Little Story 02
『アンダー・ザ・ハット -五竜亭シリーズより-』
山鳥がねぐらに帰る時間よりもかなり早く、その日、盗賊は宿屋の扉を開いた。
まだ明るい薄曇りの空には、カックナッツの殻のような白い月が浮かんでいる。セルフィスの正門が閉じられる時間はまだ遠く、宿屋の外の道では健全な商売を生業とする人々が忙しく行き来していたが、宿屋の中は明け方と同じように薄暗く、空気は排他的な匂いがした。
「いらっしゃいませ」
夕方の鐘の音と共に正門が閉められ、街への出入りが禁じられてしまうこのセルフィスという街ではたご屋が賑わうのはもちろん、門が閉じて街の外に出られなくなってからの時間だ。それまでの時間に旅人や冒険者は旅に必要なものや情報を集めるのに忙しく、閉門の時刻までに行かなければならない場所を目指して出発するのが常。……なので、お値段がそこそこ安いワリに快適と評判の、この『空飛ぶブーツ亭』ですら、中にいた客はまばらだった。
「とりあえず、エールくれ。それから……寝床はあるか? 壁際がいいな」
「はい。前金ですが、ご用意できます」
無論、この盗賊だってまだ、今カウンターの横の椅子に置いたザックを背負い直し、街の外に行くことはできる。それでも彼が早々に宿を押さえたのは、これからマーカスの森を抜けるため2日歩く前に、少し、手足を伸ばして寝てもいいかなと思ったから。あるいは別の言い方をすれば——単なる気まぐれだ。
はたご屋特有の喧噪がまだ薄い店内で、盗賊は運ばれてきたエールのジョッキに手を伸ばした。口を付け、一気に半分ほど飲み干す。そして……次の瞬間、自分に向けられた強い視線に気づいてそちらを見た。
盗賊の視線の先にいたのは、帽子を目深にかぶった男。
「よう。いい夜だな」
帽子の男は盗賊の視線を受け止めてから、ニヤリと笑って飲んでいたエールのジョッキを持ち上げる。
「まだ、夜には早いぜ」
面倒なことに関わる気のない盗賊の、切って捨てるような口調にめげず、帽子の男は自分のジョッキを手に、盗賊の横にするりと座席を移動してきた。もちろん、盗賊のあからさまなしかめ面などどこ吹く風だ。
「あっちへ行けよ。俺は今、静かに飲みてェ気分……」
「兄さん、俺と勝負しないかい?」
空気を読もうともしない相手を言葉で追い払おうと盗賊が口を開いたタイミングで、帽子の男が顔を上げ、隣の男の顔をまっすぐに見た。別に睨みつけられたわけではないが、その思いがけない眼力の強さに、一瞬盗賊は口をつぐむ。
柔らかい口調と比較的薄い胸板。ふいとその辺に飲みに出てきたような格好から、盗賊は横に座った男のことを、セルフィスを根城にしている酔っ払いだとばかり思っていたが、どうやら予想が外れたようだ。自分のように、その辺の旅人と変わらない装備で冒険に出かける者もいる。——節くれ立った男の、器用そうな長い指を横目で見ながら盗賊は考えた——ギルドじゃ見たことねェ顔だが、別の街出身の同業者だろうか。とにかく、面倒に巻き込まれるのは得策じゃねェな……。
「勝負、っつったって、何の勝負だよ。酒場で一戦か? 店も迷惑するぜ」
なるべく相手を刺激しないように、盗賊は相手の鼻の辺りを見ながらゆっくりと言葉を吐いた。力自慢の馬鹿なら怒らせるのも一つの手だが、目の前の男はそういうタイプには見えない。仲間を探すために冒険者っぽい人間を見つけては勝負を申し込んでいるのだろうか? それとも、単に新しく仕入れた魔法か剣の切れ味を試してみたいとか?
嫌な想像がどんどん浮かんでは消える。が……息を一つ吸って吐く程度の沈黙の後、帽子の男は意外なことを言い出したのだ。
「なあに。店には迷惑はかからんさ。そうだな……カードでも良いが、ダーツなんてどうだい? 久しぶりに、腕の立つ相手と戦いたい気分なもんでね」
一時期この地方でもダーツが流行ったことがあったので、それなりの歴史があるはたご屋であれば大抵どの店でも、すすけた壁のどこかに1枚くらいはダーツボードがかかっている。『空飛ぶブーツ亭』もその例外ではなく、入り口のドアを挟んでカウンターの反対側に、コルクでできたスチールフレームの、古びたダーツボードがかかったままになっていた。飲みかけのエールのジョッキを持ち、盗賊と帽子の男は、ダーツボードの近くにあるバーテーブルへと移動する。
勝負に当たって、帽子の男はギャンブラーだと名乗った。——ギャンブラー。この地方ではあまり聞く職業ではないが、賭けを生業とする者を指す言葉だ。つまり彼の言う『勝負』とは、食い扶持を稼ぐための大切な『仕事』。そういうことなら、と、盗賊にもようやく合点がいく。
「……で? 何を賭けるんだ? 今夜の飲み代か?」
懐の隠しから自慢のダーツを取り出しながら盗賊が聞くと、ギャンブラーから意外な言葉が返ってきた。
「こちらが払うのはそれでもいいが、兄さんには情報を賭けてもらおうかな。質問に、答えて欲しい」
「まあ、いいけど」
なるほど、と、盗賊は心の中で膝を打つ。目の前のギャンブラーは愛想こそいいが、世間一般的に、あまり無害に見えるタイプではない。おそらく冒険者なのだろう。冒険に身を置き、しかも賭けを生業にする人間——簡単に言えばカタギには見えないこのタイプがどこからか情報を得たいと思うのであれば、その辺の人に聞いて回るよりも、こういうやり方をした方が早いに違いない。
「……で、どうするかい? 何で勝負する? 兄さんの好きなゲームで良いよ。クリケット? カウントアップ?」
「そりゃあもちろん、あんたのその帽子に敬意を表して、アレだ」
言いながらようやく、小さくニヤリとした盗賊に応えて、ギャンブラーの方も口元を歪めてニヤリと笑う。通じたようだ。
「アンダー・ザ・ハットか。……懐かしいね。久しぶりだ」
細かいハウスルールの多そうなクリケットや、単純に当てたボードエリアの得点を足していくだけのカウントアップでなく、あえてのアンダー・ザ・ハット。
このゲーム名がすんなりその口から出てきただけでも、この帽子をかぶったギャンブラーはそれなりにダーツに明るい。——そう考え、盗賊は口笛でも鳴らしたいような気分になった。——こりゃあ久しぶりに、楽しい夜になりそうだ……。
一見の客でしかないこの街のはたご屋でも、もっと言えば彼が根城にしているマーカスの森の中にあるはたご屋でも、盗賊がダーツ好きだということは知られていない。本人が声を大にして吹聴することもない。もちろんその方が、いざ『ダーツで勝負だ!』と腕に自信がある者が乗り込んできたときに有利だからなのだが、この地道な作戦には一つだけ大きな欠点がある。それはずばり——大好きなダーツを、日常的に楽しめないというところだ。
流行っていた時にはそれなりに遊べる場面もあった。しかし下火となってしまった今では、こんな機会でもなければ、この愛用のダーツを出すことすらない。
「ふぅん。兄さん、良いダーツだね」
目ざとくそれを見つけておだててくれるギャンブラーに、笑みを向けそうになってしまう自分に驚くほど、盗賊はこの遊びに飢えていたらしい。慌てて気持ちと表情を引き締める。……これは勝負だ。相手に気を許してどうする!
「相手より高得点……いわゆる、『帽子をかぶる』ごとに金貨1枚ってところでいいか?」
「もちろん、兄さんはそれで問題ないよ。でもさっきも言ったとおり、俺は質問を賭けさせてもらいたい。いいかね?」
「構わないぜ」
簡単な確認の後、財布から金貨を出そうとするギャンブラーを、少し考えてから盗賊が止めた。
「気が変わった。俺も、質問を賭けさせてもらう。それでいいか?」
特に盗賊がギャンブラーから聞きたいことはない。それでも何となく、そちらの方が面白そうだったから、そうしてみた。ただの気まぐれでしかないその提案に、薄く笑みを浮かべたまま、ギャンブラーは頷く。
「もちろん、問題ないよ。……じゃあ、お互いに帽子をかぶれたら質問の答えを得るということで。始めようか」
交渉成立。
儀礼的にダーツボードと、その金属製のフレームに着いた埃をギャンブラーが布でぬぐってから、ゲームが始まった。
まずは先行のギャンブラーから。しなやかな、猫のような動きでシュルリとダーツが放たれ、ボードの右側の方に矢が刺さる。13のダブルで得点は26点。
「やるな」
「どうも」
アンダー・ザ・ハットは基本的に、前に投げた者よりも高い点数を出していけば良いだけの単純なゲームだ。が、『初回スロー時は26点以上でないとアウト』というルールがある。ご存じの通り、ダーツボードには1から20までの数字しか書かれていないし、ボードのど真ん中近くに当たるシングルブルでも25点だ。単にボード上のシングルエリアに当てただけではアウト確定になるため、26点以上の点数を得るためには13以上のダブル(得点が倍になるエリア)を狙わなければならない。
前に投げた者よりも高い点数を出せば勝ちなので、もちろん初手から高得点のエリアを狙うのがこのアンダー・ザ・ハットでは定石。しかし、目の前のギャンブラーは13のダブルを狙った。……これはおそらく、わざとだ。最高得点の20と当たった13が90度近く離れていることを考えても明らか。ギャンブラーはあえて、マイナスポイントにならないギリギリの26点のエリアを狙い、そしてそこを正確に射貫いた。『それなりに、腕には自信があるぜ』という、無言のままの、声高な自己紹介。
「おっと。質問がまだだったね。そうだなあ……まずは、兄さんの名前を聞こうか。このままだと話がしづらいからね」
「……"蛇の目"ダイス。盗賊だ」
目の当たりにしたギャンブラーの実力に少々驚きながら、ダイスは投げられた質問に機械的に答えた。表面上は平静を装いながらも、頭の中では目まぐるしく、この後の勝負についてのフローがぐるぐると回っている。
もちろん定石の通り、最高得点の60点が得られる20のトリプルを射貫いて勝負を終わらせてしまうのが早い。しかし、この場面で逃げに転じてしまうのも、どこかの騎士ではないが『礼節に足らん!』気もする。第一、こんなに骨のありそうな相手に当たることなんて滅多にない。ギリギリまで、勝負を楽しみたいという気もしてきた……。
ひとつまみ迷いを残しながらも、ダイスは短く、鋭い動作で矢を放った。
ギャンブラーが射た場所から、ちょうど線対称で左。14のダブルにダーツが刺さる。
「やるね、ダイス。28点だよ」
「もう少し、俺もこの勝負を楽しみたくなってな」
『俺もそれなりだぜ』とメッセージを返すには、この場所を射貫くしかなかった。金貨1枚相当の質問も、もう決まっている。
「帽子は俺ンだ。……俺も、あんたの名前をもらおう」
「ラッキースター・キッド。さっきも言った通り、ギャンブラーだよ」
薄い笑みを保ちながら、ラッキースターは浅く頭を下げた。簡単ではあったが、騎士がレディにするような正式な仕草を伴っている。判断が難しいところではあるけれど……一応敬意を示されたと判断して、ダイスは軽く頷き返すに留めた。
「本当はもう少しゆっくり楽しみたいところだが、帽子をかぶるためには、相手よりも1点以上高い点を取らなきゃならん。この地方のルールでもそうなっているかい?」
「ああ」
「同点でも、帽子をかぶれるハウスルールを採用してもいいかい? それだったら、同点のエリアを狙って、長く勝負を楽しむことができるからね」
「……それが、ベット台に乗せる次の質問か?」
質問に質問で返すと、小さくニヤリと笑ってから、ラッキースターはテーブルにあったエールで唇を湿らせた。ダーツボードの正面に移動する。
「答えがノーなら、とんだ無駄打ちだ。別の質問にするよ。……なあダイス、お前さんは冒険者だろう? あんたの定宿にも、ダーツボードはあるかい?」
言いながら、ラッキースターはシュルリとダーツを投げた。今度は、自身の第1投からほぼ線対称で下……より、少々中心寄り。10のトリプルで30点。
ラッキースターの方も勝負を楽しんでいる。と思うと同時に、ダイスの背筋をひやりとしたものが走った。——このレベルの腕前を持っているラッキースターがいきなり定石に寝返っていたら、あっという間に最高得点の20トリプルを狙われて、一巻の終わりになるところだった。危ねェ危ねェ……。
「壁にあるかは覚えてねェが、おかみに言えば引っ張り出してくると思うぜ。あんたが来ることがあれば、勝負してやるよ」
「そいつは嬉しいねえ」
のんびりと相槌を打つラッキースターの声を聞きながら、ダイスは少し考える。
ピンチの後はチャンスだ。ここでこちらが20のトリプルを決めれば、ダイスの勝ちで勝負は終了。しかし……今までの展開を見る限り、このギャンブラーが何か重大なヤマを追いかけて重要な情報を集めているようには感じられなかった。ただのお遊びにしか過ぎないのであれば、こちらから勝負を巻く必要はどこにもないのではないだろうか。
どちらにせよ、こののらりくらりでは埒があかない。試してみるか。
「ラッキースターよ。……あんたの目的は、何だ?」
言葉を発すると同時に、ダイスはボードに向かってダーツを投げた。中心よりも少しだけ外側。鋭く放たれたダーツはダブルブルにまっすぐ突き刺さる。50点。
「何を言っているのかわからんね。……今回はこれだ」
そして。数刻の間の後、ラッキースターが答えと共に金貨を一枚放って寄越す。
「この勝負の始めに、言ったとおりさ。俺は、情報が欲しい。そこでダイス、あんたに勝負を挑んでいるんだ。それだけだよ。……さっき聞いたこと、改めて聞いてどうする?」
噛んで含めるような口調。言い返せず、黙って手の中の金貨に視線を落とすダイスの頭上を、更にラッキースターの声が滑っていく。
「冒険のヤマを探す情報だ。あんたも冒険者なら、そのくらい察しが付くと思うけどね」
「そりゃあ……俺みてェなヤツに、関わるヤマなのか?」
思わず聞き返すダイスの方に、一旦ダーツボードの方に向かってからラッキースターが近づいてきた。ダブルブルから抜き取られたダーツがそっと、ダイスのジョッキの横に置かれる。
「それ以上は、ルール違反だろう。……帽子をかぶってから、聞くことだな」
「でも次は、あんたの番……」
ラッキースターの手が手品のように、ダーツから離れるのと同時に、盗賊の手の中にある金貨をさらりと奪って去った。
「一回、オマケだ。……ただ今度は、きちんと刻んでおくれよ? 楽しみが減っちまう」
空いた手を一瞬見つめてから首を小さくすくめて、ダイスはもう一度、先程ダーツを投げた位置に戻る。油断していたとはいえ、当たり前のように金貨を奪い返されたのは驚きだったしある意味屈辱ですらあったが、それをこちらから言って伝える必要もない。あくまでも平静を装って、スローのためのスタンスを取った。
少し考えてから、いつもの短い動作で鋭くダーツを投げる。『やり直し』と言われても、先程の50点がナシになるとは一言も言われていない。……ということは、50点以下のエリアを狙うのは危険だ。ここは無難に、そしてリクエスト通りに刻んで狙いを定めた通り、ダーツの矢は18のトリプルにまっすぐ刺さる。
「負けず嫌いだな、ダイスは」
馬鹿正直にきっちり刻んで17のトリプル、つまり51点を狙わなかったのは、ラッキースターの言う通りの理由だ。
ダーツボードで得られる最高得点は20のトリプルである60点。
このタイミングでダイスが51点を取ってしまった場合、その後も刻んで投げ合うと、相手が18のトリプルで54点。次にダイスが19のトリプルで57点。最後に相手が20のトリプルで60点。ゲームオーバーとなり、ラッキースターが『帽子をかぶって』ゲームが終了してしまう。もしかしたらラッキースターが1投順番をこちらに譲ってきたのも、その辺の引っかけにダイスが足を取られるのを期待したのかもしれない。……食えないヤツだ。
「お前ェさんのヤマについて知りたい」
目の前の相手に言いたいことは山ほどあったが、全てを呑み込んで、ダイスは簡潔に質問だけを口の端に乗せた。ダイスの質問に、目の前のラッキースターの顔から薄い笑みが消える。
「そりゃあちょっとばかり……」
「ダメだとは言わせねェぜ? 何せ、金貨1枚分の情報だからなァ。それなりに、実入りのニオイがしねェとな」
代わりに小さくニヤリとしたダイスを、ラッキースターが帽子の下からまっすぐに見つめた。感情を全く乗せていない、無表情な目がこちらを伺うように焦点を合わせてくる。
おそらくだが、ラッキースターはダイスを値踏みしているのだろう。——目の前の盗賊が、金になりそうな秘密を漏らすのに足る相手なのか。そもそも、会ったばかりのこの男に、大事なヤマについて語っても良いものだろうか。悪用されたり、横から美味しいところだけかっさらわれたりしないだろうか。などなど……逆の立場に立った場合、ダイスだって当たり前に考えることだ。ここでラッキースターが思い悩むのはある意味当然で、仕方がないことだろう。
が……理解はしていても、それでも待つ時間は長い。
視線を合わせたまま、どのくらいの時間が経ったのだろうか。ふうっと煙草の煙を吐き出すように、ラッキースターが大きく息を吐いた。改めて空気を吸い、言葉を紡ぐ。
「ダイス。あんたは盗賊だ。あんたたち盗賊も、お守りの品を持っているかい?」
「……ああ。もちろん」
厳密には、質問に対する答えを得られるのは『帽子をかぶった』者だけだ。しかしその約束を守らず、ダイスはラッキースターの問いかけに頷いて答えた。——この問いは、話のきっかけに過ぎないということが伝わってきていたから。案の定、頷き返してきたラッキースターは、エールで唇を湿らせてから、続けてゆっくりと話し出す。
「俺たちギャンブラーにとっても、お守りの品は大切なモンだ。効き目があるらしいというウワサがあれば、皆それを手に入れようと躍起になる。幸運の女神さんに愛されるかどうかが、そのまんま結果に直結するからな」
あくまでもゆっくりとしたテンポを崩さず、ラッキースターは天気の話でもするみたいにのんびりと、自分の隣でテーブルにもたれかかる若い男に説明した。天気の話に打つ相槌と同じように、語られた方のダイスは「ああ」と短く答える。
「今から半年くらい前かな。こっちの地方で霊験あらたかなお守りがあるってことで、仲間内で話題になったんだ。もちろん、全員がそれを手に入れたいと思った」
「ああ、うん」
同じテンポで語られる話題と、同じ相槌。
「……が、数ヶ月前、その『お守り』を手に入れたとウワサされた奴らが、次々とその姿を賭博場から消し始めた。死んだとかじゃねえ。腕が、鈍ったんだよ」
ラッキースターが言葉を切ったことで、いつの間にか賑やかになってきていた酒場の喧噪が二人の間に流れ込んでくる。ガヤガヤと楽しそうな声。何かがガチャガチャと触れる音。——しかし、バーテーブルにもたれる二人は完全に、その穏やかな空気から浮いていた。そこだけ温度が低いような、そんなミスマッチ。
「それは……その『お守り』ってェのは、どんなモンなんだ?」
「おいおい。次は俺が『帽子をかぶる』番だよ? 少し待ってくれ」
思わず前のめりになるダイスを緩やかに制して、するりとラッキースターがダーツボードの前に出た。
妙に動きの遅いクセのあるスローイングからダーツが放たれる。19のトリプルで57点。
「さて。無事帽子もかぶれたので、聞くよ」
ダーツを放った姿勢から全く動かず、首だけ動かして、ラッキースターがダイスの方を見た。口を開く。
「あんたの近くで、天才的な腕を持つ人物が何かに失敗した。という話を聞いたことはないかい? 大したことでなくても構わない。ウワサで聞いたレベルのことで結構だ」
「何かに、失敗か……」
記憶をたどってみるが、思い当たることはなかった。
ウワサというと多分、ギルドのお偉いさんが初歩的なカギを開けられなかったとか、ベテランが簡単な罠を発動させてしまったとかその手の話だろう。そんなに愉快な話があればあっという間にギルド中はおろか、セルフィス中の酒場にその不名誉な話は広がりそうだけれど……とりあえず今のところ、ダイスの耳には入ってきていない。
逆に、ウワサを広める立場になる近さで……と、自分の仲間のことを考えてみる。
数日前に五竜亭で会った彼らはいつもの通りの酔っ払いで、飲み物をこぼしたりケンカをしたり、と、いつもの通り『失敗』のし通しだった。しかし、取り立ててウワサにしたくなるような大事件は起きていない。彼らが歴戦の勇者であること自体は間違いないが、彼らにとってあのはたご屋が家にも等しい場所である以上、そこにあったのは、ごく平凡な日常だ。
「特に思い至ることは起きてねェな。お守りの話を聞いたのも初めてだし」
「そうか……つまり、ここまで『お守り』自体がまだ、届いていないということかな」
ダイスに答えるラッキースターの声がだんだん低く、小さくなる。
すうっとその目から光が消え、口が閉じられた。きっと彼は、自分の底の方で自分自身と話し合いをしているのだろう、とダイスは推測する。仲間がそうなること自体は気にもならなかったので、周囲を遮断し始めたラッキースターは放置し、ダイスはジョッキに残っていたエールを一気に飲み干してから、新しいジョッキを注文した。
ガヤガヤと周囲に低く漂う酒場の喧噪を感じながら、バーテーブルにもたれかかってダーツボードをぼんやり眺める。
あとはダイスが投げ、20のトリプルにダーツが刺さって、この勝負も終了だ。
もう少し楽しみたかった気もするが、潮時だろう。あのギャンブラーに質問をして、得られる答えもあと一つだ。一体、どんな質問が相応しいだろうか? やはり、『お守り』についてだろうか? それとも、少しずつ正体の見えてきている、今回のヤマについて? 全く関係のない質問も可能だろうが、それは相手に失礼な気も少しだけする……。
「あんたの番だよ、ダイス」
そして。
思いがけずダイスの方が周囲を遮断して自身の底に入ってしまっていたらしく、肩をぽんと叩かれて我に返る。視界の端の方で、ラッキースターが先程までの薄い笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「あ、ああ。……悪ィ」
「別に構わないんだけどね。ぼんやりしてたみたいだから」
まだ少し、昨日の酒が抜けていないような浮遊感があったが、ダイスは平静を装って愛想笑いを浮かべる。ダーツボードに向き直る。
「さて、と。これでラストだな」
自分に、そして相手のギャンブラーに言い聞かせるように、小さく呟いて。
「そうだね。もう少し楽しみたかったが、仕方がない」
「もう少し情報が欲しかったが……じゃねェのか?」
「まあ、そうとも言うね」
軽いやり取りの後、ダイスは改めてダーツボードの前で、スローイングのためのスタンスを確認した。ふぅっと息を吐き、ダーツを投げる動作をしながら、20のトリプルにダーツがとすりと刺さる場面をシミュレーションする。いつものルーティン。
「じゃあ、最後の質問だ。
……その、『お守り』のヤマに乗りたい。俺は役に立つぜ? どうだ?」
「役に立つのは間違いなさそうだ。それはわかるよ」
いつの間に頼んだのかお代わりのジョッキを傾けながら、ごくのんびりとした口調でラッキースターがダイスの言葉を肯定する。ゴトリとジョッキをバーテーブルに置き、そのまま前傾になって自身もテーブルに体重を預けた。口元についた泡を指でぬぐってから、再度口を開く。
「でも、その答えは、幸運の女神さんに聞かなきゃなあ」
「わかってるさ」
初対面の人間を信用するには、それなりの儀式が必要だ。
今までのやり取りで、ダイスの方はラッキースターが、冒険者として充分な腕前を持っていると確信していた。おそらく、ラッキースターの方もダイスに対して、同様の評価を下しているだろう。もしそのレベルからして不合格なら、ダイスがダーツを投げる前に、先程と同じように彼が金貨を投げて、スローを止めているはずだ。
しかし、ラッキースターはダイスがダーツを投げるのを、静かに見守り待っている。
ダイスにも経験がある。これは——天にその決断を委ねている時の流れ。
ある意味、『幸運の女神さん』に好かれているかどうかを見る作業、と言えるかもしれない。仲間に迎えて信用するために、何かもう一押しが欲しいのだ。サイコロの目でも、髭面が描かれたカードでも、コインの裏でも何でもいい。それを口実に、『だからコイツを信用することに決めたんだよ』とうそぶける何か。……今回の場合、それがこの、ダーツの矢が刺さる場所なのだ。
ひりひりするような緊張感の中、ダイスはもう一度、狙う20のトリプルエリアを見た。
12時になった時、時計の短針の先がいるあたり。その針の先を狙うわけですらない。その針が指し示す、緩くカーブしたかまぼこ状の部分のどこかに、自分で狙って投げたダーツが刺さればいいだけだ。——なァに、今まで同じように狙って、同じようにきっちり仕留めていたじゃないか。難しい話じゃあない。いつも通り、冷静に正確に、狙えばいいだけだ……!
よく狙ってから、正確に狙い通り刺さるように、ダイスは無駄のない動きで鋭くダーツを放った。
もったいをつけない、最小限の動きの鋭いスローイング。ほんの数秒の小さく、しかし精錬された動きの指から、銀色の針先のダーツがほぼ直線的に、ダーツボードの方へ向かって突き進む。おそらくラッキースターも、そしてもちろんダイスも、その針先が20のトリプルに刺さることを確信して見守っていた。
しかし。
「あ」
ダイスの放ったダーツは、的をごくわずかに逸れた。のだ。
ほんの数秒の間に起こったことが、まるでスローモーションのようにゆっくり、そしてはっきりと目の前で再生される。
かつん、とごく小さな音がして、ダイスが放ったダーツは、20トリプルのエリアを囲う金属の細いフレームに当たった。コルク製の柔らかいダーツボードに刺さるため必要充分な加速をつけて放たれたダーツだから、当然金属までは貫通できない。ダイスご自慢のダーツは、歴戦の傭兵の肩上で跳ねるフェアリーのようにふわりと小さく浮いてから、ごく静かに床へと落ちる。
押し黙る盗賊とギャンブラーの周囲に、再度酒場の喧噪がガヤガヤと戻ってきたが、二人の間に流れる重い空気は払いきれなかった。
「……ハハ。帽子はかぶれなかったみてェだな。俺の負けだ」
そして、数秒後。
スローイングの姿勢からようやく身体を動かしたダイスが、肩越しにラッキースターを振り向いて声をかける。おどけた動作で肩をすくめ、床に落ちたダーツをゆっくりと拾い上げ、針先を優しく指でなぞる。
「今ので、針が曲がってなきゃあいいけど。コレでダーツまでオシャカじゃ、救いようがねェからな!」
「大丈夫だよ」
あくまでもゆったりと薄く笑みを浮かべながら、ラッキースターがダイスに答えた。
慰める風でもなく、勝ち誇る様子もない。嬉しいとか悲しいとか、そういう感情の一切感じられない、ただ事実だけを述べたという風情の言葉。——おそらくこれは、ラッキースターが通常のモードに戻ったという証拠だ。考えていることを微塵も相手に悟らせない、歴戦のギャンブラーとしての仮面。
「大丈夫だが、帽子はあんたに渡らなかったようだ。残念ながらね」
「全く以てその通りだな。残念この上ねェぜ!」
かなり本心に近い言葉を負け惜しみに聞こえるよう必要以上に乱暴に吐きながら、ダイスはラッキースターに金貨を1枚放った。先程とは違って、ごく正確なスローイング。まっすぐ胸元に飛んできた金貨を、ラッキースターが危なげなくしっかりキャッチする。
「じゃあ、俺はこれで。楽しかったぜ」
こういうとき、負けた方はさっさと退散するのがセオリーだ。ダーツを懐の隠しに戻してから、ダイスは軽く手を上げて2階の寝床へ引き上げようと踵を返した。視界の端で、帽子を目深に被ったギャンブラーが、手にした金貨を弄んでいるのが見える。
「残念だったな、ダイスよ」
視界の右端ギリギリのところに見える、帽子のつばの主の声が、聞こえてきた。
このタイミングで早速振り向くのもカッコ悪い気がして背中を向けたまま立ち止まる。背後でラッキースターが、バーテーブルにコトリと金貨を置く気配がした。
「ただ……俺にはちょいと気になるんだが、今のは本当に、あんたの実力だったのかな? それともダイス、あんたの『お守り』が悪さをしたのかな。どう思うかい?」
「そ、れは……」
もちろん、真実はわからない。
「分からねェ。でも、負けは負けだ」
「そうだね。負けは負けだ。……でも、俺になら分かるかもしれないよ? 何せ俺は、悪さをする『お守り』を知っているからね。そこで相談だ」
背後のラッキースターが言葉を切る。
「ダイスよ。あんたの『お守り』を見せてはもらえないだろうか?」
言葉を発するテンポもその声の大きさも、今までとほぼ変わるところはない。それでも不思議と、今までで一番の緊張感が伝わってきた。
「おそらくこの地方でも、『お守り』ってヤツは、本当に信用する仲間にしか見せないものなのだろうけど」
ラッキースターの推測は正解だ。ダイスの沈黙は肯定の印として、正確に相手に伝わったらしい。ラッキースターの故郷と同じように、ここでも『お守り』は自分自身と信頼できる仲間だけの、秘密の繭に守られるものだ。
数秒待って、ギャンブラーは芝居がかった仕草で肩をすくめる。
「……やっぱり、そうか」
「まぁ、な」
ここで、そんなことはない、と嘘をつくという手もあったのだ……と後から気づくが、時既に遅し。ゆっくりと振り向くと、先程見たままの薄笑いで、ラッキースターがこちらを見ていた。
「じゃあ、大事な『お守り』を見せてもらうために、もう一勝負かな。……ダイスの好きなゲームでいいよ。クリケット? カウントアップ? それとももう一度、アンダー・ザ・ハット?」
「今夜はもう、ダーツは腹一杯だ。そもそも今夜の敗因が『お守り』の呪いなら、俺の負けは決まりだろ? やってらんねェよ」
にべもなく提案を撥ねのけられても、ギャンブラーの薄笑いは顔に乗ったままだ。落胆していてもポーカーフェイスなのか、それともこの後の展開をある程度予想しているのか。……盗賊のダイスにはよくわからない。
一呼吸置いて、ダイスは再度、帽子の下の相手の目を見据える。
「ダーツじゃなくて……別のゲームにしよう」
もちろん、大好きなダーツを上手な相手ともう一勝負……という誘いはかなり魅力的だ。それでも、その提案を断らなければならない大きな理由が、ダイスにはあった。
さっきギャンブラーが醸し出していたのと同じ緊張感が、自分の周りに漂っているのが感じられる。緊張している——当たり前だ。今から久しぶりに、愛の告白をしなけりゃならないんだから。……告白の相手は長身の、帽子を被った得体の知れないオッサンだけれど。
水に飛び込むときのように大きく息を吸って、吐いて……相手の鼻先でなく暗い色の目を見て、ダイスはゆっくりと口を開いた。
「俺の定宿で、もう一度会おうじゃねェか。そこを見つけられてそこで再会できたら、お前ェさんの勝ちだ。
そンときは……仲間として、一緒に冒険に出よう。そうすりゃあ、秘密を共有できる相手かどうか、見極めることができるからな」
「ハハ……ダイスよ、それは賭けではないよ」
盗賊の言葉を聞いて、初めてギャンブラーの口元に、本物の、柔らかい笑みが浮かぶ。
「それは、賭けじゃない。……約束ってヤツだ」
——そして、翌朝。
そこまで朝寝をしたわけではなかったけれど、盗賊が目を覚ましたときには既に、ギャンブラーが確保していた、3つ隣の寝台はもぬけの殻だった。
手早く身支度して出てきた『空飛ぶブーツ亭』の店前の道にも、既に大きく開け放たれているセルフィスの正門近くにも、既にあの、帽子を被ったうさんくさそうな長身の男の姿はない。そもそも昨夜の時点で、彼がどこに向かうとかどこを目指しているとか、そんな話は一切していなかったのだから、ギャンブラーの行き先を盗賊が追える確率はそこまで高くないだろう。盗賊の方も同様に自分の目的地について詳しく説明などしなかったので、今ギャンブラーが、盗賊の行こうとしている同じ方向に向かって、数歩先を歩いている可能性はかなり低い。
それでも何となく、盗賊には予感があった。
今日とか明日、数日後ではないかもしれない。それでも何となく……あの帽子のうさんくさい男が、マーカスの森を抜けてやってくる姿が、見えるような気がした。
ジェダから出発すれば約4日。マーカスの森を2日ほど進んだ先に突然現れる、五角形の屋根の前に。
盗賊には家に帰ってきたときのようにホッとする光景だが、ギャンブラーの目にあの景色はどう映るのだろうか。少し迷った後、無論彼は、あの分厚い木の扉を押し開くだろう。流れ出てくる喧噪や匂いは、彼の好みに合うだろうか。扉を開いた先にいる客を相手にどんな勝負をふっかけて、彼は一体どれほどの金貨を巻き上げるのだろうか……。
色々想像してみたらやけに楽しくなって、思わず薄く笑顔になりながら、盗賊はマーカスの森方向に向かう街道を、軽い足取りで進み出す。
あのギャンブラーがやってきたときのために、まずはおかみに頼んでダーツボードを出してもらわないと。昨日フレームに当ててしまったせいでほんの少し曲がってしまった、ダーツの補修もしなくてはならない。それから一番大切なこと……五竜亭の連中に、ギャンブラーとの勝負に夢中になるなと、釘を刺しておいてやらないと!
きっと近い将来やってくることになる新しい仲間との再会に先駆け、盗賊は頭の中で、ダーツボードに矢が刺さるまでの情景を思い浮かべた。
ボードに対し、やや右向きのスタンス。無駄のない素早く鋭いスローイングから、20のトリプルに自身が投げたダーツがとすりと刺さる。一拍置いて、わあっと上がる、仲間たちの歓喜と賞賛の声。腕や肩をバシバシと叩く、手荒い祝福。
それは——昨日はなかった、盗賊の定宿においての、勝利までのルーティン。
まだ明るい薄曇りの空には、カックナッツの殻のような白い月が浮かんでいる。セルフィスの正門が閉じられる時間はまだ遠く、宿屋の外の道では健全な商売を生業とする人々が忙しく行き来していたが、宿屋の中は明け方と同じように薄暗く、空気は排他的な匂いがした。
「いらっしゃいませ」
夕方の鐘の音と共に正門が閉められ、街への出入りが禁じられてしまうこのセルフィスという街ではたご屋が賑わうのはもちろん、門が閉じて街の外に出られなくなってからの時間だ。それまでの時間に旅人や冒険者は旅に必要なものや情報を集めるのに忙しく、閉門の時刻までに行かなければならない場所を目指して出発するのが常。……なので、お値段がそこそこ安いワリに快適と評判の、この『空飛ぶブーツ亭』ですら、中にいた客はまばらだった。
「とりあえず、エールくれ。それから……寝床はあるか? 壁際がいいな」
「はい。前金ですが、ご用意できます」
無論、この盗賊だってまだ、今カウンターの横の椅子に置いたザックを背負い直し、街の外に行くことはできる。それでも彼が早々に宿を押さえたのは、これからマーカスの森を抜けるため2日歩く前に、少し、手足を伸ばして寝てもいいかなと思ったから。あるいは別の言い方をすれば——単なる気まぐれだ。
はたご屋特有の喧噪がまだ薄い店内で、盗賊は運ばれてきたエールのジョッキに手を伸ばした。口を付け、一気に半分ほど飲み干す。そして……次の瞬間、自分に向けられた強い視線に気づいてそちらを見た。
盗賊の視線の先にいたのは、帽子を目深にかぶった男。
「よう。いい夜だな」
帽子の男は盗賊の視線を受け止めてから、ニヤリと笑って飲んでいたエールのジョッキを持ち上げる。
「まだ、夜には早いぜ」
面倒なことに関わる気のない盗賊の、切って捨てるような口調にめげず、帽子の男は自分のジョッキを手に、盗賊の横にするりと座席を移動してきた。もちろん、盗賊のあからさまなしかめ面などどこ吹く風だ。
「あっちへ行けよ。俺は今、静かに飲みてェ気分……」
「兄さん、俺と勝負しないかい?」
空気を読もうともしない相手を言葉で追い払おうと盗賊が口を開いたタイミングで、帽子の男が顔を上げ、隣の男の顔をまっすぐに見た。別に睨みつけられたわけではないが、その思いがけない眼力の強さに、一瞬盗賊は口をつぐむ。
柔らかい口調と比較的薄い胸板。ふいとその辺に飲みに出てきたような格好から、盗賊は横に座った男のことを、セルフィスを根城にしている酔っ払いだとばかり思っていたが、どうやら予想が外れたようだ。自分のように、その辺の旅人と変わらない装備で冒険に出かける者もいる。——節くれ立った男の、器用そうな長い指を横目で見ながら盗賊は考えた——ギルドじゃ見たことねェ顔だが、別の街出身の同業者だろうか。とにかく、面倒に巻き込まれるのは得策じゃねェな……。
「勝負、っつったって、何の勝負だよ。酒場で一戦か? 店も迷惑するぜ」
なるべく相手を刺激しないように、盗賊は相手の鼻の辺りを見ながらゆっくりと言葉を吐いた。力自慢の馬鹿なら怒らせるのも一つの手だが、目の前の男はそういうタイプには見えない。仲間を探すために冒険者っぽい人間を見つけては勝負を申し込んでいるのだろうか? それとも、単に新しく仕入れた魔法か剣の切れ味を試してみたいとか?
嫌な想像がどんどん浮かんでは消える。が……息を一つ吸って吐く程度の沈黙の後、帽子の男は意外なことを言い出したのだ。
「なあに。店には迷惑はかからんさ。そうだな……カードでも良いが、ダーツなんてどうだい? 久しぶりに、腕の立つ相手と戦いたい気分なもんでね」
*
一時期この地方でもダーツが流行ったことがあったので、それなりの歴史があるはたご屋であれば大抵どの店でも、すすけた壁のどこかに1枚くらいはダーツボードがかかっている。『空飛ぶブーツ亭』もその例外ではなく、入り口のドアを挟んでカウンターの反対側に、コルクでできたスチールフレームの、古びたダーツボードがかかったままになっていた。飲みかけのエールのジョッキを持ち、盗賊と帽子の男は、ダーツボードの近くにあるバーテーブルへと移動する。
勝負に当たって、帽子の男はギャンブラーだと名乗った。——ギャンブラー。この地方ではあまり聞く職業ではないが、賭けを生業とする者を指す言葉だ。つまり彼の言う『勝負』とは、食い扶持を稼ぐための大切な『仕事』。そういうことなら、と、盗賊にもようやく合点がいく。
「……で? 何を賭けるんだ? 今夜の飲み代か?」
懐の隠しから自慢のダーツを取り出しながら盗賊が聞くと、ギャンブラーから意外な言葉が返ってきた。
「こちらが払うのはそれでもいいが、兄さんには情報を賭けてもらおうかな。質問に、答えて欲しい」
「まあ、いいけど」
なるほど、と、盗賊は心の中で膝を打つ。目の前のギャンブラーは愛想こそいいが、世間一般的に、あまり無害に見えるタイプではない。おそらく冒険者なのだろう。冒険に身を置き、しかも賭けを生業にする人間——簡単に言えばカタギには見えないこのタイプがどこからか情報を得たいと思うのであれば、その辺の人に聞いて回るよりも、こういうやり方をした方が早いに違いない。
「……で、どうするかい? 何で勝負する? 兄さんの好きなゲームで良いよ。クリケット? カウントアップ?」
「そりゃあもちろん、あんたのその帽子に敬意を表して、アレだ」
言いながらようやく、小さくニヤリとした盗賊に応えて、ギャンブラーの方も口元を歪めてニヤリと笑う。通じたようだ。
「アンダー・ザ・ハットか。……懐かしいね。久しぶりだ」
細かいハウスルールの多そうなクリケットや、単純に当てたボードエリアの得点を足していくだけのカウントアップでなく、あえてのアンダー・ザ・ハット。
このゲーム名がすんなりその口から出てきただけでも、この帽子をかぶったギャンブラーはそれなりにダーツに明るい。——そう考え、盗賊は口笛でも鳴らしたいような気分になった。——こりゃあ久しぶりに、楽しい夜になりそうだ……。
一見の客でしかないこの街のはたご屋でも、もっと言えば彼が根城にしているマーカスの森の中にあるはたご屋でも、盗賊がダーツ好きだということは知られていない。本人が声を大にして吹聴することもない。もちろんその方が、いざ『ダーツで勝負だ!』と腕に自信がある者が乗り込んできたときに有利だからなのだが、この地道な作戦には一つだけ大きな欠点がある。それはずばり——大好きなダーツを、日常的に楽しめないというところだ。
流行っていた時にはそれなりに遊べる場面もあった。しかし下火となってしまった今では、こんな機会でもなければ、この愛用のダーツを出すことすらない。
「ふぅん。兄さん、良いダーツだね」
目ざとくそれを見つけておだててくれるギャンブラーに、笑みを向けそうになってしまう自分に驚くほど、盗賊はこの遊びに飢えていたらしい。慌てて気持ちと表情を引き締める。……これは勝負だ。相手に気を許してどうする!
「相手より高得点……いわゆる、『帽子をかぶる』ごとに金貨1枚ってところでいいか?」
「もちろん、兄さんはそれで問題ないよ。でもさっきも言ったとおり、俺は質問を賭けさせてもらいたい。いいかね?」
「構わないぜ」
簡単な確認の後、財布から金貨を出そうとするギャンブラーを、少し考えてから盗賊が止めた。
「気が変わった。俺も、質問を賭けさせてもらう。それでいいか?」
特に盗賊がギャンブラーから聞きたいことはない。それでも何となく、そちらの方が面白そうだったから、そうしてみた。ただの気まぐれでしかないその提案に、薄く笑みを浮かべたまま、ギャンブラーは頷く。
「もちろん、問題ないよ。……じゃあ、お互いに帽子をかぶれたら質問の答えを得るということで。始めようか」
交渉成立。
儀礼的にダーツボードと、その金属製のフレームに着いた埃をギャンブラーが布でぬぐってから、ゲームが始まった。
まずは先行のギャンブラーから。しなやかな、猫のような動きでシュルリとダーツが放たれ、ボードの右側の方に矢が刺さる。13のダブルで得点は26点。
「やるな」
「どうも」
アンダー・ザ・ハットは基本的に、前に投げた者よりも高い点数を出していけば良いだけの単純なゲームだ。が、『初回スロー時は26点以上でないとアウト』というルールがある。ご存じの通り、ダーツボードには1から20までの数字しか書かれていないし、ボードのど真ん中近くに当たるシングルブルでも25点だ。単にボード上のシングルエリアに当てただけではアウト確定になるため、26点以上の点数を得るためには13以上のダブル(得点が倍になるエリア)を狙わなければならない。
前に投げた者よりも高い点数を出せば勝ちなので、もちろん初手から高得点のエリアを狙うのがこのアンダー・ザ・ハットでは定石。しかし、目の前のギャンブラーは13のダブルを狙った。……これはおそらく、わざとだ。最高得点の20と当たった13が90度近く離れていることを考えても明らか。ギャンブラーはあえて、マイナスポイントにならないギリギリの26点のエリアを狙い、そしてそこを正確に射貫いた。『それなりに、腕には自信があるぜ』という、無言のままの、声高な自己紹介。
「おっと。質問がまだだったね。そうだなあ……まずは、兄さんの名前を聞こうか。このままだと話がしづらいからね」
「……"蛇の目"ダイス。盗賊だ」
目の当たりにしたギャンブラーの実力に少々驚きながら、ダイスは投げられた質問に機械的に答えた。表面上は平静を装いながらも、頭の中では目まぐるしく、この後の勝負についてのフローがぐるぐると回っている。
もちろん定石の通り、最高得点の60点が得られる20のトリプルを射貫いて勝負を終わらせてしまうのが早い。しかし、この場面で逃げに転じてしまうのも、どこかの騎士ではないが『礼節に足らん!』気もする。第一、こんなに骨のありそうな相手に当たることなんて滅多にない。ギリギリまで、勝負を楽しみたいという気もしてきた……。
ひとつまみ迷いを残しながらも、ダイスは短く、鋭い動作で矢を放った。
ギャンブラーが射た場所から、ちょうど線対称で左。14のダブルにダーツが刺さる。
「やるね、ダイス。28点だよ」
「もう少し、俺もこの勝負を楽しみたくなってな」
『俺もそれなりだぜ』とメッセージを返すには、この場所を射貫くしかなかった。金貨1枚相当の質問も、もう決まっている。
「帽子は俺ンだ。……俺も、あんたの名前をもらおう」
「ラッキースター・キッド。さっきも言った通り、ギャンブラーだよ」
薄い笑みを保ちながら、ラッキースターは浅く頭を下げた。簡単ではあったが、騎士がレディにするような正式な仕草を伴っている。判断が難しいところではあるけれど……一応敬意を示されたと判断して、ダイスは軽く頷き返すに留めた。
「本当はもう少しゆっくり楽しみたいところだが、帽子をかぶるためには、相手よりも1点以上高い点を取らなきゃならん。この地方のルールでもそうなっているかい?」
「ああ」
「同点でも、帽子をかぶれるハウスルールを採用してもいいかい? それだったら、同点のエリアを狙って、長く勝負を楽しむことができるからね」
「……それが、ベット台に乗せる次の質問か?」
質問に質問で返すと、小さくニヤリと笑ってから、ラッキースターはテーブルにあったエールで唇を湿らせた。ダーツボードの正面に移動する。
「答えがノーなら、とんだ無駄打ちだ。別の質問にするよ。……なあダイス、お前さんは冒険者だろう? あんたの定宿にも、ダーツボードはあるかい?」
言いながら、ラッキースターはシュルリとダーツを投げた。今度は、自身の第1投からほぼ線対称で下……より、少々中心寄り。10のトリプルで30点。
ラッキースターの方も勝負を楽しんでいる。と思うと同時に、ダイスの背筋をひやりとしたものが走った。——このレベルの腕前を持っているラッキースターがいきなり定石に寝返っていたら、あっという間に最高得点の20トリプルを狙われて、一巻の終わりになるところだった。危ねェ危ねェ……。
「壁にあるかは覚えてねェが、おかみに言えば引っ張り出してくると思うぜ。あんたが来ることがあれば、勝負してやるよ」
「そいつは嬉しいねえ」
のんびりと相槌を打つラッキースターの声を聞きながら、ダイスは少し考える。
ピンチの後はチャンスだ。ここでこちらが20のトリプルを決めれば、ダイスの勝ちで勝負は終了。しかし……今までの展開を見る限り、このギャンブラーが何か重大なヤマを追いかけて重要な情報を集めているようには感じられなかった。ただのお遊びにしか過ぎないのであれば、こちらから勝負を巻く必要はどこにもないのではないだろうか。
どちらにせよ、こののらりくらりでは埒があかない。試してみるか。
「ラッキースターよ。……あんたの目的は、何だ?」
言葉を発すると同時に、ダイスはボードに向かってダーツを投げた。中心よりも少しだけ外側。鋭く放たれたダーツはダブルブルにまっすぐ突き刺さる。50点。
「何を言っているのかわからんね。……今回はこれだ」
そして。数刻の間の後、ラッキースターが答えと共に金貨を一枚放って寄越す。
「この勝負の始めに、言ったとおりさ。俺は、情報が欲しい。そこでダイス、あんたに勝負を挑んでいるんだ。それだけだよ。……さっき聞いたこと、改めて聞いてどうする?」
噛んで含めるような口調。言い返せず、黙って手の中の金貨に視線を落とすダイスの頭上を、更にラッキースターの声が滑っていく。
「冒険のヤマを探す情報だ。あんたも冒険者なら、そのくらい察しが付くと思うけどね」
「そりゃあ……俺みてェなヤツに、関わるヤマなのか?」
思わず聞き返すダイスの方に、一旦ダーツボードの方に向かってからラッキースターが近づいてきた。ダブルブルから抜き取られたダーツがそっと、ダイスのジョッキの横に置かれる。
「それ以上は、ルール違反だろう。……帽子をかぶってから、聞くことだな」
「でも次は、あんたの番……」
ラッキースターの手が手品のように、ダーツから離れるのと同時に、盗賊の手の中にある金貨をさらりと奪って去った。
「一回、オマケだ。……ただ今度は、きちんと刻んでおくれよ? 楽しみが減っちまう」
空いた手を一瞬見つめてから首を小さくすくめて、ダイスはもう一度、先程ダーツを投げた位置に戻る。油断していたとはいえ、当たり前のように金貨を奪い返されたのは驚きだったしある意味屈辱ですらあったが、それをこちらから言って伝える必要もない。あくまでも平静を装って、スローのためのスタンスを取った。
少し考えてから、いつもの短い動作で鋭くダーツを投げる。『やり直し』と言われても、先程の50点がナシになるとは一言も言われていない。……ということは、50点以下のエリアを狙うのは危険だ。ここは無難に、そしてリクエスト通りに刻んで狙いを定めた通り、ダーツの矢は18のトリプルにまっすぐ刺さる。
「負けず嫌いだな、ダイスは」
馬鹿正直にきっちり刻んで17のトリプル、つまり51点を狙わなかったのは、ラッキースターの言う通りの理由だ。
ダーツボードで得られる最高得点は20のトリプルである60点。
このタイミングでダイスが51点を取ってしまった場合、その後も刻んで投げ合うと、相手が18のトリプルで54点。次にダイスが19のトリプルで57点。最後に相手が20のトリプルで60点。ゲームオーバーとなり、ラッキースターが『帽子をかぶって』ゲームが終了してしまう。もしかしたらラッキースターが1投順番をこちらに譲ってきたのも、その辺の引っかけにダイスが足を取られるのを期待したのかもしれない。……食えないヤツだ。
「お前ェさんのヤマについて知りたい」
目の前の相手に言いたいことは山ほどあったが、全てを呑み込んで、ダイスは簡潔に質問だけを口の端に乗せた。ダイスの質問に、目の前のラッキースターの顔から薄い笑みが消える。
「そりゃあちょっとばかり……」
「ダメだとは言わせねェぜ? 何せ、金貨1枚分の情報だからなァ。それなりに、実入りのニオイがしねェとな」
代わりに小さくニヤリとしたダイスを、ラッキースターが帽子の下からまっすぐに見つめた。感情を全く乗せていない、無表情な目がこちらを伺うように焦点を合わせてくる。
おそらくだが、ラッキースターはダイスを値踏みしているのだろう。——目の前の盗賊が、金になりそうな秘密を漏らすのに足る相手なのか。そもそも、会ったばかりのこの男に、大事なヤマについて語っても良いものだろうか。悪用されたり、横から美味しいところだけかっさらわれたりしないだろうか。などなど……逆の立場に立った場合、ダイスだって当たり前に考えることだ。ここでラッキースターが思い悩むのはある意味当然で、仕方がないことだろう。
が……理解はしていても、それでも待つ時間は長い。
視線を合わせたまま、どのくらいの時間が経ったのだろうか。ふうっと煙草の煙を吐き出すように、ラッキースターが大きく息を吐いた。改めて空気を吸い、言葉を紡ぐ。
「ダイス。あんたは盗賊だ。あんたたち盗賊も、お守りの品を持っているかい?」
「……ああ。もちろん」
厳密には、質問に対する答えを得られるのは『帽子をかぶった』者だけだ。しかしその約束を守らず、ダイスはラッキースターの問いかけに頷いて答えた。——この問いは、話のきっかけに過ぎないということが伝わってきていたから。案の定、頷き返してきたラッキースターは、エールで唇を湿らせてから、続けてゆっくりと話し出す。
「俺たちギャンブラーにとっても、お守りの品は大切なモンだ。効き目があるらしいというウワサがあれば、皆それを手に入れようと躍起になる。幸運の女神さんに愛されるかどうかが、そのまんま結果に直結するからな」
あくまでもゆっくりとしたテンポを崩さず、ラッキースターは天気の話でもするみたいにのんびりと、自分の隣でテーブルにもたれかかる若い男に説明した。天気の話に打つ相槌と同じように、語られた方のダイスは「ああ」と短く答える。
「今から半年くらい前かな。こっちの地方で霊験あらたかなお守りがあるってことで、仲間内で話題になったんだ。もちろん、全員がそれを手に入れたいと思った」
「ああ、うん」
同じテンポで語られる話題と、同じ相槌。
「……が、数ヶ月前、その『お守り』を手に入れたとウワサされた奴らが、次々とその姿を賭博場から消し始めた。死んだとかじゃねえ。腕が、鈍ったんだよ」
ラッキースターが言葉を切ったことで、いつの間にか賑やかになってきていた酒場の喧噪が二人の間に流れ込んでくる。ガヤガヤと楽しそうな声。何かがガチャガチャと触れる音。——しかし、バーテーブルにもたれる二人は完全に、その穏やかな空気から浮いていた。そこだけ温度が低いような、そんなミスマッチ。
「それは……その『お守り』ってェのは、どんなモンなんだ?」
「おいおい。次は俺が『帽子をかぶる』番だよ? 少し待ってくれ」
思わず前のめりになるダイスを緩やかに制して、するりとラッキースターがダーツボードの前に出た。
妙に動きの遅いクセのあるスローイングからダーツが放たれる。19のトリプルで57点。
「さて。無事帽子もかぶれたので、聞くよ」
ダーツを放った姿勢から全く動かず、首だけ動かして、ラッキースターがダイスの方を見た。口を開く。
「あんたの近くで、天才的な腕を持つ人物が何かに失敗した。という話を聞いたことはないかい? 大したことでなくても構わない。ウワサで聞いたレベルのことで結構だ」
「何かに、失敗か……」
記憶をたどってみるが、思い当たることはなかった。
ウワサというと多分、ギルドのお偉いさんが初歩的なカギを開けられなかったとか、ベテランが簡単な罠を発動させてしまったとかその手の話だろう。そんなに愉快な話があればあっという間にギルド中はおろか、セルフィス中の酒場にその不名誉な話は広がりそうだけれど……とりあえず今のところ、ダイスの耳には入ってきていない。
逆に、ウワサを広める立場になる近さで……と、自分の仲間のことを考えてみる。
数日前に五竜亭で会った彼らはいつもの通りの酔っ払いで、飲み物をこぼしたりケンカをしたり、と、いつもの通り『失敗』のし通しだった。しかし、取り立ててウワサにしたくなるような大事件は起きていない。彼らが歴戦の勇者であること自体は間違いないが、彼らにとってあのはたご屋が家にも等しい場所である以上、そこにあったのは、ごく平凡な日常だ。
「特に思い至ることは起きてねェな。お守りの話を聞いたのも初めてだし」
「そうか……つまり、ここまで『お守り』自体がまだ、届いていないということかな」
ダイスに答えるラッキースターの声がだんだん低く、小さくなる。
すうっとその目から光が消え、口が閉じられた。きっと彼は、自分の底の方で自分自身と話し合いをしているのだろう、とダイスは推測する。仲間がそうなること自体は気にもならなかったので、周囲を遮断し始めたラッキースターは放置し、ダイスはジョッキに残っていたエールを一気に飲み干してから、新しいジョッキを注文した。
ガヤガヤと周囲に低く漂う酒場の喧噪を感じながら、バーテーブルにもたれかかってダーツボードをぼんやり眺める。
あとはダイスが投げ、20のトリプルにダーツが刺さって、この勝負も終了だ。
もう少し楽しみたかった気もするが、潮時だろう。あのギャンブラーに質問をして、得られる答えもあと一つだ。一体、どんな質問が相応しいだろうか? やはり、『お守り』についてだろうか? それとも、少しずつ正体の見えてきている、今回のヤマについて? 全く関係のない質問も可能だろうが、それは相手に失礼な気も少しだけする……。
「あんたの番だよ、ダイス」
そして。
思いがけずダイスの方が周囲を遮断して自身の底に入ってしまっていたらしく、肩をぽんと叩かれて我に返る。視界の端の方で、ラッキースターが先程までの薄い笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「あ、ああ。……悪ィ」
「別に構わないんだけどね。ぼんやりしてたみたいだから」
まだ少し、昨日の酒が抜けていないような浮遊感があったが、ダイスは平静を装って愛想笑いを浮かべる。ダーツボードに向き直る。
「さて、と。これでラストだな」
自分に、そして相手のギャンブラーに言い聞かせるように、小さく呟いて。
「そうだね。もう少し楽しみたかったが、仕方がない」
「もう少し情報が欲しかったが……じゃねェのか?」
「まあ、そうとも言うね」
軽いやり取りの後、ダイスは改めてダーツボードの前で、スローイングのためのスタンスを確認した。ふぅっと息を吐き、ダーツを投げる動作をしながら、20のトリプルにダーツがとすりと刺さる場面をシミュレーションする。いつものルーティン。
「じゃあ、最後の質問だ。
……その、『お守り』のヤマに乗りたい。俺は役に立つぜ? どうだ?」
「役に立つのは間違いなさそうだ。それはわかるよ」
いつの間に頼んだのかお代わりのジョッキを傾けながら、ごくのんびりとした口調でラッキースターがダイスの言葉を肯定する。ゴトリとジョッキをバーテーブルに置き、そのまま前傾になって自身もテーブルに体重を預けた。口元についた泡を指でぬぐってから、再度口を開く。
「でも、その答えは、幸運の女神さんに聞かなきゃなあ」
「わかってるさ」
初対面の人間を信用するには、それなりの儀式が必要だ。
今までのやり取りで、ダイスの方はラッキースターが、冒険者として充分な腕前を持っていると確信していた。おそらく、ラッキースターの方もダイスに対して、同様の評価を下しているだろう。もしそのレベルからして不合格なら、ダイスがダーツを投げる前に、先程と同じように彼が金貨を投げて、スローを止めているはずだ。
しかし、ラッキースターはダイスがダーツを投げるのを、静かに見守り待っている。
ダイスにも経験がある。これは——天にその決断を委ねている時の流れ。
ある意味、『幸運の女神さん』に好かれているかどうかを見る作業、と言えるかもしれない。仲間に迎えて信用するために、何かもう一押しが欲しいのだ。サイコロの目でも、髭面が描かれたカードでも、コインの裏でも何でもいい。それを口実に、『だからコイツを信用することに決めたんだよ』とうそぶける何か。……今回の場合、それがこの、ダーツの矢が刺さる場所なのだ。
ひりひりするような緊張感の中、ダイスはもう一度、狙う20のトリプルエリアを見た。
12時になった時、時計の短針の先がいるあたり。その針の先を狙うわけですらない。その針が指し示す、緩くカーブしたかまぼこ状の部分のどこかに、自分で狙って投げたダーツが刺さればいいだけだ。——なァに、今まで同じように狙って、同じようにきっちり仕留めていたじゃないか。難しい話じゃあない。いつも通り、冷静に正確に、狙えばいいだけだ……!
よく狙ってから、正確に狙い通り刺さるように、ダイスは無駄のない動きで鋭くダーツを放った。
もったいをつけない、最小限の動きの鋭いスローイング。ほんの数秒の小さく、しかし精錬された動きの指から、銀色の針先のダーツがほぼ直線的に、ダーツボードの方へ向かって突き進む。おそらくラッキースターも、そしてもちろんダイスも、その針先が20のトリプルに刺さることを確信して見守っていた。
しかし。
「あ」
ダイスの放ったダーツは、的をごくわずかに逸れた。のだ。
ほんの数秒の間に起こったことが、まるでスローモーションのようにゆっくり、そしてはっきりと目の前で再生される。
かつん、とごく小さな音がして、ダイスが放ったダーツは、20トリプルのエリアを囲う金属の細いフレームに当たった。コルク製の柔らかいダーツボードに刺さるため必要充分な加速をつけて放たれたダーツだから、当然金属までは貫通できない。ダイスご自慢のダーツは、歴戦の傭兵の肩上で跳ねるフェアリーのようにふわりと小さく浮いてから、ごく静かに床へと落ちる。
押し黙る盗賊とギャンブラーの周囲に、再度酒場の喧噪がガヤガヤと戻ってきたが、二人の間に流れる重い空気は払いきれなかった。
「……ハハ。帽子はかぶれなかったみてェだな。俺の負けだ」
そして、数秒後。
スローイングの姿勢からようやく身体を動かしたダイスが、肩越しにラッキースターを振り向いて声をかける。おどけた動作で肩をすくめ、床に落ちたダーツをゆっくりと拾い上げ、針先を優しく指でなぞる。
「今ので、針が曲がってなきゃあいいけど。コレでダーツまでオシャカじゃ、救いようがねェからな!」
「大丈夫だよ」
あくまでもゆったりと薄く笑みを浮かべながら、ラッキースターがダイスに答えた。
慰める風でもなく、勝ち誇る様子もない。嬉しいとか悲しいとか、そういう感情の一切感じられない、ただ事実だけを述べたという風情の言葉。——おそらくこれは、ラッキースターが通常のモードに戻ったという証拠だ。考えていることを微塵も相手に悟らせない、歴戦のギャンブラーとしての仮面。
「大丈夫だが、帽子はあんたに渡らなかったようだ。残念ながらね」
「全く以てその通りだな。残念この上ねェぜ!」
かなり本心に近い言葉を負け惜しみに聞こえるよう必要以上に乱暴に吐きながら、ダイスはラッキースターに金貨を1枚放った。先程とは違って、ごく正確なスローイング。まっすぐ胸元に飛んできた金貨を、ラッキースターが危なげなくしっかりキャッチする。
「じゃあ、俺はこれで。楽しかったぜ」
こういうとき、負けた方はさっさと退散するのがセオリーだ。ダーツを懐の隠しに戻してから、ダイスは軽く手を上げて2階の寝床へ引き上げようと踵を返した。視界の端で、帽子を目深に被ったギャンブラーが、手にした金貨を弄んでいるのが見える。
「残念だったな、ダイスよ」
視界の右端ギリギリのところに見える、帽子のつばの主の声が、聞こえてきた。
このタイミングで早速振り向くのもカッコ悪い気がして背中を向けたまま立ち止まる。背後でラッキースターが、バーテーブルにコトリと金貨を置く気配がした。
「ただ……俺にはちょいと気になるんだが、今のは本当に、あんたの実力だったのかな? それともダイス、あんたの『お守り』が悪さをしたのかな。どう思うかい?」
「そ、れは……」
もちろん、真実はわからない。
「分からねェ。でも、負けは負けだ」
「そうだね。負けは負けだ。……でも、俺になら分かるかもしれないよ? 何せ俺は、悪さをする『お守り』を知っているからね。そこで相談だ」
背後のラッキースターが言葉を切る。
「ダイスよ。あんたの『お守り』を見せてはもらえないだろうか?」
言葉を発するテンポもその声の大きさも、今までとほぼ変わるところはない。それでも不思議と、今までで一番の緊張感が伝わってきた。
「おそらくこの地方でも、『お守り』ってヤツは、本当に信用する仲間にしか見せないものなのだろうけど」
ラッキースターの推測は正解だ。ダイスの沈黙は肯定の印として、正確に相手に伝わったらしい。ラッキースターの故郷と同じように、ここでも『お守り』は自分自身と信頼できる仲間だけの、秘密の繭に守られるものだ。
数秒待って、ギャンブラーは芝居がかった仕草で肩をすくめる。
「……やっぱり、そうか」
「まぁ、な」
ここで、そんなことはない、と嘘をつくという手もあったのだ……と後から気づくが、時既に遅し。ゆっくりと振り向くと、先程見たままの薄笑いで、ラッキースターがこちらを見ていた。
「じゃあ、大事な『お守り』を見せてもらうために、もう一勝負かな。……ダイスの好きなゲームでいいよ。クリケット? カウントアップ? それとももう一度、アンダー・ザ・ハット?」
「今夜はもう、ダーツは腹一杯だ。そもそも今夜の敗因が『お守り』の呪いなら、俺の負けは決まりだろ? やってらんねェよ」
にべもなく提案を撥ねのけられても、ギャンブラーの薄笑いは顔に乗ったままだ。落胆していてもポーカーフェイスなのか、それともこの後の展開をある程度予想しているのか。……盗賊のダイスにはよくわからない。
一呼吸置いて、ダイスは再度、帽子の下の相手の目を見据える。
「ダーツじゃなくて……別のゲームにしよう」
もちろん、大好きなダーツを上手な相手ともう一勝負……という誘いはかなり魅力的だ。それでも、その提案を断らなければならない大きな理由が、ダイスにはあった。
さっきギャンブラーが醸し出していたのと同じ緊張感が、自分の周りに漂っているのが感じられる。緊張している——当たり前だ。今から久しぶりに、愛の告白をしなけりゃならないんだから。……告白の相手は長身の、帽子を被った得体の知れないオッサンだけれど。
水に飛び込むときのように大きく息を吸って、吐いて……相手の鼻先でなく暗い色の目を見て、ダイスはゆっくりと口を開いた。
「俺の定宿で、もう一度会おうじゃねェか。そこを見つけられてそこで再会できたら、お前ェさんの勝ちだ。
そンときは……仲間として、一緒に冒険に出よう。そうすりゃあ、秘密を共有できる相手かどうか、見極めることができるからな」
「ハハ……ダイスよ、それは賭けではないよ」
盗賊の言葉を聞いて、初めてギャンブラーの口元に、本物の、柔らかい笑みが浮かぶ。
「それは、賭けじゃない。……約束ってヤツだ」
*
——そして、翌朝。
そこまで朝寝をしたわけではなかったけれど、盗賊が目を覚ましたときには既に、ギャンブラーが確保していた、3つ隣の寝台はもぬけの殻だった。
手早く身支度して出てきた『空飛ぶブーツ亭』の店前の道にも、既に大きく開け放たれているセルフィスの正門近くにも、既にあの、帽子を被ったうさんくさそうな長身の男の姿はない。そもそも昨夜の時点で、彼がどこに向かうとかどこを目指しているとか、そんな話は一切していなかったのだから、ギャンブラーの行き先を盗賊が追える確率はそこまで高くないだろう。盗賊の方も同様に自分の目的地について詳しく説明などしなかったので、今ギャンブラーが、盗賊の行こうとしている同じ方向に向かって、数歩先を歩いている可能性はかなり低い。
それでも何となく、盗賊には予感があった。
今日とか明日、数日後ではないかもしれない。それでも何となく……あの帽子のうさんくさい男が、マーカスの森を抜けてやってくる姿が、見えるような気がした。
ジェダから出発すれば約4日。マーカスの森を2日ほど進んだ先に突然現れる、五角形の屋根の前に。
盗賊には家に帰ってきたときのようにホッとする光景だが、ギャンブラーの目にあの景色はどう映るのだろうか。少し迷った後、無論彼は、あの分厚い木の扉を押し開くだろう。流れ出てくる喧噪や匂いは、彼の好みに合うだろうか。扉を開いた先にいる客を相手にどんな勝負をふっかけて、彼は一体どれほどの金貨を巻き上げるのだろうか……。
色々想像してみたらやけに楽しくなって、思わず薄く笑顔になりながら、盗賊はマーカスの森方向に向かう街道を、軽い足取りで進み出す。
あのギャンブラーがやってきたときのために、まずはおかみに頼んでダーツボードを出してもらわないと。昨日フレームに当ててしまったせいでほんの少し曲がってしまった、ダーツの補修もしなくてはならない。それから一番大切なこと……五竜亭の連中に、ギャンブラーとの勝負に夢中になるなと、釘を刺しておいてやらないと!
きっと近い将来やってくることになる新しい仲間との再会に先駆け、盗賊は頭の中で、ダーツボードに矢が刺さるまでの情景を思い浮かべた。
ボードに対し、やや右向きのスタンス。無駄のない素早く鋭いスローイングから、20のトリプルに自身が投げたダーツがとすりと刺さる。一拍置いて、わあっと上がる、仲間たちの歓喜と賞賛の声。腕や肩をバシバシと叩く、手荒い祝福。
それは——昨日はなかった、盗賊の定宿においての、勝利までのルーティン。
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