盗賊の矜持

9.忘れ物

 深夜。夜明けはまだ遠い。
 〝惨敗の壁〟――正式名は旧東門跡――を抜けて、南西に向かう。石工ヶ辻からは離れたが、ハーウェル区は広い。ケイはまだ区外に出ていなかった。
 御者台通りの左右に残る、崩れた〝壁〟を尻目に、ケイは跳ねるような大股で疾走する。外套のフードを被り、覆面の布で鼻から下を覆ったままなので少し息苦しいが、速度を落とさなかった。
 かつては都市の高く堅牢な囲壁だった切石積みの名残りに、月光がケイの影を大きく落としたが、それは瞬く間に小さくなって消えた。足の速さも多くの仕事で盗賊に求められる技だ。手前味噌ではあるが、ケイには速さの資質に恵まれているという自負があった。
 遠ざかるケイの後ろ姿を見て、〝惨敗の壁〟は在りし日に門をくぐって飛び込んで来た、あるいは飛び出して行った、伝令が乗る駿馬を思い起こしたかもしれない。汗に光る馬体、火を吹くような鼻息、伝令の兜の羽飾りが揺れ、王の旗が翻る――。
 それは〈王都〉最後の王の旗だ。描かれる紋章は星を手にした竜。実のところ都史を紐解けば、後にも王を称する者が入れ替わり立ち替わり現れるのだが、〝壁〟のはっきりした記憶は、この王の治世で途切れている。投石機の放った岩が轟音を立てて降り注ぐ包囲戦。獰猛な破城槌が東門を貫き、引き裂き、打ち砕き、都市内に殺到した敵勢は王軍を退けると、ついに王その人を討ち取ったのだった。
 およそ二百年も前のことだ。王は王を名乗る者がたいていそうであるように、偉大だが敵も多かった。諸侯は王が即位するにあたって追放した叔父の嫡男――だという触れ込みの人物――を西の海の向こうから帰還させ、真なる王に担ぎ上げた。真王、または後世の呼び方では新王を頂く諸侯連合軍は〈王都〉奪還の戦いにおいて東門付近のみならず、北も南も、囲壁をことごとく破壊した。それほどまでに激しい戦闘だった、と連合軍の将校らは語ったが、現在、バクラーモン大学で講義を受ける機会があるなら、歴史学の教壇に立つ講師はそれを怪しいものだと芝居がかった身振りで否定するだろう。
「こうした記録や証言は得てして勝者に都合よく書かれる。学生諸君! 〝破城の戦い〟で勝利したのは誰か? そう、諸侯連合に他ならない。王に反旗を翻した有力諸侯たちこそが戦争を仕掛けた主体なのであって、彼らは勝利の後、新たな王を守りの固い都市に据える気がまったくなかった。〈王都〉の囲壁は故意に破壊されたもの……それが昨今の歴史学会の定説である」
「事実、それから二年も経たずに連合は離散し、政治と武力の両面で諸侯が激しい権力闘争をくり広げる混乱期に突入した。新王の在位はたったの三年。先の戦いを静観していたソールベリ公が挙兵して王位を襲ったのは、前回の講義で述べたとおりだ」
「ところで、君らの中にウォルコットの『フランデラ嬢』を観たことがある者はいるかな? 劇中、新王は正統なる王の嫡子であり、海の向こうから彼を追ってきた真に愛するべき恋人、主人公のフランデラ嬢との悲恋が描かれるわけだが、史料から察するに、その出自は疑わしい。ミュラーとギンガムも〝諸侯が捏造した偽者だっただろう〟としている。近年では、新王とは名前だけが用意された存在しない人間だった、という極端な説も出ていて……まあ、それが真実ならウォルコットの名戯曲も台なしになってしまうな!」(学生たち、笑う)
「私見では、やはり新王は存在したと思う。ただし、それは継承権を持つ人物ではなかっただろう。ウォルコットもそう考えていた節がある。およそ百年前の執筆当時の常識に照らして、新王その人を描写する際には王族に用いてしかるべき定型的な言辞が巧みに避けられている。むしろ〝破城の戦い〟に敗れて第一幕第三場で早々に退場する先王のほうにこそ、王に付される装飾的修辞が多用されているのだ。言うまでもなく、我々が学ぶ歴史はさておき、この戯曲においては、新王の従兄は叔父……すなわち新王の実父を追い落として玉座に就いた悪辣な逆賊ということになっているのだがね……」
 その逆賊の名は〝ハーウェル〟だった、と〝惨敗の壁〟は思い出す。
 最早、ハーウェル王の星と竜の紋章は黴の生えた書物の中にしかないものの、〈王都〉の中でも広く、そこそこ富裕な区に名が残されている。反対にそれを討った新王や、諸侯連合の有力者の名を示すものは市内にひとつもなかった。ソールベリ公が彼らの名をことごとく〈王都〉から削り、書き換えたからであるが、そのソールベリの名も今やほとんどかえりみられることはない。
 ケイは、ここが一時は王で、最終的には逆賊になった男の名を受け継ぐ地であることを知らなかった。ハーウェル区はケイにとって特に思い入れのない仕事場にすぎず、〝惨敗の壁〟も賭博場に出入りする連中は縁起が悪いと嫌って通るのを避け、だからこそ夜間、人目につかずに通れる地点を表す目印でしかない。アーティならば区名の由来など様々なことを知っていて、今年の夏至祭には劇場〈大樹座〉で歌劇版『フランデラ嬢』の記念公演があるなどと、戯曲の背景も交えてひとくさり語ったりもするのだろうが、ケイには歴史や歴史的人物に思いを馳せる趣味がなかった。
 少しでも走りやすく、音が立ちにくくするために金貨の袋を背負い袋に入れ、足で地面を蹴り続けながらケイが考えているのは、二百年昔の話ではなく、つい数晩前のことだ。
 今回の仕事、確かに事前の情報ネタに間違いはなかった。
 あの夜、アーティはどう言っていたか。衛士隊がピリピリしている……うちがやらかしたわけじゃない……ねぇケイ、心配してるんだよ?
 ……石工ヶ辻は衛士が罠を張ってるから!
 奴は知っていたのだ。伏せて出したのが〝衛士隊〟の札なのは真実マブだったが、アーティはまだ手札に〝誘導の罠〟の情報ネタも持っていた。しかし、それを出さなかっただけで、虚偽ガセをつかませたわけではない。
 ……もちろん売ってくれたら嬉しいけども。
 当然、これも本音だ。自分の心配が杞憂に終わって、ケイが裏帳簿を売りにくるならそれでよし。盗みが成功したのに売りにこないなら、少なくともケイが仕入れに行った場所に裏帳簿はないということだ。元よりアーティがホーラーを狙っていたなら――その可能性は高い――即座に手下を百天秤街の絨毯店と鷲羽街の本宅に放つだろう。それどころか、罠のことは仕方なかったと髪が薄くなった頭をかいて、悪びれもせずに裏帳簿を盗み出して欲しいとケイに依頼するかもしれなかった。
 もしもケイがしくじって捕まったら?
 アーティは間違いなく心から悲しむが、それはそれとして大捕物の首尾に浮かれる衛士隊の隙を突き、好機とばかりにホーラーに限らずハーウェル区の住民の誰かを食い物にしようと手回しするはずだ。ケイがうまくやろうがしくじろうが、助かろうが助かるまいが関係ない。どう転んでも〝果物屋〟はから収穫できる。だ、騙したわけじゃないよ。ただ、ちょ、ちょっと言い忘れただけで……聞かれなかったし、ね。
 そのとおりだ。
 ケイは左手の甲で額の汗を拭った。
 初夏の〈王都〉。夜の気温はぬるく、決して高くはなかったが、こうも走ればさすがに汗をかく。そうでなくても湿気で服の布がまとわりつく感じがした。近いうちに雨になるかもしれない。今夜のことを雨が洗い流してくれればいいのだが。
 ひとつ幸いだったのは、衛士隊が捕らえるつもりの盗賊が〝壁抜け〟だと、仮に耳にしていたとしても、アーティが信じていなかったことだ。
 ――ふむぅ、〝壁抜け〟ねぇ。そういう盗賊がひ、ひとりくらい、いてもいいんじゃない?
 これが常日頃の〝どもり〟の見解ではあるが、衛士が本物の〝壁抜け〟に対して罠を張っていると判断して、罠に誘い込まれようとしているケイこそが〝壁抜け〟なのだとアーティが考えたなら、石工ヶ辻で仕事をさせようとしなかっただろう。欲の皮の突っ張った恐喝屋が、〈王都〉に名高い大盗賊の生殺与奪を衛士ごときに握らせてよしとするはずもない。自室で飼っている籠の鳥のように、それを子飼いにしようとするに違いなかった。
 ――ま、まったくあいつらも悪いことをするよ! に、偽者を何人、でっち上げて、ひっ火炙りにしたら気が済むのかねぇ。
 衛士隊の作戦を耳にしたアーティの反応は、たぶんこんなところだ。〝子爵夫人の首飾り事件〟このかた四年の間に、六人の盗賊が〝壁抜け〟として捕縛されている。そのたびに、しばらくするとまた〝壁抜け〟の仕業と思しき盗みが起きるので――それはケイの仕事なこともあれば、そうではないこともある――捕まったのは偽者だという話になった。
 濡れ衣だ何だとそしられたところで、衛士隊は下っ端隊員を減給処分にするだけで後は知らんぷりだ。たとえ〝壁抜け〟でなかったとしても盗賊に変わりはないとシラを切り通す。捕まった六人のうち、ひとりは本気で自分が〝壁抜け〟だと思い込んでいる頭のおかしい奴だったから半ば自業自得だが、他の五人については完全な言いがかりである。そのうちのふたりは教会に引き渡される前に〝壁抜け〟らしき者が現れたので命は助かったが、今も監獄にいるはずだ。残りの三人は時すでに遅く、自称〝壁抜け〟のおかしな奴と同様に火刑に処された。無論、教会からは何の声明もなかった。
 性懲りもなく、またか……と取り巻きから罠のことを聞かされたアーティは嘆息しただろう。これはしばらくハーウェル区で仕事がしにくくなる……いや、逆に衛士たちが捕り物に気を取られている今が狙い目か? などと考えていた折に、ケイが青果店を訪れた……。
 そんなところだ、きっと。
 ケイは眉をひそめた。
 不思議なのは、誰も彼もが〝壁抜け〟をこの世でたったひとりだと思っていることだ。アーティのように、その実在を疑う者――決して少なくない――はともかくとして、〈王都〉に複数人いるとは考えないらしい。だから、これまでに捕まった〝壁抜け〟はすべて偽者だったと信じられている。六人のうち、ひとりくらいは本物だったかもしれないのに。
 例外は教会で、奴らは〝壁抜け〟が何人もいると考えていてもおかしくない……と、ケイはパーチ聖堂の方面を目指しながら思った。飛び込んだ塀と塀の間の道とも言えないような路地からは、建物の影越しに聖堂のドーム型の屋根が見え、それが沈みかけた月を覆い隠している。
 あのドームの下で澄ましている坊主どもは常々「悪はどこにでもあり、そのすべてを聖なる炎で焼き尽くさなければならぬ」とか、恐ろしいことを笑顔で説教してるんだからな!
 世の中は悪に塗れているとみなす教会が、邪な魔法に手を染めた盗賊が世にひとりきりだと甘く見積もるとは思えない。悪人がひとりいるなら十人、十人いるなら百人、百人いるなら千人いると妄想する奴らだ。
 別の理由でケイもまた〝壁抜け〟が自分ひとりだとは思っていなかった。俺が盗れた魔法なら、他の誰かにも盗れたはずだ。そして、そいつは〝壁抜け〟の誘惑――信じよ――に抗いつつ、そんな素振りも見せずに今も街で仕事をしているだろう。ケイがそうであるように。
 ほとんど見込みのない話だが、もしも他の〝壁抜け〟を見つけたら、ケイは何も言わずに、ただ〈雄羊の蹴り足〉で一杯奢ってやるつもりだ。今日も呪いを生き延びた我らに乾杯!
 しかし、今夜を生き延びて祝杯を上げるには、まだやらなければならないことがある。ケイは走って路地から路地へと移り、時には塀をよじ登った。野良猫を衝突寸前に飛び越え、野良犬の鼻先をかすめて怯えさせる。
 こんな時に〝上の道〟が使えたら! 鈎縄を置き去りにしたのが悔やまれるが、あれはやむなしだった。を行くしかないとしても、ケイは〈王都〉の裏道や抜け道を熟知している。間に合うはずだ。
 ――ベスの行く手を阻むのに。
 ケイを衛士隊に売ったのはベスだ。
 この仕事に誘った時の「アーティの取り巻きが噂していた」というベスの言葉に嘘はない。そしてアーティが、衛士隊の動きが慌ただしくなったことについて「うちがやらかしたわけじゃないよ」と弁解したのも――ケイは疑ったが――いつもの〝どもり〟らしく正直に話しただけだ。
 そうだな、やらかしたのはあんたのとこの奴じゃなかったよ。
 〝どもり〟の取り巻きが衛士隊の様子を噂していて、それをベスは耳にした。そんなふうにケイは思い込んでいた――間抜けなことに。だが、実はまずベスが〝壁抜け〟を捕まえさせてやると衛士隊に売り込み、それに色めき立つ衛士隊の様をアーティの取り巻きどもが噂した、というのが本当のところだろう。なぜ、ベスがケイを売るようなまねをしたのかといえば……。
 しくじったからだ。
 しくじって衛士に捕まったベスには、〝ご隠居〟のように賄賂を出して見逃してもらうことなどできない。これは仕方がない。潤沢な資金力を持つ〝ご隠居〟が特例であって、衛士が納得するほどの金額を出せない盗賊のほうが圧倒的に多い。
 賄賂を出せない盗賊はどうするか? 自分よりも大きな手柄になる捕縛対象を衛士に売るのだ。悪党一家のアジトでも、指名手配の盗賊の居場所でも、阿片の密貿易船がやってくる場所と時刻でも、価値を衛士が認めるなら情報ネタは何でもいい。それが金回りのよくない盗賊にとっては、見逃してもらうための賄賂代わりになる。ケイもそうやって難を逃れたことが一度ならずあった。これもまた〈王都〉で盗賊を続けるために覚えておくべき技のひとつだ。
 それをよく覚えていた、とケイはベスを褒めてやりたくなった。
 最初に見込んだとおりだ。
 お前は抜け目なく、要領がいいよ、ベス。
 そんなお前が、ただ見逃してもらうだけで終わりにするはずがない。この作戦で〝壁抜け〟捕縛のあかつきには報酬を――そんなふうに衛士にふっかけたんだろう? あたしがホーラーの別邸に誘い込む。あんたらはそいつを捕まえるのさ。きっとうまくいく! 任せなよ。指名手配犯の捕縛で出る報奨金から、あたしもちょっともらえたら、それでいいからさ……。
 ケイは公園の鉄柵の横を走り抜ける。
 下見の時にベスと仕事の手順を練った公園は日没とともに閉園し、今は門が閉じている。そして表通りに出てパーチ聖堂脇の路地に入ると、塀寄りに置かれた大きなゴミ籠を目ざとく見つけて飛び乗り、強引に塀をよじ登って越え、聖堂の庭に侵入した。この庭を斜めに突っ切るのが、今夜、最後の近道だ。
 おそらく、ベスの立てた計画では、ここから先の動きはこうだ。首尾よく捕り物を終えた衛士隊は〝壁抜け〟を引っ立てて詰所の拘置房にぶち込む。興奮冷めやらぬ中、衛士のひとりが、こっそりベスとの待ち合わせ場所に向かうだろう。詰所からほど近く、人目につかない、ひと仕事終えた盗賊が仲間と落ち合うのに都合のいい場所へ。
 一方、ベスは大して急ぐことなく、あらかじめ示し合わせておいた同じ場所を目指す。捕まったケイが詰所に引きずられていく様をこの目で拝みたいというなら話は別だが、そこまでベスは悪趣味ではあるまい。捕り物の後始末も済んだ後、報酬を持参した衛士をあまり待たせずに、頃合いを見て姿を現せばいい。
 ハーウェル区の衛士隊詰所はパーチ聖堂の裏だ。衛士たちは詰所の裏に聖堂があると言うだろうが、それはどちらでもいい。石工ヶ辻から詰所を目指せば、公園の脇を抜けて聖堂前の通りに出る。そこから詰所側に通じる路地は聖堂の左右にひとつずつ。近くて入りやすいのは左の路地だが、盗賊が金の受け渡しをするのに相応しいのは表通りからより離れていて、より暗く、より細い右のほうだ。盗賊が仕事の分け前をどこで受け取ろうとするのかを、ケイはよく知っている。ベスが選ぶのは右に違いない。
 パーチ聖堂の敷地はさほど広くない。坊主が早寝早起きなことも、土地を囲む塀が高くないことも助かる。教会は誰にも分け隔てなく開かれてあるべし――素晴らしい教えじゃないか。ついでに塀で囲むのを一切止めてくれたら、もっと評価してやるんだがな。
 ケイは庭の楢の木に登り、枝の上から塀に飛びついた。
 まるで焦げ茶の毛並みをした猫のように身軽に、塀を乗り越えて目的の路地に降りる。
 ――速いというのは、しかるべき時に、しかるべき場所に辿り着ける、手が届くということだ。
 間に合った。
 聖堂の塀に背中をぴったり押しつけるようにして闇に隠れ、ケイはこちらに向かって歩いてくる、小柄だが手足の長い人影を充分に引き寄せる。すぐには路地から逃げられないように。
 そして大股で五歩離れたところまで人影が――ベスが来た瞬間、その前に立ち塞がった。
「忘れ物だ」
 魔除けの紐をベスの足元に投げ捨てる。
 ケイはホーラー別邸で罠にはめられたと気づいたが、その直後には、この紐の意味がわからなかった。
 なぜベスはこれを持たせようとしつこく迫った? ケイが本物の〝壁抜け〟だと知っていて、魔法を封じようとしたなら、当の本人に渡すはずがない。仕事の前には捨てられておかしくないし、何より、それは本物に「あんたが〝壁抜け〟だって知ってるよ」と宣言するようなものだ。そんなまねをすれば、この仕事には何か裏があるとたちまち警戒されるのが落ちだろう。それに気づかないほどベスは馬鹿ではない。本気で紐が効き目のある代物だと信じているなら、衛士に渡して使わせたほうがまだしも納得できる。だがベスは何とかしてケイに紐を持たせようと、あれやこれやと理屈をこねた。
「――ね、だからだよ。だから、これはあんたが持っててって言ってるのさ」
 何のために?
 ハーウェル区を疾走する間も考え続けて、ケイにはベスの仕組んだ筋書きがおおよそつかめていた。
 第一に、ベスはケイが本物とは知らずに、衛士に捕まる〝壁抜け〟役を勤めさせることにした。これは紐をケイに渡したことに加えて、これまでベスと組んだ仕事でケイは一度も〝壁抜け〟したことがないことを含めて考えても間違いない。
 第二に、魔除けの紐に効果があるのかないのか、魔法を使えぬベス自身は判断できない。これも間違いない。
 だとすればベスにとっては紐が本当に魔除けでも、そうでなくても、どちらでもよかったということだ。紐はその夜、捕まえるべき盗賊に付ける目印にすぎない。
 仮に、紐を持ったケイが捕まったとしよう。捕縛後、どうせまた偽者をでっち上げたのだと街の人々から非難されないように、衛士隊はこう発表するつもりだったのではないか。
 ――〝壁抜け〟は我々の協力者によって密かに魔除けを持たされていた。それで壁を抜けられなくなった奴を我々は捕らえたのだ、と。
 もしケイが捕まっていたら、ハーウェル区管轄の衛士隊は詰所の前で「これが〝壁抜け〟捕縛に一役買った魔除けの紐である!」などと言って、ところどころに紫の繊維が鈍く光る、いかにも風変わりな紐で縛り上げられたケイの姿を集まった群衆に見せつけたかもしれない。
 この使い方なら、紐が実際に魔除けでも、そうでなくても、どうでもいいわけだ。呪具の真贋を見極められる魔法の使い手など、市民にはまずいないのだから。詰所の裏の聖堂にうやうやしく、異端者を捕まえる上で功績のあった紐を献上してもいい。どうせ修道士たちだって、魔除けの効果の有無などわからないに決まっている。
 おそらく、ベスがこんな使い途を思いついたのは、故買人のダレックから、それは魔除けだと聞かされた時だろう。衛士に〝壁抜け〟を捕まえさせてやると言ったところで、信じてもらえるか、賄賂分の価値を認めてもらえるかどうかは怪しい。でも、この紐を使って誰かを〝壁抜け〟に仕立てる作戦まで提示して、協力すると売り込んだら? ……それならうまくいきそうだ。この紐はお守り代わりに買っておこう。
 確かにうまくいった。衛士隊はまんまと話に乗ったし、ケイに紐を持たせて罠に誘い込めた。
 そこまではいい。それでベス、万が一、俺が衛士隊に捕まらなかった場合――その時どうするのかを考えておいたか? 想定していなかったとしても、石工ヶ辻から詰所近くまで、考える時間は充分にあったはずだぞ。
 ――突然、闇から現れたケイを、そして足元に投げられた紐を見て、驚愕に強張った表情のベスの目は一瞬、左右に泳いだ。
 今、考えているな。
 どうやってケイは脱出したのか。衛士隊は何をしているのか。あそこから脱出できるのは、それこそ〝壁抜け〟くらいのものだ。だとしたらケイが〝壁抜け〟なのか。そうなら、やはり魔除けは何の効果もない、ただの紐だったのか。でも、そんなことよりまず、今ここで、あたしは……。
 聖堂脇の路地で、ベスが刹那にふたつ、みっつと幾つも思考を巡らせたのに対して、ケイはたったひとつのことしか考えていなかった。
 ベスの口を封じなければならない。
 この一件で誰が〝壁抜け〟なのか、ベスは気づくはずだ。今、こうして顔を合わせなかったとしても、俺が自由の身で生きている以上、いずれは……。それを見逃すつもりがケイにはなかった。
 素早く一歩、前に踏み出したケイの右手には〝T字釘〟が握られていた。中指と薬指の間から長く太い釘が伸び、その先端は鋭く尖っている。
 ベスは踵を返して全力で逃げようとした――が、路地の途中で急停止して振り返り、ナイフを投げる。
 ナイフはまっすぐに飛んだ。
「フリンジ」
 すでにケイは〝術式シェーマ〟を組み終えていた。飛ぶナイフをすり抜け、間髪入れずにベスの眼の前に現れる。
 ケイは左手でベスの口を押さえ、右手の〝T字釘〟で心臓を貫いた。
 確かに〈王都〉の盗賊は一度にふたつもみっつも考えられなきゃやっていけない。
 だが、土壇場になってようやく、ふたつもみっつも考えるような奴は――。
 死ぬしかない。
メッセージを送る!