盗賊の矜持

1.盗賊たち

 王なき〈王都〉は闇の中――。
  街頭で大声を張り上げる布告人によれば、この一大都市を治めるのは、かのオーグルヴィー大公であり、敬せらるべき猊下は、灰によどんだ空に鋭い線で描いたような尖塔の下に広がる〝宮殿パレス〟に座す。象牙色の尖塔は〈王都〉で最も高く、中心市街であればたいていの場所から見える。
  だが、その下がどうなっているのか、ケイは一度も見たことがない。
  白い石積みの壁や黒い鉄の柵、そして柵の向こうに鬱蒼と繁る樹木の緑に阻まれて、下々の者らの目に〝宮殿パレス〟は入らない。そして今、百天秤街に平行して一区画離れたところを走る、名もなき通りから枝分かれした裏路地の、闇の中の更に深い闇にうずくまるケイからは、その尖塔すらも見えなかった。
 少し離れて立つのは盗賊ふたり。男と女だ。
 いい場所を選ぶ、とケイは思った。
 盗賊がひと仕事終えて仲間と落ち合うには、いい場所だ。真夜中、この狭い裏路地は左右の建物が邪魔をして月明かりも差さない。誰もが通るのを自然に避ける。それでいて表通りからの音は忍び込んだ。無音はだめだ。何も聞こえないはずの場所では、ちょっとした声や物音も際立つ。取り立てて何もなく、誰も来ないが、少し離れた所から音はする。光はない。それがいい。
 俺にも好都合だ。
 ケイはこれからが仕事だった。荒っぽい仕事になる。無音は困る。通りから酔っぱらいのろれつの回らぬ声が微かに届く。なんでだどうしてこうなっちまうんだ……。したたかに酔って百天秤街のお上品な店から叩き出されたのか、もう馴染みだと思い込んでいた女に袖にでもされたのか、ひたすらクダを巻き、嗚咽するのが響く。その体たらくに野良犬が吠えて伴奏をつけた。
 ケイは右の拳に革のバンドを巻きつけ、男の盗賊をちらりと見て、左の拳にも巻いた。バンドの二重の革の間には鉛の板が挟んである。
 男はケイよりも大柄だ。背は頭半分ほど高いだろう。何より、外套をまとった後ろ姿の輪郭は角張っていて、向き合った女の姿を覆い隠していた。筋肉質。骨太。タフな奴だと見て間違いない。壁際に放り出されたゴミの詰まった大籠の陰にうずくまったまま、両手を握ったり開いたりした。問題ない。立ち上がって全力の大股走りで男まで五歩。男の外套は寸足らずで膝の裏あたりまでしかない。黒い革のブーツが丸見えだ。外套はかなり濃い、艶のない焦げ茶――短く刈り込んだ髪も。
 いい色だ。黒よりも闇に馴染む。
 俺の髪もあんな色がよかった。ケイは焦げ茶の外套の前を閉じて、フードを深く被って黒い髪と眉を隠し、鼻から下も同じ色の布で覆っていた。おかげで黒い瞳の両目の周り以外に肌は見えないし、ゴミ籠から漂ってくる、朽ちた葉野菜の異臭も我慢できた。だが、その我慢もそろそろ仕舞いだ。ちくしょうどうしてこんな……と、またぞろ犬の伴奏つきで酔っぱらいの泣き言が始まるや、ケイは弾かれたように走り出した。
 一歩、二歩、三歩、四歩――。
 四歩半で男が気づいて振り向こうとするのを手伝うように、伸ばした左手で肩をつかんで強く引く。男の体がその場でぐるりと回った。
 五歩。
 ケイは固めた右拳で右下から左上に、男の幅広い顎を全力で撃ち抜いた。
 もんどり打って倒れる男の腹の上に流れるような動作でまたがる。やはりタフだ。不意打ちで、強さも速さも角度も申し分ない一撃をお見舞いしても、まだ意識がある。男が罵声を浴びせようと開きかけた口に、すかさず左拳を重く撃ち下ろした。革と鉛を通して、拳に柔らかいものと硬いものが当たる嫌な感触があった。唇と歯。左にも巻いていて正解だ。ケイは右拳を振り上げていたが、三発目は不要だった。男は口の端から血の混じった涎を垂らし、閉じかけた瞼をひくつかせている。電光石火の凶行。女の盗賊は一言も発さずに踵を返し、裏路地から走り去った。
 それも正解だ。余計なまねはしないほうがいい。
 ケイは倒れた男の腰を探り、ベルトに吊り下げられていた布袋を盗った。左右にひとつずつ。中は見るまでもない。こいつの仕事の稼ぎだ。背負い袋なしで両手が空いていたら、それは腰の袋に入っている。ただでさえ寸足らずな外套の裾が膝まで上がっていたのは、腰の両側に膨らんだ袋を吊るしていたからだ。わかりきったことだ。
 続けて黒革のブーツも踵をつかんで素早く脱がし、履き口を盗ったばかりの袋で軽く包んで逆さにして振る。涼しい音を立てて、硬貨が袋の中に流れ落ちた。もしもの時のために稼ぎの一部はブーツの中に忍ばせておく。あるいは稼ぎを山分けする前に、盗った奴が少し上前をはねるためにそうする。盗賊のやることはよく知っている。腰の左には太い警棒もぶら下がっていたが、それは無視した。
 盗賊から稼ぎを掠める――それがケイの今夜の仕事だ。首尾は上々。ブーツを投げ捨て、その場を小走りに立ち去る。大急ぎで駆けたりしない。裏路地から勢いよく飛び出して、もし通りに誰かいたら、間違いなく注意をひくだろう。いい場所で仕事をして、大過なく通りに出たとしても、ケイは警戒を緩めなかった。
 盗賊の稼ぎを掠める盗賊はいても、掠めた盗賊から奪う盗賊はいない。そんなことがあるだろうか?
 そんな話があるものか。
  ゴミ臭い裏路地の暗がりだろうが、小金持ち御用達の百天秤街だろうが、今、〈王都〉は闇の中だ。素寒貧な樫ヶ橋通りの半壊した家屋だろうが、象牙色の尖塔の下の〝宮殿パレス〟だろうが、誰が、何を、どうするのかなど知れたものではない。
 名もなき通りから百天秤街に入る直前に、ケイは右手で顔の下半分を覆っていた布を剥ぎ取り、フードを後ろにはらった。黒髪で特に印象に残らない顔立ちの男が現れる。
 ここは真夜中でも、それなりに人がいる。中心市街に位置する繁華街としては並の規模ではあるが商いは盛んで、昼はそこかしこの輸入食品店やら衣類店やらに客が出入りし、夜遅くまで開いている洒落た飲食店もあって、世慣れた者なら上等な娼館が一軒、片隅にひっそり佇んでいることも知っていた。その娼館〈花弁に蜜蜂〉は一見客お断りである。そうした店での夜遊びに興じられるほど懐の温かそうな奴らに、ひとりまたひとりとすれ違う。数人で連れ立っている者たちもいる。できるだけ早く去ったほうがいい。
 とはいえ、夜の街ですれ違った程度の連中が、ケイの顔を覚えていることはまずなかった。そこそこの付き合いがあって、顔見知りと言える間柄の者ですら、いざ、その容貌の特徴を聞かれたら、しばし困惑した後、こう答えるだろう――黒い髪の普通の男だ、と。
 ケイは普通の男で、盗賊だった。
 だから〈王都〉の中心市街から離れるほど、気持ちに余裕が出てくる。山の手の街々は仕事場としてはいいが、落ち着かない。象牙色の塔なんぞ見えなくて結構だ。
 建物の背は次第に低くなり、街灯の数が減る代わりに、月明かりの差す空間は増える。流れの悪い汚水溝や、下水道が地上に出ている箇所も増え、ドブの臭いが強くなっていった。
 外套の前を右手だけで器用に開く。ふたつまとめて左手に持っていた布袋を腰の左右にひとつずつ吊り下げる。どちらも今夜の仕事に見合った重さが感じられた。
 人目をはばからず歩むケイの口元に、ほんのわずかだが笑みが浮かんだ。