8.信じる者は
荒々しく呼吸しそうになるのを、ケイは歯を食いしばって堪えた。
抜けられた。
ゆっくり、ゆっくり静かに大きく息を吐き、吸う。
この家の住人に気づかれてはいけない。侵入を悟られたら、こうまでした努力も水の泡だ。見つかり大声を出されて、集まってきたホーラー別邸やその周りにいる衛士たちに囲まれるのは御免被りたい。
それに何より、ケイは今夜、盗みに入った盗賊が本物の〝壁抜け〟だと衛士や他の誰かが感づくのを恐れた。
盗みに入られた家から盗賊が逃げたと思ったら、隣の家にもいつの間にか盗賊がいた……。そんな奇妙なことが起きたら、実は何が起きたのか、真相に思い至る者もいるに違いない。奴は壁を抜けたのではないか? と。
――ホーラーの金を盗った賊は慌てて窓から降り、待ち伏せを何とかくぐり抜け、まんまとどこかに逃げ去った――。
そう思ってくれ。隊長にそう報告しろ。そのために鈎縄を残してやったんだからな。
衛士風情に、ケツに火がついて仕事道具も置き去りにして逃げたと思われるのは業腹だが、背に腹は代えられない。
抜けた先の部屋が無人なのは幸運だった。おそらく物置――ケイは目を凝らし、今抜けたばかりの壁際に化粧箪笥があるのを見て、ひやりとする。飛び込む時の勢いがもう少し弱かったら、そこが出現する座標になっていたかもしれない。
そうなったら――物体と重なる形で出現したら――どうなるのか、ケイは知らなかった。何にせよ、面白くない結果になるのは想像に難くない。
〝壁抜け〟は自分と身に着けている物の……何と言ったか……そうだ、存在確率を……瞬間的に極度に分散させ、直前の運動の力と向きに応じた座標……に再集中させる、だ。この説明の意味するところはケイにとって詳らかではないが、座標が物と重なっていた場合、それが化粧箪笥なら、突如ケイが出現したことで内側から壊され、とんでもない音を立てたかもしれない。もしかすると最悪、存在確率の再集中とやらで、ケイと箪笥は一体になってしまうのかもしれなかった。そうなら鉄柵にぶら下がったドノバンもびっくりの、世にも奇怪な盗賊箪笥の一丁上がりだ。
ケイは部屋の扉に近づき、聞き耳を立てる。
何もかもうっちゃって、全速力でこの家から出たい気持ちを必死で抑えた。焦るな。気づかれるなと言っただろうが! 寝室で賊を見失った衛士隊が次に向かうのは、この家とホーラー別邸の間の路地だ。外にも衛士がいるなら、まず合流するだろう。その隙に俺は――。
こめかみの奥が疼いた。
〝壁抜け〟の〝術式〟を組むと必ずこうなる。これは頭の普段は使わないところを無闇に使うらしい。酷使された脳が疲労と苦痛を訴える。たぶん今夜〝壁抜け〟できるのは、せいぜい後一、二回が限度だ。
物音はせず、気配もない。
用心しつつ廊下に出て、ケイは這うように低い姿勢で壁際を進んだ。〝壁抜け〟などせずとも、この家から出てみせる。過去に盗れるだけ盗ってきた技や知識が可能にしてくれるはずだ。それらと同様に〝壁抜け〟も盗ったものなのだが、ケイは他に比べてこの技――魔法が気に食わなかった。
魔法は第一に信じることを要する。それぞれの魔法が大層に宣う効果の説明と、それを実現するための〝術式〟を信じずして、これは発動しない。一切を疑うことなく、その時々の状況――長さであるとか重さであるとか諸々――に合わせた記号や数値を高速の思考で当てはめて頭の中に〝術式〟を組み、湧き上がってきた鍵言葉を口にする。ケイの〝壁抜け〟の場合は「フリンジ」だ。こうした発動までの一連の面倒な手順は信じることから始まり、それがすべての土台だった。
疑うことが美徳の俺には合わない――。
もちろんケイも自らが持つ鉤縄や〝T字釘〟のような道具、〝跳ぶ〟ことの技術、金の在り処を見定めるための知識などに信頼を寄せていた。だが、それらは信じた分だけ、それが正解だという根拠を示してくれる。鉤縄の鈎は頭上で素早く回す時の適度な重みで、縄はぴんとした張り具合で、〝跳ぶ〟ことは狭くとも確かな足場を蹴る頼もしさで、そうだとも、これが信じるに足る理由だと事あるごとにケイに返してくれるのだ。
――魔法は何も返さない。
ケイが〝術式〟を組んでいる間、それは終始無言だ。根拠も理由も何もなく、黙したまま、ただひたすら一方的に信じよと要求する。確かにすごいことをやってのけるが、随分と尊大じゃないか。
この魔法――〝壁抜け〟を盗るには、ほとんど頭に入ってこない理屈を長々と聞かされたり、普段なら売り飛ばすことしか考えないような古くて分厚い本を盗み見たりと、たっぷり労力も時間もかかった。だから、ついに盗れた時は喜びもひとしおだった。ホーラーのクロン金貨を見つけた時よりもずっと興奮したかもしれない。
ここにも、あそこにも入ってやろう。そしてあれもこれも盗ってやる!
ところが、そんな益体もない夢想も、初めて仕事で〝壁抜け〟するまでしか続かなかった。
四年ほど前、夏至祭に合わせて大公に表敬するべく〈王都〉を訪れた子爵夫人がいて、ケイは夫人ご自慢の首飾りを逗留先の高級旅館から盗んだ。昼なら近寄ることすら許されず、夜は忍び込むのもようやくだろう、その旅館の警備を突破するのも〝壁抜け〟があればたやすかった。だが、すぐに後悔するはめに陥った。
せめて盗るのは現金にしておけばよかったのだ。
ケイはほとぼりが冷める頃を見計らって、大きな翠玉があしらわれた首飾りを売り払う気でいたのだが、翌日にはすでに何か尋常ならざる手段で盗みを働いた賊がいると騒動になっていた。
――おい、ファルマ子爵夫人の首飾りは〈白獅子館〉の地下金庫室に保管されていたそうだぞ。
――その分厚い扉の前にゃ交代で見張りが立ちずっぱりだったらしい。
――へえ、だったら、どうやって盗ったんだろうな?
首飾りを故買にかけるのは、噂の不可思議な技を使う盗賊は私でございと触れて回るようなものだ。とても売り出す気にはならなかった。
まったく! 換金できない獲物に手を出してしまうとは迂闊もいいところだが、そもそも普通なら盗りようもない場所から盗ったのが完全な悪手だった。そんな所から盗ったせいで、〈王都〉の上から下まで誰もが注目して噂する。密かに隠れることを身上にする盗賊が注目され、何か盗るたび、あいつがやったと見透かされて得なことなどひとつもない。派手な仕事で顔と名前を売った盗賊には賞金がかかり、盗みの最中や直後でなくとも衛士や賞金稼ぎの捕縛対象にされる。あまりに厳しい包囲から逃れようと、顔を酸で焼いたり、自分と背格好の似た死体――そういうものを買う手段はある――を使い、あたかも死んだように見せかけたりして、人生の再出発を試みる奴までいるほどだ。
二度目の〝壁抜け〟は下水道の奥、〝もぐら〟なる二つ名の悪党が仕切る一味の隠れ家から、麻薬密売で稼いだ金をごっそりいただいた時だった。
初回の失敗を踏まえ、狙いは現金。それも犯罪で得た表沙汰にできない金である。さらに光がなく、迷路のように入り組み、枝分かれした下水道が舞台なら、不自然な逃走劇が演じられても怪しまれにくいだろう……。ケイは隠れ家周辺の〈王都〉下水道設計図――役所の記録保管庫から写しを盗んだ――を見て、壁一枚向こうに別の下水道の通路が走っている箇所を把握しておき、そこを抜けて一味の追っ手から逃走した。これなら首飾りの時とは違い、獲物は換金不要、たちまち市民の噂になることもない。
だから〝もぐら〟が、
「ヤサ荒らしのクソを八つ裂きにして鰻の餌にしろ!」
などと息巻いていると耳にしてもケイは動じなかった。
いつもの仕事と何ら変わらない。自分からボロを出すようなまねをしなければ、誰が盗ったのかは露見しないはずだ……。これは見込みどおりだった。だが同時に、ケイは人の口に戸は立てられぬと知った。
噂は思ったよりも早く、悪党たちが囁きを交わす裏路地や酒場の片隅から、日の当たる街をゆく市井の人々にも広がっていた。話に見事な尾鰭がついて。
――今、〈王都〉には、すげぇ盗賊がいるらしい。
――聞いたぞ。弓師街でえらっそうに踏ん反り返ってる密売人の元締めから金を奪って半ベソかかせたってな。
――いい気味だぜ。で、やったのはどこのどいつだ?
――わからん。金を返せ! って追ったら目の前で煙みたいに消えたそうで、元締めは腰抜かしたってよ。
――そいつぁ傑作だ! ああ、俺もその現場をよぉ、見てみたかったぜ。
そんな噂を商店の御用聞きや衛士の平隊員までもが口にし、驚いたことに先の〝子爵夫人の首飾り事件〟と関連づける者まで現れた。噂なるものは止めるどころか、向きを左右することすらままならない。ケイはますます慎重に振る舞うことを余儀なくされた。
そして、三度目は〈王都〉外縁の北と東と南にある、広大な隊商停留場の……。
もう、よそう。このあたりですでに〝壁抜け〟に対するケイの熱は冷めていた。
せっかく苦心惨憺して盗った魔法だ。これは並の技ではない。大きな仕事に使わなければ嘘だ。
そんなふうに考えたのが間違いだった。
上流貴族御用達の旅館、密売組織のアジト、そして護衛がひしめく隊商停留場と、みっつの難所での冒険をたったひとりで成し遂げた盗賊の評判は巷で持ち切りとなっていた。
――教会が〝異端の恐れ〟を宣告したぞ!
ついに事はそこまでに至った。これで謎の盗賊は捕まれば片手切断では済まない。邪教の輩として拷問の末に火炙りである。
何が異端だ、何が恐れだ! ケイは教会が正統だと認めたことは一度もない。疑いもせず、何かを信じているような奴らの言い草など知ったことか。いつまでもそこで祈ってろ。
だが心の中で幾ら反駁したところで、これからは衛士ばかりか教会にも追われるという事態に変わりはなかった。教会の審問官が放つ密偵は衛士や賞金稼ぎとは比較にならぬほど執拗で、大公直属の間諜と肩を並べるほど優秀だという話は〈王都〉のあちこちで、人目をはばかり声を潜めて語られる。ホールモント区の修道院を狙うだって? 止めとけ、止めとけ。教会の密偵が異端だなんだって、しつこく追っかけてくるぞ。
それでもケイは〝壁抜け〟を止めなかった。
いや、止められなかった。それは依然として奥の手で、目覚ましい効果がある。どんな障害も素通りでき、どんな追っ手の前からも消え失せられる、盗賊なら垂涎の技であることに違いはなかった。
しかし、こいつは壁を抜けさせてくれるだけだ。
白銀に輝く無敵の超人に生まれ変わらせてくれるわけでも、抜けば青い光の柱が天を突き、その場の誰もがひれ伏す、お伽噺の宝剣でもない。使えば頭痛がして、連発することすらできないのだ。そのくせ――。
ケイは顔を歪めた。
二階に下りられたが、続く一階への階段が問題だ。もしもこの家の住人が強い警戒心の持ち主なら夜間、この階段に〝糸と鳴子〟式の報知器を仕掛ける。余裕があれば――ベスがケイに物色するのを任せて玄関に向かった時のような状況なら、迷わず速さよりも用心を選ぶ。だが、こうも追い込まれている場合は、罠がないことを、あっても稚拙なものであることを、運に任せて速さを優先するしかなかった。
階段に月明かりを入れるため、踊り場の窓のカーテンを開けたいが、それはだめだ。今のケイには後で閉じてくれる仲間はいないのだ。朝になって、この家の者が開いたカーテンを見て侵入があったと気づくかもしれず、それは〝壁抜け〟を思い起こさせる――細い細い筋道ではあるが――手がかりになる。ほぼ完全な闇の中を、罠を警戒しながらも速く、俺は下りられるのか?
ホーラー別邸の騒ぎは広がりつつある。ケイの鋭敏な聴覚は屋外に人が集まり、盛んに言葉を交わして走り回るのを感じていた。言うまでもなく衛士隊だ。だんだんと奴らの声が大きくなる。こちらにはおりません! いいから探せ、まだ近くにいるはずだ! とか抜かしているのだろう。急がなければ区画丸々に捜索範囲が広がり、この家も囲まれる。
――さあ今こそ〝壁抜け〟を使え。これは応用だ。再集中の座標を合わせ、ここから跳べば階段を無視して一瞬で音もなく下りられる。〝術式〟を組め。お前ならできる。我を信じよ――。
黙れ、黙れ!
何かあるたび、〝壁抜け〟はケイに信じることを強制する。ここから抜けられるぞ。信じよ、信じよ。信じる者は……くやしいが、確かに救われることもあった。
三度で気持ちが冷めた後も、他に手がなくなって、ケイは幾度か〝壁抜け〟に頼った。そのたびにこめかみの奥が痛み、〈王都〉に謎めいた盗賊の逸話が天井知らずで積み上げられる。
子爵夫人の首飾りを盗って一年も経つ頃には、ケイの預かり知らぬところで、その盗賊は〝壁抜け〟と呼ばれるようになっていた。最早それは伝説だ。ケイがやってもいない仕事まで〝壁抜け〟の仕業ということになる。
どんな壁もものともせず、決して捕まらない大盗賊!
不可能を可能にする盗賊という物語を鼻で笑う者も多かったが、それでもなお、これは〈王都〉に渦巻く不平不満を吸い込んで果てしなく膨張した。自らの行いから生まれた虚像がひとり歩きして、ケイにあれをやれ、これをこうしろと命じ、親切ごかしに与えられた役回りに従うようにとそそのかしてくる。されば救われん!
ケイは教会の戯れ言など我関せずだったが、魔法を邪道とみなす見解には一定の理解を示すようになった。それが悪なのかどうかは知らない。しかし魔法が――少なくとも自分にとって〝壁抜け〟が――ある種の呪いであることには同意だ。一度かかった呪いは簡単には解けない。昔話でもそうなっている。必要なのは王子様のキスか? 勘弁してくれ。
解けぬ呪いは遠ざけておくに及くはない。
今やケイはおのれが〝壁抜け〟であることを極力忘れるようにしていた。街角でも酒場でも〝壁抜け〟を引き合いにした与太は嫌でも耳に入るが、鋼の意志で感情が波立つのを抑え込む。
「くそぅ、俺も〝壁抜け〟だったらなあ」
「だったら、どうするつもりだ?」
「そりゃお前、あの高慢ちきな女の部屋に押し入ってだな、俺様のすごさをちったぁわからせてやんのよ」
「ははあ、壁を抜けても、あんたがすごくなかったら、どうにもなんねぇな!」
まったくだ。
壁を抜けられるからどうだというのだ? そんなものがなくとも、俺はここを下りてみせる。
ケイはしゃがみ、床に尻を擦りつけそうな体勢で一段一段下りていく。左の壁際を行け。もし二階に上がろうとする者がいるとすれば、間取りからして、それは階段の右から来る。左に寄って予期せぬ鉢合わせを避けろ。ただし壁に触るな。そこに罠があるかもしれない。
こんな家鴨みたいな格好で警戒しながらでも速く――。
扉の開く音が響いた。
右から微かな光が差す。
残り三段! 後たった三段だというのに、ここまでか……。手にした金貨入りの袋の口を握りしめる。何者かがこちらにくるようなら、そうでなくても玄関から外に出るためには、これで殴り倒して突破するしかなさそうだ。
強襲を意図して呼吸を整え、階段を下り切ったケイは目を見張った。
――なんてこった。
一階ホールに人の姿はなく、玄関の扉が開いている!
この家の誰かは衛士の立てる音や声に目を覚まし、いったい何事かと訝って明かりを持って外に出たのだ。
ツイている! これは事前に少しも見込んでいなかった、正真正銘の幸運だ。ケイは密やかに扉へと近づいた。半開きになった扉越しに、オイルランプを手にした人物の輪郭が浮かんでいる。その人影は扉から出てすぐ玄関ポーチの右寄りに立ち、ランプを掲げて隣のホーラー別邸前で衛士どもが右往左往する様をうかがっていた。安眠を妨害されたと衛士に抗議していないことから、家の主人ではなく使用人だと思われた。
今ならいける。
ケイは開いた扉を、そして使用人らしき者の背後を、それこそ煙のようにすり抜けて、ポーチの段数の少ない階段を別邸とは反対の左側に飛び降りた。この家の階段脇には鉢植えがないことも――よほど大きな物でなければ障害にならないとはいえ――幸いだった。
気づかれていない。
夜陰のぬるい外気に包まれて、ケイはそそくさと充分な距離を取って振り返る。衛士のひとりがランプの人物に駆け寄り、玄関を見上げるようにして声をかけていた。はあ、泥棒ですか? 恐ろしいことですな。いえ、特に気づいたことはありませんなあ。私は寝ていたもので……それで、何か盗られたので?
さらに離れて眺めると、街路に集まった衛士たちが蠢く影と、その各人が携える矛槍がランタンの明かりを反射して、魚市場に並ぶ鱈の鱗のようにきらめくのだけが見えた。
――そんな長物を持つから、狭い路地に入っての待ち伏せができなくなるんだ。
矛槍は捕り物に優れ、長い柄で行く手を阻むことも、閉じられた扉を叩き割り、積み上げられた障害物をぶち壊して、逃げたり立て籠もったりする悪党を追い詰めることもできる。だが、細く入り組んだ小道や、狭い建物と建物の間を活路にする盗賊とは相性が悪かった。上や左右が詰まっていると振り回せず、味方に当たる恐れがあるから開けた場所でないと多人数を配置できない。これは衛士隊の重大な欠陥だった。
すべての衛士が隊長のように腰にサーベルを下げていて、いったん矛槍を手放す選択ができていたら、ケイが窓から縄を下ろした路地に入って待つこともできただろう。本当にできなかったのか、それとも単にやらなかったのかは、この際どちらでもいい。おかげでこちらは算段どおりに脱出できた。
急いで石工ヶ辻から立ち去るケイの背後に、憤怒と焦燥が入り混じった衛士たちのやかましい声が響く。
鉢植えの蘭が蹴飛ばされなきゃいいな、ホーラー。
抜けられた。
ゆっくり、ゆっくり静かに大きく息を吐き、吸う。
この家の住人に気づかれてはいけない。侵入を悟られたら、こうまでした努力も水の泡だ。見つかり大声を出されて、集まってきたホーラー別邸やその周りにいる衛士たちに囲まれるのは御免被りたい。
それに何より、ケイは今夜、盗みに入った盗賊が本物の〝壁抜け〟だと衛士や他の誰かが感づくのを恐れた。
盗みに入られた家から盗賊が逃げたと思ったら、隣の家にもいつの間にか盗賊がいた……。そんな奇妙なことが起きたら、実は何が起きたのか、真相に思い至る者もいるに違いない。奴は壁を抜けたのではないか? と。
――ホーラーの金を盗った賊は慌てて窓から降り、待ち伏せを何とかくぐり抜け、まんまとどこかに逃げ去った――。
そう思ってくれ。隊長にそう報告しろ。そのために鈎縄を残してやったんだからな。
衛士風情に、ケツに火がついて仕事道具も置き去りにして逃げたと思われるのは業腹だが、背に腹は代えられない。
抜けた先の部屋が無人なのは幸運だった。おそらく物置――ケイは目を凝らし、今抜けたばかりの壁際に化粧箪笥があるのを見て、ひやりとする。飛び込む時の勢いがもう少し弱かったら、そこが出現する座標になっていたかもしれない。
そうなったら――物体と重なる形で出現したら――どうなるのか、ケイは知らなかった。何にせよ、面白くない結果になるのは想像に難くない。
〝壁抜け〟は自分と身に着けている物の……何と言ったか……そうだ、存在確率を……瞬間的に極度に分散させ、直前の運動の力と向きに応じた座標……に再集中させる、だ。この説明の意味するところはケイにとって詳らかではないが、座標が物と重なっていた場合、それが化粧箪笥なら、突如ケイが出現したことで内側から壊され、とんでもない音を立てたかもしれない。もしかすると最悪、存在確率の再集中とやらで、ケイと箪笥は一体になってしまうのかもしれなかった。そうなら鉄柵にぶら下がったドノバンもびっくりの、世にも奇怪な盗賊箪笥の一丁上がりだ。
ケイは部屋の扉に近づき、聞き耳を立てる。
何もかもうっちゃって、全速力でこの家から出たい気持ちを必死で抑えた。焦るな。気づかれるなと言っただろうが! 寝室で賊を見失った衛士隊が次に向かうのは、この家とホーラー別邸の間の路地だ。外にも衛士がいるなら、まず合流するだろう。その隙に俺は――。
こめかみの奥が疼いた。
〝壁抜け〟の〝術式〟を組むと必ずこうなる。これは頭の普段は使わないところを無闇に使うらしい。酷使された脳が疲労と苦痛を訴える。たぶん今夜〝壁抜け〟できるのは、せいぜい後一、二回が限度だ。
物音はせず、気配もない。
用心しつつ廊下に出て、ケイは這うように低い姿勢で壁際を進んだ。〝壁抜け〟などせずとも、この家から出てみせる。過去に盗れるだけ盗ってきた技や知識が可能にしてくれるはずだ。それらと同様に〝壁抜け〟も盗ったものなのだが、ケイは他に比べてこの技――魔法が気に食わなかった。
魔法は第一に信じることを要する。それぞれの魔法が大層に宣う効果の説明と、それを実現するための〝術式〟を信じずして、これは発動しない。一切を疑うことなく、その時々の状況――長さであるとか重さであるとか諸々――に合わせた記号や数値を高速の思考で当てはめて頭の中に〝術式〟を組み、湧き上がってきた鍵言葉を口にする。ケイの〝壁抜け〟の場合は「フリンジ」だ。こうした発動までの一連の面倒な手順は信じることから始まり、それがすべての土台だった。
疑うことが美徳の俺には合わない――。
もちろんケイも自らが持つ鉤縄や〝T字釘〟のような道具、〝跳ぶ〟ことの技術、金の在り処を見定めるための知識などに信頼を寄せていた。だが、それらは信じた分だけ、それが正解だという根拠を示してくれる。鉤縄の鈎は頭上で素早く回す時の適度な重みで、縄はぴんとした張り具合で、〝跳ぶ〟ことは狭くとも確かな足場を蹴る頼もしさで、そうだとも、これが信じるに足る理由だと事あるごとにケイに返してくれるのだ。
――魔法は何も返さない。
ケイが〝術式〟を組んでいる間、それは終始無言だ。根拠も理由も何もなく、黙したまま、ただひたすら一方的に信じよと要求する。確かにすごいことをやってのけるが、随分と尊大じゃないか。
この魔法――〝壁抜け〟を盗るには、ほとんど頭に入ってこない理屈を長々と聞かされたり、普段なら売り飛ばすことしか考えないような古くて分厚い本を盗み見たりと、たっぷり労力も時間もかかった。だから、ついに盗れた時は喜びもひとしおだった。ホーラーのクロン金貨を見つけた時よりもずっと興奮したかもしれない。
ここにも、あそこにも入ってやろう。そしてあれもこれも盗ってやる!
ところが、そんな益体もない夢想も、初めて仕事で〝壁抜け〟するまでしか続かなかった。
四年ほど前、夏至祭に合わせて大公に表敬するべく〈王都〉を訪れた子爵夫人がいて、ケイは夫人ご自慢の首飾りを逗留先の高級旅館から盗んだ。昼なら近寄ることすら許されず、夜は忍び込むのもようやくだろう、その旅館の警備を突破するのも〝壁抜け〟があればたやすかった。だが、すぐに後悔するはめに陥った。
せめて盗るのは現金にしておけばよかったのだ。
ケイはほとぼりが冷める頃を見計らって、大きな翠玉があしらわれた首飾りを売り払う気でいたのだが、翌日にはすでに何か尋常ならざる手段で盗みを働いた賊がいると騒動になっていた。
――おい、ファルマ子爵夫人の首飾りは〈白獅子館〉の地下金庫室に保管されていたそうだぞ。
――その分厚い扉の前にゃ交代で見張りが立ちずっぱりだったらしい。
――へえ、だったら、どうやって盗ったんだろうな?
首飾りを故買にかけるのは、噂の不可思議な技を使う盗賊は私でございと触れて回るようなものだ。とても売り出す気にはならなかった。
まったく! 換金できない獲物に手を出してしまうとは迂闊もいいところだが、そもそも普通なら盗りようもない場所から盗ったのが完全な悪手だった。そんな所から盗ったせいで、〈王都〉の上から下まで誰もが注目して噂する。密かに隠れることを身上にする盗賊が注目され、何か盗るたび、あいつがやったと見透かされて得なことなどひとつもない。派手な仕事で顔と名前を売った盗賊には賞金がかかり、盗みの最中や直後でなくとも衛士や賞金稼ぎの捕縛対象にされる。あまりに厳しい包囲から逃れようと、顔を酸で焼いたり、自分と背格好の似た死体――そういうものを買う手段はある――を使い、あたかも死んだように見せかけたりして、人生の再出発を試みる奴までいるほどだ。
二度目の〝壁抜け〟は下水道の奥、〝もぐら〟なる二つ名の悪党が仕切る一味の隠れ家から、麻薬密売で稼いだ金をごっそりいただいた時だった。
初回の失敗を踏まえ、狙いは現金。それも犯罪で得た表沙汰にできない金である。さらに光がなく、迷路のように入り組み、枝分かれした下水道が舞台なら、不自然な逃走劇が演じられても怪しまれにくいだろう……。ケイは隠れ家周辺の〈王都〉下水道設計図――役所の記録保管庫から写しを盗んだ――を見て、壁一枚向こうに別の下水道の通路が走っている箇所を把握しておき、そこを抜けて一味の追っ手から逃走した。これなら首飾りの時とは違い、獲物は換金不要、たちまち市民の噂になることもない。
だから〝もぐら〟が、
「ヤサ荒らしのクソを八つ裂きにして鰻の餌にしろ!」
などと息巻いていると耳にしてもケイは動じなかった。
いつもの仕事と何ら変わらない。自分からボロを出すようなまねをしなければ、誰が盗ったのかは露見しないはずだ……。これは見込みどおりだった。だが同時に、ケイは人の口に戸は立てられぬと知った。
噂は思ったよりも早く、悪党たちが囁きを交わす裏路地や酒場の片隅から、日の当たる街をゆく市井の人々にも広がっていた。話に見事な尾鰭がついて。
――今、〈王都〉には、すげぇ盗賊がいるらしい。
――聞いたぞ。弓師街でえらっそうに踏ん反り返ってる密売人の元締めから金を奪って半ベソかかせたってな。
――いい気味だぜ。で、やったのはどこのどいつだ?
――わからん。金を返せ! って追ったら目の前で煙みたいに消えたそうで、元締めは腰抜かしたってよ。
――そいつぁ傑作だ! ああ、俺もその現場をよぉ、見てみたかったぜ。
そんな噂を商店の御用聞きや衛士の平隊員までもが口にし、驚いたことに先の〝子爵夫人の首飾り事件〟と関連づける者まで現れた。噂なるものは止めるどころか、向きを左右することすらままならない。ケイはますます慎重に振る舞うことを余儀なくされた。
そして、三度目は〈王都〉外縁の北と東と南にある、広大な隊商停留場の……。
もう、よそう。このあたりですでに〝壁抜け〟に対するケイの熱は冷めていた。
せっかく苦心惨憺して盗った魔法だ。これは並の技ではない。大きな仕事に使わなければ嘘だ。
そんなふうに考えたのが間違いだった。
上流貴族御用達の旅館、密売組織のアジト、そして護衛がひしめく隊商停留場と、みっつの難所での冒険をたったひとりで成し遂げた盗賊の評判は巷で持ち切りとなっていた。
――教会が〝異端の恐れ〟を宣告したぞ!
ついに事はそこまでに至った。これで謎の盗賊は捕まれば片手切断では済まない。邪教の輩として拷問の末に火炙りである。
何が異端だ、何が恐れだ! ケイは教会が正統だと認めたことは一度もない。疑いもせず、何かを信じているような奴らの言い草など知ったことか。いつまでもそこで祈ってろ。
だが心の中で幾ら反駁したところで、これからは衛士ばかりか教会にも追われるという事態に変わりはなかった。教会の審問官が放つ密偵は衛士や賞金稼ぎとは比較にならぬほど執拗で、大公直属の間諜と肩を並べるほど優秀だという話は〈王都〉のあちこちで、人目をはばかり声を潜めて語られる。ホールモント区の修道院を狙うだって? 止めとけ、止めとけ。教会の密偵が異端だなんだって、しつこく追っかけてくるぞ。
それでもケイは〝壁抜け〟を止めなかった。
いや、止められなかった。それは依然として奥の手で、目覚ましい効果がある。どんな障害も素通りでき、どんな追っ手の前からも消え失せられる、盗賊なら垂涎の技であることに違いはなかった。
しかし、こいつは壁を抜けさせてくれるだけだ。
白銀に輝く無敵の超人に生まれ変わらせてくれるわけでも、抜けば青い光の柱が天を突き、その場の誰もがひれ伏す、お伽噺の宝剣でもない。使えば頭痛がして、連発することすらできないのだ。そのくせ――。
ケイは顔を歪めた。
二階に下りられたが、続く一階への階段が問題だ。もしもこの家の住人が強い警戒心の持ち主なら夜間、この階段に〝糸と鳴子〟式の報知器を仕掛ける。余裕があれば――ベスがケイに物色するのを任せて玄関に向かった時のような状況なら、迷わず速さよりも用心を選ぶ。だが、こうも追い込まれている場合は、罠がないことを、あっても稚拙なものであることを、運に任せて速さを優先するしかなかった。
階段に月明かりを入れるため、踊り場の窓のカーテンを開けたいが、それはだめだ。今のケイには後で閉じてくれる仲間はいないのだ。朝になって、この家の者が開いたカーテンを見て侵入があったと気づくかもしれず、それは〝壁抜け〟を思い起こさせる――細い細い筋道ではあるが――手がかりになる。ほぼ完全な闇の中を、罠を警戒しながらも速く、俺は下りられるのか?
ホーラー別邸の騒ぎは広がりつつある。ケイの鋭敏な聴覚は屋外に人が集まり、盛んに言葉を交わして走り回るのを感じていた。言うまでもなく衛士隊だ。だんだんと奴らの声が大きくなる。こちらにはおりません! いいから探せ、まだ近くにいるはずだ! とか抜かしているのだろう。急がなければ区画丸々に捜索範囲が広がり、この家も囲まれる。
――さあ今こそ〝壁抜け〟を使え。これは応用だ。再集中の座標を合わせ、ここから跳べば階段を無視して一瞬で音もなく下りられる。〝術式〟を組め。お前ならできる。我を信じよ――。
黙れ、黙れ!
何かあるたび、〝壁抜け〟はケイに信じることを強制する。ここから抜けられるぞ。信じよ、信じよ。信じる者は……くやしいが、確かに救われることもあった。
三度で気持ちが冷めた後も、他に手がなくなって、ケイは幾度か〝壁抜け〟に頼った。そのたびにこめかみの奥が痛み、〈王都〉に謎めいた盗賊の逸話が天井知らずで積み上げられる。
子爵夫人の首飾りを盗って一年も経つ頃には、ケイの預かり知らぬところで、その盗賊は〝壁抜け〟と呼ばれるようになっていた。最早それは伝説だ。ケイがやってもいない仕事まで〝壁抜け〟の仕業ということになる。
どんな壁もものともせず、決して捕まらない大盗賊!
不可能を可能にする盗賊という物語を鼻で笑う者も多かったが、それでもなお、これは〈王都〉に渦巻く不平不満を吸い込んで果てしなく膨張した。自らの行いから生まれた虚像がひとり歩きして、ケイにあれをやれ、これをこうしろと命じ、親切ごかしに与えられた役回りに従うようにとそそのかしてくる。されば救われん!
ケイは教会の戯れ言など我関せずだったが、魔法を邪道とみなす見解には一定の理解を示すようになった。それが悪なのかどうかは知らない。しかし魔法が――少なくとも自分にとって〝壁抜け〟が――ある種の呪いであることには同意だ。一度かかった呪いは簡単には解けない。昔話でもそうなっている。必要なのは王子様のキスか? 勘弁してくれ。
解けぬ呪いは遠ざけておくに及くはない。
今やケイはおのれが〝壁抜け〟であることを極力忘れるようにしていた。街角でも酒場でも〝壁抜け〟を引き合いにした与太は嫌でも耳に入るが、鋼の意志で感情が波立つのを抑え込む。
「くそぅ、俺も〝壁抜け〟だったらなあ」
「だったら、どうするつもりだ?」
「そりゃお前、あの高慢ちきな女の部屋に押し入ってだな、俺様のすごさをちったぁわからせてやんのよ」
「ははあ、壁を抜けても、あんたがすごくなかったら、どうにもなんねぇな!」
まったくだ。
壁を抜けられるからどうだというのだ? そんなものがなくとも、俺はここを下りてみせる。
ケイはしゃがみ、床に尻を擦りつけそうな体勢で一段一段下りていく。左の壁際を行け。もし二階に上がろうとする者がいるとすれば、間取りからして、それは階段の右から来る。左に寄って予期せぬ鉢合わせを避けろ。ただし壁に触るな。そこに罠があるかもしれない。
こんな家鴨みたいな格好で警戒しながらでも速く――。
扉の開く音が響いた。
右から微かな光が差す。
残り三段! 後たった三段だというのに、ここまでか……。手にした金貨入りの袋の口を握りしめる。何者かがこちらにくるようなら、そうでなくても玄関から外に出るためには、これで殴り倒して突破するしかなさそうだ。
強襲を意図して呼吸を整え、階段を下り切ったケイは目を見張った。
――なんてこった。
一階ホールに人の姿はなく、玄関の扉が開いている!
この家の誰かは衛士の立てる音や声に目を覚まし、いったい何事かと訝って明かりを持って外に出たのだ。
ツイている! これは事前に少しも見込んでいなかった、正真正銘の幸運だ。ケイは密やかに扉へと近づいた。半開きになった扉越しに、オイルランプを手にした人物の輪郭が浮かんでいる。その人影は扉から出てすぐ玄関ポーチの右寄りに立ち、ランプを掲げて隣のホーラー別邸前で衛士どもが右往左往する様をうかがっていた。安眠を妨害されたと衛士に抗議していないことから、家の主人ではなく使用人だと思われた。
今ならいける。
ケイは開いた扉を、そして使用人らしき者の背後を、それこそ煙のようにすり抜けて、ポーチの段数の少ない階段を別邸とは反対の左側に飛び降りた。この家の階段脇には鉢植えがないことも――よほど大きな物でなければ障害にならないとはいえ――幸いだった。
気づかれていない。
夜陰のぬるい外気に包まれて、ケイはそそくさと充分な距離を取って振り返る。衛士のひとりがランプの人物に駆け寄り、玄関を見上げるようにして声をかけていた。はあ、泥棒ですか? 恐ろしいことですな。いえ、特に気づいたことはありませんなあ。私は寝ていたもので……それで、何か盗られたので?
さらに離れて眺めると、街路に集まった衛士たちが蠢く影と、その各人が携える矛槍がランタンの明かりを反射して、魚市場に並ぶ鱈の鱗のようにきらめくのだけが見えた。
――そんな長物を持つから、狭い路地に入っての待ち伏せができなくなるんだ。
矛槍は捕り物に優れ、長い柄で行く手を阻むことも、閉じられた扉を叩き割り、積み上げられた障害物をぶち壊して、逃げたり立て籠もったりする悪党を追い詰めることもできる。だが、細く入り組んだ小道や、狭い建物と建物の間を活路にする盗賊とは相性が悪かった。上や左右が詰まっていると振り回せず、味方に当たる恐れがあるから開けた場所でないと多人数を配置できない。これは衛士隊の重大な欠陥だった。
すべての衛士が隊長のように腰にサーベルを下げていて、いったん矛槍を手放す選択ができていたら、ケイが窓から縄を下ろした路地に入って待つこともできただろう。本当にできなかったのか、それとも単にやらなかったのかは、この際どちらでもいい。おかげでこちらは算段どおりに脱出できた。
急いで石工ヶ辻から立ち去るケイの背後に、憤怒と焦燥が入り混じった衛士たちのやかましい声が響く。
鉢植えの蘭が蹴飛ばされなきゃいいな、ホーラー。
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