。でも。
「停泊していれば、逆に問題ないと思います。戻るまでに二日以上かかる船はよくいますし。きっと……今停泊していない船が、問題なんです」
以心伝心のような魔法で、まっすぐカールスさんに伝えられない自分がもどかしかった。ちゃんと伝わるだろうか……この、違和感が。
「今日、上流へ行ったのは十二隻で、港へ行ったのは九隻です。昨日以前に上って行った船があるので、単純に残りが三隻というわけではありませんが、大体、毎日そんな感じになっていると思ってください」
「……ああ」
短い相槌を打ちながら、カールスさんは焼き菓子に手を伸ばす。星の形。これで残りは七つ。
「ところで、船がここを通過するときの決まりごとは特にありません。こちらに一声かけるとか、通行記録にサインするとか……そういう決まりは一切ないので、どの船も好きなように通って行きます。声をかけてくれる船長さんもいるし、この管理小屋に気づいていない船もあります」
「それでもはっきり通った数が言えるってことは、お前はすべての船を把握してるってことか?」
しびれを切らしたのか、カールスさんが私の言葉を引き取って継いだ。苦虫の代わりに、新たな星形の焼き菓子を口に放り込んで噛み砕く。これで残りは六つ。
「大体は……正確には、昼間の間に通った船については、把握しています。昼間の間、私は管理室の方にずっといますし、大抵の船は、明るいうちに移動しますから。でも……」
お願い、伝わって! ——気持ちを強く込め、大きく息を吸う。
「夜通る船は、私にはわかりません。元々ここは、港と上流にある船着場をつなぐ運河のような川なので、夜は滅多に船が通ることはないんです。だから、本来ならこれで全部把握している、はずなんです。でも……ここ最近、確かに、下ったのを見た覚えがない船が、もう一度上へ向かうのを見た。そんな気がします。その船はつまり、昼、上流に行き、夜、港へと帰った。そしてまた、昼、上に向かった……そういうことになるんです」
「なるほど。この川を夜、動いている船がいる、と。確かにそれは妙だな……それが、どの船かわかれば……」
カールスさんの声が、少し低くなった。テンポも、少しゆっくりになった気がする。きっと彼は、何かを考えている……そんな風に、感じた。
「はっきりとお約束はできませんが、見れば、わかると思います。必要ならこれからしばらく、夜も管理室で見張ります」
「いや、結構。そこまでする必要はない」
ほんの少しでも、お役にたてたら。そう思って口に出した提案は、あっさりと断られてしまった。固辞、という言葉がぴったりくる、強い拒否。思わずたじろぐ私を見て、カールスさんが慌てて取り繕う。
「……あ、いやいや。いいんだ。ベルに見張りを頼む気はない。相手に気づかれたくないから、灯りも点けられないし……真っ暗な中でじっと外を伺うなんて、いい娘さんのすることじゃない。その辺も含めて、それは俺たちの仕事だからな」
「そうですか。……そうですね」
冒険者の仕事、と言われてしまったら、もう私の出る幕ではない。
「……ああ、でも、確かに、あの管理室は、場所的に最適だから……夜の間、誰かここに来させても構わないか? お前さんと、気が合いそうな奴を」
「ええ。もちろん……」
二つ返事で了解しかけて、はじめてカールスさんの口の端に浮かんだ笑いに気が付いた。同時に、彼が誰をここに送り込もうとしているのか思い当たる。私に気をまわしてくれるのはまあ、ありがたいことなのかもしれないけれど……彼が期待しているようなことは、きっと一切、起こらないだろうに。
「……誰がいらっしゃるか、楽しみにしていますね。話し相手になれるといいけれど。管理室に何時間も一人でいるには、本か話し相手がいないと、辛いから」
言いながら、管理室へ続く扉を開ける。同時に、カンテラの弱い光が、やわらかい帯のようにすうっと部屋の闇に流れ出した。灯りが漏れるのが駄目なら、ここは開けることはできない。話をするにしても、扉越しの会話になるだろう。仕掛け時計の、中と外みたいに。……私と、盗賊の彼の関係に、ぴったりだ。
「日が暮れて、カンテラに灯を入れる前に私、お茶を差し入れしますね。それから、鳥の形の焼き菓子も。それからは……日が昇るまで、ここは開けないようにします。それで、大丈夫ですか?」
「そこまでしなくても、少しくらいは顔を見せてやってもいいと思うけどな……」
カールスさんは明らかに不満そうだが、それ以上食い下がっては来なかった。
「……ま、全てはこの仕事が終わってからだな。悪いが、頼む。見られて困るモンは移しておいてくれ。職業柄、家探し好きで、夜目が利く奴だから。日記とか、読まれるぞ?」
「大丈夫ですよ。ここにあるのは本だけです。あとは橋の装置ですが……それだけは見つけても触らないようにお願いします」
「わかった。それは約束するし、よく言っておく」
近づいてきたカールスさんと、部屋から扉越しに管理室を覗き込む。見慣れた、代々受け継いでいる部屋。ちいさな机と椅子。机の上にある本棚。本棚に並べられた本。そして……。
「……よし。話は終わりだ。フンバルトじゃないが、レディの部屋に長居は失礼だろうからな、そろそろ宿に戻るよ。また、今度は明るいうちに来るから。邪魔したな。……ヴィヴィ!」
父や、そのまた父ならともかく、カールスさんには、今の部屋といつもとの違いはわからなかったようだ。興味なさそうに管理室から視線をそらし、先ほどと同じようにヴィヴィを呼ぶ。
「いいえ。……あ、ヴィヴィ。花の形の焼き菓子、持って行っていいわよ。包むわね」
「わぁい! ほんとうに、いいの〜?」
もちろん、違いについてカールスさんに隠さなければならない理由はなかった。……けれど、あんな話をした後、この話題はなかなかに気を遣う。悟られないように視線をそらし、わざと手先に集中して、花の形の焼き菓子をすべて薄紙に包んだ。これで残りは……鳥の形が七、星の形が六だ。
「わぁ! べる、ありがとうね〜♪」
「いいのよ。また来てね、ヴィヴィ。……カールスさんも」
「ああ。……じゃあ。邪魔したな」
先ほどと同じように、カールスさんとヴィヴィが去る。先ほどと同じように、カンテラは貸さなかった。よく考えてみたら、またすぐに会う用事ができたのに灯りを貸さなかったのは不親切だったかもしれない。でも……正直言うと、そこまでカールスさんたちの方には気が回らなかった。カールスさんが見えなくなるまでほんの少しだけ背中を見送り、急いで家に引っ込む。今度は、忘れないようにしっかりと鍵をかける。
ようやくの、いつも通りの、一人の時間。
いつもなら、そろそろベッドに入って、いつもの夢を見る時間だった。本当に……いつになったら、違う夢にかけ変わるのだろう。我ながら、自分のしつこさに笑えてくる。毎日毎日、同じ夢を見る自分——「ふぅん、そっか」と優しく会話を切り上げる、私を時計の鳩だと笑った盗賊の夢を見る、自分に。
しかし今日は、まだいつもの夢の前に、見るべきものがある。私は、テーブルに置きっぱなしだったカンテラを手に、管理室の扉を再度開いた。先ほどより生地の厚そうな光の帯が、床にすっと流れる。いつもの、でも明らかに違和感のある管理室にそのまま踏み込みかけたけれど、勇気が出ない。
「ねえ。……いるの?」
自分の声の、あまりのかすれ具合に、びっくりした。やはり、少しは怖いと思っているのかな。それとも、誰か……いや、誰かでなく、彼がいることに対する期待?
細い光の帯だけが輝く暗闇に向かって、耳を澄ませた。——やはり、もう誰もいない。そもそも、この何もない部屋には、身体を隠す場所なんてない。私が思う人物なら、カールスさんから姿を隠す必要もないし、それ以外の人物だとしたら、私たちが戻ってきてから今までの間に、とっくの昔に逃げていることだろう。つまり……今この瞬間、この部屋に誰かが隠れているかも、なんていうのは、我ながら馬鹿げた想像なのだ。
「……いない、わよね。もう」
わかっているはずの自分がここまで落胆することに、再度驚いた。今までカールスさんやヴィヴィがいたから、突然一人になって寂しいのだろう、と、無理やり自分を納得させる。そうでなければ……落胆を正面から受け止めることが、ものすごく怖かった。
誰もいない部屋で、これ以上独り言も恥ずかしい気がしたので、私はそのまま、無言で管理室へと踏み込む。部屋に唯一置かれている、机の前まで進む。机に向かって、カンテラを差し出す。……やっぱり。
父が管理人だった頃から、そして私が管理人を受け継いでからも、ずっとそこにあった本たち。題名も、表紙の傷も、全部正確に思い出せる。その六冊の本たちの横に……間違いない。先ほどまでなかった、七冊目の本があった。
薄い水色の装丁の、きれいな本だ。手に取ると思った以上に厚い本で、重さがずしりと手のひらにかかる。一回読むだけでも、数日はかかるだろう。そう思っただけで、ちょっと嬉しくなってきた。少なくとも数日は、この本の物語に沈み込むことができる——新しい、まだ見ぬ冒険に。
表紙を、そっと開いてみる。中表紙を見て、笑みがこぼれた。飾り文字で書かれた本の題名、作者の名前のその下の隅。余白の、さらにほんの隅の方に小さく、親指の先ほどの鳩の絵が描かれていた。おそらく印刷されたものでない、この本を置いて行った人物の描いたもの。たった一つの、私にだけわかるメッセージ。
これは、私のことを、鳩のようだと言ったお詫び?
それとも、単純な生活をしている私への、時間つぶしの差し入れ?
もしかして、今まで一度も祝ってくれたことのない、誕生日のプレゼント?
それとも……もしかして、もしかしたら……。
「……理由はともかく。ありがとう。とても嬉しい」
部屋の隅の闇に向かって、とりあえず、お礼だけは言っておいた。もしかしたら外の闇にまぎれて、彼はまだいるかもしれない。私の声が、聞こえるかもしれない。だから……。
本当は今すぐにでも本を開きたい気持ちではあったけれどぐっとこらえて、置かれていたように棚へと戻し、自分も部屋の方へと戻った。
もうすっかり、闇も夜も深い。本は本棚へ、鳩は仕掛け時計の中へ戻る時間だ。いつもの通り着替えて髪をすき、ベッドへと向かう。
カンテラの灯を消し、暗闇を見つめながら、ふと思った。
明日もまた、いつものように朝、目が覚めるだろう。いつものように、いつもと変わらない一日が始まるだろう。繰り返し繰り返し、また夜が来て、朝が来る。
今日みたいに幸せが来る日もあるし、来ない日もある。でも……それが日常で、生活だ。
……さて。明日から、またがんばろう。
明日は、いつもよりちょっと忙しい。誰がいつ来てもいいように、管理室を念入りに掃除しなくては。少し長めに窓を開けて風を入れて……そうだ。もう一度、焼き菓子を作ろう。ヴィヴィのために、花の形を。そして、鳥の形も。……誰かさんのために。
それからそれから。……そうそう。本のお礼もしなくては。何がいいかな。幸い時間はたっぷりあるし、細くてやわらかい毛糸をたくさん買って、長いマフラーを作ろうかしら。——ああ、やることがたくさん。しばらく、新しい本はお預けかしら。残念だけれど、楽しいことが待っていると考えるだけで優しい気持ちになれるから、まあ、いいか。
いろいろ考えているうちに、眠くなってきた。この続きは、また明日考えよう。時計の鳩は、朝の六時までおやすみ。みなさんに、静かな夜と安らかな夢を。
幸せな気分のまま、私は毛布を鼻まで引き上げた。
おやすみなさい。また明日……の前に、いつもの夢で。
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