Little Story 07
『午睡と割烹着とはざま【前編】 -魔道書大戦RPG マギカロギアより-』
温かい手が、優しくぽんぽんと小さく跳ねながら頭を撫でる。
「お前さんは、うちの立派な二番弟子じゃ」
穏やかで柔らかい、老人の声。
そんな自分に向けられた声に、くすぐったいような気持ちになって、思わず笑みがこぼれた。うふふと笑うと、自分を撫でてくれる手の主もそれに合わせてフフフと笑う、気配がする。
ただそれだけの——懐かしくて幸せな、短い夢。
「はざま! おい、はざま!」
頭の中に響く声と、どこからか聞こえる何かを引っかくカリカリという音にハッとして、「時間を彷徨う舟」市田はざまは浅い眠りから目を覚ました。
研修と称して所属する〈学院〉から送り込まれたここ〈幻惑館〉に、本日来客の予定はない。
ゆえにはざまの仕事も発生せず、今日一日は自由時間。はざまはあてがわれた屋根裏部屋で教科書をひもとき、自習をしていたところだった……はずなのだが、たまった疲れのせいなのか単に室温が高すぎたのか、机に向かったままちょっとウトウトしてしまっていたらしい。
「はざまー! 生きておるかー、はざまー?」
「はいはい。今開けるわよ、レンズ」
しつこく頭の中に呼びかけ続ける念話の声とおそらくドアを爪で引っかくカリカリという音に答え、はざまは文机の前から立ち上がり、閉めてあった薄い木の扉を開いた。ドアのラッチがカチャリと外れると同時に、細い隙間から淡い琥珀色の猫がするりと部屋の中に入ってくる。思った通り、扉の外でドアを引っかいていたのは、この〈幻惑館〉にはざまが来る前から住む、使い魔の猫レンズだった。
「おお、生きておったか、はざま! 返事がないので案じたぞ」
「そう簡単に死んだりはしないわよ。……で、何?」
入ってくるなり猫のレンズは狭い部屋を斜めに横切り、我が物顔で窓の近くにある文机の上にぴょんと飛び乗る。自分の尻の下に敷かれた格好になる、はざまの教科書をしげしげと眺めて。
「居眠りか、はざま? 垂れたよだれの跡が付いておる」
「失礼ね、よだれなんて垂らしていないわ。……それで、用件は何なの?」
はざまから発せられるあからさまな拒絶のオーラをものともせず、文机の上の猫は埃を払うように身体の前に持ってきた尻尾をぱたりと一回振って、会話の間合いを取った。
「午後のお茶が入ったぞ。急ぎ参れ。……と上野が申しておる」
「悪いけどお茶は」
「目を覚ますのに、熱いお茶は恰好じゃぞ。よだれを拭いてすぐ来い」
有無を言わさずそれだけ伝えると、猫はすたりと文机から飛び降り、細い扉の隙間をすり抜けて去って行く。レンズお得意の軽口だとは思ったが、一応口元に汚れがないかを確認してからはざまもそのまま後に続いて部屋を出て、階段を降りた。——研修の責任者であると思われる上野が、はざまを呼んでいるのであれば仕方がない。それに、少しは休憩も必要だろう。レンズの言うとおり、お茶は眠気覚ましにもなる。
「お勉強でお忙しいところ、お呼び立てしてしまい申し訳ありません。でも、少しは休憩なさった方がよろしいですよ」
少々面倒に感じながらもはざまが階下にある『関係者控室』へ降りていくと、案の定、レンズの言葉とは対照的としか言いようのない丁寧な言葉で、階下にいた研修の面倒を見てくれる「重なる影に当たる光」上野彦馬がはざまを迎え、恭しく椅子を引いてくれた。やはり『急ぎ参れ』と不躾な上から指示になったのは、レンズの翻訳によるものらしい。
「お勉強でお忙しくはない。はざまは、よだれを垂らして昼寝の真っ最中だったわい」
無言で睨むはざまの視線は完全無視で、レンズは図々しく、茶の支度が調っていた丸テーブルの上にぴょんと飛び乗ってきた。更に強くはざまが睨みつけたところで、どこ吹く風だ。
「市田さんは毎日、研修の業務に加えてお勉強もありますから、お疲れなのですよ」
「いえ……単に気が緩んでいただけだと思います。お恥ずかしいです」
猫のレンズに馬鹿にされるより、上野に真正面から気遣われる方が心に刺さる。思わず恐縮して頭を下げるはざまを、上野は慌てて押しとどめた。
「気に病むことはありませんよ、市田さん。あの部屋は屋根裏ですから、空気の通りが良くないのです。きっと、この部屋でストーブを焚きすぎたのが原因で、熱が上がってしまったのでしょう。こちらこそ、申し訳ない」
「そもそも、昼寝は禁止されておらぬ。寝たければ、布団で堂々と寝るが良い。本によだれを垂らすよりマシじゃ」
上野とは真逆で、弱みを見つけた(と彼が感じた)瞬間から一切猛攻の手を緩めないレンズの念話は完全に無視して、はざまは目の前に差し出された薫り高い紅茶に砂糖を入れ、スプーンでくるくるとかき混ぜる。
客人がある時もない時も、いつも変わらずに執り行われる、伝統のお茶会。
はざまが〈幻惑館〉に来る前にも、きっと上野とレンズは決まった時間になると良い香りのお茶と人肌に温めたミルクを前に、この猫足の丸テーブルに集っていたのだろう。この午後の時間は客人がある日だとしてもフィルムを上演している最中になるし、そもそも場所がここ、『関係者控室』なので、客人がこの茶会に呼ばれることはない。純粋に、上野が自分たちのためだけに開く茶会だ。
ここにこうして集まることが何かの役に立つとは思えないのだが、自分が来る前からの風習のようなものらしいので、はざまは今のところ、それに大人しく従うことにしていた。今日は少し暖かいですね、とか、北の方ではまだ雪が降っているのでしょうか、とか、毒にも薬にもならないささやかな話題を拾いつつ、一時間ほどの時間を消費するだけだ。試験前ならともかく、研修のため〈学院〉を離れている今となっては、別にその一時間までもが惜しいとは思えない。
しかも。
「それにしても、はざまは熱心なことじゃな。〈学院〉の試験は昨年末に終わったはずじゃろう? 今学院生たちは試験勉強から解放されて、羽を伸ばしている頃ではないのか?」
忘れよう、忘れようと頭から追いやっていた事実を不躾な猫によって目前に提示され、はざまは思わずポーカーフェイスを崩し、顔をしかめる。
……そう。この生意気な猫の言うとおり、研修と称してこの〈幻惑館〉に送り込まれている間におそらく、年末の期末試験は終了した。ゆえに、今回の試験は欠席扱いとなり成績は全科目0点。不名誉なことにはざまは、人生で初めて〈学院〉の主席を転がり落ちる羽目になった。はずだ。
「怖い顔をせずとも、別に上野もワシも、はざまが不勉強ゆえ落第したとは思っておらぬ。単に研修で、試験に出ることができなかっただけじゃ。恥じることはない」
「それは、そうかもしれないけど。……ていうか、失礼ね。まだ落第したと決まっていないし!」
はざまの顔色が変わるのを見てまずいと思ったのか、急に猫は彼女を取りなす口調に変わったが、完全に、焼け石に水。——いや、正確には火に油だ。
研修に担ぎ出される以前、はざまは同期の中でも飛び抜けて優秀な学生と見なされていた。もちろん、所属してから今までの三年間、はざまが主席の地位を他に譲ったことはない。彼女の人生設計では、はざまはこのまま主席で〈学院〉を卒業し、立派な〈書警〉となって精鋭の揃う〈分科会〉に呼ばれ、〈禁書〉の撲滅に力を注ぐはずだった。なのに……昨年の秋に突如、〈禁書〉の撲滅とは全く関係なさそうなここ、〈幻惑館〉に研修と称して送り込まれたのは、本当に何故なのか、未だによくわからない。
それでも、ともかく……本来の本分である学業に力を入れてさえいれば、〈学院〉の気まぐれが収まって〈学院〉に戻れたその時、絶対に道は開ける。——そう思って、はざまは今まで隙さえあれば〈学院〉の教科書を開き、独学で頑張って勉強を続けていた。
それなのに昨年末、試験の期間になっても『〈学院〉に戻られたし』という書簡は届かず、今に至る……のである。
「相手の気持ちを慮らず、言葉で傷つけるのは感心しませんね、レンズ。いい加減に口をつぐまないと、さっき届いたマドレーヌは出てきませんよ?」
「はざまはこんな言葉で傷つくほど、弱い人間ではない。……と思うが、案ずるな。マドレエヌのため、口をつぐむのはやぶさかでないぞ」
上野の取りなしでようやく遠慮のない猫の念話が止まった。静かになった頭にさりげなく手を当てるため、ゆっくりと額にかかった髪をかき上げる。騒がしい食堂から、寮の自室にもどったような感覚。心の中でホッと一息付いて、はざまは目の前にあった少し冷めた紅茶を口に運んだ。
そんなはざまを見やってから、上野は一旦ミニキッチンの方に引っ込み、マドレーヌの入った小さなカゴを持ってくる。中から一つをレンズの前にあった皿に移し、残りをカゴごとテーブルの中央に置いてから、ようやく上野自身も茶器の用意されているテーブルに着く。
そして。
「さて、市田さん。実はここ数日、幻灯機の調子が少し良くなくて……。そこでこの後、少しメンテナンスをする予定なのですけれど、お手伝い願えませんか? たまには息抜きも必要でしょう。お忙しいようでなければで結構ですが」
しばし無言でお茶を楽しんだ後、ゆったりとカップを口元に運びながら、さりげなく上野がはざまに視線を向けてきた。
「幻灯機の調子、悪かったんですか? 気づきませんでした」
はざまの仕事は、ここ〈幻惑館〉にやってきた客人を迎え、フィルムを上映する劇場まで案内し、上映終了後は速やかにその客人を送り出す——という、ごく簡単なものだ。フィルムを上映する幻灯機に関しての知識は全くない。なので調子が良かろうが悪かろうが一切わからなくても不思議はないのだけれど、毎日関わっているものが『調子が悪い』ということに気づかなかったとは、魔法使いとして観察不足だろう。恥ずかしさに思わずまつ毛を伏せるはざまを、取りなすように上野が優しくのぞき込む。
「上映に支障があるレベルの不調ではありませんから、市田さんが気づかなくても当然です。人間で言うと、ちょっと喉がいがらっぽいかな、とか、虫に刺されて痒いな、とか、その程度の不調です」
上野の言葉が本当であれば、それはつまり、ごく些細な違和感、という程度の『不調』なのだろう。
研修の責任者である上野の言葉を勘繰らずに信じることにして、はざまはゆっくりと顔を上げた。お得意のポーカーフェイスのまま、上野に視線を合わせる。
「そうですか。幻灯機のメンテナンス……と言いますと、具体的には何をするのですか?」
「パーツを分解して、各々を磨き清め、組み直して微調整をします。貴重なお勉強の時間を割いて頂くのは心苦しいのですが、市田さんはこちらに研修でいらっしゃっているので、こういった作業もご覧になっておいて損はないかと」
上野の言うとおりはざまはこの〈幻惑館〉に研修で来ているので、通常業務以外の業務を任されても不思議はない。もしかしたら『幻灯機の不調』自体が単なる口実で、試験の件で気落ちしているはざまを気遣い今とっさに作り出した追加業務なのかもしれないが、それでもそれはそれなりに、なかなか興味深い仕事でもある。
「わかりました。お手伝いさせて頂きます」
「ありがとうございます。助かります」
座ったままではあるものの丁寧に頭を下げる上野。そんな上野にかえって恐縮するはざまの代わりに、マドレーヌをあっという間に食べ終えたレンズがくるりと一回前足で顔を洗ってから、澄ました顔で答えた。
「なに、上野が恐れ入ることはない。はざまは研修でここに来ておるのだから働くのは当然のことだし、それより何より、はざまは今の今まで、机の前でよだれを垂らして、惰眠をむさぼっておったのじゃからな!」
劇場の、赤っぽいビロウドの椅子が置いてあるその後ろ。黒いカーテンで仕切られている奥に〈幻惑館〉の幻灯機は設置されているという。
午後のお茶を楽しんだ後、はざまたちは全員で劇場の方へと向かった。
いつもはざまが客人を通して椅子を勧め、カウントダウンが始まるのを確認して辞するその劇場の奥。ほんの数歩行った先の厚いカーテンの向こう側に、はざまが足を踏み入れたことはない。もちろん用事がないというのがその一番の理由だけれど、カーテンの向こう側は上野のエリアで、彼以外の何人たりともそこに足を踏み入れてはいけないという、他者を排する魔法のようなものがかかっている——そんな雰囲気を感じていたからだ。
「本当に入って、いいんでしょうか?」
思わず口を付いて出た言葉に、上野は優しく微笑んで頷く。
「もちろんです。手伝いを頼んでいるのはこちらですよ。そうでなくとも、関係者に立ち入りは禁止していません。ご自由に、お入りください」
同時に上野は黒いカーテンを六〇センチほどすっと横に引き、はざまのために通路を作ってくれた。劇場と同じ明度の薄暗い空間ははざまが考えていたよりも広いらしく、突き当たりの壁まで見通すことができない。
「奥は相変わらず、暗くてかなわんな。幻灯機の世話をするなら、あちらもこちらもカーテンを全て開け、もう少し明かりをつけねば、細かな汚れを見つけることはできんぞ?」
「それもそうですね。では、カーテンを全て開けて、劇場の方も明かりをつけましょう」
至極もっともなレンズの文句に答えて、上野は手をかけていたカーテンを、仕切りを取り払うようにそのまま壁の方まで引っぱった。どこで操作したのか、劇場と、その奥の幻灯機があるというスペースがクレシェンドですうっと明るくなる。
カーテンの向こう側は、こちら側の劇場と同じくらいの広い空間だった。
はざまのいた〈学院〉の視聴覚室などだと、映像を見る部屋に対してそれを映写する場所は狭くて小さな空間と相場が決まっている。映写機ギリギリの縦スペースと、それを操作する人が一人二人入れる程度の横スペース。残りはフィルムや上映に使用する機器を仕舞う棚のようなものに占拠された、必要最低限の空間。という感じのはずだ。
しかし、目の前の『幻灯機の間』は、そうではなかった。
まず、広い。客人を招く劇場とほぼ同じくらいの広さだろうか。この〈幻惑館〉の劇場自体、あまり人数を入れる想定にはなっていないので狭めではあるものの、それでも幻灯機を置くスペースとしては広すぎるサイズの部屋だ。
次に、部屋の雰囲気が一般的な『映写室』とは明らかに違う。映写室は言わば『楽屋』で、客人を招き入れることを想定していない。ゆえにその内装等はギリギリまで削られ、殺風景なのが一般的だろう。下手をすると、物置も兼ねているのかと聞きたくなるような雑多な部屋になっている場合もある。
しかし——はざまの目の前にある空間は、そういう雑多な、とか殺風景な、という形容詞が似合わない部屋だった。言葉で表すとしたら……寛ぎの、とか、上質な、とかそんな感じだろうか?
上野が開いたカーテンの近く。この映写室の端ギリギリで、カーテンの左右が合わさる中央あたりに頑丈そうな木のテーブルがあり、幻灯機が置かれている。テーブルは丹念に磨かれた分厚い樫材でできており、よく見ると側面に豪奢な彫刻が施された高価そうなものだ。重く、貴重な幻灯機を支えるという意味で硬く頑丈な樫材が使われていることまでは納得がいく。が、側面の彫刻はそういった用途のテーブルには全く必要ない。完全に無駄で、贅沢の類に当たるのではないだろうか。
はざまの方から見て幻灯機の左手後方。幻灯機を操作する人間の右手に当たる部分にも一回り小さめで同材質のテーブルがセットされていた(ネストテーブルなのかもしれない)。おそらくあそこに、その日上映するフィルムの箱を置くのだろう。こちらのテーブルも、作業用のものにしては豪華で、贅沢なものだという感じがした。
しかし、それより何よりこの部屋で贅沢さを感じさせるのは、その幻灯機の後ろ——つまり、スクリーンから見て幻灯機のちょうど後方に設置された、赤っぽいビロウドのソファセットだ。
スクリーンを正面にして二人がけのもの。その椅子前の空間を囲むように、それに対し九〇度の位置で左右にそれぞれ設置されているのが一人がけのもの。この映写室の所在が〈幻惑館〉の建物のちょうど真ん中あたりに当たるため、暗幕の面以外三方向は完全に壁と棚で囲まれているけれど、そこに広い窓の一つでもあれば、立派な応接室に見えるだろう。ソファの張り布の色や感じが似ているので、はざまが客人を案内した折に勧める、劇場にある椅子とおそらく同じ材質。もしかしたら同じシリーズの品なのかもしれない。しかしながら、背筋を伸ばして座るタイプの劇場にあるテーブルチェアと違い、明らかにこちらの方がゆったりと体重を預けられる、ラグジュアリーなものだということだけは一目でわかった。
本来であれば、客人を招き入れて勧める椅子は劇場にあるテーブルチェアでなく、このソファだ。前にも後ろにも基本的に他の客人は入らないので、劇場の椅子は少しぐらい低い位置でも問題ない。それなのに、客人を招き入れる劇場には普通の椅子で、楽屋と言うべき映写室、しかも幻灯機を操作している上野は座らないと思われる位置に設置されているのがソファセット……というのは、何とも不思議な光景に見えた。
「ああ、市田さん、すみません。こちらで作業に入る前に、これにお着替えください」
言葉を失って立ち止まり、映写室を眺めるはざまに、上野が折り畳んだ白いものを差し出してくる。受け取った瞬間、ふわりと昔の防虫剤の香りが立ち上ってきた。これは……何という薬品の匂いだったっけ? ナフタレン?
「……これは? 時代服ですか?」
「知らぬのか? 割烹着じゃ。……ああ、別に今着ている服を脱ぐ必要はない。その上から、袖を通すだけで着用できるぞ」
口を付いて出た疑問には、足元で様子を見守っていた猫が念話で答える。
今まで、客人の生きてきた時代に合わせて部屋に届けられてきた『時代服』は、古臭かったり見慣れないデザインであったりしたものの、品自体は新品かそれに近いものだった。しかし、今渡された割烹着……とやらは、触った感じから何度も洗われ、使い込まれてきた布の気配がする。しかもかなり長時間保管されてきたのだろう。時代を超えてきた物特有の強烈な防虫剤の匂いと、年月をかけてゆっくり色あせたような感じがあった。
「時代服……と言えば、まあ、そうです。今で言う、エプロンのようなものだとお考えください。分解調整には油なども使いますので、市田さんのお洋服の汚れを防ぐためのものです」
しげしげと渡された割烹着を眺めるはざまに、上野が優しく口添える。
この服の古臭さはもしかしたら、単にこれが既定の時代服ではなく、はざまに貸し出すため倉庫の奥から適当に引っ張り出されたものだから、なのかもしれない。エプロンのようなものであれば、別に新しくても古くても違いはないだろう。ありがたく借りることにして、はざまは手にしていた割烹着をぱさりと振って開き、手を差し入れる部分を探した。
白衣のようなものかと思ったら、開くのは背中に当たる部分で、袖を通してから後ろ手に合わせの紐を結ぶらしい。慣れない形状の服に少々手間取りながらもそもそと背中に回した手を動かし、はざまはようやく、背中の合わせ紐を三つの小さな蝶々結びに整えた。左右のポケットに一つずつ、作業時に袖かどこかを留めるためだろうか。銀色の目玉クリップが入っていたが、どこに付けるものなのかわからなかったため、それらはそっと両のポケットへと戻す。裾を引っ張って折り皺を伸ばす。着用完了。
——これ……やけにサイズがぴったりじゃないだろうか?
見える範囲で割烹着をまとった自分の姿を見回し確認してから、はざまはふと考えた。
はざまは同じ年代の女子よりも少々背が低く、華奢な作りだ。エプロンや汎用のローブなどだと丈が足首まで届いてしまったり、身幅が広すぎて恰好がつかなかったりすることも多い。実際、貸与される時代服も標準サイズであるがゆえに丈も身幅も少し大きめで、結果だらしない印象になってしまうこともあった。
この割烹着という服も、エプロンのようなものだというからには、様々な体型の人が使えるようなものだと思う。それなのにその汎用の品が、はざまの細い身幅にぴったりというのは何とも不思議な感じだ。もしかしたらこれは、汎用のものではなく、はざまのような華奢な体型の持ち主に合わせて作られたものなのかもしれない。
でも……だとしたら、それは、誰?
「着られましたね。割烹着、よくお似合いです」
「ありがとうございます」
何となく煮え切らないまま、反射的に口先だけで上野の言葉に答えてから、はざまは慌てて首を振る。
——この、割烹着というものを使っていた時代の女性は、華奢な人が大多数だったのかもしれない。前の持ち主が、たまたまはざまと同じような、小柄なタイプだっただけなのかも。……でも、それは今から行う作業とは一切関係のないことだ。まずは一つ一つ、目の前の課題を片付けること。それが多分、この謎の研修を終わらせるための、一番の近道に違いない。
「では市田さん、こちらにいらしてください。早速、始めましょう」
「はい」
心の中で気持ちを新たにし、はざまは上野の言葉に答え、厚いカーテンの向こう側にあたる部分に足を踏み入れた。ふわり、と博物館の空気のような匂いが鼻をかすめる。
その匂いは映写室独特の匂いなのかもしれないし、もしかしたら——はざまの着ている割烹着の内側から沸き立ったもの、なのかもしれない。
「では、少しずつ分解を進めていきますね。……失礼します。痛くはしませんよ」
呼ばれたはざまが映写室のエリアに入ってすぐ、上野がそう声掛けして作業は始まった。
失礼しますとか、痛くしないとか、自分に対する言葉にしては少し変だなと違和感を覚えつつ、はざまは口を挟まずに様子を見守る。その真意に関しては、作業が進むことによって徐々にわかってくるものなのかもしれない。期待を込めて待つ。
しかしながら、謎の言葉の真意はいつまで経っても明るみには出てこなかった。しかも時間を追うごとに言葉だけでなく、上野の行動にも少しずつ、不自然な部分が見えてくる。
まず、初めに変だなと感じたのは、上野が関係者控室の方から折り畳みのテーブルと椅子を持ってきたことだ。
幻灯機の横には立派な樫材の作業台と思しきテーブルがしつらえてあり、近づいてみるとその横に、劇場にあるものと同じと思われる赤いビロウドのテーブルチェアが置かれていた。場所的にも高さ的にも、幻灯機に関する作業をするためにテーブルは使われるものだろうし、作業をする人物が腰かけるために椅子は置かれている。なのに上野はその立派なテーブルも椅子も無視して、運んできた……ベニヤだろうか? はざまの借りている屋根裏部屋にある文机と同レベルに安っぽくて適当な感じの折り畳みテーブルとパイプ椅子をがちゃりと開き、作業スペースを作ったのである。
「あの。その椅子やテーブルは使わないのですか?」
不思議に思って聞いてみても、上野は静かに微笑むだけ。
「はざま。何を不満げな顔をしておる? そんなところにボケっと立っておらず、こちらに座ったらどうじゃ?」
「ボケっとなんてしていないわよ」
猫のレンズに指摘され、自分がポーカーフェイスを通り越し仏頂面になっていたことに気づいて少し慌てて。照れ隠しかねがね小さな声で念話に答えてから、はざまはいつの間にか猫が寝そべっていた二人掛けのソファの方へと足を運んだ。
「ほれ。ワシの横でも良いし、左右の小さいほうの椅子でも良いぞ」
「座ってなどいられないわ。手伝いに来ているのだもの」
あくまでも図々しく、そして堂々と椅子をすすめるレンズに、はざまはため息交じりに言葉を返す。……そう。はざまは今、上野の手伝いをするためにここにやって来たのだ。上野の方から言い出したことで、その要請を受けた結果。それなのに。
「……あの、上野さん。私は、何をすれば良いでしょうか?」
「どうぞ、くつろいでいてください。何、すぐに終わりますから」
溜まりかねて声をかけたはざまに対し、しかし上野はつれないままだ。
……考えてみれば、これもおかしな話だろう。はざまに手伝ってほしいと声をかけたのは上野の方なのに、ここに来てから彼がはざまに対して出した指示は、割烹着を着るよう言った以外に一つもない。何かの間違いを疑うレベルでこの〈幻惑館〉とは縁もゆかりもないのに研修としてよこされたはざまに、余計な手を出してほしくないという気持ちもわからなくはないが、それならば初めから、作業に付き合わせることはなかったのではないだろうか?
「ほれ。上野もそう言っておる。座れ、はざま」
「そうもいかないわ。私は、研修できているのだから」
猫のレンズに、というよりは自分自身に言い聞かせるようにそう口に出して、はざまは上野の後ろあたりに立ち、作業を見守ることにした。結果的に二人掛けのソファの前に立つ格好になったが、そこが一番上野の作業を見るのに良さそうな位置だったので仕方がない。
上野は慣れた手つきで幻灯機をベニヤの折り畳みテーブルに移動した。フードのようなものを外し、中のフィルムをかける部分を露出させる。一つ一つ手で外せるものは手で、そうでないものは小さなドライバーのようなものを使ってねじを外し、幻灯機の横の、テーブルの空いている部分へ等間隔に並べていく。その卓上の光景は、まるで何かの標本のような眺めだった。
いつもの上野であれば、目の前で起こる事象や新しく持ってきたものに対しては必ず、はざまの方で頼まずとも丁寧に説明をしてくれる。……が、神経質に縦横揃えて並べられた幻灯機の部品やそれを分解するために使っていた道具に関して、今のところ上野が解説する素振りはない。——これも考えてみれば、おかしな話だ。上野は確かに、『研修の一環として作業を見た方がいい』というようなことを言っていた。それならば今行っている作業に対し、何らかの説明があってもおかしくはないだろう。今までの人生の中で、はざまがこういった機械と親密だった過去はない。目の前に広げられているものの中で説明されなくてもその正体がわかるのは、精密機器用のドライバーと、部品たちが置かれている折り畳みテーブルくらいのものなのに……上野はなぜ、研修生であるはざまに何のレクチャーもしてくれないのだろうか。
「あれはな、夢を明確にする作業なのじゃ」
そんな心の叫びが聞こえたのか、上野の代わりに猫のレンズが念話でそう、はざまに語りかけてきた。
「そうではなく、今知りたいのは、今上野さんが磨いている部品がどういったものかとか、そういうことで……」
「そのような知恵は、お前には必要ない」
謎の解説に反射的に文句をつけるはざまの言葉を、ぴしゃりと猫の念話が抑え込む。
何故だかわからないが、その言葉に反論できず、はざまは思わず押し黙った。
まるで石化の呪文をかけられたかのように、身体が動かない。同時に、胃のあたりから、得も言われぬ不快感がもやもやと湧いてくる。
猫の些細な言葉に対する自分の心身の拒絶反応に、一番驚いていたのははざま自身だ。
もちろん、曖昧になってしまった幼児期の頃の記憶を含め、そんな風に知識を得る権利について拒絶されたことは今まで一度もない。はず。それなのに……何だろう、この嫌な既知感は? いつもと異なるのは、持ち場である劇場から数歩離れた、カーテンのあちら側のスペースにいること。そして、いつもと違う感じのする時代服を着ていることくらいで、大きな差異はない。でも……もしかしたら、今いる場所や今貸してもらっているこの割烹着とこの現象は、何か関係があるのだろうか?
「スマン。お前は、そういうのは嫌いじゃったな。今の言葉は取り消そう」
「いえ。確かに、部品のことを知っても、〈書警〉の仕事にプラスにはならないわ。あなたの言う通り」
「お前の本質を否定する気は全くなかった。上野には上野の、はざまにははざまの役割があると、そういう意味での言葉だったんじゃ。……申し訳ない」
「だからもう、いいってば」
必要以上に恐縮しているように見える猫のレンズにそう言ってから、はざまはようやく呪縛から解けて動き出したような気がする頭と身体を小さく動かした。
同時にほんの少し記憶を巻き戻し、先ほど引っかかった言葉について聞いてみる。
「それより、夢を明確にするってどういうこと? あれは、記憶のフィルムを上映するための機械でしょう?」
「眠ったとき、夢を見ておるじゃろう? さっきもよだれを垂らして、幸せそうじゃった」
真剣な表情のはざまをはぐらかすように少しおどけて、目の前の猫は小さくひげを動かした。
「だから、よだれなんて垂らしていないって……!」
「夢が見られるのは、はざま。お前が健やかな証拠じゃ」
ついカッとなって言い返したけれど、思いがけず真面目な話だったらしい。口の端に乗せた文句を引っ込め、はざまは黙ってレンズの言葉を待つ。
「身体が疲れていたり、精神的に追い詰められていたりする時は、なかなか夢には巡り合えないものじゃ。夢を見るためには、身体や心の疲れを取り除いてやる必要がある」
正確には『良い夢を見るためには』だ。——レンズの話を聞いて、はざまはまずそう思った。
特に魔法使いの心身に強い疲れがあると、そこを〈禁書〉につけ入られる危険性がある。まずは小さな悪夢として形を取るそれは、だんだんと大きな悪意となって、魔法使いの大切な夢を侵食していくのだ。だから悪夢の入り込む隙を与えないためにも心身の健康を保ち、良い夢を日常的に呼び込む必要がある。……確か初年度の授業で、そんな話を聞いた気がする。
それでもまあ、目の前の猫が言わんとしていることは伝わってきた。
「それと同じで、鮮明な夢と共に鮮明な記憶を上映するため、ああして定期的にレンズや、機械の細部の埃を払うのじゃ。名称などどうでもいい。まずは、真理を得よ。はざま」
「…………」
少し間を置き、レンズは面倒くさそうにしっぽを一回ぱたりと振ってから、再度念話を送ってくる。
「記憶と夢は関係ない、などということは決してない。事象だけを映すことなら、〈愚者〉のフィルム館にだってできる。起きている時の記憶である事象と、寝ている時の記憶である夢。双方を同時に映し出し、魔法使いに供してこその〈幻惑館〉なのじゃ」
「なるほど。了解したわ。……ごめんなさい」
猫のレンズはおそらく、はざまが心の中でそっとつぶやいた『でも、記憶と夢なんて関係ないじゃない……』という言葉を念話として聞いたのだろう。猫からは、何となく怒っている気配を感じた。はざまの無神経な一言が猫の怒りの琴線に触れてしまったのなら、単純に申し訳ないと思う。
「先ほどの、ワシの言葉に対する仕返しだと認識しておる。気にすることはない」
小さく頭を下げるはざまに、猫は平坦な調子で答えてきた。続けて一言。
「一番大切なことは、今ワシが教えた。あとは上野のやっていることを見て、考えろ。
上野には上野の、お前にはお前の役割と気づきがある」
「お前さんは、うちの立派な二番弟子じゃ」
穏やかで柔らかい、老人の声。
そんな自分に向けられた声に、くすぐったいような気持ちになって、思わず笑みがこぼれた。うふふと笑うと、自分を撫でてくれる手の主もそれに合わせてフフフと笑う、気配がする。
ただそれだけの——懐かしくて幸せな、短い夢。
*
「はざま! おい、はざま!」
頭の中に響く声と、どこからか聞こえる何かを引っかくカリカリという音にハッとして、「時間を彷徨う舟」市田はざまは浅い眠りから目を覚ました。
研修と称して所属する〈学院〉から送り込まれたここ〈幻惑館〉に、本日来客の予定はない。
ゆえにはざまの仕事も発生せず、今日一日は自由時間。はざまはあてがわれた屋根裏部屋で教科書をひもとき、自習をしていたところだった……はずなのだが、たまった疲れのせいなのか単に室温が高すぎたのか、机に向かったままちょっとウトウトしてしまっていたらしい。
「はざまー! 生きておるかー、はざまー?」
「はいはい。今開けるわよ、レンズ」
しつこく頭の中に呼びかけ続ける念話の声とおそらくドアを爪で引っかくカリカリという音に答え、はざまは文机の前から立ち上がり、閉めてあった薄い木の扉を開いた。ドアのラッチがカチャリと外れると同時に、細い隙間から淡い琥珀色の猫がするりと部屋の中に入ってくる。思った通り、扉の外でドアを引っかいていたのは、この〈幻惑館〉にはざまが来る前から住む、使い魔の猫レンズだった。
「おお、生きておったか、はざま! 返事がないので案じたぞ」
「そう簡単に死んだりはしないわよ。……で、何?」
入ってくるなり猫のレンズは狭い部屋を斜めに横切り、我が物顔で窓の近くにある文机の上にぴょんと飛び乗る。自分の尻の下に敷かれた格好になる、はざまの教科書をしげしげと眺めて。
「居眠りか、はざま? 垂れたよだれの跡が付いておる」
「失礼ね、よだれなんて垂らしていないわ。……それで、用件は何なの?」
はざまから発せられるあからさまな拒絶のオーラをものともせず、文机の上の猫は埃を払うように身体の前に持ってきた尻尾をぱたりと一回振って、会話の間合いを取った。
「午後のお茶が入ったぞ。急ぎ参れ。……と上野が申しておる」
「悪いけどお茶は」
「目を覚ますのに、熱いお茶は恰好じゃぞ。よだれを拭いてすぐ来い」
有無を言わさずそれだけ伝えると、猫はすたりと文机から飛び降り、細い扉の隙間をすり抜けて去って行く。レンズお得意の軽口だとは思ったが、一応口元に汚れがないかを確認してからはざまもそのまま後に続いて部屋を出て、階段を降りた。——研修の責任者であると思われる上野が、はざまを呼んでいるのであれば仕方がない。それに、少しは休憩も必要だろう。レンズの言うとおり、お茶は眠気覚ましにもなる。
「お勉強でお忙しいところ、お呼び立てしてしまい申し訳ありません。でも、少しは休憩なさった方がよろしいですよ」
少々面倒に感じながらもはざまが階下にある『関係者控室』へ降りていくと、案の定、レンズの言葉とは対照的としか言いようのない丁寧な言葉で、階下にいた研修の面倒を見てくれる「重なる影に当たる光」上野彦馬がはざまを迎え、恭しく椅子を引いてくれた。やはり『急ぎ参れ』と不躾な上から指示になったのは、レンズの翻訳によるものらしい。
「お勉強でお忙しくはない。はざまは、よだれを垂らして昼寝の真っ最中だったわい」
無言で睨むはざまの視線は完全無視で、レンズは図々しく、茶の支度が調っていた丸テーブルの上にぴょんと飛び乗ってきた。更に強くはざまが睨みつけたところで、どこ吹く風だ。
「市田さんは毎日、研修の業務に加えてお勉強もありますから、お疲れなのですよ」
「いえ……単に気が緩んでいただけだと思います。お恥ずかしいです」
猫のレンズに馬鹿にされるより、上野に真正面から気遣われる方が心に刺さる。思わず恐縮して頭を下げるはざまを、上野は慌てて押しとどめた。
「気に病むことはありませんよ、市田さん。あの部屋は屋根裏ですから、空気の通りが良くないのです。きっと、この部屋でストーブを焚きすぎたのが原因で、熱が上がってしまったのでしょう。こちらこそ、申し訳ない」
「そもそも、昼寝は禁止されておらぬ。寝たければ、布団で堂々と寝るが良い。本によだれを垂らすよりマシじゃ」
上野とは真逆で、弱みを見つけた(と彼が感じた)瞬間から一切猛攻の手を緩めないレンズの念話は完全に無視して、はざまは目の前に差し出された薫り高い紅茶に砂糖を入れ、スプーンでくるくるとかき混ぜる。
客人がある時もない時も、いつも変わらずに執り行われる、伝統のお茶会。
はざまが〈幻惑館〉に来る前にも、きっと上野とレンズは決まった時間になると良い香りのお茶と人肌に温めたミルクを前に、この猫足の丸テーブルに集っていたのだろう。この午後の時間は客人がある日だとしてもフィルムを上演している最中になるし、そもそも場所がここ、『関係者控室』なので、客人がこの茶会に呼ばれることはない。純粋に、上野が自分たちのためだけに開く茶会だ。
ここにこうして集まることが何かの役に立つとは思えないのだが、自分が来る前からの風習のようなものらしいので、はざまは今のところ、それに大人しく従うことにしていた。今日は少し暖かいですね、とか、北の方ではまだ雪が降っているのでしょうか、とか、毒にも薬にもならないささやかな話題を拾いつつ、一時間ほどの時間を消費するだけだ。試験前ならともかく、研修のため〈学院〉を離れている今となっては、別にその一時間までもが惜しいとは思えない。
しかも。
「それにしても、はざまは熱心なことじゃな。〈学院〉の試験は昨年末に終わったはずじゃろう? 今学院生たちは試験勉強から解放されて、羽を伸ばしている頃ではないのか?」
忘れよう、忘れようと頭から追いやっていた事実を不躾な猫によって目前に提示され、はざまは思わずポーカーフェイスを崩し、顔をしかめる。
……そう。この生意気な猫の言うとおり、研修と称してこの〈幻惑館〉に送り込まれている間におそらく、年末の期末試験は終了した。ゆえに、今回の試験は欠席扱いとなり成績は全科目0点。不名誉なことにはざまは、人生で初めて〈学院〉の主席を転がり落ちる羽目になった。はずだ。
「怖い顔をせずとも、別に上野もワシも、はざまが不勉強ゆえ落第したとは思っておらぬ。単に研修で、試験に出ることができなかっただけじゃ。恥じることはない」
「それは、そうかもしれないけど。……ていうか、失礼ね。まだ落第したと決まっていないし!」
はざまの顔色が変わるのを見てまずいと思ったのか、急に猫は彼女を取りなす口調に変わったが、完全に、焼け石に水。——いや、正確には火に油だ。
研修に担ぎ出される以前、はざまは同期の中でも飛び抜けて優秀な学生と見なされていた。もちろん、所属してから今までの三年間、はざまが主席の地位を他に譲ったことはない。彼女の人生設計では、はざまはこのまま主席で〈学院〉を卒業し、立派な〈書警〉となって精鋭の揃う〈分科会〉に呼ばれ、〈禁書〉の撲滅に力を注ぐはずだった。なのに……昨年の秋に突如、〈禁書〉の撲滅とは全く関係なさそうなここ、〈幻惑館〉に研修と称して送り込まれたのは、本当に何故なのか、未だによくわからない。
それでも、ともかく……本来の本分である学業に力を入れてさえいれば、〈学院〉の気まぐれが収まって〈学院〉に戻れたその時、絶対に道は開ける。——そう思って、はざまは今まで隙さえあれば〈学院〉の教科書を開き、独学で頑張って勉強を続けていた。
それなのに昨年末、試験の期間になっても『〈学院〉に戻られたし』という書簡は届かず、今に至る……のである。
「相手の気持ちを慮らず、言葉で傷つけるのは感心しませんね、レンズ。いい加減に口をつぐまないと、さっき届いたマドレーヌは出てきませんよ?」
「はざまはこんな言葉で傷つくほど、弱い人間ではない。……と思うが、案ずるな。マドレエヌのため、口をつぐむのはやぶさかでないぞ」
上野の取りなしでようやく遠慮のない猫の念話が止まった。静かになった頭にさりげなく手を当てるため、ゆっくりと額にかかった髪をかき上げる。騒がしい食堂から、寮の自室にもどったような感覚。心の中でホッと一息付いて、はざまは目の前にあった少し冷めた紅茶を口に運んだ。
そんなはざまを見やってから、上野は一旦ミニキッチンの方に引っ込み、マドレーヌの入った小さなカゴを持ってくる。中から一つをレンズの前にあった皿に移し、残りをカゴごとテーブルの中央に置いてから、ようやく上野自身も茶器の用意されているテーブルに着く。
そして。
「さて、市田さん。実はここ数日、幻灯機の調子が少し良くなくて……。そこでこの後、少しメンテナンスをする予定なのですけれど、お手伝い願えませんか? たまには息抜きも必要でしょう。お忙しいようでなければで結構ですが」
しばし無言でお茶を楽しんだ後、ゆったりとカップを口元に運びながら、さりげなく上野がはざまに視線を向けてきた。
「幻灯機の調子、悪かったんですか? 気づきませんでした」
はざまの仕事は、ここ〈幻惑館〉にやってきた客人を迎え、フィルムを上映する劇場まで案内し、上映終了後は速やかにその客人を送り出す——という、ごく簡単なものだ。フィルムを上映する幻灯機に関しての知識は全くない。なので調子が良かろうが悪かろうが一切わからなくても不思議はないのだけれど、毎日関わっているものが『調子が悪い』ということに気づかなかったとは、魔法使いとして観察不足だろう。恥ずかしさに思わずまつ毛を伏せるはざまを、取りなすように上野が優しくのぞき込む。
「上映に支障があるレベルの不調ではありませんから、市田さんが気づかなくても当然です。人間で言うと、ちょっと喉がいがらっぽいかな、とか、虫に刺されて痒いな、とか、その程度の不調です」
上野の言葉が本当であれば、それはつまり、ごく些細な違和感、という程度の『不調』なのだろう。
研修の責任者である上野の言葉を勘繰らずに信じることにして、はざまはゆっくりと顔を上げた。お得意のポーカーフェイスのまま、上野に視線を合わせる。
「そうですか。幻灯機のメンテナンス……と言いますと、具体的には何をするのですか?」
「パーツを分解して、各々を磨き清め、組み直して微調整をします。貴重なお勉強の時間を割いて頂くのは心苦しいのですが、市田さんはこちらに研修でいらっしゃっているので、こういった作業もご覧になっておいて損はないかと」
上野の言うとおりはざまはこの〈幻惑館〉に研修で来ているので、通常業務以外の業務を任されても不思議はない。もしかしたら『幻灯機の不調』自体が単なる口実で、試験の件で気落ちしているはざまを気遣い今とっさに作り出した追加業務なのかもしれないが、それでもそれはそれなりに、なかなか興味深い仕事でもある。
「わかりました。お手伝いさせて頂きます」
「ありがとうございます。助かります」
座ったままではあるものの丁寧に頭を下げる上野。そんな上野にかえって恐縮するはざまの代わりに、マドレーヌをあっという間に食べ終えたレンズがくるりと一回前足で顔を洗ってから、澄ました顔で答えた。
「なに、上野が恐れ入ることはない。はざまは研修でここに来ておるのだから働くのは当然のことだし、それより何より、はざまは今の今まで、机の前でよだれを垂らして、惰眠をむさぼっておったのじゃからな!」
*
劇場の、赤っぽいビロウドの椅子が置いてあるその後ろ。黒いカーテンで仕切られている奥に〈幻惑館〉の幻灯機は設置されているという。
午後のお茶を楽しんだ後、はざまたちは全員で劇場の方へと向かった。
いつもはざまが客人を通して椅子を勧め、カウントダウンが始まるのを確認して辞するその劇場の奥。ほんの数歩行った先の厚いカーテンの向こう側に、はざまが足を踏み入れたことはない。もちろん用事がないというのがその一番の理由だけれど、カーテンの向こう側は上野のエリアで、彼以外の何人たりともそこに足を踏み入れてはいけないという、他者を排する魔法のようなものがかかっている——そんな雰囲気を感じていたからだ。
「本当に入って、いいんでしょうか?」
思わず口を付いて出た言葉に、上野は優しく微笑んで頷く。
「もちろんです。手伝いを頼んでいるのはこちらですよ。そうでなくとも、関係者に立ち入りは禁止していません。ご自由に、お入りください」
同時に上野は黒いカーテンを六〇センチほどすっと横に引き、はざまのために通路を作ってくれた。劇場と同じ明度の薄暗い空間ははざまが考えていたよりも広いらしく、突き当たりの壁まで見通すことができない。
「奥は相変わらず、暗くてかなわんな。幻灯機の世話をするなら、あちらもこちらもカーテンを全て開け、もう少し明かりをつけねば、細かな汚れを見つけることはできんぞ?」
「それもそうですね。では、カーテンを全て開けて、劇場の方も明かりをつけましょう」
至極もっともなレンズの文句に答えて、上野は手をかけていたカーテンを、仕切りを取り払うようにそのまま壁の方まで引っぱった。どこで操作したのか、劇場と、その奥の幻灯機があるというスペースがクレシェンドですうっと明るくなる。
カーテンの向こう側は、こちら側の劇場と同じくらいの広い空間だった。
はざまのいた〈学院〉の視聴覚室などだと、映像を見る部屋に対してそれを映写する場所は狭くて小さな空間と相場が決まっている。映写機ギリギリの縦スペースと、それを操作する人が一人二人入れる程度の横スペース。残りはフィルムや上映に使用する機器を仕舞う棚のようなものに占拠された、必要最低限の空間。という感じのはずだ。
しかし、目の前の『幻灯機の間』は、そうではなかった。
まず、広い。客人を招く劇場とほぼ同じくらいの広さだろうか。この〈幻惑館〉の劇場自体、あまり人数を入れる想定にはなっていないので狭めではあるものの、それでも幻灯機を置くスペースとしては広すぎるサイズの部屋だ。
次に、部屋の雰囲気が一般的な『映写室』とは明らかに違う。映写室は言わば『楽屋』で、客人を招き入れることを想定していない。ゆえにその内装等はギリギリまで削られ、殺風景なのが一般的だろう。下手をすると、物置も兼ねているのかと聞きたくなるような雑多な部屋になっている場合もある。
しかし——はざまの目の前にある空間は、そういう雑多な、とか殺風景な、という形容詞が似合わない部屋だった。言葉で表すとしたら……寛ぎの、とか、上質な、とかそんな感じだろうか?
上野が開いたカーテンの近く。この映写室の端ギリギリで、カーテンの左右が合わさる中央あたりに頑丈そうな木のテーブルがあり、幻灯機が置かれている。テーブルは丹念に磨かれた分厚い樫材でできており、よく見ると側面に豪奢な彫刻が施された高価そうなものだ。重く、貴重な幻灯機を支えるという意味で硬く頑丈な樫材が使われていることまでは納得がいく。が、側面の彫刻はそういった用途のテーブルには全く必要ない。完全に無駄で、贅沢の類に当たるのではないだろうか。
はざまの方から見て幻灯機の左手後方。幻灯機を操作する人間の右手に当たる部分にも一回り小さめで同材質のテーブルがセットされていた(ネストテーブルなのかもしれない)。おそらくあそこに、その日上映するフィルムの箱を置くのだろう。こちらのテーブルも、作業用のものにしては豪華で、贅沢なものだという感じがした。
しかし、それより何よりこの部屋で贅沢さを感じさせるのは、その幻灯機の後ろ——つまり、スクリーンから見て幻灯機のちょうど後方に設置された、赤っぽいビロウドのソファセットだ。
スクリーンを正面にして二人がけのもの。その椅子前の空間を囲むように、それに対し九〇度の位置で左右にそれぞれ設置されているのが一人がけのもの。この映写室の所在が〈幻惑館〉の建物のちょうど真ん中あたりに当たるため、暗幕の面以外三方向は完全に壁と棚で囲まれているけれど、そこに広い窓の一つでもあれば、立派な応接室に見えるだろう。ソファの張り布の色や感じが似ているので、はざまが客人を案内した折に勧める、劇場にある椅子とおそらく同じ材質。もしかしたら同じシリーズの品なのかもしれない。しかしながら、背筋を伸ばして座るタイプの劇場にあるテーブルチェアと違い、明らかにこちらの方がゆったりと体重を預けられる、ラグジュアリーなものだということだけは一目でわかった。
本来であれば、客人を招き入れて勧める椅子は劇場にあるテーブルチェアでなく、このソファだ。前にも後ろにも基本的に他の客人は入らないので、劇場の椅子は少しぐらい低い位置でも問題ない。それなのに、客人を招き入れる劇場には普通の椅子で、楽屋と言うべき映写室、しかも幻灯機を操作している上野は座らないと思われる位置に設置されているのがソファセット……というのは、何とも不思議な光景に見えた。
「ああ、市田さん、すみません。こちらで作業に入る前に、これにお着替えください」
言葉を失って立ち止まり、映写室を眺めるはざまに、上野が折り畳んだ白いものを差し出してくる。受け取った瞬間、ふわりと昔の防虫剤の香りが立ち上ってきた。これは……何という薬品の匂いだったっけ? ナフタレン?
「……これは? 時代服ですか?」
「知らぬのか? 割烹着じゃ。……ああ、別に今着ている服を脱ぐ必要はない。その上から、袖を通すだけで着用できるぞ」
口を付いて出た疑問には、足元で様子を見守っていた猫が念話で答える。
今まで、客人の生きてきた時代に合わせて部屋に届けられてきた『時代服』は、古臭かったり見慣れないデザインであったりしたものの、品自体は新品かそれに近いものだった。しかし、今渡された割烹着……とやらは、触った感じから何度も洗われ、使い込まれてきた布の気配がする。しかもかなり長時間保管されてきたのだろう。時代を超えてきた物特有の強烈な防虫剤の匂いと、年月をかけてゆっくり色あせたような感じがあった。
「時代服……と言えば、まあ、そうです。今で言う、エプロンのようなものだとお考えください。分解調整には油なども使いますので、市田さんのお洋服の汚れを防ぐためのものです」
しげしげと渡された割烹着を眺めるはざまに、上野が優しく口添える。
この服の古臭さはもしかしたら、単にこれが既定の時代服ではなく、はざまに貸し出すため倉庫の奥から適当に引っ張り出されたものだから、なのかもしれない。エプロンのようなものであれば、別に新しくても古くても違いはないだろう。ありがたく借りることにして、はざまは手にしていた割烹着をぱさりと振って開き、手を差し入れる部分を探した。
白衣のようなものかと思ったら、開くのは背中に当たる部分で、袖を通してから後ろ手に合わせの紐を結ぶらしい。慣れない形状の服に少々手間取りながらもそもそと背中に回した手を動かし、はざまはようやく、背中の合わせ紐を三つの小さな蝶々結びに整えた。左右のポケットに一つずつ、作業時に袖かどこかを留めるためだろうか。銀色の目玉クリップが入っていたが、どこに付けるものなのかわからなかったため、それらはそっと両のポケットへと戻す。裾を引っ張って折り皺を伸ばす。着用完了。
——これ……やけにサイズがぴったりじゃないだろうか?
見える範囲で割烹着をまとった自分の姿を見回し確認してから、はざまはふと考えた。
はざまは同じ年代の女子よりも少々背が低く、華奢な作りだ。エプロンや汎用のローブなどだと丈が足首まで届いてしまったり、身幅が広すぎて恰好がつかなかったりすることも多い。実際、貸与される時代服も標準サイズであるがゆえに丈も身幅も少し大きめで、結果だらしない印象になってしまうこともあった。
この割烹着という服も、エプロンのようなものだというからには、様々な体型の人が使えるようなものだと思う。それなのにその汎用の品が、はざまの細い身幅にぴったりというのは何とも不思議な感じだ。もしかしたらこれは、汎用のものではなく、はざまのような華奢な体型の持ち主に合わせて作られたものなのかもしれない。
でも……だとしたら、それは、誰?
「着られましたね。割烹着、よくお似合いです」
「ありがとうございます」
何となく煮え切らないまま、反射的に口先だけで上野の言葉に答えてから、はざまは慌てて首を振る。
——この、割烹着というものを使っていた時代の女性は、華奢な人が大多数だったのかもしれない。前の持ち主が、たまたまはざまと同じような、小柄なタイプだっただけなのかも。……でも、それは今から行う作業とは一切関係のないことだ。まずは一つ一つ、目の前の課題を片付けること。それが多分、この謎の研修を終わらせるための、一番の近道に違いない。
「では市田さん、こちらにいらしてください。早速、始めましょう」
「はい」
心の中で気持ちを新たにし、はざまは上野の言葉に答え、厚いカーテンの向こう側にあたる部分に足を踏み入れた。ふわり、と博物館の空気のような匂いが鼻をかすめる。
その匂いは映写室独特の匂いなのかもしれないし、もしかしたら——はざまの着ている割烹着の内側から沸き立ったもの、なのかもしれない。
*
「では、少しずつ分解を進めていきますね。……失礼します。痛くはしませんよ」
呼ばれたはざまが映写室のエリアに入ってすぐ、上野がそう声掛けして作業は始まった。
失礼しますとか、痛くしないとか、自分に対する言葉にしては少し変だなと違和感を覚えつつ、はざまは口を挟まずに様子を見守る。その真意に関しては、作業が進むことによって徐々にわかってくるものなのかもしれない。期待を込めて待つ。
しかしながら、謎の言葉の真意はいつまで経っても明るみには出てこなかった。しかも時間を追うごとに言葉だけでなく、上野の行動にも少しずつ、不自然な部分が見えてくる。
まず、初めに変だなと感じたのは、上野が関係者控室の方から折り畳みのテーブルと椅子を持ってきたことだ。
幻灯機の横には立派な樫材の作業台と思しきテーブルがしつらえてあり、近づいてみるとその横に、劇場にあるものと同じと思われる赤いビロウドのテーブルチェアが置かれていた。場所的にも高さ的にも、幻灯機に関する作業をするためにテーブルは使われるものだろうし、作業をする人物が腰かけるために椅子は置かれている。なのに上野はその立派なテーブルも椅子も無視して、運んできた……ベニヤだろうか? はざまの借りている屋根裏部屋にある文机と同レベルに安っぽくて適当な感じの折り畳みテーブルとパイプ椅子をがちゃりと開き、作業スペースを作ったのである。
「あの。その椅子やテーブルは使わないのですか?」
不思議に思って聞いてみても、上野は静かに微笑むだけ。
「はざま。何を不満げな顔をしておる? そんなところにボケっと立っておらず、こちらに座ったらどうじゃ?」
「ボケっとなんてしていないわよ」
猫のレンズに指摘され、自分がポーカーフェイスを通り越し仏頂面になっていたことに気づいて少し慌てて。照れ隠しかねがね小さな声で念話に答えてから、はざまはいつの間にか猫が寝そべっていた二人掛けのソファの方へと足を運んだ。
「ほれ。ワシの横でも良いし、左右の小さいほうの椅子でも良いぞ」
「座ってなどいられないわ。手伝いに来ているのだもの」
あくまでも図々しく、そして堂々と椅子をすすめるレンズに、はざまはため息交じりに言葉を返す。……そう。はざまは今、上野の手伝いをするためにここにやって来たのだ。上野の方から言い出したことで、その要請を受けた結果。それなのに。
「……あの、上野さん。私は、何をすれば良いでしょうか?」
「どうぞ、くつろいでいてください。何、すぐに終わりますから」
溜まりかねて声をかけたはざまに対し、しかし上野はつれないままだ。
……考えてみれば、これもおかしな話だろう。はざまに手伝ってほしいと声をかけたのは上野の方なのに、ここに来てから彼がはざまに対して出した指示は、割烹着を着るよう言った以外に一つもない。何かの間違いを疑うレベルでこの〈幻惑館〉とは縁もゆかりもないのに研修としてよこされたはざまに、余計な手を出してほしくないという気持ちもわからなくはないが、それならば初めから、作業に付き合わせることはなかったのではないだろうか?
「ほれ。上野もそう言っておる。座れ、はざま」
「そうもいかないわ。私は、研修できているのだから」
猫のレンズに、というよりは自分自身に言い聞かせるようにそう口に出して、はざまは上野の後ろあたりに立ち、作業を見守ることにした。結果的に二人掛けのソファの前に立つ格好になったが、そこが一番上野の作業を見るのに良さそうな位置だったので仕方がない。
上野は慣れた手つきで幻灯機をベニヤの折り畳みテーブルに移動した。フードのようなものを外し、中のフィルムをかける部分を露出させる。一つ一つ手で外せるものは手で、そうでないものは小さなドライバーのようなものを使ってねじを外し、幻灯機の横の、テーブルの空いている部分へ等間隔に並べていく。その卓上の光景は、まるで何かの標本のような眺めだった。
いつもの上野であれば、目の前で起こる事象や新しく持ってきたものに対しては必ず、はざまの方で頼まずとも丁寧に説明をしてくれる。……が、神経質に縦横揃えて並べられた幻灯機の部品やそれを分解するために使っていた道具に関して、今のところ上野が解説する素振りはない。——これも考えてみれば、おかしな話だ。上野は確かに、『研修の一環として作業を見た方がいい』というようなことを言っていた。それならば今行っている作業に対し、何らかの説明があってもおかしくはないだろう。今までの人生の中で、はざまがこういった機械と親密だった過去はない。目の前に広げられているものの中で説明されなくてもその正体がわかるのは、精密機器用のドライバーと、部品たちが置かれている折り畳みテーブルくらいのものなのに……上野はなぜ、研修生であるはざまに何のレクチャーもしてくれないのだろうか。
「あれはな、夢を明確にする作業なのじゃ」
そんな心の叫びが聞こえたのか、上野の代わりに猫のレンズが念話でそう、はざまに語りかけてきた。
「そうではなく、今知りたいのは、今上野さんが磨いている部品がどういったものかとか、そういうことで……」
「そのような知恵は、お前には必要ない」
謎の解説に反射的に文句をつけるはざまの言葉を、ぴしゃりと猫の念話が抑え込む。
何故だかわからないが、その言葉に反論できず、はざまは思わず押し黙った。
まるで石化の呪文をかけられたかのように、身体が動かない。同時に、胃のあたりから、得も言われぬ不快感がもやもやと湧いてくる。
猫の些細な言葉に対する自分の心身の拒絶反応に、一番驚いていたのははざま自身だ。
もちろん、曖昧になってしまった幼児期の頃の記憶を含め、そんな風に知識を得る権利について拒絶されたことは今まで一度もない。はず。それなのに……何だろう、この嫌な既知感は? いつもと異なるのは、持ち場である劇場から数歩離れた、カーテンのあちら側のスペースにいること。そして、いつもと違う感じのする時代服を着ていることくらいで、大きな差異はない。でも……もしかしたら、今いる場所や今貸してもらっているこの割烹着とこの現象は、何か関係があるのだろうか?
「スマン。お前は、そういうのは嫌いじゃったな。今の言葉は取り消そう」
「いえ。確かに、部品のことを知っても、〈書警〉の仕事にプラスにはならないわ。あなたの言う通り」
「お前の本質を否定する気は全くなかった。上野には上野の、はざまにははざまの役割があると、そういう意味での言葉だったんじゃ。……申し訳ない」
「だからもう、いいってば」
必要以上に恐縮しているように見える猫のレンズにそう言ってから、はざまはようやく呪縛から解けて動き出したような気がする頭と身体を小さく動かした。
同時にほんの少し記憶を巻き戻し、先ほど引っかかった言葉について聞いてみる。
「それより、夢を明確にするってどういうこと? あれは、記憶のフィルムを上映するための機械でしょう?」
「眠ったとき、夢を見ておるじゃろう? さっきもよだれを垂らして、幸せそうじゃった」
真剣な表情のはざまをはぐらかすように少しおどけて、目の前の猫は小さくひげを動かした。
「だから、よだれなんて垂らしていないって……!」
「夢が見られるのは、はざま。お前が健やかな証拠じゃ」
ついカッとなって言い返したけれど、思いがけず真面目な話だったらしい。口の端に乗せた文句を引っ込め、はざまは黙ってレンズの言葉を待つ。
「身体が疲れていたり、精神的に追い詰められていたりする時は、なかなか夢には巡り合えないものじゃ。夢を見るためには、身体や心の疲れを取り除いてやる必要がある」
正確には『良い夢を見るためには』だ。——レンズの話を聞いて、はざまはまずそう思った。
特に魔法使いの心身に強い疲れがあると、そこを〈禁書〉につけ入られる危険性がある。まずは小さな悪夢として形を取るそれは、だんだんと大きな悪意となって、魔法使いの大切な夢を侵食していくのだ。だから悪夢の入り込む隙を与えないためにも心身の健康を保ち、良い夢を日常的に呼び込む必要がある。……確か初年度の授業で、そんな話を聞いた気がする。
それでもまあ、目の前の猫が言わんとしていることは伝わってきた。
「それと同じで、鮮明な夢と共に鮮明な記憶を上映するため、ああして定期的にレンズや、機械の細部の埃を払うのじゃ。名称などどうでもいい。まずは、真理を得よ。はざま」
「…………」
少し間を置き、レンズは面倒くさそうにしっぽを一回ぱたりと振ってから、再度念話を送ってくる。
「記憶と夢は関係ない、などということは決してない。事象だけを映すことなら、〈愚者〉のフィルム館にだってできる。起きている時の記憶である事象と、寝ている時の記憶である夢。双方を同時に映し出し、魔法使いに供してこその〈幻惑館〉なのじゃ」
「なるほど。了解したわ。……ごめんなさい」
猫のレンズはおそらく、はざまが心の中でそっとつぶやいた『でも、記憶と夢なんて関係ないじゃない……』という言葉を念話として聞いたのだろう。猫からは、何となく怒っている気配を感じた。はざまの無神経な一言が猫の怒りの琴線に触れてしまったのなら、単純に申し訳ないと思う。
「先ほどの、ワシの言葉に対する仕返しだと認識しておる。気にすることはない」
小さく頭を下げるはざまに、猫は平坦な調子で答えてきた。続けて一言。
「一番大切なことは、今ワシが教えた。あとは上野のやっていることを見て、考えろ。
上野には上野の、お前にはお前の役割と気づきがある」
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