星宮すみれ短編集 -Cat yawn-

Little Story 08
『午睡と割烹着とはざま【後編】 -魔道書大戦RPG マギカロギアより-』

 結論から言うと見ただけではほとんど何をやっているかはわからなかったものの、それでもレンズに言われた通り、はざまは二人掛けのソファの前に立ち、上野が作業をするさまを黙って見守り続けた。
 その結果、多少わかったこともある。
 はざまに対して上野は一切の声をかけなかったけれど、完全に無言だったわけではない、ということだ。
「この辺、少しくたびれていますね。オイルは多めにしておきましょう」
「どうですか? きれいになりましたか?」
「今回こちらのベルトは、少しテンションを下げておきましょう。その方が良さそうです」
 実に優しい調子で、手を動かしながら上野は幻灯機に語り掛ける。
 その様子はまるで、尊敬する師匠やごく親しい友人を気遣うため、歩きづらい道でそっと手を貸しながら声をかけているようだった。後ろで見ているだけのはざまをも、優しい気持ちにしてしまうような、穏やかな声。
 ——上野はもしかしたら、幻灯機のことを旧友と同じレベルで愛おしく感じているのかもしれない。
 そんな風に考えたら、何となく、はざまに対する素っ気ない上野の態度も許せるような気がしてきた。誰だって、懐かしく親しい友人と語らっている時間に水を差されたくはない。外様であるはざまにできるのは、黙って作業を見守ることだけだろう。
「立っていると、上野の手元に影が落ちる。座れ、はざま」
 そういう理由であれば、従うことはやぶさかでない。レンズに促され、はざまは二人掛けのソファの、寝そべる猫の横に腰をかけた。思った以上の上質さで、ソファのクッションがふわりと背中を押してくる。
「どうじゃ? 良い座り心地じゃろう?」
「そうね」
 まるで自分の手柄のようにソファを自慢してくるレンズを適当にあしらいつつ、はざまは目の前で作業を続ける上野の手元を見続けた。おそらく視線は感じているはずだが、それをものともせずに上野は淡々と作業を続けている。
 定例のお茶会の時に茶器を扱うよりもずっと丁寧で、優しい手の動き。力を入れてぐいぐいと拭いたりするのではなく、少し弱いくらいの力加減で何度も何度も繰り返し、節張ったその手は、遠目にはきれいにしか見えない部品を一つ一つ拭き上げ、また机の上に戻していく。油を差し、少しずつヒンジの角度をずらしては直し、何度もそれでいいか確認する。コードに巻かれていたテープのようなものをそっとはがし、丁寧に拭いて粘りを取ってから、新しいテープを巻き付けていく。
 そして——どのくらいの時間が経っただろうか。

「はざま! おい、はざま!」

 頭の中に響く声と、太ももに感じる針が掠めるような痛みにハッとして顔を上げると、膝の上に両前足を置いた状態でこちらをのぞき込む淡いセピア色の猫と目が合った。どうやらまた、いつの間にかウトウトしてしまったらしい。
「お待たせしました、市田さん。一通りのメンテナンスが終了しました」
 レンズの背後から近づいてきた上野がいつもの優しい微笑をたたえて、はざまの方に身をかがめる。先ほどの拒絶するような空気は、もう彼の周りには存在していなかった。
「えっ? ……あ、あの。すみません。ウトウトしてしまったようで」
「本当にはざまは、昼寝が好きじゃの。よだれを拭けよ」
 慌てて口元に手をやるけれど、もちろんそこに垂らしたよだれなど一切ない。何となくそのまま頬を触ったりしてごまかして、はざまは適当な念話を送ってきた猫を睨む。
「失礼ね、レンズ。よだれなんて垂らしていないわよ」
 はざまをからかうのは挨拶と一緒、とでも言うように、レンズはぱたりと一回しっぽを振った。そしてそのまま、いわくありげな視線を向けてくる。
「ふむ、そうか。……ときに、良い夢は見れたか?」
 良い、夢——。
 ソファに腰かける直前、この猫と交わした会話とそれに伴う風景が、猫の言葉をきっかけに、走馬灯のようにはざまの目前に蘇ってきた。
 目の前で完全にはざまを無視して、丹念に正確に作業を続ける上野。不思議なほど優しい表情を浮かべ、目の前の機械やその部品を眺めている。対して、猫のレンズはだらんと図々しくソファに寝そべり、まるで自分の椅子を勧めるかのように、はざまに腰を掛けるよう促していた。その時の会話。
「……鮮明な記憶を上映するため、ああして定期的にレンズや、機械の細部の埃を払うのじゃ。名称などどうでもいい。まずは、真理を得よ」
 機械の、調整の必要性を説いたこのセリフ。猫ではない誰か別の人物から聞いたことがある。まどろみの中で見た夢の中で、自分にかけられた声。……それは、誰の声? いつのこと?
「一番大切なことは、今ワシが教えた。あとは上野のやっていることを見て、考えろ。上野には上野の、お前にはお前の役割と気づきがある」
 頭の中に響いた声に押されて、ぐらりと、世界が傾いたような気がした。
「大丈夫ですか、市田さん? 少し、休んだ方が……」
 めまいを覚え、はざまは片手で頭を押さえる。様子がおかしいことに気づいたらしい上野がいつものように紳士的に手を伸ばし、声をかけてきた。彼の言葉や態度は純粋な厚意で、他意はない。それはわかる。……それでも、はざまは反射的にその手を払い、反対側に身を引く。口をついて言葉が出る。
「私は、一人で生きてゆけます。殿方に差し伸べてもらう手など、必要ありません。それより」
 まるで、何かに操られているようだった。誰かがはざまの口を使って、言葉を発しているような感じ。
「幻灯機が、寒いのでしょうか。震えているわ。敷物をしてやったらどうかしら?」
 自分の声がそう言うのを聞いてから、そういえば……とはざまは目の前の光景を見て思い至った。
 上野が今まで作業に使っていた、安っぽくて柔らかい材質のベニヤでできたテーブルと違い、今幻灯機が置かれているのは専用の、装飾の施された分厚くて硬い樫材のテーブルだ。上野が確認のために電源を入れたのだろう。ごく低く小さい、虫の羽音のようなブーンという音が部屋の中に響いている。——これはおそらく、幻灯機の足かどこかの部分が振動してテーブルと接触し、結果、音を立てている状態に違いない。
 はざまは機械関係に明るいわけではない。でも、先ほどの『虫に刺されて痒い程度の不調』という上野の言葉が本当なのであれば、このくらい些細なことが原因という可能性だって、大いにある。気がする。
「上野。彼女の声を聞いてやれ」
 はざまから発せられた言葉の真意を確かめるようにしばし場に静寂が漂った後、猫のレンズが重々しい調子の念話で、上野に指示を出した。
 猫に従い、上野が幻灯機の方へと進み出る。機械本体を少し持ち上げて隙間のできたテーブルの上に、はざまは咄嗟に、制服のポケットに入れていたハンカチを広げて敷いた。再度通電した幻灯機からは虫の羽音のような音はほとんど聞こえなかったので、おそらく敷いたハンカチか、もしかしたら上野が少し幻灯機本体を移動させたこと自体がプラスに作用したのだろう。はざまは個人的にすっきりしたが、どうやら上野やレンズにはその違いはよくわからなかったらしい。二人とも、何とも複雑な表情をその顔に浮かべていた。
 いや……何かが理解できない表情ではない。どちらかというと、驚いているような感じか?
「何というか、夢を見ていたようじゃな。……楽しい夢かどうかは、良くわからんがの」
 そして。
 少しの間を開けてからゆっくりとソファの上で立ち上がり、そう二人に念話を送って、猫はゆったりとソファの上から床へと移動した。足元の方から、もう一度はざまを見上げる。
 猫の紡ぐ念話の主語が、はざまにはよくわからなかった。はざまに向けて言っているような気もするし、レンズ自身の感想という気もする。あるいは、上野の状況を語っているのか。
 真意がつかめず見返すはざまに、猫は顎をしゃくるようにフンと鼻を鳴らした。
「はざまの見たのは、どんな夢じゃった? 細くても構わん。糸口をつかめ。誰が出てきた? どんな気持ちだった?」
 どうやらはざまに向けられた言葉だったようなので、今しがたウトウトしていたことのことを頑張って思い返してみる。
「わからない。でも」
 レンズの言葉ではざまの頭部に、薄い靄の向こうから、ぽんぽんと優しく髪を撫でる手の温かさが浮かんできた。
 多分、今見た夢ではない。そもそもこの短いまどろみの中で、夢を見たかどうかすら定かでないのだ。……でも、あの手の優しさと温かさはまだ、はざまの心の中に残っている。ものすごく大切な、灯火のような感触。
「……温かかった。多分」
「成程」
 ようやくそれだけ絞り出すように答えたはざまの目を見てから、猫のレンズは重々しく頷いた。そのまま、ゆっくり上野の方に視線を移す。
「はざまに、試写のフィルムを選ばせよう」
「市田さんにですか? それは」
 不服を表すため珍しくわずかに眉根を寄せた上野を、しかしレンズは面白くなさそうにちらりと見ただけだった。上野のアドバイスを受け、自分の意見を変える気は全くなさそうだ。
「そのために、この子を手伝いに呼んだのじゃろう? ……はざま。そちらの棚に、幻灯機の調子を見るためのフィルムがいくつかある。好きなのを持ってこい。きちんと映るか、調べてみよう」
「はい」
 素直に答えて、はざまはソファから立ち上がる。
 先ほどからまるで、何かに操られているような感じだった。あるいは、自分か誰かが見ている夢の中にいるような。自由に動けるはずなのに、何か決まったシナリオに沿って動かされているような、窮屈な状況……とでも言うべきか。
 軽い金縛りにあった時のように身体がきしむ感じを覚えながらも、はざまはレンズに指示された通り、スクリーンに向かって右手。ロビー側の壁にしつらえてある棚から適当なフィルムケースを引き抜いて幻灯機の横に戻り、上野に手渡した。
 以前見た、客人用のフィルムケースのサイズに対し、この棚に並べられていたフィルムケースは一辺の長さが約半分。つまり四分の一程度のサイズに見える。当然、上野が開いたケースの中にあるリールのサイズも、客人用の約四分の一だ。背にも表にも、もっと言えば箱を開けた中にあるリールにも、フィルムの内容を連想させる言葉は一切書かれていない。自ら選んだとはいえ、不思議なフィルムだった。
「そちらにあるのは、この〈幻惑館〉の記憶の記録じゃ」
 はざまに説明するためだろう。ごく淡々と、猫のレンズが念話を送ってくる。
「言うなれば、記録映像じゃな。面白いものでもないし、この記憶を求める客人も来ないが、その存在を忘れるのも不憫なので、こうしてたまに、確認に使っておる」
 立ったまま、レンズは床からはざまを見上げた。そのままついと顔を向け、幻灯機と、上野の方を見る。
「どれも、大した内容ではない。それはお前が一番よく知っているじゃろう、上野? ……さあさあ、機械の様子を見るためじゃ。早くフィルムをかけてくれ」

*

 恒例のカウントダウンが終わってすぐ、スクリーンには若い男の横顔が映し出された。
 ごく近くで息を呑む気配を感じて視線を向け、映し出されたその顔が、今幻灯機を操作している初老の男によく似ているということに、はざまはふと気づく。
「このフィルムは……」
「問題ない。口をつぐめ。……続けろ、上野」
 上野が小さくつぶやいて一旦機械を止めかけたが、猫のレンズにとどめられ、そのまま上映は続行された。スクリーンの上で先ほどと同じように、若い上野は何やら幻灯機に手をかけ、部品を外したり細い綿棒のようなもので細かい部分を磨いたりしている。

 そこは、〈幻惑館〉とごく似てはいたが、異なる別のフィルム館だった。

 おそらく魔法を使うことのない、いわゆる〈愚者〉のフィルム館にある映写室かどこかだろう。この〈幻惑館〉の映写室よりもうんと狭く、周りにはフィルムケースや書物だけでなく、脱いで放り出されたであろうくたびれた上着や、飲んだ後放置したままと思われる茶渋のついた湯呑みなどが所狭しと置かれ、雑然としていた。若い上野の周囲だけにガラクタを押しのけて作ったかのような空間があり、そこには今目の前にあるベニヤの折り畳みテーブルと酷似した安っぽいテーブルが置かれ、先ほどのように細かい部品が一定の間隔をあけて整然と並べられている。
「幻灯機を可愛がってもらうのは結構じゃが、上野、もう十分に手入れはしたと思うがの」
「はい。……しかし、これが動かしだすと、ビビリが出てしまうのです。その理由を、私は解明したいのですよ」
 かけられた声に、若い上野はこちらも見ずに返事をした。
 手を止めたくないのだろう。そのまま黙々と手を動かし、上野は作業を続ける。部品を取り除いた後の、空洞になった機械の中をのぞき込んで。握りこぶしほどのサイズのエアブロワーで内側に付いた埃を吹き飛ばして。ドライバーのようなものを持ったまま、たくし上げたシャツの袖を使って、流れ落ちる汗を器用に拭って。
「……ありがとうございます」
 視線を動かさずに礼を口にする上野の汗に濡れた額を、スクリーンの外からハンカチを持つ手が伸びてきて、そっと拭ってまた引っ込む。白くふんわりと丸い袖に覆われた、細い女の腕だった。
「甘やかすことはないぞ、ソウコ。放っておいて少しはくたびれてもらわんと、いつまで経っても午後のお茶が出てこんわい」
 声の方向から、文句を言っているのは映像のカメラにあたる部分にいる人物だということがわかる。つまりこの映像は、この文句を言っている人物の、記憶の記録ということだろうか。……その割には、カメラは完全に固定されていて、その視点が動いたりはしないようだが。
「調子が悪いのであれば、それを直していただくのが最善だと思いましてよ。少しだけ、お茶は我慢なさってくださいな」
 おそらくはハンカチの腕の主に優しく窘められ、文句を言っていた声の主は押し黙った。
 そのまましばらく、若い上野が幻灯機を分解し、部品を拭き清め、そして戻すさまが延々と映し出され続ける。きっと上野本人にはそれなりに興味深い作業でいろいろと思い入れもあるのだろうが、特に説明もなく見続けさせられる方としては、たまったものではない。
「……つまらんか?」
 しばらくの後、観客を気遣うような調子で、文句を言っていた男の声が優しく尋ねた。
「いえ。そのようなことは、決して。……でも、何が何やらさっぱりわからないので、少し困ってしまいますわね。教本などがあればよろしいのですけれど」
 男が声をかけたのはもちろん、スクリーンのこちら側で映像を見ている者たちではない。スクリーンに映らない部分で様子を見守っていたと思われる、男が声をかけた相手——白い袖の若い女の声が、その、自分を気遣う声におずおずと答える。
 女の言葉を聞き、ふっと小さく笑う気配がした。一拍置いて、男の声。

「名称などどうでもいい。まずは真理を得よ、ソウコ」

*

 電撃が走るような衝動と同時に、あっ、と、はざまは思った。

 この話——聞いたことがある。正確には、さっき聞いたばかりだ。
 もちろん、記憶力にはそれなりに自信がある。話を聞いたことだけは、確実に事実。
 でも……それは本当に、『さっき』『この場所で』だっただろうか?
 時間には遮る壁がない。意識にも。その結果まれに起こる、過去と現在そして未来、現実と夢の境界がぼんやりと淀んでそこに揺蕩うような感触。——そんな空気が今、流れている気がした。
 それは、この場所だから起きているのか。このフィルムを見ているからなのか。それとも今まさに、午睡の夢の中にいるからなのか……はざまには、よくわからない。

 そんなはざまを置いて、若い上野を映したフィルムは、回り続ける。

*

 見ている者が眠たくなるような淡々とした調整作業がようやく終わり、スクリーンの向こうではこちらと同じように、フィルムの試写が行われるようだった。
 作業をしているその場所から一歩も動かぬまま、若い上野がその辺にあった適当なフィルムケースを持ち上げ、カメラのこちら側へと差し示す。
「このフィルムをかけてみてもよろしいでしょうか?」
「構わんよ。……では我々は、特等席へと移動しようかの」
 先ほどから聞いていた男の声と共に、ここで初めて、カメラのアングルが移動した。
 幻灯機の後ろからスクリーンに向かって左横を抜け、おそらく幻灯機が置いてある台の斜め左前あたりまで進む。しつらえた、やや黄ばんだ白っぽいスクリーンを正面に見て、止まる。スクリーンの左下側に円の上三分の一程を切り取って張り付けたような、まるで日の出のような黒い部分があるのは、カメラの左前に一人、共に映像を見ようとする人物が立っているからなのだろう。
 〈幻惑館〉の上映と全く同じ、カウントダウンが始まった。
「……おかしいですね。さっきは、ビビリは収まっていたのに」
 ほぼ同時に、今度は後ろの方角から聞こえてくる上野の声。
 促されて耳を澄ませてみれば、春の野原か何かが映し出された映像の裏に、ビビビ……とごく細かな、衣擦れ程度の小さな音が聞こえる、気がする。
「ワシには、聞こえんが……年のせいじゃろうか。耳も身体と同様、ガタが来ておるからの」
 特等席で映像を見ている男に、その音は聞こえないようだった。が、左前方にいるシルエットがちらちらと頭を動かし幻灯機の方を見ているところを見ると、こちらの人物にはその異音が聞こえているらしい。
「あの。……幻灯機は、痛いのではないでしょうか?」
 そして。
 しばらくちらちらとこちらを見ていたシルエットが、女の声でそう、カメラの方に尋ねてきた。
 まるで発言すると怒鳴り散らされるとでも言いたげな、小さく遠慮した声。そんな彼女のか細い声を聞いて、カメラがぐるりと回って後ろの方を映す。振り向いたような動き。
 そこには、暗幕の隙間からひょっこりと顔を覗かせた、幻灯機のレンズがあった。
 光を遮るのに左右から暗幕を引いただけでは不十分だったのか、さらにその隙間をふさぐため、レンズの上下ギリギリの部分が、何かでつままれたように不自然にしわが寄った形になっている。女の声が言うように、その不自然なしわの部分が、何となく苦悶の表情を浮かべているようにも、見ようによっては見えた。
「上野。レンズの上下の部分は、どうなっておる?」
 男の声が尋ねると同時に、またカメラが動く。暗い暗幕のこちら側から急に向こう側に移動したためぱっと一瞬ホワイトアウトした後、ゆっくりと映像が戻ってきた。先ほどまでカメラがしつらえてあった、作業のための、明るいスペース。
 カメラは、幻灯機を後ろ側からとらえていた。頭だけ突っ込んで、暗幕の向こう側を覗き見ているような状態の後ろ姿。その首元に当たる部分の上下は光を漏らさないように、暗幕に留められた銀色の目玉クリップで、ぴったりと左右を縫うようにとじ付けられていた。
「そこです。そのクリップが、痛いんだと思いますわ」
 カメラの後ろから、先ほどの女の声が聞こえた。一拍空けて、先ほどの白くふんわりと丸い袖が左側後方から差し入れられる。そっとクリップを外し、それの代わりに……おそらくはアメピンだろう。髪を留めていたと思われる黒く細いピンで、クリップが押さえていたあたりの暗幕を閉じ、しとやかに白い袖はカメラの後ろ側に引っ込んだ。
 そして、しばしの静寂。
「ふむ。……これで幻灯機は痛くないと、そういうことか」
 ビビリ音が消えたことを、上野や白い袖の女が確認するのを待つために違いない。しばし不自然に黙ってから、カメラの後ろにいると思われる男が口を開く。
「クリップが幻灯機に干渉していたのですね。確かにビビリ音は消えましたが……よろしいのですか? ボビーピンを使って留めたりして。高価なものなのでしょう? 失くしたとあっては、お父様に叱られませんか?」
 若い上野の耳からも雑音が取り除かれた様子で、今と同じような穏やかな微笑みが、カメラの後方へ向けられた。カメラ目線が、少し外れたような状態。
「……父は、関係ありません」
 そんな、かなりの確率で若い女が胸ときめかせるシチュエーションなのに、カメラの向こうにいる女の声は思いがけず硬く、とげとげしい。
 びっしりと敵意のトゲを生やしたまま、女の声は怒りを隠すことなく、続けて上野に投げつけられた。
「クリップでは、カーテンの端から金属が飛び出てしまいます。クリップ自体も重いので、機械に当たることもあるでしょう。でもその点、ボビーピンであれば、布からはみ出ません。これよりもっと良いものが見つかるまで使っていただきたくて、こうしたまでです。女のくせに差し出がましく、失礼いたしました!」
 そして、再度の静寂。
 こちらに顔を向けている若い上野は、少し戸惑っているようだった。彼にはおそらく白い袖の女を貶めようとか言い負かそうとか、そういった負の感情はなく、単に彼女を慮っているように感じられる。それなのに何故こんな事態になっているのかといえば……答えは簡単。白い袖の女の方が、自分に差し伸べられた優しい手を頑なに撥ねのけているからだ。
 その理由がわかっているのかいないのか、カメラの前の上野は淡く眉根を寄せ、カメラの左側を見続けた。怒りに膨らんで威嚇してくる猫に、どう手を差し伸べたらいいのか迷っている感じにも見える。
 しばらくオロオロと左側を見て、上野はふいと視線をカメラ方向に動かした。助けを求める目。
「そうかそうか。……ありがとう、ソウコ」
 そして。
 上野の視線に応えるように、カメラの後ろから男が優しく、言葉を紡ぐ。
「よく考えてくれた。本当にお前は気が付くな。優秀な証拠じゃ」
 小さな子をあやすような、あるいは怒り狂う猫をなだめるような、穏やかな声。
 白い袖の女は画面に映っていないけれど、上野のホッとしたような表情から、その声で彼女が怒りを収め、落ち着いてきたことが何となくわかった。
 少し間を置き、男の声が柔らかく同じ調子で続ける。
「男だ女だは関係ない。お前さんは、うちの立派な二番弟子じゃ」
 ふふっと、誰かが笑う声。それに答えるように、もう一人誰かが笑う気配。唯一画面に映った若い上野も、顔に微笑みを浮かべている。

*

 きっと声の男は今の上野くらいの年齢で、最後にポンポンと、白い袖の女の頭を優しく撫でたのだろう。
 ——少し羨ましい気持ちと共に、はざまは直感的に、そう思った。

「どうした、はざま? 何か嬉しそうじゃな」
「別に、何も。ただ……何だか楽しそうだったなと、思っただけ」
 無遠慮に踏み込んでくる猫の念話を適当にあしらい、はざまは既に上映を終了しているスクリーンの方を見つめる。
 きっと、あの白い袖の女の人は上野や声の男の人の役に立ち、二人に認められたかったのだ。それは例えば、同じように幻灯機を回してフィルムを上映することかもしれないし、そこまでできなくても、何か自分が意見したことを褒めてもらうとか、そういうことでもいい。認められたい、という、強い思いをはざまは彼女から感じていた。叫びだしそうなほどの、身体を揺さぶるような自己承認欲求。……身に覚えがある。〈学院〉での主席という座にある意味しがみつくはざまの中にも存在している、認めてほしいという、強烈な思い。
 その強さに思わず自身の両腕を抱いたとき、ふとはざまは、自分の袖が白くふんわりとした布に覆われていることに気づいた。
 上野がどこからか引っ張り出してきた、時代を旅してきた割烹着。
 ……もしかしたら、いや、おそらくこの割烹着は、あのフィルムの中の彼女が着ていたものに違いない。そして多分、この両ポケットに入っている銀色の目玉クリップが、先ほど彼女が暗幕から外し、アメピンと交換した暗幕留めだ。——そう思った次の瞬間、ぶわりと身体中の毛を逆撫でされたような、得も言われぬ感触がはざまを襲った。
 足元から頭頂部に向けて、猛々しい思いが駆け抜ける。勝手に、口から叫び声が出る。
「私。私は……人として生きたい。隷属したくはない!」
「市田さん? どうされましたか? 市田さん!?」
「私を自由にして! 好きなことを極めさせて! 家庭に縛らないで!!」
 宥める上野の声が遠く聞こえた気がした。それでも、叫び声は止まらない。何かを絞り出すように、はざまは自分の言葉でない、締め付けられるほどの強い思いを吐き出す。
 そして——
「市田はざま!」
 何かに取りつかれたように吠えるはざまを一瞬で収めたのは、鋭い猫の念話だった。
「市田はざま。……今のお前は自由だ。好きなことを極め、好きな生き方ができる。家庭に縛られることもなく、親に売られることもない。安心しろ、はざま。お前は自由じゃ!」
 畳みかけるように頭の中に響いてくる念話で、はざまの中の荒ぶる何かは勢いを削がれたようだ。ふっと身体の力が抜け、はざまはようやく自分の口で自分の言葉を話せるようになる。
「す、みません。今、私……」
「夢じゃな」
 いつものポーカーフェイスでなく、表情を作る余裕のない無表情。そんなはざまにレンズはふいと視線を向け、靄を払うようにぱたりとしっぽを振った。
「この場に漂う夢を見ただけじゃ。気にするな」
 魔法使いとして、他の者に身体を乗っ取られることは恥ずべきこと。そういう認識がはざまにはある。他者に身体を乗っ取られることは、最終的には〈断章〉に憑依されることに繋がるだろう。立派な〈書警〉を目指す身としては、敵につけ入られる弱みを持ってはいけない。——そういう考えから思わず出た謝罪を、猫のレンズは優しく受け流した。
 猫のしっぽが再度、ゆらりと振られる。まるで、催眠術の術師が見つめるよう言ってくる、コインのついた振り子のように。
「今はただ、健やかであれ、はざま。望む夢が、次は見られるように」
 ゆったりと頭に響いてくる、穏やかな念話。
 ゆらり、と、眠気を誘うような調子に、ぐらりと脳が揺れるような感覚がはざまを襲う。不快な感触ではない。優しく眠りに誘うために、眠り男に魔法の粉を振りかけられるような、なぜか嬉しくて安らかな気持ちだった。

*

「身体が疲れていたり、精神的に追い詰められていたりする時は、なかなか夢には巡り合えないものじゃ。夢を見るためには、身体や心の疲れを取り除いてやる必要がある」

 先ほど、したり顔で猫が発していた言葉が、再度聞こえる。
 正確には『良い夢を見るためには』だ。——先ほどと全く同じコメントを思い浮かべながら、何だかおかしくなって、はざまはふふふと笑った。

 温かい手が、優しくぽんぽんと小さく跳ねながら頭を撫でる。

「今回の件、少し早かった気がします。年若くしての憑依の経験は、禁書中毒ブッカホリックになる確率を増しますよ。危険です」
「案ずるな。はざまが、あのフィルムを選んだ。つまり、今がその時だったということじゃ」
 聞こえてくる、少し強ばった声と、緊張感のなさそうな念話の対話。

 それに重なるように、自分自身の声も聞こえた、気がした。
「記憶の糸は、掴めましたでしょうか?」
 ……もちろん、それに答える声はない。

 嬉しくて楽しくてワクワクして温かくて、そして、少しだけ切なくて。
 言葉で表現できない雑多な感情のスムージーのグラスに一滴、ブルーのインクが混じったような——多角形で構成された、短い夢。

*

「……はざま! おい、はざま!」

 頭の中に響く声と、どこからか聞こえる何かを引っかくカリカリという音にハッとして、はざまは浅い眠りから目を覚ました。

 研修と称して所属する〈学院〉から送り込まれたここ〈幻惑館〉に、本日来客の予定はない。
 ゆえにはざまの仕事も発生せず、今日一日は自由時間。はざまはあてがわれた屋根裏部屋で教科書をひもとき、自習をしていたところだった……はずなのだが、たまった疲れのせいなのか単に室温が高すぎたのか、机に向かったままちょっとウトウトしてしまっていたらしい。
「はざまー! 生きておるかー、はざまー?」
「はいはい。今開けるわよ、レンズ」
 しつこく頭の中に呼びかけ続ける念話の声とおそらくドアを爪で引っかくカリカリという音に答え、はざまは文机の前から立ち上がり、閉めてあった薄い木の扉を開いた。

 頭を掠める淡い既知感と共に、細い隙間から薄茶色の猫が、するりと部屋の中に入ってくる。

 同時に鼻先を一瞬、独特な防虫剤の匂いがふわりと掠めて、またすぐに消えた。
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