Little Story 04
『時間と記憶とはざま -魔道書大戦RPG マギカロギアより-』
濃い霧がふとその力を緩めると、古びたレンガ造りの建物が突然、日比野タカシの目前に浮かび上がった。
「ここは……?」
思わずもれたつぶやきに呼応するように、ゆっくりと両開きの扉が内側から開かれる。
「お待ちしておりました。日比野タカシ様。どうぞこちらへ」
ごく落ち着いたテンポの、しかしそれにそぐわない若い女の声。
まだ状況が呑み込めないながらも、この世界に特有の事象だ……と腹をくくって、日比野は暗い屋内へと足を踏み入れた。長い収容生活の後、日比野はつい先ほどオリビオニオス監獄から出所を許されたばかり。そしてそのまま霧の中をさまようように歩き、ここにたどり着いた次第だ。今までの監獄生活に比べれば、どこでも天国と等しい場所だろう。そこが魔法の力で満たされていれば尚更。——幸い、この場所に魔法の力が存在しないとは思えなかった。その力が正しく〈大法典〉由来であることを、今は祈るしかない。
暗い室内にだんだん目が慣れてくると、目の前に少女が立っていることがわかる。
年齢は、昔、若くして失った娘と同じくらい……ということは高校生くらいか? こげ茶色の瞳が印象的な、賢そうな子だった。墨を流したような漆黒のストレートヘアは肩にかかるくらいの長さ。町でよく見かけるタイプの白いブラウスにリボンタイ、ひざ上丈のプリーツスカート、黒っぽいハイソックスに飾り気のないローファーの革靴という、おそらくは学校の制服のようなものに身を包んで、彼女はまっすぐ正面から日比野の目を見る。
「すぐに開演いたします。こちらに、お座りください」
彼女の言葉と共にその隣の空間がほんのりと明るくなり、そこに赤っぽいビロウドの椅子が一脚現れた。促されるままそのクラシカルな椅子に日比野が腰を掛けると、照明を絞って落としていくように、また周囲がすうっと暗くなる。
座った目前には小さなスクリーンがかかっており、フィルムを上演する前のカウントダウンが始まるところだった。9、8、7……と瞬くように数字が小さくなっていく。それを映している装置のものだろう。カタカタカタカタ……と何か機械のようなものが動く音が低く聞こえる。数字が4まで小さくなったその時、機械の作動音と同じ囁くような音量で、少女が低くつぶやいた。
「それでは、ごゆっくりお楽しみください」
そして。
——数分後。
回り始めたフィルムに、吸い込まれるように集中しはじめた日比野タカシを確認してから、先ほど日比野に着席を促した少女は、映像を上映している部屋から薄暗いロビーへと出て、劇場に続く両開きの重そうな扉を引いて閉めた。扉からロビーの奥の方へくるりと彼女が振り向いた次の瞬間、少し遅れて肩より少し長い黒髪がふわりと広がり、シャンプーと思しき甘い香りが微かに周囲に広がる。
そのまま奥の方へ薄暗いロビーを数歩歩き、『関係者控室』と小さなプレートのかかった扉の前で少女は立ち止まった。奥へと声をかける。
「日比野タカシ様、上映開始しました」
「わかりました。市田さんもご苦労様。入っていらっしゃい。お茶にしましょう」
答えた声に従って、市田さんと呼ばれた少女はゆっくりと目の前の扉に手をかけ、音をたてないように開く。薄い扉の向こうから流れ込んでくる、柔らかい布地のような光。
扉のこちら側とは対照的に、目の前の部屋は春の陽だまりのように明るく、暖かかった。
小さな部屋の中央に猫足の丸いテーブルがあり、それを囲むように同じシリーズと思われる椅子が四脚ほどセットされている。そこまで高級な調度品には見えなかったけれど、こちらもそれなりにレトロで上品な品だった。少女のちょうど目の前にあたる部屋の奥の方から、その家具たちと同じくらいレトロな男性が、ティーセットの乗った銀色の盆を手にもってこちらに近づいてくる。
彼に仕草で促され、少女は無表情のまま大人しく、自分に一番近い場所にあった椅子を引き、腰かけた。
「どうでしたか、初仕事は?」
「どうって……別に、どうも。まだ案内しただけですし、実際に私がフィルムを回すわけではないし」
日比野がここにやってきた時からニコリともしないその表情は、どうやら仕事用に無表情を保っているわけではなく、持って生まれた性質によるものらしい。無表情のままそっけなく言葉を返され、彼女に声をかけた老年の男性は苦笑いと共に、彼女の方へ華奢なカップに注がれた紅茶を差し出した。
男性の名は、「重なる陰に当たる光」上野彦馬。そして少女の名は、「時間を彷徨う舟」市田はざま。もちろん二人とも、〈大法典〉所属の魔法使いだ。
「別にどうも、なんて思えるのは、能力があるという証拠ですよ。とにかく、退屈できるレベルのたやすい仕事でよかったです」
自分の当てこすりでしかない言葉を正面から好意的に受け止められ、市田はざまはちょっと気まずくなってティーカップに視線を落とす。とろりと滑らかな琥珀色の液体の表面に、うつむいた自分の顔がゆがんで映し出されていた。表面上は穏やかな表情を保っているが、目の前の上野はおそらく、自分のことを生意気な小娘だと思っているに違いない。——そんなことを考えるとますますばつが悪くなり、はざまはなかなか顔を上げることができなかった。
「あ、ちなみにね。今はフィルムを回すこと自体も、そんなにホネじゃあありません。技術も魔法も日々進化していますから、フィルムをかけている最中はこんな風に離れて、お茶を飲むことも可能ですしね。市田さんが私と変わっても、別にどうも、ってなると思いますよ」
「あの……えっと、その……スミマセン」
「謝ることは何もありません。さ、お茶。冷めないうちに。ミルクとお砂糖は?」
うつむき続ける視界の端から上野の手が差し出され、目の前のティーカップが自分の方へ少しだけ押し出される。意を決し、そのタイミングではざまはぐっと顔を上げた。
「ありがとうございます。では、お砂糖をお願いします」
「はい」
続いて差し出されたシュガーポットを受け取り、ぎこちなく笑顔を作ってから、はざまは上野の方へ顔ごと視線を向ける。
いくら不本意でも納得いかなくても、これからしばらくの間、自分はこの〈幻惑館〉で働かなくてはならないのだ。……それならばほんの少しでも、おそらくは受け入れ先の責任者である上野に好印象を持ってもらった方がはざまには好都合。ここでの評価が高ければおそらく、卒業後には優秀な〈分科会〉に所属させてもらえるだろう、と思うから。
所属する〈学院〉から突如、この〈幻惑館〉へ研修に行くよう指示されたのは、まさにはざまにとって寝耳に水の出来事だった。
無論、教授たちの気まぐれとも思える言動によって、何かの研究をすることになったり、ミッションを達成する責務を負わされる生徒がいることは周知の事実。それでもはざまが知る限り、在学中にどこかの機関で働くよう言われた生徒はいない。しかも、その研修先もはざまに言わせればメチャクチャだ。
「私は、書警です。阿房宮内にある〈幻惑館〉への研修が、魔法厄災を食い止めるため、何かの役に立つとは思えませんが」
ご法度だと知りつつも、自分に研修に行くよう指示した教授にはざまは噛みついた。
実際問題、魔法厄災を食い止めるという使命を負う書警が〈幻惑館〉のある阿房宮に出入りすることは少ない。どちらかといえばアウトローな考えを持つ魔法使いが多く出入りする阿房宮と書警は水と油だ。真面目で、書警としての使命に燃えるはざまにとっては、頼まれても足を運びたいとは思えない場所であることは言うまでもない。
加えて、はざまは〈学院〉から遠ざけられることについても不満だった。
現在第二階梯ではあるものの、第三階梯に上がるのも時間の問題。〈学院〉での成績もトップクラスで、はざまは将来を嘱望されている魔法使い……のはずだ。それなのに、後期試験を目前に控えたこの大切なタイミングで〈学院〉の外に放り出されてしまったら、優秀な〈分科会〉に書警として迎えられることなど夢のまた夢になってしまう。下手をしたら第三階梯への昇格も取り消しだ。それはすなわち、〈学院〉からの卒業資格を失うことを意味する。……ということはつまり、〈学院〉中退? そんな不名誉な事態だけは何としても避けたい。
そのようなことを、自慢の明晰な頭脳をフル稼働して、はざまは教授たちに切々と訴えた……が、結局決定は覆らず。
「これは、〈学院〉としての決定事項です。市田はざま、貴君に〈幻惑館〉出向を命じます。期間は来週から、当面の間。研修の終了時期については追って連絡します」
厳しいながらも、講義ではいつも目の覚めるような発見を示唆してくれる初老の女性担当教授にぴしゃりとそう告げられ、はざまは黙ってうつむく他なかった。そんなはざまを見て、ようやく担当教授の顔に見慣れた柔らかい笑みが浮かぶ。
「大丈夫。この研修での功績が認められれば、必ず成績に反映されます。実践での評価が高ければ必ずいいことがありますよ。市田さん、あなたは優秀な魔法使いです。必ず成果を得て戻ってくると、私は信じています。頑張ってください」
かくしてそのまま有無を言わさずはざまは〈学院〉から〈幻惑館〉へと送り出され、本日から研修業務開始。やってくる客相手に簡単な案内をするという担当業務を与えられ、今に至るというわけだ。
「何をしておる。そんなにぐるぐるかき混ぜても、そこに幻影は生まれんぞ?」
近過去からのそんな不満と謎についてぼんやり考えながら、砂糖を入れた紅茶をぐるぐるとスプーンでかき混ぜていたはざまの耳に、呆れたような声が聞こえてくる。
何気なくそちらに視線をやると、華奢なカップアンドソーサーの真横にきっちり正座して紅茶を眺めている茶色っぽい猫。びくっとなり、はざまは反射的に席を蹴って立ち上がった。
「なっ、猫? ……シッシッ! テーブルに乗っちゃダメ!」
状況に全く動じず尻尾をぱたんと一つ振っただけの猫をテーブルから降ろそうとはざまが目の前で手を振っても、猫はつまらなそうに目の前の動く手を見つめているだけだ。
「ああ、いいんですよ。その猫は。市田さんは、猫はお嫌いですか?」
「あ、いえ。別に嫌いでは、ないですけれど」
お茶菓子を取りに行き戻ってきた上野に優しくたしなめられ、仕方なしに元通り腰かけるはざまを見て、勝ち誇ったように猫が再度尻尾をぱたりと振る。正直に言えば、猫が『嫌いではない』なんて自分を落ち着けるための嘘だ。どちらかといえば好きではない。それを見透かされた上で完全に馬鹿にされているようで、イライラした。
「……今からお茶の時間ですが、レンズはミルクにしますか?」
「うむ。かたじけない。マドレエヌもひとつあると幸いだな」
そんなはざまに構わず、上野と猫は穏やかにやり取りをしている。正確には、猫が話しているのは念話だ。この猫も、魔法に関わっている生き物らしい。
「そういえば、まだ紹介していませんでしたね。市田さん、こちらは使い魔のレンズ。レンズ、こちらは〈学院〉からの研修で、今日からこちらでしばらく働いてくれることになった市田はざまさんです」
「ほう、そうか。よろしくな、はざま」
茶色い猫が念話ではざまに声をかけてきた。何と答えたらよいものか迷うはざまの前で、レンズという名の茶色い猫がふいと横にいる上野に視線を向ける。
「こやつは念話を解さないのか? もしかして〈愚者〉なのか?」
「そうではありませんよ。おそらく少し緊張して……」
「違いますっ! 私は書警ですっ! 階梯も現在第二階梯ですが早晩上がる予定です! こんなところにいて、書工に使われるような魔法使いではないんですっ!!」
レンズのあからさまに馬鹿にしたような言葉に頭に血が上るのを感じて、気づいたときには大声で言い返す自分がいた。その勢いに目前の紳士と猫が文字通り目を丸くして、威嚇する猫のような状態のはざまを見つめている。
「……そうかそうか。勇ましいのう、はざまは」
そして。数秒の後、穏やかなレンズの声が頭の中に聞こえてきた。
ごく穏やかに、血気盛んな若猫をなだめるような口調。猫にたしなめられている——という状況に我に返った次の瞬間、先ほどとは別の理由でかあっと頬が赤らむのを感じる。
「大丈夫。そんなに勇んで自身の周りを針で固めずとも、そなたの味方は無数におる。儂もそうだし、上野もそうだ。ここでは、その針は寝かせておいて問題ないぞ」
続けてはざまに念話を飛ばしながら、レンズはゆったりと前足を折って香箱の姿勢になった。そのまま目をつぶり、ウトウトし始めたのか何か考えているのか——はざまにはよくわからない。が、頭の中に響く言葉はぷっつりと止まる。
「そうですね。市田さんは書警ですから、私のような書工の下はお嫌でしょう。けれど、現在は〈学院〉の意向ですから御辛抱ください。きっと、ほんの少しの辛抱ですよ」
黙ってしまったレンズの代わりに、取りなすように横にいた上野が言葉を引き継いだ。
「……さあ、お茶、冷めないうちに。それとお菓子も。マドレエヌがありますよ。おひとつどうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
気まずい空気のままはざまは上野に促されてお茶を飲み、お茶菓子を食べる。
頭に血が上って口走ってしまった通り、市田はざまは書警で、上野彦馬は書工だ。上野の経歴については、本人にも〈学院〉にもそう聞いている。それは間違いない。同じ階梯であれば書警は他のどの経歴の者より力を持ち、他の経歴の者を従える。言い方を変えれば、通常書警はリーダーで、自分より下に当たる書士など他の経歴の者に従属する必要はないということ。魔法使いであれば、それは皆が知ることだ。……しかしそれは、『同じ階梯であれば』という条件の元で、の話である。
ここからは特に説明を受けていないので想像の範囲でしかないが——上野彦馬は第二階梯の市田はざまなど足元にも及ばない、高階梯の魔法使いなのだろう。
そうでなければ書工である上野が、この〈幻惑館〉を取り仕切ることなどできはしない。魔法使いの階梯の差はすなわち力量自体の差で、階梯は経歴など比較にならないレベルで優先される。その序列に従えば、第二階梯のはざまがそれ以上高階梯の上野の下に付くことに何の問題もない状態だ。事実、先ほどの暴言が〈学院〉に知れたら、運が悪ければ大問題に発展する危険性すらある。その点から言えば、(おそらくきっと)なかったことにしてくれる(つもりだと思われる)様子の上野にはざまは感謝しなければならない。それははっきりと理解してはいる。しかし……理解していると同時に、書警の持つプライド故に『この件が大ごとになって研修が中止にならないだろうか』と思っている自分がいることもまた、事実なのだ。
「市田さんは、この〈幻惑館〉がどういう施設かご存じですか?」
うつむいたまま茶器に視線を合わせるはざまの頭上を、上野の声が流れて過ぎた。
「えっ? あっ、はい。一応は。失われた思い出を上演する機関だと」
思わぬタイミングで問われた質問に口頭試験で答えるときのように反射的に姿勢を正し、はざまは上野に視線を合わせて答える。
「〈阿房宮〉にある施設で、魔法使いであれば出入りは自由。しかし強く求めなければ、その道は開かれることはない」
「その通りです。市田さん、よく勉強されていますね」
温和な教授のようにゆっくり浅くうなずいてから、上野はにっこりと笑った。
「では具体的に思い出を見ることにより、魔法使いにどんな作用があると思いますか?」
「えっ……」
その答えは、はざまが知る限りどの書物にも記されていない。はずだ。
研修先がこの〈幻惑館〉だと知り、不承不承ではあるが最善を尽くすため、はざまはここに来るまでの数日間、〈幻惑館〉について色々調べた。先ほど上野に問われ、瞬時に答えが出たのもこのおかげだが、これ以上の情報は持っていない。どこをどう調べても、それ以上この場所で何が起こり、何を得られるのかという記述は得られなかった。
「スミマセン。よく、わかりません」
「そうですか」
上野の相槌に合わせて、寝ているはずのレンズがぱたりと一回尻尾を振る。
「では、見てみたらいかがでしょう? あなたは大変優秀な学生だと〈学院〉から聞いています。その目で自ら見てみることによって、得られる情報も多々あるでしょう」
「……はい」
もう一度ぱたりと振られたレンズの尻尾に視線を合わせながら、はざまは、上野の言葉に頷いた。もちろん意を決して、とか、使命に駆られて、とかそういう流れではない。しいて言えばそれは、催眠術か何かにかかって、首を縦に振らされたような感覚だった。
「結構。……では、はざま。こちらへ。音を立てるなよ」
先ほどとは反対に、今度はレンズが上野の言葉を引き取り、すたりとテーブルから床へ飛び下りる。こっちだ、と手招きするように尻尾を一振りして歩き出すレンズに従い、はざまは上野が銀の盆を持って出てきた方へと足を踏み入れた。小さな台所の横を抜け、ロビーとちょうど反対側に当たると思われる方の面へと時計回りに回り込む。こちら側に客が近づくことはないらしく、ロビーと劇場を遮る壁や厚いドアのようなものはない。ただ、暗幕のような黒いカーテンが向こうとこちらの世界を隔てているだけだった。
劇場の方から、先ほど聞いたカタカタカタカタ……という機械音が、低く響いてくる。
「その隙間から、さっと忍び込むとよいぞ。なるべく、光を入れぬようにな」
頭の中に直接響いてくるレンズからの念話に促され、はざまは猫のようにするりと劇場へと忍び込んだ。急に周囲から光が失われ、宇宙に放り出されたような感覚になる。
はたして、日比野タカシはまだそこにいた。
はざまがお茶を飲んだり上野たちと話をしたりしていた間も、止まることなくフィルムは回っていたはずだから、上映が開始されてからそれなりの時間が経っていることになる。もしかしたら、フィルム自体はもう終盤に差し掛かっているのかもしれない。
それでもビロウドの椅子に座っていた日比野は身じろぎ一つせず、食い入るように画面を見つめ続けていた。
彼が全身全霊をかけて見続けている画面に、はざまもその背後から視線を移す。
その、古びたフィルムの中で。
何度目だろうか。目前の物語の中で日比野タカシはまた、新たな〈断章〉をその体内に受け入れていた。
初めに〈断章〉を受け入れるようになったきっかけを日比野はすっかり忘れていたが、先ほどこのフィルムによってうっすらと思い出すことができた……のかもしれない。しかしこのフィルムが終わればすぐにまた、その欠片は深い記憶の海に飲まれてしまうだろうし、どちらにせよストーリー上での現在、日比野は立派な禁書中毒だった。〈禁書〉は容易く彼の心を飲み込み、その身体をも操っている。
日比野の周囲は暗い。林のようにいくつもそびえ立つ書架のようなものが見えるところをみると図書館かどこかだろうか。その本の林の中を歩く日比野の斜め後ろから、彼に近づく影があった。——はざまと同じ年頃の女の子だ。
昭和の時代の古臭いセーラー服に身を包み、両肩に三つ編みを垂らした眼鏡の少女は、何か言いたげに日比野へと手を伸ばす。この少女のことを知っていたのだろう。ぼんやりした表情が何かに気づいたようなハッとした顔に変わった次の瞬間、その驚きの表情のまま、いきなり日比野は身体をくの字に折り曲げ、硬直した。
何かをつぶやいた少女に答えて、日比野の口が勝手に動く。
「今のコイツの心には、何が残っていると思う? 娘への愛か? 娘によく似た人物が現れたことへの希望か? ……違うね。残っているのは、きさまら〈大法典〉の魔法使いへの怒りと、まっ黒な哀しみだけだ。まさに絶望だよ」
日比野の口から出る言葉に、しかし目の前の少女は動かず、答えない。この子は、魔法戦の準備をしている——はざまは直感的に、そう閃いた。日比野の口を借りて少女を挑発しているのは、おそらく〈断章〉。そんな言葉に心動かされず、自身の戦いの準備をした方がいい。はざまも〈学院〉でそう習った記憶がある。きっとこの少女も〈学院〉の所属か、それなりの階梯の魔法使いなのだろう。
はざまの予想通り、少女は魔法戦の名乗りを上げ、呪圏を展開した。相手は日比野タカシ……ではなく、彼に憑依している〈断章〉だ。〈断章〉は何故か、少女が呪圏を展開できたことに驚き、うろたえている。
「バカな! なぜ看守が来ないッ!!」
看守……ということは、ここはオリビオニオス監獄なのだろうか。具体的にどういうシステムなのかまでははざまにはわからないが、確か『オリビオニオス監獄では魔法戦が禁じられている』と以前調べた書物に書かれていた。魔法戦を行えないと慢心していた〈断章〉が出遅れ、後手に回る。
そしてそのまま、場面は激しい攻防へ。
戦う魔法使いたちにとっては命を削る激しい時間ではあるけれど、傍からその戦いを眺めている者にとって、魔法戦は、ほぼ一瞬のぶつかり合いで決着がつく。このフィルムの中の戦いも例にもれず、はざまの感覚では数秒で勝者が決まった。〈断章〉は空間に穴をあけて逃げようとしたものの、縄のような何かが立会人の方からしゅるっと伸び、がんじがらめになる。——少女が、勝利したらしい。
やった、と歓声を上げかけて、はざまはすんでのところでその言葉を飲み込む。スクリーンとはざまの間に座る日比野にとっても、それは良い結果となったようだ。憑依していた〈断章〉がその身体から抜けたと同時に身体中の力も抜け、日比野はその場に力なく横たわる。そんな日比野の傍らにセーラー服の少女が駆け寄ってきて、白い手でそっと、力の入らない彼の手を取った。
「キミは……もしかして……」
最後の力を振り絞り、日比野が少女に言葉をかける。それに答えるように、少女が力を込めて日比野の手をぎゅっと握った。小さく微笑んで。
「今はまだ言えないですが……でも、いつかきっと」
スクリーンの中の日比野と少女はまだ何か言葉を交わしあっていたけれど、はざまの目前でその映像を見ていた観客に、その言葉はもう、届いていないようだった。
はざまの目の前に座る男の背中は、細かく震えている。
終始カタカタと低く唸っている映写機か何かの音と同じくらいの音量で、押し殺した嗚咽の声が、はざまの耳にも聞こえてきた。
程なくして終演となり、目の前のスクリーンに時折埃の影を噛み込んだ白い四角が映し出されるだけとなってもしばらく、日比野は声を押し殺して泣き続け、闇は優しく彼を包み込み続ける。そして。
「はざま。そろそろ仕事に戻れ。終演だ」
いつの間に近寄ってきたのか、足元のレンズにスルリと身体を摺り寄せられ、はざまはようやく我に返って暗幕の隙間から『従業員控室』へと忍び足で戻った。フィルムを片づけたりなどの業務があるのだろう。上野の姿は見えない。軽くスカートを引っ張って形を整え、先ほどとは逆に薄いドアを通ってロビーに出て、両開きの大きな扉の前まで進む。小さく深呼吸。
この扉の向こうで。この部屋の中で日比野がまだ声を殺して泣いていたら、何て声を掛けたらいいのだろう? ——そんなことをぼんやり考えながら、そのままぐっと両手に力を入れて、はざまは劇場へと続く扉を押し開いた。
ロビーも何となく薄暗い設計だが、劇場の暗黒ほどではない。扉を開いた瞬間、柔らかい生地のロールが転がりほどけるように、ロビーの薄明かりが帯となって劇場の方へと流れていく。その、薄い光が広がったその先に、先ほどまで日比野タカシが座っていた赤っぽいビロウドの椅子が一脚、忘れられたようにぽつんと置かれたままになっていた。
日比野は、どうやら立ち上がっていたらしい。
その顔にはくっきりと涙の跡が残っていたが、もう泣いてはいなかった。泣いていない……というよりは、その顔に感情が乗っていないと表現する方がしっくりくる感じ。起きたばかりの人がまだ現にいることに気づかず、ぼんやりとしている状態に似ている。と、はざまには思えた。
そのままの表情で、日比野がゆっくりとはざまの方を振り返る。おそらくはざまを見たのではなく、明かりの方へ顔を向けただけだろう。そのまま日比野は、ゆっくりとはざまのいる方——出入り口の方へ向かって歩き出す。
「あの、日比野様」
急いで端の方によけながら、はざまは思い切って日比野に声をかけた。
「記憶の糸は、掴めましたでしょうか?」
はざまの言葉に、日比野は一瞬足を止める。顔を少しだけ、声のした方へ向ける。……でも、それだけ。
ほんの一瞬立ち止まりはしたものの、日比野タカシはそのまま〈幻惑館〉の入り口を抜け、目前に広がる濃い霧の中へと消えていった。
市田はざまには、それを黙って見送るしか術はない。
「市田さん、お疲れさまでした。今日はもう上がって結構ですよ」
それから、どのくらいの時間が経っただろうか。
日比野タカシの背中を見送った状態のままぼんやりと立ちすくむはざまの肩を、上野の骨張ってごつごつした手がぽんと叩いた。その衝撃で、ようやくはざまは我に返る。
「あっ、ハイ。スミマセン」
「だから、謝らなくていいですよ。……疲れましたか」
上野はどうやら、〈幻惑館〉前を掃き清めに出てきたらしい。その手にはひとまとめにされて箒とチリトリが携えられていた。本来ならそれはおそらく、一番下っ端で研修中のはざまの仕事だろう。そういえばこういった雑用の類を一切押し付けられなかったことが、今更ながら不思議に思えてくる。
「あの。掃除なら私が」
「いいんです。こういう細かい仕事はじじいがやるものだと昔から相場が決まっているのです。市田さん、あなたにはもっとふさわしい仕事がありますよ」
形式的に手を差し出すはざまを、上野は笑顔を浮かべたままぴしゃりと断った。先ほどフィルムで見たシーンの眼鏡でお下げの少女のように、上野の方に中途半端に腕を伸ばしたまま、はざまは少々途方に暮れる。
上野の言う、『ふさわしい仕事』とは一体何だろう? まさか、客を迎えて座席に誘導する一連の作業だとは思えない。あんな仕事、おそらくは猫のレンズにだってお安い御用だ。……そうするとはざまが気づかなかっただけで、この案内係という部署にはもっと困難な、はざまのような者でなければできない業務があるのだろうか? たまたま、今日はそれに当たる作業がなかっただけで?
「あの。今日やった以外に、案内係が行うべき大切な業務があるのでしょうか」
いくら考えてもわからなかったし、もし仮に今日、重要な仕事をし忘れていたというのであれば目も当てられない。ここは素直に聞くしかないと判断し、はざまは上野にまっすぐ向き直った。真剣なはざまの表情を見て、上野が少し驚いたように眉を上げる。
「市田さんは優秀な方です。今日は初日ながら、きちんと業務をこなされていたと思いますよ」
「でも、ふさわしい仕事って……」
自慢のポーカーフェイスをもってしても、不安そうな表情は隠せなかったらしい。泣きそうなはざまの顔を見て、上野が宥めるように優しく頷いた。
「お客様をお迎えして、椅子まで案内する。部屋に入る明かりを遮断し、お客様が快適に映像を楽しめるよう努める。終演後は速やかにお客様を外までご案内する。……大丈夫です。市田さんはその全てを完璧にこなせていました」
「そうでしょうか」
確かに、今上野が挙げた一連の業務に関しては滞りなく済ませたと思う。しかしそれでも日比野タカシは何の感想もこちらに伝えることなく、はざまの問いかけにも答えないまま、この〈幻惑館〉を去ってしまった。
「私、お客様に失礼なことを聞いてしまったかもしれません。私に答えず、お客様は帰られました。ご気分を害されたかもしれません」
上野の上げた一連の業務の中に、『帰りしな、客に声をかける』という項目はない。もしかしたらやってはいけないことをしてしまったのかも……と急に不安になり、はざまはそっと言い添える。致命的な失敗をしてしまったような気分だった。今は穏やかな上野がそれを聞き、急に怒り出すかもしれない。でも、それでも仕方がない。
「市田さんは、お客様に何と問われたのでしょうか」
しかし、上野は穏やかな表情を崩さず、思いがけないことを聞いてくる。
「あっ、はい。ええと……記憶の糸は、掴めましたでしょうか、と」
上野が大魔神のように豹変して大激怒するのは、尋ねた具体的な内容を聞いてからのことかもしれない。——そう考えビクビクしながら、はざまは先ほどの自身の言葉を白状した。白状して、上野大魔神の激怒に備え、首をすくめて待つ。……が、いくら待っても大地を轟かすような怒りの声は聞こえてこない。
「そうですか」
代わりに、いつもと寸分変わらぬ穏やかな上野の声が、頭の上を通り過ぎていった。
「それで、お客様は何とお答えに?」
「あ、ええと。特に、何も。無言で帰られました」
「そうでしたか」
思い切ってそっと顔を上げると、穏やかな表情のまま、上野が柔らかく笑みを浮かべてはざまを見ている。目が合うと、上野は浅くゆっくりと頷いた。
「それは、残念でした。今回は、うまく聞き出せませんでしたね。でも、次回は大丈夫でしょう」
「次回……ですか」
思いがけないコメントに驚いて聞き直したはざまに、上野ははい、と口に出して肯定の意を示す。
「ここは、〈幻惑館〉——時間と記憶の狭間です。慌てる必要はありません。急がずとも、流れに乗れば答えは得られ、定めの場所に運ばれます」
「……はい」
正直言って、はざまには上野の言葉の意味は分からなかった。
それでもここは『はい』と答えるべきだと、それだけは本能に近い部分での反射が働いた。……ただ、それだけ。
それだけの事象に基づいた、一連の行動の結果——穏やかな表情のまま上野は去り、はざまはその場に、謎と共に一人残される。
「流れに乗れば答えは得られ、定めの場所に運ばれる……」
声に出して、上野の言葉を反芻してみた。でも、その言葉は呪文のように、目の前の何かを変化させたりはしない。ただそれは、はざまの心に靄を生み出しただけ。
しかしながら、それは後から考えると、大きな魔法だった——のかもしれない。
その言葉によって、誰でもなくはざま自身が、自分の心に生まれた靄に気づいたから。
その靄に向き合い、はざまは心の中で強く誓う。
ここにいる間に、先ほどの上野の言葉の意味を、必ず解明してみせる……と。
——言葉を変えればそれは、市田はざまがこの〈幻惑館〉に骨を埋めるという宣言と、ほぼ等しいものだった。
「ここは……?」
思わずもれたつぶやきに呼応するように、ゆっくりと両開きの扉が内側から開かれる。
「お待ちしておりました。日比野タカシ様。どうぞこちらへ」
ごく落ち着いたテンポの、しかしそれにそぐわない若い女の声。
まだ状況が呑み込めないながらも、この世界に特有の事象だ……と腹をくくって、日比野は暗い屋内へと足を踏み入れた。長い収容生活の後、日比野はつい先ほどオリビオニオス監獄から出所を許されたばかり。そしてそのまま霧の中をさまようように歩き、ここにたどり着いた次第だ。今までの監獄生活に比べれば、どこでも天国と等しい場所だろう。そこが魔法の力で満たされていれば尚更。——幸い、この場所に魔法の力が存在しないとは思えなかった。その力が正しく〈大法典〉由来であることを、今は祈るしかない。
暗い室内にだんだん目が慣れてくると、目の前に少女が立っていることがわかる。
年齢は、昔、若くして失った娘と同じくらい……ということは高校生くらいか? こげ茶色の瞳が印象的な、賢そうな子だった。墨を流したような漆黒のストレートヘアは肩にかかるくらいの長さ。町でよく見かけるタイプの白いブラウスにリボンタイ、ひざ上丈のプリーツスカート、黒っぽいハイソックスに飾り気のないローファーの革靴という、おそらくは学校の制服のようなものに身を包んで、彼女はまっすぐ正面から日比野の目を見る。
「すぐに開演いたします。こちらに、お座りください」
彼女の言葉と共にその隣の空間がほんのりと明るくなり、そこに赤っぽいビロウドの椅子が一脚現れた。促されるままそのクラシカルな椅子に日比野が腰を掛けると、照明を絞って落としていくように、また周囲がすうっと暗くなる。
座った目前には小さなスクリーンがかかっており、フィルムを上演する前のカウントダウンが始まるところだった。9、8、7……と瞬くように数字が小さくなっていく。それを映している装置のものだろう。カタカタカタカタ……と何か機械のようなものが動く音が低く聞こえる。数字が4まで小さくなったその時、機械の作動音と同じ囁くような音量で、少女が低くつぶやいた。
「それでは、ごゆっくりお楽しみください」
そして。
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——数分後。
回り始めたフィルムに、吸い込まれるように集中しはじめた日比野タカシを確認してから、先ほど日比野に着席を促した少女は、映像を上映している部屋から薄暗いロビーへと出て、劇場に続く両開きの重そうな扉を引いて閉めた。扉からロビーの奥の方へくるりと彼女が振り向いた次の瞬間、少し遅れて肩より少し長い黒髪がふわりと広がり、シャンプーと思しき甘い香りが微かに周囲に広がる。
そのまま奥の方へ薄暗いロビーを数歩歩き、『関係者控室』と小さなプレートのかかった扉の前で少女は立ち止まった。奥へと声をかける。
「日比野タカシ様、上映開始しました」
「わかりました。市田さんもご苦労様。入っていらっしゃい。お茶にしましょう」
答えた声に従って、市田さんと呼ばれた少女はゆっくりと目の前の扉に手をかけ、音をたてないように開く。薄い扉の向こうから流れ込んでくる、柔らかい布地のような光。
扉のこちら側とは対照的に、目の前の部屋は春の陽だまりのように明るく、暖かかった。
小さな部屋の中央に猫足の丸いテーブルがあり、それを囲むように同じシリーズと思われる椅子が四脚ほどセットされている。そこまで高級な調度品には見えなかったけれど、こちらもそれなりにレトロで上品な品だった。少女のちょうど目の前にあたる部屋の奥の方から、その家具たちと同じくらいレトロな男性が、ティーセットの乗った銀色の盆を手にもってこちらに近づいてくる。
彼に仕草で促され、少女は無表情のまま大人しく、自分に一番近い場所にあった椅子を引き、腰かけた。
「どうでしたか、初仕事は?」
「どうって……別に、どうも。まだ案内しただけですし、実際に私がフィルムを回すわけではないし」
日比野がここにやってきた時からニコリともしないその表情は、どうやら仕事用に無表情を保っているわけではなく、持って生まれた性質によるものらしい。無表情のままそっけなく言葉を返され、彼女に声をかけた老年の男性は苦笑いと共に、彼女の方へ華奢なカップに注がれた紅茶を差し出した。
男性の名は、「重なる陰に当たる光」上野彦馬。そして少女の名は、「時間を彷徨う舟」市田はざま。もちろん二人とも、〈大法典〉所属の魔法使いだ。
「別にどうも、なんて思えるのは、能力があるという証拠ですよ。とにかく、退屈できるレベルのたやすい仕事でよかったです」
自分の当てこすりでしかない言葉を正面から好意的に受け止められ、市田はざまはちょっと気まずくなってティーカップに視線を落とす。とろりと滑らかな琥珀色の液体の表面に、うつむいた自分の顔がゆがんで映し出されていた。表面上は穏やかな表情を保っているが、目の前の上野はおそらく、自分のことを生意気な小娘だと思っているに違いない。——そんなことを考えるとますますばつが悪くなり、はざまはなかなか顔を上げることができなかった。
「あ、ちなみにね。今はフィルムを回すこと自体も、そんなにホネじゃあありません。技術も魔法も日々進化していますから、フィルムをかけている最中はこんな風に離れて、お茶を飲むことも可能ですしね。市田さんが私と変わっても、別にどうも、ってなると思いますよ」
「あの……えっと、その……スミマセン」
「謝ることは何もありません。さ、お茶。冷めないうちに。ミルクとお砂糖は?」
うつむき続ける視界の端から上野の手が差し出され、目の前のティーカップが自分の方へ少しだけ押し出される。意を決し、そのタイミングではざまはぐっと顔を上げた。
「ありがとうございます。では、お砂糖をお願いします」
「はい」
続いて差し出されたシュガーポットを受け取り、ぎこちなく笑顔を作ってから、はざまは上野の方へ顔ごと視線を向ける。
いくら不本意でも納得いかなくても、これからしばらくの間、自分はこの〈幻惑館〉で働かなくてはならないのだ。……それならばほんの少しでも、おそらくは受け入れ先の責任者である上野に好印象を持ってもらった方がはざまには好都合。ここでの評価が高ければおそらく、卒業後には優秀な〈分科会〉に所属させてもらえるだろう、と思うから。
所属する〈学院〉から突如、この〈幻惑館〉へ研修に行くよう指示されたのは、まさにはざまにとって寝耳に水の出来事だった。
無論、教授たちの気まぐれとも思える言動によって、何かの研究をすることになったり、ミッションを達成する責務を負わされる生徒がいることは周知の事実。それでもはざまが知る限り、在学中にどこかの機関で働くよう言われた生徒はいない。しかも、その研修先もはざまに言わせればメチャクチャだ。
「私は、書警です。阿房宮内にある〈幻惑館〉への研修が、魔法厄災を食い止めるため、何かの役に立つとは思えませんが」
ご法度だと知りつつも、自分に研修に行くよう指示した教授にはざまは噛みついた。
実際問題、魔法厄災を食い止めるという使命を負う書警が〈幻惑館〉のある阿房宮に出入りすることは少ない。どちらかといえばアウトローな考えを持つ魔法使いが多く出入りする阿房宮と書警は水と油だ。真面目で、書警としての使命に燃えるはざまにとっては、頼まれても足を運びたいとは思えない場所であることは言うまでもない。
加えて、はざまは〈学院〉から遠ざけられることについても不満だった。
現在第二階梯ではあるものの、第三階梯に上がるのも時間の問題。〈学院〉での成績もトップクラスで、はざまは将来を嘱望されている魔法使い……のはずだ。それなのに、後期試験を目前に控えたこの大切なタイミングで〈学院〉の外に放り出されてしまったら、優秀な〈分科会〉に書警として迎えられることなど夢のまた夢になってしまう。下手をしたら第三階梯への昇格も取り消しだ。それはすなわち、〈学院〉からの卒業資格を失うことを意味する。……ということはつまり、〈学院〉中退? そんな不名誉な事態だけは何としても避けたい。
そのようなことを、自慢の明晰な頭脳をフル稼働して、はざまは教授たちに切々と訴えた……が、結局決定は覆らず。
「これは、〈学院〉としての決定事項です。市田はざま、貴君に〈幻惑館〉出向を命じます。期間は来週から、当面の間。研修の終了時期については追って連絡します」
厳しいながらも、講義ではいつも目の覚めるような発見を示唆してくれる初老の女性担当教授にぴしゃりとそう告げられ、はざまは黙ってうつむく他なかった。そんなはざまを見て、ようやく担当教授の顔に見慣れた柔らかい笑みが浮かぶ。
「大丈夫。この研修での功績が認められれば、必ず成績に反映されます。実践での評価が高ければ必ずいいことがありますよ。市田さん、あなたは優秀な魔法使いです。必ず成果を得て戻ってくると、私は信じています。頑張ってください」
かくしてそのまま有無を言わさずはざまは〈学院〉から〈幻惑館〉へと送り出され、本日から研修業務開始。やってくる客相手に簡単な案内をするという担当業務を与えられ、今に至るというわけだ。
「何をしておる。そんなにぐるぐるかき混ぜても、そこに幻影は生まれんぞ?」
近過去からのそんな不満と謎についてぼんやり考えながら、砂糖を入れた紅茶をぐるぐるとスプーンでかき混ぜていたはざまの耳に、呆れたような声が聞こえてくる。
何気なくそちらに視線をやると、華奢なカップアンドソーサーの真横にきっちり正座して紅茶を眺めている茶色っぽい猫。びくっとなり、はざまは反射的に席を蹴って立ち上がった。
「なっ、猫? ……シッシッ! テーブルに乗っちゃダメ!」
状況に全く動じず尻尾をぱたんと一つ振っただけの猫をテーブルから降ろそうとはざまが目の前で手を振っても、猫はつまらなそうに目の前の動く手を見つめているだけだ。
「ああ、いいんですよ。その猫は。市田さんは、猫はお嫌いですか?」
「あ、いえ。別に嫌いでは、ないですけれど」
お茶菓子を取りに行き戻ってきた上野に優しくたしなめられ、仕方なしに元通り腰かけるはざまを見て、勝ち誇ったように猫が再度尻尾をぱたりと振る。正直に言えば、猫が『嫌いではない』なんて自分を落ち着けるための嘘だ。どちらかといえば好きではない。それを見透かされた上で完全に馬鹿にされているようで、イライラした。
「……今からお茶の時間ですが、レンズはミルクにしますか?」
「うむ。かたじけない。マドレエヌもひとつあると幸いだな」
そんなはざまに構わず、上野と猫は穏やかにやり取りをしている。正確には、猫が話しているのは念話だ。この猫も、魔法に関わっている生き物らしい。
「そういえば、まだ紹介していませんでしたね。市田さん、こちらは使い魔のレンズ。レンズ、こちらは〈学院〉からの研修で、今日からこちらでしばらく働いてくれることになった市田はざまさんです」
「ほう、そうか。よろしくな、はざま」
茶色い猫が念話ではざまに声をかけてきた。何と答えたらよいものか迷うはざまの前で、レンズという名の茶色い猫がふいと横にいる上野に視線を向ける。
「こやつは念話を解さないのか? もしかして〈愚者〉なのか?」
「そうではありませんよ。おそらく少し緊張して……」
「違いますっ! 私は書警ですっ! 階梯も現在第二階梯ですが早晩上がる予定です! こんなところにいて、書工に使われるような魔法使いではないんですっ!!」
レンズのあからさまに馬鹿にしたような言葉に頭に血が上るのを感じて、気づいたときには大声で言い返す自分がいた。その勢いに目前の紳士と猫が文字通り目を丸くして、威嚇する猫のような状態のはざまを見つめている。
「……そうかそうか。勇ましいのう、はざまは」
そして。数秒の後、穏やかなレンズの声が頭の中に聞こえてきた。
ごく穏やかに、血気盛んな若猫をなだめるような口調。猫にたしなめられている——という状況に我に返った次の瞬間、先ほどとは別の理由でかあっと頬が赤らむのを感じる。
「大丈夫。そんなに勇んで自身の周りを針で固めずとも、そなたの味方は無数におる。儂もそうだし、上野もそうだ。ここでは、その針は寝かせておいて問題ないぞ」
続けてはざまに念話を飛ばしながら、レンズはゆったりと前足を折って香箱の姿勢になった。そのまま目をつぶり、ウトウトし始めたのか何か考えているのか——はざまにはよくわからない。が、頭の中に響く言葉はぷっつりと止まる。
「そうですね。市田さんは書警ですから、私のような書工の下はお嫌でしょう。けれど、現在は〈学院〉の意向ですから御辛抱ください。きっと、ほんの少しの辛抱ですよ」
黙ってしまったレンズの代わりに、取りなすように横にいた上野が言葉を引き継いだ。
「……さあ、お茶、冷めないうちに。それとお菓子も。マドレエヌがありますよ。おひとつどうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
気まずい空気のままはざまは上野に促されてお茶を飲み、お茶菓子を食べる。
頭に血が上って口走ってしまった通り、市田はざまは書警で、上野彦馬は書工だ。上野の経歴については、本人にも〈学院〉にもそう聞いている。それは間違いない。同じ階梯であれば書警は他のどの経歴の者より力を持ち、他の経歴の者を従える。言い方を変えれば、通常書警はリーダーで、自分より下に当たる書士など他の経歴の者に従属する必要はないということ。魔法使いであれば、それは皆が知ることだ。……しかしそれは、『同じ階梯であれば』という条件の元で、の話である。
ここからは特に説明を受けていないので想像の範囲でしかないが——上野彦馬は第二階梯の市田はざまなど足元にも及ばない、高階梯の魔法使いなのだろう。
そうでなければ書工である上野が、この〈幻惑館〉を取り仕切ることなどできはしない。魔法使いの階梯の差はすなわち力量自体の差で、階梯は経歴など比較にならないレベルで優先される。その序列に従えば、第二階梯のはざまがそれ以上高階梯の上野の下に付くことに何の問題もない状態だ。事実、先ほどの暴言が〈学院〉に知れたら、運が悪ければ大問題に発展する危険性すらある。その点から言えば、(おそらくきっと)なかったことにしてくれる(つもりだと思われる)様子の上野にはざまは感謝しなければならない。それははっきりと理解してはいる。しかし……理解していると同時に、書警の持つプライド故に『この件が大ごとになって研修が中止にならないだろうか』と思っている自分がいることもまた、事実なのだ。
「市田さんは、この〈幻惑館〉がどういう施設かご存じですか?」
うつむいたまま茶器に視線を合わせるはざまの頭上を、上野の声が流れて過ぎた。
「えっ? あっ、はい。一応は。失われた思い出を上演する機関だと」
思わぬタイミングで問われた質問に口頭試験で答えるときのように反射的に姿勢を正し、はざまは上野に視線を合わせて答える。
「〈阿房宮〉にある施設で、魔法使いであれば出入りは自由。しかし強く求めなければ、その道は開かれることはない」
「その通りです。市田さん、よく勉強されていますね」
温和な教授のようにゆっくり浅くうなずいてから、上野はにっこりと笑った。
「では具体的に思い出を見ることにより、魔法使いにどんな作用があると思いますか?」
「えっ……」
その答えは、はざまが知る限りどの書物にも記されていない。はずだ。
研修先がこの〈幻惑館〉だと知り、不承不承ではあるが最善を尽くすため、はざまはここに来るまでの数日間、〈幻惑館〉について色々調べた。先ほど上野に問われ、瞬時に答えが出たのもこのおかげだが、これ以上の情報は持っていない。どこをどう調べても、それ以上この場所で何が起こり、何を得られるのかという記述は得られなかった。
「スミマセン。よく、わかりません」
「そうですか」
上野の相槌に合わせて、寝ているはずのレンズがぱたりと一回尻尾を振る。
「では、見てみたらいかがでしょう? あなたは大変優秀な学生だと〈学院〉から聞いています。その目で自ら見てみることによって、得られる情報も多々あるでしょう」
「……はい」
もう一度ぱたりと振られたレンズの尻尾に視線を合わせながら、はざまは、上野の言葉に頷いた。もちろん意を決して、とか、使命に駆られて、とかそういう流れではない。しいて言えばそれは、催眠術か何かにかかって、首を縦に振らされたような感覚だった。
「結構。……では、はざま。こちらへ。音を立てるなよ」
先ほどとは反対に、今度はレンズが上野の言葉を引き取り、すたりとテーブルから床へ飛び下りる。こっちだ、と手招きするように尻尾を一振りして歩き出すレンズに従い、はざまは上野が銀の盆を持って出てきた方へと足を踏み入れた。小さな台所の横を抜け、ロビーとちょうど反対側に当たると思われる方の面へと時計回りに回り込む。こちら側に客が近づくことはないらしく、ロビーと劇場を遮る壁や厚いドアのようなものはない。ただ、暗幕のような黒いカーテンが向こうとこちらの世界を隔てているだけだった。
劇場の方から、先ほど聞いたカタカタカタカタ……という機械音が、低く響いてくる。
「その隙間から、さっと忍び込むとよいぞ。なるべく、光を入れぬようにな」
頭の中に直接響いてくるレンズからの念話に促され、はざまは猫のようにするりと劇場へと忍び込んだ。急に周囲から光が失われ、宇宙に放り出されたような感覚になる。
はたして、日比野タカシはまだそこにいた。
はざまがお茶を飲んだり上野たちと話をしたりしていた間も、止まることなくフィルムは回っていたはずだから、上映が開始されてからそれなりの時間が経っていることになる。もしかしたら、フィルム自体はもう終盤に差し掛かっているのかもしれない。
それでもビロウドの椅子に座っていた日比野は身じろぎ一つせず、食い入るように画面を見つめ続けていた。
彼が全身全霊をかけて見続けている画面に、はざまもその背後から視線を移す。
*
その、古びたフィルムの中で。
何度目だろうか。目前の物語の中で日比野タカシはまた、新たな〈断章〉をその体内に受け入れていた。
初めに〈断章〉を受け入れるようになったきっかけを日比野はすっかり忘れていたが、先ほどこのフィルムによってうっすらと思い出すことができた……のかもしれない。しかしこのフィルムが終わればすぐにまた、その欠片は深い記憶の海に飲まれてしまうだろうし、どちらにせよストーリー上での現在、日比野は立派な禁書中毒だった。〈禁書〉は容易く彼の心を飲み込み、その身体をも操っている。
日比野の周囲は暗い。林のようにいくつもそびえ立つ書架のようなものが見えるところをみると図書館かどこかだろうか。その本の林の中を歩く日比野の斜め後ろから、彼に近づく影があった。——はざまと同じ年頃の女の子だ。
昭和の時代の古臭いセーラー服に身を包み、両肩に三つ編みを垂らした眼鏡の少女は、何か言いたげに日比野へと手を伸ばす。この少女のことを知っていたのだろう。ぼんやりした表情が何かに気づいたようなハッとした顔に変わった次の瞬間、その驚きの表情のまま、いきなり日比野は身体をくの字に折り曲げ、硬直した。
何かをつぶやいた少女に答えて、日比野の口が勝手に動く。
「今のコイツの心には、何が残っていると思う? 娘への愛か? 娘によく似た人物が現れたことへの希望か? ……違うね。残っているのは、きさまら〈大法典〉の魔法使いへの怒りと、まっ黒な哀しみだけだ。まさに絶望だよ」
日比野の口から出る言葉に、しかし目の前の少女は動かず、答えない。この子は、魔法戦の準備をしている——はざまは直感的に、そう閃いた。日比野の口を借りて少女を挑発しているのは、おそらく〈断章〉。そんな言葉に心動かされず、自身の戦いの準備をした方がいい。はざまも〈学院〉でそう習った記憶がある。きっとこの少女も〈学院〉の所属か、それなりの階梯の魔法使いなのだろう。
はざまの予想通り、少女は魔法戦の名乗りを上げ、呪圏を展開した。相手は日比野タカシ……ではなく、彼に憑依している〈断章〉だ。〈断章〉は何故か、少女が呪圏を展開できたことに驚き、うろたえている。
「バカな! なぜ看守が来ないッ!!」
看守……ということは、ここはオリビオニオス監獄なのだろうか。具体的にどういうシステムなのかまでははざまにはわからないが、確か『オリビオニオス監獄では魔法戦が禁じられている』と以前調べた書物に書かれていた。魔法戦を行えないと慢心していた〈断章〉が出遅れ、後手に回る。
そしてそのまま、場面は激しい攻防へ。
戦う魔法使いたちにとっては命を削る激しい時間ではあるけれど、傍からその戦いを眺めている者にとって、魔法戦は、ほぼ一瞬のぶつかり合いで決着がつく。このフィルムの中の戦いも例にもれず、はざまの感覚では数秒で勝者が決まった。〈断章〉は空間に穴をあけて逃げようとしたものの、縄のような何かが立会人の方からしゅるっと伸び、がんじがらめになる。——少女が、勝利したらしい。
やった、と歓声を上げかけて、はざまはすんでのところでその言葉を飲み込む。スクリーンとはざまの間に座る日比野にとっても、それは良い結果となったようだ。憑依していた〈断章〉がその身体から抜けたと同時に身体中の力も抜け、日比野はその場に力なく横たわる。そんな日比野の傍らにセーラー服の少女が駆け寄ってきて、白い手でそっと、力の入らない彼の手を取った。
「キミは……もしかして……」
最後の力を振り絞り、日比野が少女に言葉をかける。それに答えるように、少女が力を込めて日比野の手をぎゅっと握った。小さく微笑んで。
「今はまだ言えないですが……でも、いつかきっと」
スクリーンの中の日比野と少女はまだ何か言葉を交わしあっていたけれど、はざまの目前でその映像を見ていた観客に、その言葉はもう、届いていないようだった。
はざまの目の前に座る男の背中は、細かく震えている。
終始カタカタと低く唸っている映写機か何かの音と同じくらいの音量で、押し殺した嗚咽の声が、はざまの耳にも聞こえてきた。
程なくして終演となり、目の前のスクリーンに時折埃の影を噛み込んだ白い四角が映し出されるだけとなってもしばらく、日比野は声を押し殺して泣き続け、闇は優しく彼を包み込み続ける。そして。
「はざま。そろそろ仕事に戻れ。終演だ」
いつの間に近寄ってきたのか、足元のレンズにスルリと身体を摺り寄せられ、はざまはようやく我に返って暗幕の隙間から『従業員控室』へと忍び足で戻った。フィルムを片づけたりなどの業務があるのだろう。上野の姿は見えない。軽くスカートを引っ張って形を整え、先ほどとは逆に薄いドアを通ってロビーに出て、両開きの大きな扉の前まで進む。小さく深呼吸。
この扉の向こうで。この部屋の中で日比野がまだ声を殺して泣いていたら、何て声を掛けたらいいのだろう? ——そんなことをぼんやり考えながら、そのままぐっと両手に力を入れて、はざまは劇場へと続く扉を押し開いた。
ロビーも何となく薄暗い設計だが、劇場の暗黒ほどではない。扉を開いた瞬間、柔らかい生地のロールが転がりほどけるように、ロビーの薄明かりが帯となって劇場の方へと流れていく。その、薄い光が広がったその先に、先ほどまで日比野タカシが座っていた赤っぽいビロウドの椅子が一脚、忘れられたようにぽつんと置かれたままになっていた。
日比野は、どうやら立ち上がっていたらしい。
その顔にはくっきりと涙の跡が残っていたが、もう泣いてはいなかった。泣いていない……というよりは、その顔に感情が乗っていないと表現する方がしっくりくる感じ。起きたばかりの人がまだ現にいることに気づかず、ぼんやりとしている状態に似ている。と、はざまには思えた。
そのままの表情で、日比野がゆっくりとはざまの方を振り返る。おそらくはざまを見たのではなく、明かりの方へ顔を向けただけだろう。そのまま日比野は、ゆっくりとはざまのいる方——出入り口の方へ向かって歩き出す。
「あの、日比野様」
急いで端の方によけながら、はざまは思い切って日比野に声をかけた。
「記憶の糸は、掴めましたでしょうか?」
はざまの言葉に、日比野は一瞬足を止める。顔を少しだけ、声のした方へ向ける。……でも、それだけ。
ほんの一瞬立ち止まりはしたものの、日比野タカシはそのまま〈幻惑館〉の入り口を抜け、目前に広がる濃い霧の中へと消えていった。
市田はざまには、それを黙って見送るしか術はない。
*
「市田さん、お疲れさまでした。今日はもう上がって結構ですよ」
それから、どのくらいの時間が経っただろうか。
日比野タカシの背中を見送った状態のままぼんやりと立ちすくむはざまの肩を、上野の骨張ってごつごつした手がぽんと叩いた。その衝撃で、ようやくはざまは我に返る。
「あっ、ハイ。スミマセン」
「だから、謝らなくていいですよ。……疲れましたか」
上野はどうやら、〈幻惑館〉前を掃き清めに出てきたらしい。その手にはひとまとめにされて箒とチリトリが携えられていた。本来ならそれはおそらく、一番下っ端で研修中のはざまの仕事だろう。そういえばこういった雑用の類を一切押し付けられなかったことが、今更ながら不思議に思えてくる。
「あの。掃除なら私が」
「いいんです。こういう細かい仕事はじじいがやるものだと昔から相場が決まっているのです。市田さん、あなたにはもっとふさわしい仕事がありますよ」
形式的に手を差し出すはざまを、上野は笑顔を浮かべたままぴしゃりと断った。先ほどフィルムで見たシーンの眼鏡でお下げの少女のように、上野の方に中途半端に腕を伸ばしたまま、はざまは少々途方に暮れる。
上野の言う、『ふさわしい仕事』とは一体何だろう? まさか、客を迎えて座席に誘導する一連の作業だとは思えない。あんな仕事、おそらくは猫のレンズにだってお安い御用だ。……そうするとはざまが気づかなかっただけで、この案内係という部署にはもっと困難な、はざまのような者でなければできない業務があるのだろうか? たまたま、今日はそれに当たる作業がなかっただけで?
「あの。今日やった以外に、案内係が行うべき大切な業務があるのでしょうか」
いくら考えてもわからなかったし、もし仮に今日、重要な仕事をし忘れていたというのであれば目も当てられない。ここは素直に聞くしかないと判断し、はざまは上野にまっすぐ向き直った。真剣なはざまの表情を見て、上野が少し驚いたように眉を上げる。
「市田さんは優秀な方です。今日は初日ながら、きちんと業務をこなされていたと思いますよ」
「でも、ふさわしい仕事って……」
自慢のポーカーフェイスをもってしても、不安そうな表情は隠せなかったらしい。泣きそうなはざまの顔を見て、上野が宥めるように優しく頷いた。
「お客様をお迎えして、椅子まで案内する。部屋に入る明かりを遮断し、お客様が快適に映像を楽しめるよう努める。終演後は速やかにお客様を外までご案内する。……大丈夫です。市田さんはその全てを完璧にこなせていました」
「そうでしょうか」
確かに、今上野が挙げた一連の業務に関しては滞りなく済ませたと思う。しかしそれでも日比野タカシは何の感想もこちらに伝えることなく、はざまの問いかけにも答えないまま、この〈幻惑館〉を去ってしまった。
「私、お客様に失礼なことを聞いてしまったかもしれません。私に答えず、お客様は帰られました。ご気分を害されたかもしれません」
上野の上げた一連の業務の中に、『帰りしな、客に声をかける』という項目はない。もしかしたらやってはいけないことをしてしまったのかも……と急に不安になり、はざまはそっと言い添える。致命的な失敗をしてしまったような気分だった。今は穏やかな上野がそれを聞き、急に怒り出すかもしれない。でも、それでも仕方がない。
「市田さんは、お客様に何と問われたのでしょうか」
しかし、上野は穏やかな表情を崩さず、思いがけないことを聞いてくる。
「あっ、はい。ええと……記憶の糸は、掴めましたでしょうか、と」
上野が大魔神のように豹変して大激怒するのは、尋ねた具体的な内容を聞いてからのことかもしれない。——そう考えビクビクしながら、はざまは先ほどの自身の言葉を白状した。白状して、上野大魔神の激怒に備え、首をすくめて待つ。……が、いくら待っても大地を轟かすような怒りの声は聞こえてこない。
「そうですか」
代わりに、いつもと寸分変わらぬ穏やかな上野の声が、頭の上を通り過ぎていった。
「それで、お客様は何とお答えに?」
「あ、ええと。特に、何も。無言で帰られました」
「そうでしたか」
思い切ってそっと顔を上げると、穏やかな表情のまま、上野が柔らかく笑みを浮かべてはざまを見ている。目が合うと、上野は浅くゆっくりと頷いた。
「それは、残念でした。今回は、うまく聞き出せませんでしたね。でも、次回は大丈夫でしょう」
「次回……ですか」
思いがけないコメントに驚いて聞き直したはざまに、上野ははい、と口に出して肯定の意を示す。
「ここは、〈幻惑館〉——時間と記憶の狭間です。慌てる必要はありません。急がずとも、流れに乗れば答えは得られ、定めの場所に運ばれます」
「……はい」
正直言って、はざまには上野の言葉の意味は分からなかった。
それでもここは『はい』と答えるべきだと、それだけは本能に近い部分での反射が働いた。……ただ、それだけ。
それだけの事象に基づいた、一連の行動の結果——穏やかな表情のまま上野は去り、はざまはその場に、謎と共に一人残される。
「流れに乗れば答えは得られ、定めの場所に運ばれる……」
声に出して、上野の言葉を反芻してみた。でも、その言葉は呪文のように、目の前の何かを変化させたりはしない。ただそれは、はざまの心に靄を生み出しただけ。
しかしながら、それは後から考えると、大きな魔法だった——のかもしれない。
その言葉によって、誰でもなくはざま自身が、自分の心に生まれた靄に気づいたから。
その靄に向き合い、はざまは心の中で強く誓う。
ここにいる間に、先ほどの上野の言葉の意味を、必ず解明してみせる……と。
——言葉を変えればそれは、市田はざまがこの〈幻惑館〉に骨を埋めるという宣言と、ほぼ等しいものだった。
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