2.魔除けの紐
その盗賊の噂が〈王都〉で広く囁かれるようになったのは四年ほど前からだ。
「〝壁抜け〟?」
もちろんケイも噂を聞いていた。
曰く、その盗賊は一度たりとも捕まったことがない。なぜなら奴は壁をすり抜ける――たったひとつの扉を警備の者が交代で休まず見張り、窓も抜け穴もない部屋から貴族の蒐集品を盗んだとか、衛士隊が追い詰めた、高い壁に囲まれた袋小路から忽然と消えたとか、その不可思議な侵入と逃走の技を語る与太話は、聞く気がなくともどこかで耳にする。しかし、その技の主の顔や名前は、盗賊らしく顔を隠して通り名を名乗っているにせよ、知る者はいない。それでいつの頃からか、誰が最初に言い出したものやら、件の盗賊は〝壁抜け〟と呼ばれるようになった。
ここだけの話、ちょいと知り合いでね、誰のって、おい、〝壁抜け〟のことさ、と耳打ちしてくる連中の半分は酔った勢いで冗談を飛ばしたか、見栄を張っているだけにすぎない。残りの半分は下らない詐欺が目的だ。どんな壁もものともせず、決して捕まらない盗賊にお目当ての品を盗ませたらどうだい? ついては、ほら、仲介料を――といった騙されるほうがどうかしている「美味しい話」を吹き込む輩から、バクラーモン大学お墨付きと触れ込んだ〝壁抜け〟も抜けられなくする魔法の漆喰を売りつける者まで、この盗賊をネタにした仕事は枚挙に暇がなかった。
だから、その名に触れても驚きはしないが、唐突にベスの口から出たことには少々面食らった。
ケイがベスと組んで仕事をするようになって一年近くが経つ。聞く気もないから尋ねたことはないが、この女がよその生まれなことは間違いない。初めて会った時、ベスは雑踏の流れも読めぬまま、お粗末な置き引きで糊塗をしのいでいた。おぼこもいいところだった。〈王都〉育ちなら、そこらの浮浪児でもよほどうまくやる。
だが、筋は悪くなかった。昨晩も、いいカモをあの裏路地に引っ張り込んでくれた。
それなり以上に腕のある盗賊に近づき、狙い目の獲物を教えて手を組む。そして見張りなどの補助を請け負いつつ、仕事を終えた後の合流地点をあらかじめケイに伝える――ベスは自ら盗むことも、ましてやカモをぶん殴る危険も冒さない役回りだが、口で言うほど簡単なことではない。こいつも同類だと、相手を最後の最後まで騙し抜く手際とクソ度胸を要する。
その手際、その度胸――酒場〈雄羊の蹴り足〉は今日も繁盛しているが、この場の何人がそれを備えているだろう。片手で数えるほどもいないはずだ。こうした役目の難しさを甘く見て、安請け合いして泣きを見るグズや、分け前を出し渋って揉め、しっぺ返しを食らうドケチをケイは何人も見てきた。単なる盗賊の補助なら分け前は七三の三がせいぜいだろうが、盗賊を罠にはめる仕掛けをするなら折半でなければ嘘だ。
この夜、ベスは入店するや、所狭しと並ぶテーブルや椅子、何より騒がしい酔客どもをするりとかわして、ケイが身を沈めた奥の席にやってきた。前日の稼ぎの分け前を取りに来たのだ。目立たない、いい動きだった。最初に出会った時の見立てどおり筋がいい。
分け前は五分五分の約束だったが、ケイは少しイロを付け、金の入った小袋をベスの前に置いた。ベスは目を細めただけで、中身を改めもせずに懐に収めた。それもいい。組んだ奴の前で疑う素振りは見せないのが正解だ。何でも疑うべきだが、それを見せてやる必要はない。
ベスは楽しそうに、昨晩カモにした男と銀馬車道の肉屋の前ですれ違った、と話した。男は口元を布でぐるぐる巻きにした滑稽な姿で、ベスに気づいたようだが、気づかなかったふうを装い、そそくさと通りすぎたという。
しくじったからだ。稼ぎを分け合う取り決めで組んだ相手に渡せるものがない。これは盗賊にとって恥であり、まして「出すものを出せ」と相手に迫られては恥の上塗りである。だから男は顎を痛め、前歯を叩き折られた無様なご面相でなかったとしても、ベスに顔向けできなかった。薄々、はめられたのではないかと疑ったとしても、確かな証拠もなしに相棒に因縁をつけるのは自分の株を下げにいくようなもの……。まったく真面目な奴だ。真面目な盗賊だ。
あの焦げ茶髪の男はタフで真面目で腕がよく――ケイは男が腰に下げていた袋の重みを反芻した――〈王都〉で盗賊を続ける流儀がわかっている。組む価値がある奴だ。横から稼ぎをかっさらう罠などなしで、一緒に仕事をしてもいい。ケイはベスにそうするように勧めた。
「ほとぼりが冷めたら声をかけろよ。顎と歯のことには触れないように、な」
ベスは頷いて、ケイの木皿の上から炙った小鱈を勝手に摘んで口に放り込み、塩辛さに顔をしかめてジョッキのエールをがぶ飲みした。
「でもさ、その前に」
小鱈を摘んだ指をしゃぶる。
「あんたとやりたい仕事があるんだ」
そうしてベスの口から〝壁抜け〟の名が飛び出した”
〝壁抜け〟が狙いを定めた邸宅が石工ヶ辻にある。そこでひと仕事して奴の稼ぎをお先に頂戴してしまおう。
そんな話をベスは手と指を使った秘密の合図――手信号を交えて語った。百天秤街に絨毯の店を出している若き商人、ホーラーの住まいは鷲羽街だが、石工ヶ辻に別邸があり、そちらに相当な金を貯めているらしい。〝壁抜け〟の狙いはその金だ。
ベスの声に耳を傾け、細く長い指がひらひらと舞うのを眺めながら、ケイは一文字につぐんでいた口を開いた。
「どこで聞いた?」
「〝どもり〟の――」
――アーティの取り巻きどもが噂していた。ベスの手が素早く動いて伝えてくる。〝どもり〟のアーティは弓師街でそこそこの一家をなしている悪党で、主な仕事は恐喝。他人の秘密や弱みを盗み、買い、売ったり脅しに使ったりして儲ける。そのための手下や取り巻きを抱えているが、ケイも雇われたことがあった。何度も。
「ほ、ほ欲しいものが、あぁるんだよ、ねぇ、ケイ」
満月のような愛嬌のある顔に笑みを浮かべ、揉み手して盗みの依頼。それに応えてケイは何やかやと盗ってやり、報酬を受け取っていた。手紙や帳簿、日記、指輪……盗った物が何を意味して、何に使えるのかは知らないし、興味もなかった。だが、アーティの依頼に偽りがあったことはなく、報酬は前金で半額、事後に残りを支払うという約束を違えたこともない。言葉が少し不自由で、万事腰が低い小男のアーティをあなどる者は少なくないが、そいつらは馬鹿だ。ケイはこの恐喝屋の頭の回転の速さも、必要となればひどく冷酷になれることも承知していた。しか、仕方ないんだよねぇ、こういうばやい――。ケイはアーティの才覚を信頼していて、疑うのは本当にこいつは〝どもり〟なのか? ということくらいだ。
「悪くない」
とケイが口にすると、ベスはにんまりした。
「そう言うと思った」
確かに悪くなかった。ただし――とケイは頭の中で付け加えた――ホーラーの別邸を〝壁抜け〟が狙っているというのは眉唾だ……。アーティの取り巻きには並じゃない奴もいるが、だとしても噂の盗賊の動向を追える者がいるとは思えない。だが百天秤街に店を構える商人が、本宅とは別の場所に金を貯めている話はありえるし、恐喝屋の手下が探り出していてもおかしくない情報だ。
おおかたホーラーは、最近店も忙しいから、もっと近くに寝泊まりできる家があると便利だとでも言って、石工ヶ辻の住宅を買ったのだろう。そして帳簿に載せない稼ぎの一部を、そこに蓄財している。家族や従業員には見せない、自分だけが自由に使える金だ。つまるところ、商人の別邸というのは――、
「――盗賊のブーツだ」
怪訝な顔をするベスに、ケイは気にするなと手を振った。
「下見をして、稼げそうならやる。結局〝壁抜け〟に先を越されました、なんてことにならなきゃいいがな」
「じゃ、急ごうよ」
ベスは手にしていたジョッキをテーブルに置くと、腰に下げていた物を取り出した。急いでやるとなって、万が一、決行の夜に〝壁抜け〟に鉢合わせしたら? そうなっても邪魔はさせない。
「こっちにゃ秘策ありってね」
その〝秘策〟とやらは長い編み紐だった。丈夫そうだが何の変哲もない――ただ、撚り合わされた繊維のところどころから、紫色に鈍く光る、別の繊維らしきものがはみ出しているのがいかにも奇妙だ。
ケイは顔をしかめた。「なんだ、それは?」
「これでさ、ふん縛ればいい。そしたら抜けられない」
魔除け。魔法を妨害する結界呪具。ベスは〝壁抜け〟が魔法を使うと、少なくとも、その可能性があると思っている。
「そりゃすごい」
ひどくつまらなさそうなケイの返しに、ベスは眉根を寄せて不満げな表情になった。ケイはジョッキのエールで唇を湿らす。
「いろいろ考えるのはいいことだ。一度にふたつもみっつも考えられなきゃ――」
「やっていけない、でしょ?」
その怪しげなブツをどこで手に入れたのか、ケイには聞くまでもなかった。故買人のダレックが弓師街の裏通りでよろず屋を開いている。あの不愛想な老人、ダレックはケイのような盗賊から盗品を買って売る。いかがわしい呪具の類であってもだ。
「本物か? それ」
ベスはうやうやしい手つきで紐をテーブルに置いた。
「こいつに触れるほど近くじゃ、魔法は使えない」
――とダレックが言ったわけだ。本物だとしても、魔法使い以外にはただの紐。ベスに効果のほどは確認できないし、してもいないだろう。それをベスは幾らで買ったのか。銀貨で五シェール、いや十シェール? ケイは溜め息をついた。
「備えあれば患いなし、だっけ? そういうこと」
何とも馬鹿らしいが、それでもベスなりにふたつもみっつも考えていることはわかった。
いいだろう。この一年足らず、ベスが自ら獲物を選んで、ケイに仕事を持ちかけてきたのは初めてだった。稼げると踏んだ、その見立てがどれほど正しいか、この目で確かめてやる。
まだ宵の口だった。〈雄羊の蹴り足〉の賑わいはこれからだが、もうお開きにしたほうがいいだろう。ここでいつまでも仕事の話をするのはよくない。
「とにかく明日、下見に行く。ここは俺が払っとくから、先に店を出ろ」
ベスは頭を振って立ち上がり、長い紐を素早くまとめて腰に吊るして言った。
「上に部屋、とってるんだろ?」
ケイは苦笑した。こいつ、飲み代だけでなく宿代も浮かせるつもりだ。確かに今日はここに一泊する気で、二階の部屋をとっていた。
もうひとつ大きな溜め息をつき、半ば呆れた面持ちで外套を手に取ってケイも立ち上がる。それを見てベスは一瞬、口元をほころばせ、お先とばかりに店奥の反対側にある、二階への階段に向かい始めた。
ベスは抜け目なく、要領がいい。それに――と、ケイはベスの薄汚れた麻のスボンに包まれた尻のあたりを眺めながら思った。
――俺と体の相性も悪くない。
「〝壁抜け〟?」
もちろんケイも噂を聞いていた。
曰く、その盗賊は一度たりとも捕まったことがない。なぜなら奴は壁をすり抜ける――たったひとつの扉を警備の者が交代で休まず見張り、窓も抜け穴もない部屋から貴族の蒐集品を盗んだとか、衛士隊が追い詰めた、高い壁に囲まれた袋小路から忽然と消えたとか、その不可思議な侵入と逃走の技を語る与太話は、聞く気がなくともどこかで耳にする。しかし、その技の主の顔や名前は、盗賊らしく顔を隠して通り名を名乗っているにせよ、知る者はいない。それでいつの頃からか、誰が最初に言い出したものやら、件の盗賊は〝壁抜け〟と呼ばれるようになった。
ここだけの話、ちょいと知り合いでね、誰のって、おい、〝壁抜け〟のことさ、と耳打ちしてくる連中の半分は酔った勢いで冗談を飛ばしたか、見栄を張っているだけにすぎない。残りの半分は下らない詐欺が目的だ。どんな壁もものともせず、決して捕まらない盗賊にお目当ての品を盗ませたらどうだい? ついては、ほら、仲介料を――といった騙されるほうがどうかしている「美味しい話」を吹き込む輩から、バクラーモン大学お墨付きと触れ込んだ〝壁抜け〟も抜けられなくする魔法の漆喰を売りつける者まで、この盗賊をネタにした仕事は枚挙に暇がなかった。
だから、その名に触れても驚きはしないが、唐突にベスの口から出たことには少々面食らった。
ケイがベスと組んで仕事をするようになって一年近くが経つ。聞く気もないから尋ねたことはないが、この女がよその生まれなことは間違いない。初めて会った時、ベスは雑踏の流れも読めぬまま、お粗末な置き引きで糊塗をしのいでいた。おぼこもいいところだった。〈王都〉育ちなら、そこらの浮浪児でもよほどうまくやる。
だが、筋は悪くなかった。昨晩も、いいカモをあの裏路地に引っ張り込んでくれた。
それなり以上に腕のある盗賊に近づき、狙い目の獲物を教えて手を組む。そして見張りなどの補助を請け負いつつ、仕事を終えた後の合流地点をあらかじめケイに伝える――ベスは自ら盗むことも、ましてやカモをぶん殴る危険も冒さない役回りだが、口で言うほど簡単なことではない。こいつも同類だと、相手を最後の最後まで騙し抜く手際とクソ度胸を要する。
その手際、その度胸――酒場〈雄羊の蹴り足〉は今日も繁盛しているが、この場の何人がそれを備えているだろう。片手で数えるほどもいないはずだ。こうした役目の難しさを甘く見て、安請け合いして泣きを見るグズや、分け前を出し渋って揉め、しっぺ返しを食らうドケチをケイは何人も見てきた。単なる盗賊の補助なら分け前は七三の三がせいぜいだろうが、盗賊を罠にはめる仕掛けをするなら折半でなければ嘘だ。
この夜、ベスは入店するや、所狭しと並ぶテーブルや椅子、何より騒がしい酔客どもをするりとかわして、ケイが身を沈めた奥の席にやってきた。前日の稼ぎの分け前を取りに来たのだ。目立たない、いい動きだった。最初に出会った時の見立てどおり筋がいい。
分け前は五分五分の約束だったが、ケイは少しイロを付け、金の入った小袋をベスの前に置いた。ベスは目を細めただけで、中身を改めもせずに懐に収めた。それもいい。組んだ奴の前で疑う素振りは見せないのが正解だ。何でも疑うべきだが、それを見せてやる必要はない。
ベスは楽しそうに、昨晩カモにした男と銀馬車道の肉屋の前ですれ違った、と話した。男は口元を布でぐるぐる巻きにした滑稽な姿で、ベスに気づいたようだが、気づかなかったふうを装い、そそくさと通りすぎたという。
しくじったからだ。稼ぎを分け合う取り決めで組んだ相手に渡せるものがない。これは盗賊にとって恥であり、まして「出すものを出せ」と相手に迫られては恥の上塗りである。だから男は顎を痛め、前歯を叩き折られた無様なご面相でなかったとしても、ベスに顔向けできなかった。薄々、はめられたのではないかと疑ったとしても、確かな証拠もなしに相棒に因縁をつけるのは自分の株を下げにいくようなもの……。まったく真面目な奴だ。真面目な盗賊だ。
あの焦げ茶髪の男はタフで真面目で腕がよく――ケイは男が腰に下げていた袋の重みを反芻した――〈王都〉で盗賊を続ける流儀がわかっている。組む価値がある奴だ。横から稼ぎをかっさらう罠などなしで、一緒に仕事をしてもいい。ケイはベスにそうするように勧めた。
「ほとぼりが冷めたら声をかけろよ。顎と歯のことには触れないように、な」
ベスは頷いて、ケイの木皿の上から炙った小鱈を勝手に摘んで口に放り込み、塩辛さに顔をしかめてジョッキのエールをがぶ飲みした。
「でもさ、その前に」
小鱈を摘んだ指をしゃぶる。
「あんたとやりたい仕事があるんだ」
そうしてベスの口から〝壁抜け〟の名が飛び出した”
〝壁抜け〟が狙いを定めた邸宅が石工ヶ辻にある。そこでひと仕事して奴の稼ぎをお先に頂戴してしまおう。
そんな話をベスは手と指を使った秘密の合図――手信号を交えて語った。百天秤街に絨毯の店を出している若き商人、ホーラーの住まいは鷲羽街だが、石工ヶ辻に別邸があり、そちらに相当な金を貯めているらしい。〝壁抜け〟の狙いはその金だ。
ベスの声に耳を傾け、細く長い指がひらひらと舞うのを眺めながら、ケイは一文字につぐんでいた口を開いた。
「どこで聞いた?」
「〝どもり〟の――」
――アーティの取り巻きどもが噂していた。ベスの手が素早く動いて伝えてくる。〝どもり〟のアーティは弓師街でそこそこの一家をなしている悪党で、主な仕事は恐喝。他人の秘密や弱みを盗み、買い、売ったり脅しに使ったりして儲ける。そのための手下や取り巻きを抱えているが、ケイも雇われたことがあった。何度も。
「ほ、ほ欲しいものが、あぁるんだよ、ねぇ、ケイ」
満月のような愛嬌のある顔に笑みを浮かべ、揉み手して盗みの依頼。それに応えてケイは何やかやと盗ってやり、報酬を受け取っていた。手紙や帳簿、日記、指輪……盗った物が何を意味して、何に使えるのかは知らないし、興味もなかった。だが、アーティの依頼に偽りがあったことはなく、報酬は前金で半額、事後に残りを支払うという約束を違えたこともない。言葉が少し不自由で、万事腰が低い小男のアーティをあなどる者は少なくないが、そいつらは馬鹿だ。ケイはこの恐喝屋の頭の回転の速さも、必要となればひどく冷酷になれることも承知していた。しか、仕方ないんだよねぇ、こういうばやい――。ケイはアーティの才覚を信頼していて、疑うのは本当にこいつは〝どもり〟なのか? ということくらいだ。
「悪くない」
とケイが口にすると、ベスはにんまりした。
「そう言うと思った」
確かに悪くなかった。ただし――とケイは頭の中で付け加えた――ホーラーの別邸を〝壁抜け〟が狙っているというのは眉唾だ……。アーティの取り巻きには並じゃない奴もいるが、だとしても噂の盗賊の動向を追える者がいるとは思えない。だが百天秤街に店を構える商人が、本宅とは別の場所に金を貯めている話はありえるし、恐喝屋の手下が探り出していてもおかしくない情報だ。
おおかたホーラーは、最近店も忙しいから、もっと近くに寝泊まりできる家があると便利だとでも言って、石工ヶ辻の住宅を買ったのだろう。そして帳簿に載せない稼ぎの一部を、そこに蓄財している。家族や従業員には見せない、自分だけが自由に使える金だ。つまるところ、商人の別邸というのは――、
「――盗賊のブーツだ」
怪訝な顔をするベスに、ケイは気にするなと手を振った。
「下見をして、稼げそうならやる。結局〝壁抜け〟に先を越されました、なんてことにならなきゃいいがな」
「じゃ、急ごうよ」
ベスは手にしていたジョッキをテーブルに置くと、腰に下げていた物を取り出した。急いでやるとなって、万が一、決行の夜に〝壁抜け〟に鉢合わせしたら? そうなっても邪魔はさせない。
「こっちにゃ秘策ありってね」
その〝秘策〟とやらは長い編み紐だった。丈夫そうだが何の変哲もない――ただ、撚り合わされた繊維のところどころから、紫色に鈍く光る、別の繊維らしきものがはみ出しているのがいかにも奇妙だ。
ケイは顔をしかめた。「なんだ、それは?」
「これでさ、ふん縛ればいい。そしたら抜けられない」
魔除け。魔法を妨害する結界呪具。ベスは〝壁抜け〟が魔法を使うと、少なくとも、その可能性があると思っている。
「そりゃすごい」
ひどくつまらなさそうなケイの返しに、ベスは眉根を寄せて不満げな表情になった。ケイはジョッキのエールで唇を湿らす。
「いろいろ考えるのはいいことだ。一度にふたつもみっつも考えられなきゃ――」
「やっていけない、でしょ?」
その怪しげなブツをどこで手に入れたのか、ケイには聞くまでもなかった。故買人のダレックが弓師街の裏通りでよろず屋を開いている。あの不愛想な老人、ダレックはケイのような盗賊から盗品を買って売る。いかがわしい呪具の類であってもだ。
「本物か? それ」
ベスはうやうやしい手つきで紐をテーブルに置いた。
「こいつに触れるほど近くじゃ、魔法は使えない」
――とダレックが言ったわけだ。本物だとしても、魔法使い以外にはただの紐。ベスに効果のほどは確認できないし、してもいないだろう。それをベスは幾らで買ったのか。銀貨で五シェール、いや十シェール? ケイは溜め息をついた。
「備えあれば患いなし、だっけ? そういうこと」
何とも馬鹿らしいが、それでもベスなりにふたつもみっつも考えていることはわかった。
いいだろう。この一年足らず、ベスが自ら獲物を選んで、ケイに仕事を持ちかけてきたのは初めてだった。稼げると踏んだ、その見立てがどれほど正しいか、この目で確かめてやる。
まだ宵の口だった。〈雄羊の蹴り足〉の賑わいはこれからだが、もうお開きにしたほうがいいだろう。ここでいつまでも仕事の話をするのはよくない。
「とにかく明日、下見に行く。ここは俺が払っとくから、先に店を出ろ」
ベスは頭を振って立ち上がり、長い紐を素早くまとめて腰に吊るして言った。
「上に部屋、とってるんだろ?」
ケイは苦笑した。こいつ、飲み代だけでなく宿代も浮かせるつもりだ。確かに今日はここに一泊する気で、二階の部屋をとっていた。
もうひとつ大きな溜め息をつき、半ば呆れた面持ちで外套を手に取ってケイも立ち上がる。それを見てベスは一瞬、口元をほころばせ、お先とばかりに店奥の反対側にある、二階への階段に向かい始めた。
ベスは抜け目なく、要領がいい。それに――と、ケイはベスの薄汚れた麻のスボンに包まれた尻のあたりを眺めながら思った。
――俺と体の相性も悪くない。
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