Little Story 05
『ねずみとフィルムとはざま【前編】 -魔道書大戦RPG マギカロギアより-』
人間の適応力というのはすごいものだなあ、と、天井をぼんやり眺めながら「時間を彷徨う舟」市田はざまは考える。
朝。あてがわれた屋根裏の小さな部屋で目を覚ますのも、これで一〇回目……くらいだろうか。
小さく伸びをしてから下がり天井の下に置かれている小さなベッドから滑り降り、まずは枕元のすぐ近くにある小さな窓のブラインドを上げて。さあっと差し込む朝の光の下、窓辺に据え付けられた文机の上を確認する。
ここに、はざまが積み上げた魔法書の類以外のものがなければ服装は自由だが、今日は少々レトロに感じられる、紺色の襟に白い身頃のセーラー服と膝丈の紺色プリーツスカート、白いハイソックスが用意されていた。服が用意されている場合はそれを着用するよう言われているので、言われているとおりにそれらを身につけ、床にあった黒いローファーを履く。余裕のある上衣のカッティングとスカートの長さから、何となく昭和のおしまいくらいかな……という時代の雰囲気を感じた。
「おはようございます、市田さん。セーラー服ですね、良くお似合いです」
「おはようございます。……ありがとうございます」
身支度を調え階下の関係者控室に降りると、いつもの通り、はざまの研修の面倒を見てくれる「重なる影に当たる光」上野彦馬が、奥の台所と思しきスペースから銀の丸盆を持って現れた。上野の方は少し肩幅の広い、明るめモスグリーンのスーツを着ている。
「なんか……珍しい色ですね。ネクタイも」
しげしげとその格好を眺めるはざまの視線に照れ笑いを返してから、上野は華奢なカップアンドソーサーをテーブルに並べた。ここは関係者控室で、客人を通す場所ではない。今まで上映前後に茶の用意をしたこともないし、そもそもまだ来客までには時間があるはずなので、これは純粋に、上野自身とはざまのための茶だ。
「昭和のおしまいくらいは、こういう明るい色のスーツが流行ったようです。景気も良く、活気のある時代だったのでしょう」
「はざまは、高校生の服で良かったな。もう少し年上の時代服だったら、ぴったり身体に張り付く、下着の見えそうなミニスカートになったはずじゃぞ」
いつの間に現れたのか、上野が茶器を用意するそのテーブルの上に薄い茶色の猫が飛び乗り、念話で二人に話しかけてきた。猫の前に、流れるような動きで上野がミルク入りの深皿を差し出す。
「おはようございます、レンズ。一緒に朝のお茶を楽しみましょう」
「うむ。ワシはミルクにさせてもらうがの」
テーブルの上に飛び乗った猫を追い払いたい気持ちをぐっと抑えて、はざまは猫から遠い方の椅子を引いた。ごく優秀な給仕がそうするように、腰掛けたはざまの前にある茶器に熱い茶が注がれ、砂糖壺がすっと差し出される。——おそらくははざまがここに来る前からずっとずっと続いていたであろうと思われる、朝のティータイム。新参者ははざまの方なのだ。猫がテーブルの上に乗ることに関して口を挟む権利はない。我慢我慢。
伝統のお茶会を粛々と済ませ、時間になるとはざまは〈幻惑館〉の入り口に立ち、客人を待つ。
ここ、〈幻惑館〉にやってくる客は皆、失った記憶を求める魔法使いたちだ。
何かの失敗があって命を落とした魔法使いの記憶は、彼に関わった者たち全員の頭から消し去られる。生まれ変われたとしても当然、当の本人を含む誰の頭にも残らない。また記憶は、命を落とすまでしなくても、何か強力な魔法が働いたり〈断章〉に憑依されたりして不鮮明になっている期間がある場合がある。そういう記憶の中には貴重なものも時に含まれるため、その情報を求めてくる魔法使いも少なくない。
そういった記憶を求める魔法使いに対し、彼らの過去の記録をフィルム上映という形で提供しているのがこの〈幻惑館〉で、はざまはここに、所属する〈学院〉から研修と称して送り込まれた学生——というわけなのである。
今日やってきたのは上野よりも少し若い、はざまに父親がいたらこのくらいの年代だろうか、と思える四〇代後半か五〇代前半くらいの男性だった。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました。どうぞ、こちらの……」
「そういうのいいから、早くフィルムを見せてくれ。俺の金を取り戻すんだ!」
はざまの挨拶を最後まで待たず、やってきた男はせかせかと足を動かして彼女の横をすり抜け、上映室に飛び込んで赤っぽいビロウドの椅子にどっかと腰を下ろす。様子を見守るはざまの方に、面白くなさそうな視線を向ける。
「急いでるんだ。さっさとはじめてくれ。……あ、用事があるのは最後の方だから、できればそこまで早送りしてくれ!」
「そういったご要望への対応はございません」
わがままな申し出に無表情で答えて、はざまは心の中で小さく顔をしかめながら、決められた角度で頭を下げ、決められた台詞を告げる。
「それでは、ごゆっくりお楽しみください」
そして、その後。
そのまま数時間、客人が見るフィルムが終わるまでを関係者控室にて上野たちとお茶を飲んだりしながら過ごして待ち、鑑賞が終わった客を外に送り出して、はざまの仕事は終了だ。
「市田さん、お疲れさまでした。……いかがですか? 何か、参考になる答えは得られましたか?」
〈幻惑館〉を出て霧の中に消えていく客人の背中を見送るはざまに、建物の中から出てきた上野が優しく声をかけてくる。
「いえ。……何だかすごく怒っておられて、『見ただけじゃ役に立たない!』とのことでした」
はざまに与えられた仕事は『やってきた客を劇場に案内し、終了後速やかに送り出す』ことだけなのだが、働き始めてすぐに浮かんできた疑問を解決するため、やってきた客人に対して、個人的に少し質問をさせてもらっていた。上野もそのことについては承知しているので、彼が聞いているのはそのことだろう。
「そうですか。まあ、その気持ちもわからなくはないですけれどね。何しろあの方は、バブルの崩壊直前に一度この世界を離れたようで……不動産や株を売り抜けたか、大変気にされているご様子でしたから」
はざまにとっては呪文よりも難解な話をしながら苦笑する上野を無表情に見やって、はざまは上野と入れ替わりに劇場の中に戻り、裏の階段からあてがわれた屋根裏部屋へ戻る。——これにて、本日の……というか、定められた一連の業務は終了だ。後は寝るまで部屋の文机で〈学院〉の教科書を読み、授業に戻れる日を待ちながらコツコツと自習を進めて時間を過ごす。ほんのわずかでも〈学院〉の教科書を読み、自習ができる時間があることだけが心の救いだった。
研修というからには、時期が来れば〈学院〉に戻れるのだろう。……戻れるはずだ。
それを信じて、今はこの日々を乗り切るしかない。
明日には〈学院〉から、『研修終了につき〈学院〉に戻られたし』という書簡が届くかもしれない。それを信じて、はざまは夜更けにベッドに潜り混む。
……でも、起きるとまた、目の前には古びた下がり天井。また新しい、一日の始まり。
突然放り込まれた、何を学ぶためなのかさっぱりわからないこの〈幻惑館〉の研修にもいつの間にか慣れている自分に空恐ろしさを感じながら、粛々と業務をこなすこと、はや数週間。
先日の、バブル崩壊紳士を迎えた日から二日後。朝起きてはざまが文机の上を確認すると、その上にはエンジ色の矢絣模様の小袖と紫色の行燈袴が用意されていた。着物の着付けに自信はないが、一緒に置かれていた着用法のメモを見ながら何とか頑張ってそれらを身につけ、床に置いてあった編み上げブーツを履く。
今日の客人は、あのバブル崩壊紳士より昔の時代の人らしい。
「おはようございます、市田さん。矢絣と袴、良くお似合いです」
「おはようございます。……ありがとうございます」
身支度を調え階下の関係者控室に降りると、いつもの通り上野が、奥の台所と思しきスペースから銀の丸盆を持って現れた。上野の方も羽織袴に帽子という、少しちぐはぐな感じの服装だ。
「上野もはざまも、今日はなかなか様になっておるな。まあ、ワシはいつもの通りじゃが」
いつの間にやってきたのか、猫のレンズが珍しく足元からはざまと上野を見上げてフムと息を吐く。念話はいつも通りの温度感だが、図々しくテーブルの上に飛び乗ってこない様子や何故かそわそわと落ち着かない態度が、いつもと違う何かがあることを雄弁に物語っていた。
「明治の終わりか、大正の初めくらいですかね。この年代の服が、一番落ち着きます」
そんなレンズの態度に気づいているのかいないのか、柔らかな物腰で朝のお茶を用意しながら上野が和やかに話を継ぐ。いつものようにはざまの前に砂糖壺を置き、自分の茶器の近くにミルクの入った深皿を並べて。
「それで……何がありましたか、レンズ? 何か話しづらいことがあるように見受けられますが」
穏やかな表情のまま上野に視線を合わせられ、レンズがわかりやすくびくりとなった。
「うむ。その、な……今日の客人のフィルムなんじゃが……ねずみか何かが、かじったようでな」
「ねずみが、ですか?」
ここまで来て、初めて上野の表情が曇る。
「害獣に関してはレンズが責任もってフィルムを守る約束ですよね。困りますよ、きちんとやってもらわないと」
「うむ。わかっておる。ワシも、この時期にねずみが出るとは思わなんだ。面目ない」
肩を落としてしょんぼりと俯くレンズを困ったように見やってから、いつもであれば優雅に無音で取り扱う銀盆を、カシャリと珍しくわずかに音を立てて置き、上野は劇場の方へと消えた。
はざまが客人を案内する劇場の後部。黒いカーテンに仕切られた向こうが、上野が幻灯機を操作する上映室だ。客人が出入りするのと反対側。今はざまたちがいる関係者控室の方から直通でそちらに抜けられる通路から上映室に入り、上野は手に、正方形に切った厚い板のような形状の箱を持ってすぐに戻ってくる。先ほど出て行った際にうっすらその顔に浮かべていた焦燥の表情は、この短時間の間にすっかり消えてなくなっていた。
「この、箱をかじった跡のことでしょうか? ……良かった。確かに箱はねずみにかじられた跡がありますが、中は無事ですね」
「そうか。それなら、良かった」
猫のレンズの方もホッとしたようで、早速ぴょんとテーブルの上に飛び乗ってくる。上野が置いた深皿の前で正座し、レンズは前足の方にくるりと尻尾を回してはざまの方を見た。
「騒がせたな、上野、はざま」
「いえ。大事に至らなくて良かったです。……ね、市田さん」
「……はい」
上野とレンズにまっすぐ見つめられ、はざまは頷いてから上野がテーブルに置いたフィルムの箱に視線を移す。二人の視線から逃げるために何となく見た箱は、上野が言うとおり端の一角が、何かにかじられたようにボロボロになっていた。そういえば……フィルムの箱を見るのはここに来てから初めてだ、とふと気づく。
「この箱に、お客様に上映するフィルムが入っているのですか?」
「そうですよ。市田さんが見るのは初めてですね。……どうぞ。開けても構いませんよ」
上野に促されてそっとふたを開いてみると、中には箱にぴったりとはまる大きさの丸い透明なリールに巻かれた、黒いフィルムが収められていた。巻かれたフィルムは思ったより短いようで、中央にほんの少しだけ。透明なリール部分にはかなりの面積の余りがある。
違和感を覚えた。
「ああ。このフィルムはずいぶんと短いようですね。普通は、この外側のリールは少し余る程度で、フィルムの長さはもっと長いものですが」
ほんの少しだけはざまの顔に浮かんだ表情を見逃さず、上野が丁寧に説明を加えてくる。
「今日のお客様は、とても短い記憶をお探しなのかもしれません。上映中、あまりのんびりしていられませんよ」
「はい。気をつけます」
口では機械的に上野に答えながら、はざまは心の中に生まれた違和感について考えていた。
確か——そう、この間のバブル崩壊紳士はどう見ても、最後の最後数分間の記憶だけを探していた。彼が求めていた記憶の記録は、ちょうどこのくらいのフィルム長があれば全て判明する程度の長さだろう。それなのに彼のために上映したフィルムは、たっぷり半日分程度の長さがあったように思う。上野が今言ったように『短い記憶を探す』用の短いフィルムがあるのなら、先日の紳士には何故、その短いフィルムがあてがわれなかったのだろうか?
「ねえ、レンズ。本当にこのフィルムは、初めからこの長さだったの? ねずみが食いちぎったとかでなくて?」
怪しいと感じて聞いてみても、無罪放免が確定した猫はすまし顔。
「何を言っておる。上野が今言ったであろう? まれに、こんな長さのフィルムもあるのじゃ。濡れ衣じゃぞ、はざま」
「まあまあ、市田さん。こういうものも、たまにはあるんですよ。……それより早くお茶を飲んでしまわないと。そろそろ、お客様がいらっしゃる時間ではないですか?」
「……はい」
上野にそう言われてしまっては、これ以上追求できない。仕方なしにはざまは矛先を収め、目の前の冷めかけた紅茶を口に運んだ。
その後、程なくして。
レンズの告白がらみでバタバタした結果いつもより余裕はなかったが、それでも客人が霧の中から現れる前に、はざまは〈幻惑館〉の前に立つことができた。
小さく深呼吸して、目の前の霧を見つめる。
程なくしてこの霧の向こうから、記憶を求める魔法使いがやってくるはずだ。短いフィルムに収められた、短い記憶を探す魔法使い。——どんな人物なのだろうか? あのほんのわずかな長さのフィルムを見て、彼は記憶の糸をたぐり寄せることができるのだろうか?
「あのぅ、すみません」
そんなことを考え、しばしぼうっとしてしまったらしい。
真正面から声をかけられてハッと顔を上げると、そこには……誰もいなかった。——否。慌ててその姿を探しキョロキョロした結果、はざまの視界からギリギリ外れた下の方に、小さな女の子が立っているのに気づく。
年齢は、六、七歳くらいだろうか。身につけているのは少々使用感のある『ザ・よそいき』という雰囲気の、柔らかそうな生地の紺色のワンピースにベロア素材の黒いハイカットシューズ。良いものだがおそらくは誰かのお下がりだろう。彼女のために仕立てたものではなさそうで、服も靴も、少し彼女の身体に対して大きめのサイズに見えた。背中の半ばあたりまでありそうな長い髪はきれいに編み込まれ、可愛らしいピンや髪ゴムで飾られている。自分が明治か大正の時代服なので客人もその時代の人物だと予想していたのだけれど、目の前の少女はどう頑張っても平成より前の生まれではない。
「失礼いたしました。ようこそ、〈幻惑館〉へ。お待ちしておりました」
「ありがとうございます。よろしくお願いしますっ」
規定通りの台詞を述べて規定通りの角度で頭を下げるはざまよりも深く、目の前の少女はぴょこんと元気よくお辞儀をした。跳ねるように起き上がり、大きな丸い目ではざまをまっすぐに見る。
「……良かった。ちゃーんと着いたんですね、〈幻惑館〉。あたしが若すぎるから、見つからないかもって、〈学院〉では言われたから」
「探す者が真に必要としていれば、そのとき、〈幻惑館〉は霧の中から現れます」
ニコニコしながらフレンドリーに話しかけてくる少女に規定通りの台詞を返しながら、はざまは無表情のまま、規定通りの動作で彼女を劇場に案内する。はざまの後ろから、飛び跳ねるように軽やかな足取りで付いてくる彼女は、今までやってきたどの客人よりも楽しそうで、明るくはしゃいでいるように見えた。
「夢をね、見るんですよー。昔から、何度もおんなじ夢を」
劇場の中央に置かれた赤っぽいビロウドの椅子にぽんと飛び乗るように座りながら、少女は歌うようにそうつぶやく。薄暗がりの中でも、興奮からだろうか、彼女の丸い大きな目がきらきらと輝いているのがはざまにもわかった。
「夢、ですか」
「うん。……あ、ハイ。そう、です」
友人に対するような軽い感じではざまの言葉に答えてから、マズイ、という風に小さく肩をすくめて。
「満天の星を見ているあたしに、影が、三人くらいかな? 近づいてくるんです。全然怖くなくて、その人たちはいい人だってわかってる感じで」
起きてからも記憶の残る魔法使いの夢は、何かメッセージを孕んでいることが多い——はざまはそう、〈学院〉で教えられた記憶がある。目の前の少女のように年若くして力の出現した、つまりは力の強いと思われる魔法使いが何度も見る夢だとしたら、それは確実に、何かの意味を持っていることだろう。
「そうですか」
「ハイ。で、最近になってあたし、魔法使いの能力があるってことがわかって、〈学院〉に入ることになったんですけど、そこの先生に聞いてみたら、過去の記憶かもしれないって言われたんです」
「そうですか」
「で、知りたくなったんです。それっていつの、どんな記憶なのか。その頃、魔法の力はあったのか。そのときあたし、幸せだったのか……」
少女の説明に、はざまは無表情のまま、心の中でなるほどと頷いた。……つまりこの子は、〈学院〉の勧めでこの〈幻惑館〉を探し、夢と過去の記憶との関係を探そうと思い至ったのだ。夢と記憶にどんな関連があるのかはわからないが、〈学院〉が促した結果彼女がここに来たのだとしたら、それにはそれなりの理由があるに違いない。
「はざま」
「あ、猫ちゃんだ! かわいいね〜。おいでおいで〜」
いつの間に来ていたのか、はざまの足元に寄り添うように立つレンズが、鼻先に伸びてくる少女の手を完全無視して、念話で声をかけてくる。
「無駄話もいい加減にして、はやくフィルムを見せてやれ。上野が開始できずに困っておるぞ」
「ああ、そうね」
至極もっともなレンズの指摘で我に返り、はざまは背筋を正してから椅子に腰掛けている少女に声をかけた。
「お待たせしました。それでは、そろそろ開演いたします。よろしいですか?」
「あっ、ハイ。……お願いしますっ」
少女の方でも、自分が喋りすぎていたと感じたのだろう。再度小さく肩をすくめてから、はざまに向かって座ったまま、先ほどと同じようにぴょこんと頭を下げる。それを見届けて、はざまはいつもの通り少女の死角に当たる方に一歩下がり、暗がりに姿を隠した。
照明を絞って落としていくように、周囲がすうっと暗くなる。
ビロウドの椅子の、つまり少女が座った目前にある小さなスクリーンで、フィルムを上演する前のカウントダウンが始まった。9、8、7……と瞬くように数字が小さくなっていく。カタカタカタカタ……と上野が操作する幻灯機の動く音が低く聞こえるのを聞きながら、はざまは数字が4まで小さくなったその時、機械の作動音と同じ囁くような音量で、いつものように低くつぶやいた。
「それでは、ごゆっくりお楽しみください」
そして。
「はざま、こちらへ来い」
いつものように映像を上映している部屋から薄暗いロビーへと出て、劇場に続く両開きの重い扉を引いて閉めたその時。はざまにぴったりと寄り添うようにくっついて歩く猫のレンズがそう念話で声をかけ、『関係者控室』とプレートのかかった扉の方へと一歩進む。
「言われなくても、控室に行くわよ。扉を開けて欲しいの?」
「そうではない」
念話で答えながらレンズははざまが開けた扉の隙間からするりと中に入り、背中越しに振り向いてはざまの方を見た。
「まあ無論、扉を開けてもらう必要はあるんじゃがの。……そういう意味ではない。こちらじゃ」
何か違和感があるな……と思ってよく見ると、控室に、いつもであれば上演の終了を待つ間お茶を煎れてくれる上野の姿がない。猫足の丸テーブルと椅子のセットが部屋の中央にぽつんと置かれている横を通り抜け、レンズはそのまま、小さな台所がある方へ進む。台所の横を抜け、ロビーとちょうど反対側に当たる方の面へ時計回りに回り込むつもりだと言うことは、何となく察しがついた。
「劇場の方へ行くの?」
小声で一応聞いてみると、頷く代わりに猫はぱたりと一回尻尾を振る。
「左様。今回は時間が短いのでな、劇場にてしっかり状況を見届けた方が良かろうという判断じゃ」
そういえば今上映しているのは、先ほど見た驚くほど短い『短い記憶を探す』フィルムだった。鑑賞する相手が小さな女の子だから、時間が短いのかもしれない……と一瞬はざまは思ったが、慌ててその仮説を振り払う。相手は推定年齢六、七歳くらいで〈学院〉への入学を許された逸材だ。〈学院〉にしろ上野にしろ、そんな相手を子ども扱いするとは到底考えられない。
レンズに続き、足音を忍ばせ、はざまは暗幕の下がる通路までやってきた。
関係者以外通ることのないこの通路と先ほど客人を案内した劇場は、この暗幕一枚で仕切られている。先ほどカウントダウンが入ったばかりなので、まだ話も序盤だろう。先ほどの少女の記憶を初めから終わりまで覗き見してしまうことになる罪悪感はあったけれど、あのフィルム長ではいつ終了するかわからない。意を決して、はざまは暗幕の隙間から劇場の方へ滑り込んだ。
暗がりの中、スクリーンの明かりを頼りに目をこらすと、先ほどの少女が前屈みになり、食い入るような勢いで小さな画面に映る映像を見つめている。
大政奉還から四十余年。明治の終わり頃に、その少女は貧しい農家の第七子として生まれた。
生まれに特徴のない子であれば、おそらく七番目の『シチ』とか末っ子の『マツ』とかそういう名前になったはずだが、その家の子では初めての冬——それも雪がしんしんと降る日に生まれたため、彼女は他の兄姉から『ユキ』と呼ばれるようになった。実際、両親がどんな名前で役場に届けを出したのか。そもそも役場に彼女の出生届けを出したのかどうか。……そんなことさえ定かでない。
そんな第七子、ユキが生まれてから、この家では不思議なことがたびたび起こるようになった。
一つ一つは、些細なこと。例えば、湿気ていたはずの薪が何故かきちんと乾いていて家の中が煙でいぶされずに済んだとか、ただ転がされていた赤ん坊にいつの間にか布団が掛けられていたとか。満足に食事が取れていないはずの母親から、有り余るほどの母乳がいつも出るらしいことも不思議と言えば不思議な話だろう。
元々ユキたちの両親は自分たちが生きるだけで精一杯で、子どもに必要以上の関心を向ける余裕はなかった。当然、ユキの力などには気づくはずもない。兄姉たちもユキが赤ん坊の頃は特に何も感じなかったようだが、彼女が母親の乳を離れ、わずかな食料を取り合うライバルの一人になると、途端に疎ましく感じはじめるようになった。
何しろ、同じ皿や鍋から早い者勝ちで何か取るようなとき、末子であるユキが何故か一番大きいものを取ったり、一番多くを器によそえたりするのだ。兄、姉と言ったところでほんの数年赤ん坊より先に生まれただけの、大人には到底届かない年齢の子ども。自分たちが妹のおかげでひもじい思いをするのは面白くない。……結果、ユキは他の兄姉から距離を置かれ、一人で過ごすことが多い子になっていった。
しかし幸い、兄姉に避けられていると感じるには、ユキはまだ年若すぎた。故に、特に兄姉に負の感情を持つことなく彼女は大きくなる。
ユキたち家族が住んでいた界隈は、あまり治安の良い場所ではなかった。親が直接奉公に出したり売り払う以外にも、労働の手伝いをさせたり遊郭などに売り払ったりして金を得るため、無関係の大人が子どもをさらうような事件がたまに起こるような土地柄だ。当然ユキの兄姉たちやその友人たちもそれなりに危ない目に遭っていたので、普通は自分の弟妹が同じ目に遭わないよう、それなりに気を遣うことが常識だとされている。
だが、消極的にではあるが、ユキの兄姉たちはその常識の遂行を怠った。
気味が悪い力を持つ妹を自ら背負ってやる子はおらず、ユキは結果的に、一人でその辺に転がされていることが多かった。何かにつかまって立てるようになっても、よちよちとおぼつかない足取りで歩けるようになっても、それは変わらない。変わらないどころか、ユキと同じ速度で大きくなっていっていた兄姉たちの行動範囲はどんどん広がる。住んでいるボロ屋の屋根が見えるような近場にいるのはユキ一人で、他の兄姉は山だの沢だのに出かけているような状態だ。
不思議な力は彼女にとって隣にあることがあまりに普通で自然だったため、ユキ本人が何か感じるには至らなかった。感じるに至らないうえに、一人で自由に過ごす時間を重ねることによって、どんどんその力は邪魔されずに鍛えられ、強大になっていく。
そして。
「おまえさん、いつも一人でいるんだね。兄弟や、お友達は?」
ある日、いつものように一人で花を摘んでいるユキに、声をかけてくる者があった。
「とうちゃんと、かあちゃんと、にいちゃんと、ねえちゃんは、おしごと」
父や母、兄姉がユキの元を離れる時に使う言い訳を、ユキはそのまま尋ねてきた大人に伝える。
ユキの前で薄く笑みをたたえてこちらを見ているのは、母親より少し年配の女性だった。ユキの年齢から見れば立派なオバサンだったが、一般的な観点では中年に届くか届かないかくらいの頃合いだろう。
「そうかい。ところで……おまえさんの持っている花ね。何でそんなに鮮やかな青色なんだい? その辺に咲いている同じ花は、全部白い花じゃないか」
「うん。あのね。青いのがほしかったの。おかずなの」
ユキはその時、一人でおままごとをしていた。姉たちが昔遊んで、ボロボロになって放り出した人形が相手だ。ボロぞうきんのようなその人形の前に、平たい石の上に載せた青い花びらが盛り付けられている。
その青い花びらを見て、話しかけてきた女の表情に、微かな驚きの色が乗った。
「そうかい。でも、おかずだったら、赤い色の花びらの方が良くないかい? 美味しそうじゃないか」
「そうだねえ。それもいいね」
女の言葉にユキは笑顔で頷き、その辺で咲いていた白い花の茎に触れる。その次の瞬間、ユキが手折った花の花弁が、すうっと白色から鮮やかな赤色へとその色を変えていった。
「うん。これでよし」
その赤い花びらを満足そうな顔でちぎるユキ。そんな彼女を女はしばらく無言で見守っていたが、地面に付いていた膝を払って立ち上がり、今度は周囲をきょろきょろと見回す。
「みんな、お仕事からどのくらいで帰ってくるの?」
「うーん。わかんない」
両親はともかく、兄姉はいつも日が暮れる少し前の、両親が戻る直前に帰ってくる。そうしないと、ユキをその辺に置いて遊びに行ったことがバレるから。みんなで仲良く遊んでいました——という顔をして家で父母を待ち、年長の姉が夕食の支度を手伝う。ユキの方でも、兄姉に連れられて遊んでいたような顔をする。それが日常で普通で、家の中の平和を守るためのコツなのだ。
そのことをどう説明しようか考えていたそのとき、山の方から兄姉とその友人たちがじゃれ合いながらこちらの方へ歩いてくるのが、ユキの目に映った。
「あ。帰ってきたよ。……にいちゃーん! あのねー、このひとがねー」
「ああ、いいよいいよ、兄ちゃんは呼ばなくて。今日は帰るから」
家族がいつ帰るのか気にかけていたはずなのに、女は兄姉たちと顔を合わせることなく、そそくさとその場を去って行く。変だなあ……とは思ったけれど、別にそれだけ。
あの人はきっと、旅の途中か何かでちょっとここに寄っただけの人だから、もう二度と顔を合わせることはない。だから、もういい。あの人のことをあれこれ考えても、二度と会わない人だから。
——そう、思っていたのに。
「ユキちゃん、今日は何して遊んでるんだい?」
その数日後。小川の近くできれいな石を探していたユキが近づいて来た影に顔を上げると、先日の女が愛想良くニコニコしながらこちらを見下ろしているところだった。
「石をさがしてる。しろくて、まるいの」
「そうかい。……花みたいに、黒いのを白くはできないの?」
古くからの友人のように、女は愛想良くユキに話しかけてくる。大人なのに、子どものユキに。
「石はかたいから、できない」
「ふぅん。じゃあ、柔らかければ変えられるんだ。花びらとか、葉っぱとか?」
女は、ユキの不思議な力に興味があるようだった。今まで、この力について他者と話し合ったことがないので、自身の力について『珍しいもの』という認識がユキにはない。ゆえに、何故大人がそんなことを聞いてくるのか、その理由がさっぱりわからなかった。
「おばさんは、石の色、かえられる?」
もしかして、手伝ってくれようとしているのかもしれない。……と思い至って聞いてみても、女は首を横に振るだけだ。
「できないねえ。大人にとっても、石は固いからねえ」
「そっか」
結局、何故そんなにユキの力について女が知りたいのかはわからなかった。
それでもその女は時折、忘れた頃にふらりとやってきて、毒にも薬にもならない話をしてまた去って行く。
そんな季節をいくつか過ごし、その年、ユキは数えで七歳になった。
その、彼女が生まれた日と同じようにしんしんと雪が降り、そして止んだ後のある夜。
それは、年始を家で過ごすため長兄と次兄が奉公先から一時帰宅し、久しぶりに一家九人が揃った夜だった。
朝。あてがわれた屋根裏の小さな部屋で目を覚ますのも、これで一〇回目……くらいだろうか。
小さく伸びをしてから下がり天井の下に置かれている小さなベッドから滑り降り、まずは枕元のすぐ近くにある小さな窓のブラインドを上げて。さあっと差し込む朝の光の下、窓辺に据え付けられた文机の上を確認する。
ここに、はざまが積み上げた魔法書の類以外のものがなければ服装は自由だが、今日は少々レトロに感じられる、紺色の襟に白い身頃のセーラー服と膝丈の紺色プリーツスカート、白いハイソックスが用意されていた。服が用意されている場合はそれを着用するよう言われているので、言われているとおりにそれらを身につけ、床にあった黒いローファーを履く。余裕のある上衣のカッティングとスカートの長さから、何となく昭和のおしまいくらいかな……という時代の雰囲気を感じた。
「おはようございます、市田さん。セーラー服ですね、良くお似合いです」
「おはようございます。……ありがとうございます」
身支度を調え階下の関係者控室に降りると、いつもの通り、はざまの研修の面倒を見てくれる「重なる影に当たる光」上野彦馬が、奥の台所と思しきスペースから銀の丸盆を持って現れた。上野の方は少し肩幅の広い、明るめモスグリーンのスーツを着ている。
「なんか……珍しい色ですね。ネクタイも」
しげしげとその格好を眺めるはざまの視線に照れ笑いを返してから、上野は華奢なカップアンドソーサーをテーブルに並べた。ここは関係者控室で、客人を通す場所ではない。今まで上映前後に茶の用意をしたこともないし、そもそもまだ来客までには時間があるはずなので、これは純粋に、上野自身とはざまのための茶だ。
「昭和のおしまいくらいは、こういう明るい色のスーツが流行ったようです。景気も良く、活気のある時代だったのでしょう」
「はざまは、高校生の服で良かったな。もう少し年上の時代服だったら、ぴったり身体に張り付く、下着の見えそうなミニスカートになったはずじゃぞ」
いつの間に現れたのか、上野が茶器を用意するそのテーブルの上に薄い茶色の猫が飛び乗り、念話で二人に話しかけてきた。猫の前に、流れるような動きで上野がミルク入りの深皿を差し出す。
「おはようございます、レンズ。一緒に朝のお茶を楽しみましょう」
「うむ。ワシはミルクにさせてもらうがの」
テーブルの上に飛び乗った猫を追い払いたい気持ちをぐっと抑えて、はざまは猫から遠い方の椅子を引いた。ごく優秀な給仕がそうするように、腰掛けたはざまの前にある茶器に熱い茶が注がれ、砂糖壺がすっと差し出される。——おそらくははざまがここに来る前からずっとずっと続いていたであろうと思われる、朝のティータイム。新参者ははざまの方なのだ。猫がテーブルの上に乗ることに関して口を挟む権利はない。我慢我慢。
伝統のお茶会を粛々と済ませ、時間になるとはざまは〈幻惑館〉の入り口に立ち、客人を待つ。
ここ、〈幻惑館〉にやってくる客は皆、失った記憶を求める魔法使いたちだ。
何かの失敗があって命を落とした魔法使いの記憶は、彼に関わった者たち全員の頭から消し去られる。生まれ変われたとしても当然、当の本人を含む誰の頭にも残らない。また記憶は、命を落とすまでしなくても、何か強力な魔法が働いたり〈断章〉に憑依されたりして不鮮明になっている期間がある場合がある。そういう記憶の中には貴重なものも時に含まれるため、その情報を求めてくる魔法使いも少なくない。
そういった記憶を求める魔法使いに対し、彼らの過去の記録をフィルム上映という形で提供しているのがこの〈幻惑館〉で、はざまはここに、所属する〈学院〉から研修と称して送り込まれた学生——というわけなのである。
今日やってきたのは上野よりも少し若い、はざまに父親がいたらこのくらいの年代だろうか、と思える四〇代後半か五〇代前半くらいの男性だった。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました。どうぞ、こちらの……」
「そういうのいいから、早くフィルムを見せてくれ。俺の金を取り戻すんだ!」
はざまの挨拶を最後まで待たず、やってきた男はせかせかと足を動かして彼女の横をすり抜け、上映室に飛び込んで赤っぽいビロウドの椅子にどっかと腰を下ろす。様子を見守るはざまの方に、面白くなさそうな視線を向ける。
「急いでるんだ。さっさとはじめてくれ。……あ、用事があるのは最後の方だから、できればそこまで早送りしてくれ!」
「そういったご要望への対応はございません」
わがままな申し出に無表情で答えて、はざまは心の中で小さく顔をしかめながら、決められた角度で頭を下げ、決められた台詞を告げる。
「それでは、ごゆっくりお楽しみください」
そして、その後。
そのまま数時間、客人が見るフィルムが終わるまでを関係者控室にて上野たちとお茶を飲んだりしながら過ごして待ち、鑑賞が終わった客を外に送り出して、はざまの仕事は終了だ。
「市田さん、お疲れさまでした。……いかがですか? 何か、参考になる答えは得られましたか?」
〈幻惑館〉を出て霧の中に消えていく客人の背中を見送るはざまに、建物の中から出てきた上野が優しく声をかけてくる。
「いえ。……何だかすごく怒っておられて、『見ただけじゃ役に立たない!』とのことでした」
はざまに与えられた仕事は『やってきた客を劇場に案内し、終了後速やかに送り出す』ことだけなのだが、働き始めてすぐに浮かんできた疑問を解決するため、やってきた客人に対して、個人的に少し質問をさせてもらっていた。上野もそのことについては承知しているので、彼が聞いているのはそのことだろう。
「そうですか。まあ、その気持ちもわからなくはないですけれどね。何しろあの方は、バブルの崩壊直前に一度この世界を離れたようで……不動産や株を売り抜けたか、大変気にされているご様子でしたから」
はざまにとっては呪文よりも難解な話をしながら苦笑する上野を無表情に見やって、はざまは上野と入れ替わりに劇場の中に戻り、裏の階段からあてがわれた屋根裏部屋へ戻る。——これにて、本日の……というか、定められた一連の業務は終了だ。後は寝るまで部屋の文机で〈学院〉の教科書を読み、授業に戻れる日を待ちながらコツコツと自習を進めて時間を過ごす。ほんのわずかでも〈学院〉の教科書を読み、自習ができる時間があることだけが心の救いだった。
研修というからには、時期が来れば〈学院〉に戻れるのだろう。……戻れるはずだ。
それを信じて、今はこの日々を乗り切るしかない。
明日には〈学院〉から、『研修終了につき〈学院〉に戻られたし』という書簡が届くかもしれない。それを信じて、はざまは夜更けにベッドに潜り混む。
……でも、起きるとまた、目の前には古びた下がり天井。また新しい、一日の始まり。
*
突然放り込まれた、何を学ぶためなのかさっぱりわからないこの〈幻惑館〉の研修にもいつの間にか慣れている自分に空恐ろしさを感じながら、粛々と業務をこなすこと、はや数週間。
先日の、バブル崩壊紳士を迎えた日から二日後。朝起きてはざまが文机の上を確認すると、その上にはエンジ色の矢絣模様の小袖と紫色の行燈袴が用意されていた。着物の着付けに自信はないが、一緒に置かれていた着用法のメモを見ながら何とか頑張ってそれらを身につけ、床に置いてあった編み上げブーツを履く。
今日の客人は、あのバブル崩壊紳士より昔の時代の人らしい。
「おはようございます、市田さん。矢絣と袴、良くお似合いです」
「おはようございます。……ありがとうございます」
身支度を調え階下の関係者控室に降りると、いつもの通り上野が、奥の台所と思しきスペースから銀の丸盆を持って現れた。上野の方も羽織袴に帽子という、少しちぐはぐな感じの服装だ。
「上野もはざまも、今日はなかなか様になっておるな。まあ、ワシはいつもの通りじゃが」
いつの間にやってきたのか、猫のレンズが珍しく足元からはざまと上野を見上げてフムと息を吐く。念話はいつも通りの温度感だが、図々しくテーブルの上に飛び乗ってこない様子や何故かそわそわと落ち着かない態度が、いつもと違う何かがあることを雄弁に物語っていた。
「明治の終わりか、大正の初めくらいですかね。この年代の服が、一番落ち着きます」
そんなレンズの態度に気づいているのかいないのか、柔らかな物腰で朝のお茶を用意しながら上野が和やかに話を継ぐ。いつものようにはざまの前に砂糖壺を置き、自分の茶器の近くにミルクの入った深皿を並べて。
「それで……何がありましたか、レンズ? 何か話しづらいことがあるように見受けられますが」
穏やかな表情のまま上野に視線を合わせられ、レンズがわかりやすくびくりとなった。
「うむ。その、な……今日の客人のフィルムなんじゃが……ねずみか何かが、かじったようでな」
「ねずみが、ですか?」
ここまで来て、初めて上野の表情が曇る。
「害獣に関してはレンズが責任もってフィルムを守る約束ですよね。困りますよ、きちんとやってもらわないと」
「うむ。わかっておる。ワシも、この時期にねずみが出るとは思わなんだ。面目ない」
肩を落としてしょんぼりと俯くレンズを困ったように見やってから、いつもであれば優雅に無音で取り扱う銀盆を、カシャリと珍しくわずかに音を立てて置き、上野は劇場の方へと消えた。
はざまが客人を案内する劇場の後部。黒いカーテンに仕切られた向こうが、上野が幻灯機を操作する上映室だ。客人が出入りするのと反対側。今はざまたちがいる関係者控室の方から直通でそちらに抜けられる通路から上映室に入り、上野は手に、正方形に切った厚い板のような形状の箱を持ってすぐに戻ってくる。先ほど出て行った際にうっすらその顔に浮かべていた焦燥の表情は、この短時間の間にすっかり消えてなくなっていた。
「この、箱をかじった跡のことでしょうか? ……良かった。確かに箱はねずみにかじられた跡がありますが、中は無事ですね」
「そうか。それなら、良かった」
猫のレンズの方もホッとしたようで、早速ぴょんとテーブルの上に飛び乗ってくる。上野が置いた深皿の前で正座し、レンズは前足の方にくるりと尻尾を回してはざまの方を見た。
「騒がせたな、上野、はざま」
「いえ。大事に至らなくて良かったです。……ね、市田さん」
「……はい」
上野とレンズにまっすぐ見つめられ、はざまは頷いてから上野がテーブルに置いたフィルムの箱に視線を移す。二人の視線から逃げるために何となく見た箱は、上野が言うとおり端の一角が、何かにかじられたようにボロボロになっていた。そういえば……フィルムの箱を見るのはここに来てから初めてだ、とふと気づく。
「この箱に、お客様に上映するフィルムが入っているのですか?」
「そうですよ。市田さんが見るのは初めてですね。……どうぞ。開けても構いませんよ」
上野に促されてそっとふたを開いてみると、中には箱にぴったりとはまる大きさの丸い透明なリールに巻かれた、黒いフィルムが収められていた。巻かれたフィルムは思ったより短いようで、中央にほんの少しだけ。透明なリール部分にはかなりの面積の余りがある。
違和感を覚えた。
「ああ。このフィルムはずいぶんと短いようですね。普通は、この外側のリールは少し余る程度で、フィルムの長さはもっと長いものですが」
ほんの少しだけはざまの顔に浮かんだ表情を見逃さず、上野が丁寧に説明を加えてくる。
「今日のお客様は、とても短い記憶をお探しなのかもしれません。上映中、あまりのんびりしていられませんよ」
「はい。気をつけます」
口では機械的に上野に答えながら、はざまは心の中に生まれた違和感について考えていた。
確か——そう、この間のバブル崩壊紳士はどう見ても、最後の最後数分間の記憶だけを探していた。彼が求めていた記憶の記録は、ちょうどこのくらいのフィルム長があれば全て判明する程度の長さだろう。それなのに彼のために上映したフィルムは、たっぷり半日分程度の長さがあったように思う。上野が今言ったように『短い記憶を探す』用の短いフィルムがあるのなら、先日の紳士には何故、その短いフィルムがあてがわれなかったのだろうか?
「ねえ、レンズ。本当にこのフィルムは、初めからこの長さだったの? ねずみが食いちぎったとかでなくて?」
怪しいと感じて聞いてみても、無罪放免が確定した猫はすまし顔。
「何を言っておる。上野が今言ったであろう? まれに、こんな長さのフィルムもあるのじゃ。濡れ衣じゃぞ、はざま」
「まあまあ、市田さん。こういうものも、たまにはあるんですよ。……それより早くお茶を飲んでしまわないと。そろそろ、お客様がいらっしゃる時間ではないですか?」
「……はい」
上野にそう言われてしまっては、これ以上追求できない。仕方なしにはざまは矛先を収め、目の前の冷めかけた紅茶を口に運んだ。
*
その後、程なくして。
レンズの告白がらみでバタバタした結果いつもより余裕はなかったが、それでも客人が霧の中から現れる前に、はざまは〈幻惑館〉の前に立つことができた。
小さく深呼吸して、目の前の霧を見つめる。
程なくしてこの霧の向こうから、記憶を求める魔法使いがやってくるはずだ。短いフィルムに収められた、短い記憶を探す魔法使い。——どんな人物なのだろうか? あのほんのわずかな長さのフィルムを見て、彼は記憶の糸をたぐり寄せることができるのだろうか?
「あのぅ、すみません」
そんなことを考え、しばしぼうっとしてしまったらしい。
真正面から声をかけられてハッと顔を上げると、そこには……誰もいなかった。——否。慌ててその姿を探しキョロキョロした結果、はざまの視界からギリギリ外れた下の方に、小さな女の子が立っているのに気づく。
年齢は、六、七歳くらいだろうか。身につけているのは少々使用感のある『ザ・よそいき』という雰囲気の、柔らかそうな生地の紺色のワンピースにベロア素材の黒いハイカットシューズ。良いものだがおそらくは誰かのお下がりだろう。彼女のために仕立てたものではなさそうで、服も靴も、少し彼女の身体に対して大きめのサイズに見えた。背中の半ばあたりまでありそうな長い髪はきれいに編み込まれ、可愛らしいピンや髪ゴムで飾られている。自分が明治か大正の時代服なので客人もその時代の人物だと予想していたのだけれど、目の前の少女はどう頑張っても平成より前の生まれではない。
「失礼いたしました。ようこそ、〈幻惑館〉へ。お待ちしておりました」
「ありがとうございます。よろしくお願いしますっ」
規定通りの台詞を述べて規定通りの角度で頭を下げるはざまよりも深く、目の前の少女はぴょこんと元気よくお辞儀をした。跳ねるように起き上がり、大きな丸い目ではざまをまっすぐに見る。
「……良かった。ちゃーんと着いたんですね、〈幻惑館〉。あたしが若すぎるから、見つからないかもって、〈学院〉では言われたから」
「探す者が真に必要としていれば、そのとき、〈幻惑館〉は霧の中から現れます」
ニコニコしながらフレンドリーに話しかけてくる少女に規定通りの台詞を返しながら、はざまは無表情のまま、規定通りの動作で彼女を劇場に案内する。はざまの後ろから、飛び跳ねるように軽やかな足取りで付いてくる彼女は、今までやってきたどの客人よりも楽しそうで、明るくはしゃいでいるように見えた。
「夢をね、見るんですよー。昔から、何度もおんなじ夢を」
劇場の中央に置かれた赤っぽいビロウドの椅子にぽんと飛び乗るように座りながら、少女は歌うようにそうつぶやく。薄暗がりの中でも、興奮からだろうか、彼女の丸い大きな目がきらきらと輝いているのがはざまにもわかった。
「夢、ですか」
「うん。……あ、ハイ。そう、です」
友人に対するような軽い感じではざまの言葉に答えてから、マズイ、という風に小さく肩をすくめて。
「満天の星を見ているあたしに、影が、三人くらいかな? 近づいてくるんです。全然怖くなくて、その人たちはいい人だってわかってる感じで」
起きてからも記憶の残る魔法使いの夢は、何かメッセージを孕んでいることが多い——はざまはそう、〈学院〉で教えられた記憶がある。目の前の少女のように年若くして力の出現した、つまりは力の強いと思われる魔法使いが何度も見る夢だとしたら、それは確実に、何かの意味を持っていることだろう。
「そうですか」
「ハイ。で、最近になってあたし、魔法使いの能力があるってことがわかって、〈学院〉に入ることになったんですけど、そこの先生に聞いてみたら、過去の記憶かもしれないって言われたんです」
「そうですか」
「で、知りたくなったんです。それっていつの、どんな記憶なのか。その頃、魔法の力はあったのか。そのときあたし、幸せだったのか……」
少女の説明に、はざまは無表情のまま、心の中でなるほどと頷いた。……つまりこの子は、〈学院〉の勧めでこの〈幻惑館〉を探し、夢と過去の記憶との関係を探そうと思い至ったのだ。夢と記憶にどんな関連があるのかはわからないが、〈学院〉が促した結果彼女がここに来たのだとしたら、それにはそれなりの理由があるに違いない。
「はざま」
「あ、猫ちゃんだ! かわいいね〜。おいでおいで〜」
いつの間に来ていたのか、はざまの足元に寄り添うように立つレンズが、鼻先に伸びてくる少女の手を完全無視して、念話で声をかけてくる。
「無駄話もいい加減にして、はやくフィルムを見せてやれ。上野が開始できずに困っておるぞ」
「ああ、そうね」
至極もっともなレンズの指摘で我に返り、はざまは背筋を正してから椅子に腰掛けている少女に声をかけた。
「お待たせしました。それでは、そろそろ開演いたします。よろしいですか?」
「あっ、ハイ。……お願いしますっ」
少女の方でも、自分が喋りすぎていたと感じたのだろう。再度小さく肩をすくめてから、はざまに向かって座ったまま、先ほどと同じようにぴょこんと頭を下げる。それを見届けて、はざまはいつもの通り少女の死角に当たる方に一歩下がり、暗がりに姿を隠した。
照明を絞って落としていくように、周囲がすうっと暗くなる。
ビロウドの椅子の、つまり少女が座った目前にある小さなスクリーンで、フィルムを上演する前のカウントダウンが始まった。9、8、7……と瞬くように数字が小さくなっていく。カタカタカタカタ……と上野が操作する幻灯機の動く音が低く聞こえるのを聞きながら、はざまは数字が4まで小さくなったその時、機械の作動音と同じ囁くような音量で、いつものように低くつぶやいた。
「それでは、ごゆっくりお楽しみください」
そして。
「はざま、こちらへ来い」
いつものように映像を上映している部屋から薄暗いロビーへと出て、劇場に続く両開きの重い扉を引いて閉めたその時。はざまにぴったりと寄り添うようにくっついて歩く猫のレンズがそう念話で声をかけ、『関係者控室』とプレートのかかった扉の方へと一歩進む。
「言われなくても、控室に行くわよ。扉を開けて欲しいの?」
「そうではない」
念話で答えながらレンズははざまが開けた扉の隙間からするりと中に入り、背中越しに振り向いてはざまの方を見た。
「まあ無論、扉を開けてもらう必要はあるんじゃがの。……そういう意味ではない。こちらじゃ」
何か違和感があるな……と思ってよく見ると、控室に、いつもであれば上演の終了を待つ間お茶を煎れてくれる上野の姿がない。猫足の丸テーブルと椅子のセットが部屋の中央にぽつんと置かれている横を通り抜け、レンズはそのまま、小さな台所がある方へ進む。台所の横を抜け、ロビーとちょうど反対側に当たる方の面へ時計回りに回り込むつもりだと言うことは、何となく察しがついた。
「劇場の方へ行くの?」
小声で一応聞いてみると、頷く代わりに猫はぱたりと一回尻尾を振る。
「左様。今回は時間が短いのでな、劇場にてしっかり状況を見届けた方が良かろうという判断じゃ」
そういえば今上映しているのは、先ほど見た驚くほど短い『短い記憶を探す』フィルムだった。鑑賞する相手が小さな女の子だから、時間が短いのかもしれない……と一瞬はざまは思ったが、慌ててその仮説を振り払う。相手は推定年齢六、七歳くらいで〈学院〉への入学を許された逸材だ。〈学院〉にしろ上野にしろ、そんな相手を子ども扱いするとは到底考えられない。
レンズに続き、足音を忍ばせ、はざまは暗幕の下がる通路までやってきた。
関係者以外通ることのないこの通路と先ほど客人を案内した劇場は、この暗幕一枚で仕切られている。先ほどカウントダウンが入ったばかりなので、まだ話も序盤だろう。先ほどの少女の記憶を初めから終わりまで覗き見してしまうことになる罪悪感はあったけれど、あのフィルム長ではいつ終了するかわからない。意を決して、はざまは暗幕の隙間から劇場の方へ滑り込んだ。
暗がりの中、スクリーンの明かりを頼りに目をこらすと、先ほどの少女が前屈みになり、食い入るような勢いで小さな画面に映る映像を見つめている。
*
大政奉還から四十余年。明治の終わり頃に、その少女は貧しい農家の第七子として生まれた。
生まれに特徴のない子であれば、おそらく七番目の『シチ』とか末っ子の『マツ』とかそういう名前になったはずだが、その家の子では初めての冬——それも雪がしんしんと降る日に生まれたため、彼女は他の兄姉から『ユキ』と呼ばれるようになった。実際、両親がどんな名前で役場に届けを出したのか。そもそも役場に彼女の出生届けを出したのかどうか。……そんなことさえ定かでない。
そんな第七子、ユキが生まれてから、この家では不思議なことがたびたび起こるようになった。
一つ一つは、些細なこと。例えば、湿気ていたはずの薪が何故かきちんと乾いていて家の中が煙でいぶされずに済んだとか、ただ転がされていた赤ん坊にいつの間にか布団が掛けられていたとか。満足に食事が取れていないはずの母親から、有り余るほどの母乳がいつも出るらしいことも不思議と言えば不思議な話だろう。
元々ユキたちの両親は自分たちが生きるだけで精一杯で、子どもに必要以上の関心を向ける余裕はなかった。当然、ユキの力などには気づくはずもない。兄姉たちもユキが赤ん坊の頃は特に何も感じなかったようだが、彼女が母親の乳を離れ、わずかな食料を取り合うライバルの一人になると、途端に疎ましく感じはじめるようになった。
何しろ、同じ皿や鍋から早い者勝ちで何か取るようなとき、末子であるユキが何故か一番大きいものを取ったり、一番多くを器によそえたりするのだ。兄、姉と言ったところでほんの数年赤ん坊より先に生まれただけの、大人には到底届かない年齢の子ども。自分たちが妹のおかげでひもじい思いをするのは面白くない。……結果、ユキは他の兄姉から距離を置かれ、一人で過ごすことが多い子になっていった。
しかし幸い、兄姉に避けられていると感じるには、ユキはまだ年若すぎた。故に、特に兄姉に負の感情を持つことなく彼女は大きくなる。
ユキたち家族が住んでいた界隈は、あまり治安の良い場所ではなかった。親が直接奉公に出したり売り払う以外にも、労働の手伝いをさせたり遊郭などに売り払ったりして金を得るため、無関係の大人が子どもをさらうような事件がたまに起こるような土地柄だ。当然ユキの兄姉たちやその友人たちもそれなりに危ない目に遭っていたので、普通は自分の弟妹が同じ目に遭わないよう、それなりに気を遣うことが常識だとされている。
だが、消極的にではあるが、ユキの兄姉たちはその常識の遂行を怠った。
気味が悪い力を持つ妹を自ら背負ってやる子はおらず、ユキは結果的に、一人でその辺に転がされていることが多かった。何かにつかまって立てるようになっても、よちよちとおぼつかない足取りで歩けるようになっても、それは変わらない。変わらないどころか、ユキと同じ速度で大きくなっていっていた兄姉たちの行動範囲はどんどん広がる。住んでいるボロ屋の屋根が見えるような近場にいるのはユキ一人で、他の兄姉は山だの沢だのに出かけているような状態だ。
不思議な力は彼女にとって隣にあることがあまりに普通で自然だったため、ユキ本人が何か感じるには至らなかった。感じるに至らないうえに、一人で自由に過ごす時間を重ねることによって、どんどんその力は邪魔されずに鍛えられ、強大になっていく。
そして。
「おまえさん、いつも一人でいるんだね。兄弟や、お友達は?」
ある日、いつものように一人で花を摘んでいるユキに、声をかけてくる者があった。
「とうちゃんと、かあちゃんと、にいちゃんと、ねえちゃんは、おしごと」
父や母、兄姉がユキの元を離れる時に使う言い訳を、ユキはそのまま尋ねてきた大人に伝える。
ユキの前で薄く笑みをたたえてこちらを見ているのは、母親より少し年配の女性だった。ユキの年齢から見れば立派なオバサンだったが、一般的な観点では中年に届くか届かないかくらいの頃合いだろう。
「そうかい。ところで……おまえさんの持っている花ね。何でそんなに鮮やかな青色なんだい? その辺に咲いている同じ花は、全部白い花じゃないか」
「うん。あのね。青いのがほしかったの。おかずなの」
ユキはその時、一人でおままごとをしていた。姉たちが昔遊んで、ボロボロになって放り出した人形が相手だ。ボロぞうきんのようなその人形の前に、平たい石の上に載せた青い花びらが盛り付けられている。
その青い花びらを見て、話しかけてきた女の表情に、微かな驚きの色が乗った。
「そうかい。でも、おかずだったら、赤い色の花びらの方が良くないかい? 美味しそうじゃないか」
「そうだねえ。それもいいね」
女の言葉にユキは笑顔で頷き、その辺で咲いていた白い花の茎に触れる。その次の瞬間、ユキが手折った花の花弁が、すうっと白色から鮮やかな赤色へとその色を変えていった。
「うん。これでよし」
その赤い花びらを満足そうな顔でちぎるユキ。そんな彼女を女はしばらく無言で見守っていたが、地面に付いていた膝を払って立ち上がり、今度は周囲をきょろきょろと見回す。
「みんな、お仕事からどのくらいで帰ってくるの?」
「うーん。わかんない」
両親はともかく、兄姉はいつも日が暮れる少し前の、両親が戻る直前に帰ってくる。そうしないと、ユキをその辺に置いて遊びに行ったことがバレるから。みんなで仲良く遊んでいました——という顔をして家で父母を待ち、年長の姉が夕食の支度を手伝う。ユキの方でも、兄姉に連れられて遊んでいたような顔をする。それが日常で普通で、家の中の平和を守るためのコツなのだ。
そのことをどう説明しようか考えていたそのとき、山の方から兄姉とその友人たちがじゃれ合いながらこちらの方へ歩いてくるのが、ユキの目に映った。
「あ。帰ってきたよ。……にいちゃーん! あのねー、このひとがねー」
「ああ、いいよいいよ、兄ちゃんは呼ばなくて。今日は帰るから」
家族がいつ帰るのか気にかけていたはずなのに、女は兄姉たちと顔を合わせることなく、そそくさとその場を去って行く。変だなあ……とは思ったけれど、別にそれだけ。
あの人はきっと、旅の途中か何かでちょっとここに寄っただけの人だから、もう二度と顔を合わせることはない。だから、もういい。あの人のことをあれこれ考えても、二度と会わない人だから。
——そう、思っていたのに。
「ユキちゃん、今日は何して遊んでるんだい?」
その数日後。小川の近くできれいな石を探していたユキが近づいて来た影に顔を上げると、先日の女が愛想良くニコニコしながらこちらを見下ろしているところだった。
「石をさがしてる。しろくて、まるいの」
「そうかい。……花みたいに、黒いのを白くはできないの?」
古くからの友人のように、女は愛想良くユキに話しかけてくる。大人なのに、子どものユキに。
「石はかたいから、できない」
「ふぅん。じゃあ、柔らかければ変えられるんだ。花びらとか、葉っぱとか?」
女は、ユキの不思議な力に興味があるようだった。今まで、この力について他者と話し合ったことがないので、自身の力について『珍しいもの』という認識がユキにはない。ゆえに、何故大人がそんなことを聞いてくるのか、その理由がさっぱりわからなかった。
「おばさんは、石の色、かえられる?」
もしかして、手伝ってくれようとしているのかもしれない。……と思い至って聞いてみても、女は首を横に振るだけだ。
「できないねえ。大人にとっても、石は固いからねえ」
「そっか」
結局、何故そんなにユキの力について女が知りたいのかはわからなかった。
それでもその女は時折、忘れた頃にふらりとやってきて、毒にも薬にもならない話をしてまた去って行く。
そんな季節をいくつか過ごし、その年、ユキは数えで七歳になった。
その、彼女が生まれた日と同じようにしんしんと雪が降り、そして止んだ後のある夜。
それは、年始を家で過ごすため長兄と次兄が奉公先から一時帰宅し、久しぶりに一家九人が揃った夜だった。
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