8.エルザの超獣
第六ラウンド開始。
泣いても笑っても、これが最後のラウンドだ、
もうインターバルでゲート前に帰ることはねぇ。終了のブザーの前に俺の体力か、お嬢の気力が尽きる。そうなりゃ俺たちの負け。それがわかっていて、お嬢はまだやると言ったし、ジミーもリングに送り出した。
勝つには、こっちが倒れる前にスキッドをぶちのめすしかねぇ!
「カーン・ベヒモス、超接近戦を挑みます。これは無謀に見えますが、何か策があるのか!」
だから、んなもんねぇっての。
お嬢の指示は「肉迫」。
他に手がねぇんだ。
左腕はハンパにしか上がらねぇ。右を打っても、もうまともに当てさせちゃくれねぇだろう。俺は短足だから、腕を使ったブランコ式とか、ひと手間かけねぇとキックも出せねぇしな。
間合いを取ったところで、こっちは打つ手がロクにねぇのに対し、スキッドは拳に肘に膝、触腕の乱打と何でもござれだ。
こうなると、何としても体ごと張りついて、ヤツをとっ捕まえて巨体で押し潰すくらいしか、勝機が見えねぇよ。
もちろん、んなこたぁ相手にもバレバレだ。
スキッド・シャドウは一定以上、距離を詰められないように、巧みなステップワークで俺の突進をかわす。どうにか手が届く、体をぶつけられるとなっても、例のニンジャお得意の返し技にはねのけられる。追えば追うほど、俺はますます手負いになっていく。
〈腹部装甲、脱落〉
試合前に取っ替えたばかりの装甲が! さっきから腹ばっかり叩いてくると思ったら、狙ってやがったな、イカ野郎!
「これはいけませんね」
と、フレッド翁が呟いた次の瞬間、俺の腹にスキッドの触腕がめり込んだ。その触腕、突くこともできるのかよ……棒なのか、鞭なのか、どっちなのかはっきりしろってんだ!
ヤベぇ、ゲロ吐きそうだ。
思わず体をくの字にして、低くなった俺の頭に、スキッドのハイキックが炸裂した。
「ボディに強いダメージが入ると意図せず体を折ってかがんでしまう。腰が引けて、下がった頭はスキッドにとって容易に当てられる的です。それに何より、このまま装甲のない腹を打たれ続ければ、下半身に力が入らなくなって足が止まります。
そうなったらカーンは万事休すでしょう」
舐ぁめるなァッ!
俺は腹をえぐって戻ろうとする触腕を手で捕まえ、スキッドを引き寄せて、下からすくい上げるようにショルダータックルをぶちかます。派手な打撃音とともに、イカ野郎の体が大きく宙に浮いた。
「すさまじい抵抗! いつ崩れ落ちてもおかしくない状態にもかかわらず、何がカーンを突き動かす!
これはやはりセコンドである、エルザ・カーロフの亡き父への思いがそうさせるのでしょうか?」
「それはないですね」
パッキーの安いお涙頂戴をフレッド翁はあっさり否定した。
「ブースの中でセコンドはひとりです。
どれほど素晴らしい親や指導者に恵まれようとも、彼らは助けてくれないのです。孤児で、親の顔も知らない私にはわかります。リングでセコンドが頼みにできるのは自分自身と超獣だけ――それを骨身に徹さずして、こうまで戦えるはずもないでしょう。
今、戦っているのはエルザ・カーロフとカーン・ベヒモスです。他の誰でもありません」
――ってことらしいぜ、パッキー。
お前はもう黙ってな。
いまいましいブースター音がして、スキッドは空中で姿勢を制御し、俺の腕を蹴り飛ばす。
くそっ! つかんだ触腕を離しちまった。
着地するや、自由になった触腕で俺の太ももをしたたかに打ちすえる。
さらにローキック!
この野郎、腹打ちで止まらねぇと見るや、脚への集中攻撃にシフトしたな。
視界のワイプでお嬢を見ると、ブカブカなスーツの上からでもわかるほど、胸を上下させている。呼吸が荒くなってるな。疲労が如実に表れてやがる。最後までもつか?
いや、できる限り苦痛をお嬢に渡さずに、もたせるんだ! 痛みにかまうな。効いてねぇ。前進だ、前進!
俺ぁ、ひとつ勘違いしてた。
確かにスキッド・シャドウはとんでもねぇ対戦相手だが、本当におっかねぇのはこいつだ……マサツグ・パヤクァルン!
中継映像にちらほら映るパヤクァルンは汗こそかいちゃいるが、いっこうに表情が変わらなかった。
メンタルが強靭すぎる。
打ち疲れの様子もなく、何をされても揺るがねぇ。思ったようにスキッドに超反応させたり、しゃべらせたりできるほど、白竜システムのフィルター強度を下げてるはずなのに! スキッドの性能があんまり見事だから、そればっかり気にしてたが、注意して様子をうかがうべきはセコンドのほうだった。
知ってるぜ。ニンジャには心技体を極めた上位者がいる。
マスターニンジャ!
ヘンリーが見てた映画で言っていた。その技は触れるだけで相手を麻痺させ、その体は拳ひとつで骨をも砕くらしい。さらに、その心はゼンの境地に達していて、いかなる苦難を前にしても、さざなみひとつ立たないそうだ。
まさかニンジャ数千年の歴史の中でも、実際に姿を現したという事例はわずかだって噂のマスターニンジャが、火星企業の超獣開発技術者になってるとはな!
俺はようやく、この事実に気づいたが、手遅れだった。
スキッド・シャドウは頂点のニンジャの指示で動いてる。ということは、脚への集中攻撃にシフトしたってのは――。
陽動だ!
上半身の防御がおろそかになった俺の顔面めがけて、触腕が槍のように鋭く突き出される。
左腕が上がらねぇ!
それでもガード……は間に合わなかった。
「カーンの左目に触腕が突き刺さる! 完全に眼球を潰されたァッ!」
激痛。
血が噴き出す。
俺は絶叫した。
すかさずスキッドはもう一本の触腕を俺の足首に絡ませ、思いっきり引っ張る。
地響きを立てて、俺は仰向けに倒れた。
マズい、マズい、マズい!
ブースター音がして、スキッドは高く、高く飛翔する。
超獣の体が足場から離れ、滞空してもよいのは五秒まで。その公式レギュレーションの上限まで跳んだヤツの姿は、片目を潰されて血まみれの俺にはよく見えねぇ。だが、狙いは明らかだ。
ブースター・ジャンピング・ニードロップ。
俺の頭に硬い膝を落とす気だ。
イカ野郎の重量と落下距離、そこにブースター出力もプラスで生まれる破壊力は、たやすく俺の頭蓋骨と生体脳を粉々にするだろう。そうなりゃ俺は、間違いなく死――。
――カーン・ベヒモス、大馬鹿野郎!
土壇場でやっちまった。
パニクって、ビビリ散らかして、目を潰された苦痛を、死への恐怖を……そのまんまお嬢に渡しちまった。
さんざん兄貴ヅラした軽口叩いといて、お嬢にみっともなく助けを求めちまった!
何やってんだ、俺は――気力が削れに削れて、疲労もピークになってるお嬢のハートに、自分でとどめを刺しちまった。
何が「高度なメンタル・コントロールが可能な超獣」だ!
この役立たずめ!
ドロップキックのモーションで左肩をやっちまったのは、俺だ。
ニンジャの陽動に引っかかったのは、俺だ。
上がらない左腕のせいで、突きをガードできなかったのも、俺だ。
倒されて、おびえたあげく、お嬢に苦痛と恐怖を渡したのも、俺だ。
全部、俺のせいだ……俺の責任だ。
お嬢は負けちまう。それどころか、今夜、刻み込まれた恐怖で完全にハートがイカレちまうかもしれねぇ! お嬢は背中を丸めてすごすごとリングを去るのか?
それもこれもみんな、俺の責任だ……俺の……。
「立て、カーン!」
無茶言うな、パッキー。“馬鹿のひとつ覚え”もたいがいにしろ。世紀の大馬鹿は俺に決まった。超獣はセコンドの指示がなきゃ――。
違う!
これはお嬢だ。お嬢の声だ!
だったら、俺は立てる。
立つんだ。
そんで、立ったら、まっすぐ、誇らしく、右手を高く挙げ――!
雷に打たれたような、いまだかつてない衝撃が、手のひらから足の裏までを貫いた。
〈右腕、損傷甚大〉
〈右肩部、損傷甚大〉
〈腰部、損傷大〉
〈左右膝部、損傷大〉
〈バイタル低下〉
お嬢の声で、立てたんだ。
倒れねぇぞ。
全身ガッタガタだが、絶対に倒れねぇ!
気合を入れすぎて、滝のように鼻血が噴き出す。
……そして、息も絶え絶えになりながら、上目遣いに見ると、スキッドは曲がっちゃいけねぇ角度に体が曲がり、くの字に折れて、俺の挙げた手のひらの上に載っていた。白目をむき、くちばしの端から血が流れ、ピクリとも動かねぇ。
「な、なんと! なんとォ!
猛烈に突き上げられた右の掌底が、スキッド・シャドウの胴体を叩き折ったァッ! カーン・ベヒモス、大逆転! 渾身の一発です!」
おい、スキッド……それにパヤクァルン。
ニンポー敗れたり、だ。
その触腕は元どおりにしまえるようにしておくべきだったな。
腹の装甲がなくなったのは、俺だけじゃなかったぜ。必死すぎて気づいてなかったが、奥の手を出したお前のボディもスカスカになってたんだな。腹筋バキバキだったら、ひょっとすると、この一撃にも耐えられたかもしれねぇ。そしたら、お前の勝ちだった。
こちとら、もう立ってるだけで精いっぱいだからな。
俺は腕を伸ばしたまま、何とか手をゆすって、だらしなく足元にスキッドの体を落とした。
すまねぇ、ニンジャボーイ! 本当は派手にぶん投げてカッコつけてぇんだが、見得を切る余裕もねぇよ。シメがこんなじゃ、負けたほうも納得できねぇよな。
でもよ、聞こえるか? お客さんは大歓声だ。
どうやら俺たちの試合は――よかったらしい。
ここはひとつ、そういうことで勘弁してくれ。
「今夜の超獣バウト・ノンタイトル十回戦の勝者は“金目の狂牛”カーン・ベヒモス!
驚異の性能を有する“漆黒の悪夢”スキッド・シャドウの攻勢を耐えに耐え、六ラウンドKO勝利を力ずくでもぎ取りました。セコンドのエルザ・カーロフにとっては、三戦目にしてうれしい初勝利となります! これはまさに、亡き父に捧げる一勝といったところでしょう」
なぁにが「まさに」だ、くそパッキー。
フレッド翁も呆れて苦笑いしてるぞ。
「カーロフはもちろんですが、私はマサツグ・パヤクァルンの戦いぶりも称えたいですね。
彼もまた、テスターとしてのキャリアがあるにせよ、プロのリングではまだ三戦しかしていないのです。それにもかかわらず、発揮した実力は尋常のものではありませんでした」
そりゃ、マスターニンジャだからな。
パヤクァルンは静かに目を閉じ、天を仰いだだけで、やはり顔色ひとつ変えなかった。
どんだけフィルター強度を下げても、リンクを介してセコンドが痛みそのものを感じることはねぇ。だが、強度を下げきってるところにスキッドほどの超獣が一撃で沈むダメージが入りゃ、並のヤツなら、その激烈な精神的負荷で目ン玉ひんむいて卒倒したっておかしくねぇのに……。こいつ、化け物だよ。
「そうですね、スチュワートさん! 最後の一瞬まで、完全にスキッドとパヤクァルンがペースを握っていました」
パッキーはそそくさと伝説の名セコンドに迎合する。
「しかしカーンはダウンから立ち直り、ブースターを噴かして落下してくるスキッドに掌底のカウンターを放ちました!
これはチャンスを狙っていたのでしょうか。私はもう、カーンは終わったものかと――」
「終わっていましたよ」
と、フレッド翁は静かに言った。
「左目を潰され、倒された直後、カーン・ベヒモスはすでに折れ、終わっていました。
ですが、セコンドが終わることを許さなかった。
よく言われるように、超獣は戦うための頭脳と筋肉を備えますが、ハートはセコンド持ちです。どこまで戦えるのかを決めるのは超獣ではなく、究極的にはシステムの判定ですらありません。終わりはセコンドの戦う意志が決めるのです」
まるで孫を見る祖父のようにフレッド翁は満足げに微笑んだ。
「いいバウトを、いいハートを見せてもらいました」
歓声と拍手が鳴り止まねぇ。
お客さんが叫んでるのは、俺の名前か?
カーン・ベヒモス! “金目の狂牛”!
そうだ、それが俺の名だ。
ワールドクラスで勝ったり負けたりの現役二十年選手。したり顔で、ただの咬ませ犬だっていうヤツもいる……。
東西のゲートから、両陣営のキャリアとサポートカーがなだれ込んでくる。
俺もスキッドもメチャクチャだからな。おかしな形に曲がったスキッドもひでぇもんだが、立って意識があるってだけで、俺のダメージのほうが深刻かもしれねぇ。両腕、両肩、腰、両膝、それに両足首も……どこもかしこも、イッちまったよ。
潰れた左目からは、止めどもなく血があふれてくる。
立ったまま動けねぇ俺を、どうやってキャリアに載せんのか、緊急搬送前の応急手当をどうすんのか、腕の見せどころだな、ジミー。
エンジニアたちにも、めいっぱい世話かけちまうな。
レティアは会場のどこかで見ていて、ほら、やっぱりミス・カーロフは負けっぱなしじゃなかった、と安堵して微笑んでるんだろうが、後で忙しくなるぞ。こんな派手な勝ち方したら、取材やら何やら殺到するだろ。そういうのをさばいて、レムリ・プロモーションの利益につなげんのは、シニア・マネージャーのあんたの仕事だからな。
――そして、お嬢はブースの中で泣いていた。
これまで俺はずっと、何を見て、何に気づいたところで、超獣はそれをセコンドに伝えられねぇと思い込んでいた。
渡せるものは何もねぇ、渡さねぇことならできるってな。
だが、違ったぜ。
わかってみりゃ、簡単なことだった。
たかだか三年先に生まれたくらいで兄貴ヅラせず、お嬢を信じて、自分の感じたままを、救いを求める叫びを、渡すべき時は素直に渡しゃよかったんだ。
そうすりゃ、少なくともそれは、ちゃんと伝わる――。
お嬢はぐしゃぐしゃにした顔で、俺を見ている。
その涙で濡れた黒い瞳の奥に星が、大きく、強く、輝いていた。
見えるか、お嬢。
俺はカーン・ベヒモス――エルザ・カーロフの超獣だ。
スリープモードに移る直前、俺は残った力で挙げたままの右手を握った。
だから――次はパンチを打たせてくれ。
泣いても笑っても、これが最後のラウンドだ、
もうインターバルでゲート前に帰ることはねぇ。終了のブザーの前に俺の体力か、お嬢の気力が尽きる。そうなりゃ俺たちの負け。それがわかっていて、お嬢はまだやると言ったし、ジミーもリングに送り出した。
勝つには、こっちが倒れる前にスキッドをぶちのめすしかねぇ!
「カーン・ベヒモス、超接近戦を挑みます。これは無謀に見えますが、何か策があるのか!」
だから、んなもんねぇっての。
お嬢の指示は「肉迫」。
他に手がねぇんだ。
左腕はハンパにしか上がらねぇ。右を打っても、もうまともに当てさせちゃくれねぇだろう。俺は短足だから、腕を使ったブランコ式とか、ひと手間かけねぇとキックも出せねぇしな。
間合いを取ったところで、こっちは打つ手がロクにねぇのに対し、スキッドは拳に肘に膝、触腕の乱打と何でもござれだ。
こうなると、何としても体ごと張りついて、ヤツをとっ捕まえて巨体で押し潰すくらいしか、勝機が見えねぇよ。
もちろん、んなこたぁ相手にもバレバレだ。
スキッド・シャドウは一定以上、距離を詰められないように、巧みなステップワークで俺の突進をかわす。どうにか手が届く、体をぶつけられるとなっても、例のニンジャお得意の返し技にはねのけられる。追えば追うほど、俺はますます手負いになっていく。
〈腹部装甲、脱落〉
試合前に取っ替えたばかりの装甲が! さっきから腹ばっかり叩いてくると思ったら、狙ってやがったな、イカ野郎!
「これはいけませんね」
と、フレッド翁が呟いた次の瞬間、俺の腹にスキッドの触腕がめり込んだ。その触腕、突くこともできるのかよ……棒なのか、鞭なのか、どっちなのかはっきりしろってんだ!
ヤベぇ、ゲロ吐きそうだ。
思わず体をくの字にして、低くなった俺の頭に、スキッドのハイキックが炸裂した。
「ボディに強いダメージが入ると意図せず体を折ってかがんでしまう。腰が引けて、下がった頭はスキッドにとって容易に当てられる的です。それに何より、このまま装甲のない腹を打たれ続ければ、下半身に力が入らなくなって足が止まります。
そうなったらカーンは万事休すでしょう」
舐ぁめるなァッ!
俺は腹をえぐって戻ろうとする触腕を手で捕まえ、スキッドを引き寄せて、下からすくい上げるようにショルダータックルをぶちかます。派手な打撃音とともに、イカ野郎の体が大きく宙に浮いた。
「すさまじい抵抗! いつ崩れ落ちてもおかしくない状態にもかかわらず、何がカーンを突き動かす!
これはやはりセコンドである、エルザ・カーロフの亡き父への思いがそうさせるのでしょうか?」
「それはないですね」
パッキーの安いお涙頂戴をフレッド翁はあっさり否定した。
「ブースの中でセコンドはひとりです。
どれほど素晴らしい親や指導者に恵まれようとも、彼らは助けてくれないのです。孤児で、親の顔も知らない私にはわかります。リングでセコンドが頼みにできるのは自分自身と超獣だけ――それを骨身に徹さずして、こうまで戦えるはずもないでしょう。
今、戦っているのはエルザ・カーロフとカーン・ベヒモスです。他の誰でもありません」
――ってことらしいぜ、パッキー。
お前はもう黙ってな。
いまいましいブースター音がして、スキッドは空中で姿勢を制御し、俺の腕を蹴り飛ばす。
くそっ! つかんだ触腕を離しちまった。
着地するや、自由になった触腕で俺の太ももをしたたかに打ちすえる。
さらにローキック!
この野郎、腹打ちで止まらねぇと見るや、脚への集中攻撃にシフトしたな。
視界のワイプでお嬢を見ると、ブカブカなスーツの上からでもわかるほど、胸を上下させている。呼吸が荒くなってるな。疲労が如実に表れてやがる。最後までもつか?
いや、できる限り苦痛をお嬢に渡さずに、もたせるんだ! 痛みにかまうな。効いてねぇ。前進だ、前進!
俺ぁ、ひとつ勘違いしてた。
確かにスキッド・シャドウはとんでもねぇ対戦相手だが、本当におっかねぇのはこいつだ……マサツグ・パヤクァルン!
中継映像にちらほら映るパヤクァルンは汗こそかいちゃいるが、いっこうに表情が変わらなかった。
メンタルが強靭すぎる。
打ち疲れの様子もなく、何をされても揺るがねぇ。思ったようにスキッドに超反応させたり、しゃべらせたりできるほど、白竜システムのフィルター強度を下げてるはずなのに! スキッドの性能があんまり見事だから、そればっかり気にしてたが、注意して様子をうかがうべきはセコンドのほうだった。
知ってるぜ。ニンジャには心技体を極めた上位者がいる。
マスターニンジャ!
ヘンリーが見てた映画で言っていた。その技は触れるだけで相手を麻痺させ、その体は拳ひとつで骨をも砕くらしい。さらに、その心はゼンの境地に達していて、いかなる苦難を前にしても、さざなみひとつ立たないそうだ。
まさかニンジャ数千年の歴史の中でも、実際に姿を現したという事例はわずかだって噂のマスターニンジャが、火星企業の超獣開発技術者になってるとはな!
俺はようやく、この事実に気づいたが、手遅れだった。
スキッド・シャドウは頂点のニンジャの指示で動いてる。ということは、脚への集中攻撃にシフトしたってのは――。
陽動だ!
上半身の防御がおろそかになった俺の顔面めがけて、触腕が槍のように鋭く突き出される。
左腕が上がらねぇ!
それでもガード……は間に合わなかった。
「カーンの左目に触腕が突き刺さる! 完全に眼球を潰されたァッ!」
激痛。
血が噴き出す。
俺は絶叫した。
すかさずスキッドはもう一本の触腕を俺の足首に絡ませ、思いっきり引っ張る。
地響きを立てて、俺は仰向けに倒れた。
マズい、マズい、マズい!
ブースター音がして、スキッドは高く、高く飛翔する。
超獣の体が足場から離れ、滞空してもよいのは五秒まで。その公式レギュレーションの上限まで跳んだヤツの姿は、片目を潰されて血まみれの俺にはよく見えねぇ。だが、狙いは明らかだ。
ブースター・ジャンピング・ニードロップ。
俺の頭に硬い膝を落とす気だ。
イカ野郎の重量と落下距離、そこにブースター出力もプラスで生まれる破壊力は、たやすく俺の頭蓋骨と生体脳を粉々にするだろう。そうなりゃ俺は、間違いなく死――。
――カーン・ベヒモス、大馬鹿野郎!
土壇場でやっちまった。
パニクって、ビビリ散らかして、目を潰された苦痛を、死への恐怖を……そのまんまお嬢に渡しちまった。
さんざん兄貴ヅラした軽口叩いといて、お嬢にみっともなく助けを求めちまった!
何やってんだ、俺は――気力が削れに削れて、疲労もピークになってるお嬢のハートに、自分でとどめを刺しちまった。
何が「高度なメンタル・コントロールが可能な超獣」だ!
この役立たずめ!
ドロップキックのモーションで左肩をやっちまったのは、俺だ。
ニンジャの陽動に引っかかったのは、俺だ。
上がらない左腕のせいで、突きをガードできなかったのも、俺だ。
倒されて、おびえたあげく、お嬢に苦痛と恐怖を渡したのも、俺だ。
全部、俺のせいだ……俺の責任だ。
お嬢は負けちまう。それどころか、今夜、刻み込まれた恐怖で完全にハートがイカレちまうかもしれねぇ! お嬢は背中を丸めてすごすごとリングを去るのか?
それもこれもみんな、俺の責任だ……俺の……。
「立て、カーン!」
無茶言うな、パッキー。“馬鹿のひとつ覚え”もたいがいにしろ。世紀の大馬鹿は俺に決まった。超獣はセコンドの指示がなきゃ――。
違う!
これはお嬢だ。お嬢の声だ!
だったら、俺は立てる。
立つんだ。
そんで、立ったら、まっすぐ、誇らしく、右手を高く挙げ――!
雷に打たれたような、いまだかつてない衝撃が、手のひらから足の裏までを貫いた。
〈右腕、損傷甚大〉
〈右肩部、損傷甚大〉
〈腰部、損傷大〉
〈左右膝部、損傷大〉
〈バイタル低下〉
お嬢の声で、立てたんだ。
倒れねぇぞ。
全身ガッタガタだが、絶対に倒れねぇ!
気合を入れすぎて、滝のように鼻血が噴き出す。
……そして、息も絶え絶えになりながら、上目遣いに見ると、スキッドは曲がっちゃいけねぇ角度に体が曲がり、くの字に折れて、俺の挙げた手のひらの上に載っていた。白目をむき、くちばしの端から血が流れ、ピクリとも動かねぇ。
「な、なんと! なんとォ!
猛烈に突き上げられた右の掌底が、スキッド・シャドウの胴体を叩き折ったァッ! カーン・ベヒモス、大逆転! 渾身の一発です!」
おい、スキッド……それにパヤクァルン。
ニンポー敗れたり、だ。
その触腕は元どおりにしまえるようにしておくべきだったな。
腹の装甲がなくなったのは、俺だけじゃなかったぜ。必死すぎて気づいてなかったが、奥の手を出したお前のボディもスカスカになってたんだな。腹筋バキバキだったら、ひょっとすると、この一撃にも耐えられたかもしれねぇ。そしたら、お前の勝ちだった。
こちとら、もう立ってるだけで精いっぱいだからな。
俺は腕を伸ばしたまま、何とか手をゆすって、だらしなく足元にスキッドの体を落とした。
すまねぇ、ニンジャボーイ! 本当は派手にぶん投げてカッコつけてぇんだが、見得を切る余裕もねぇよ。シメがこんなじゃ、負けたほうも納得できねぇよな。
でもよ、聞こえるか? お客さんは大歓声だ。
どうやら俺たちの試合は――よかったらしい。
ここはひとつ、そういうことで勘弁してくれ。
「今夜の超獣バウト・ノンタイトル十回戦の勝者は“金目の狂牛”カーン・ベヒモス!
驚異の性能を有する“漆黒の悪夢”スキッド・シャドウの攻勢を耐えに耐え、六ラウンドKO勝利を力ずくでもぎ取りました。セコンドのエルザ・カーロフにとっては、三戦目にしてうれしい初勝利となります! これはまさに、亡き父に捧げる一勝といったところでしょう」
なぁにが「まさに」だ、くそパッキー。
フレッド翁も呆れて苦笑いしてるぞ。
「カーロフはもちろんですが、私はマサツグ・パヤクァルンの戦いぶりも称えたいですね。
彼もまた、テスターとしてのキャリアがあるにせよ、プロのリングではまだ三戦しかしていないのです。それにもかかわらず、発揮した実力は尋常のものではありませんでした」
そりゃ、マスターニンジャだからな。
パヤクァルンは静かに目を閉じ、天を仰いだだけで、やはり顔色ひとつ変えなかった。
どんだけフィルター強度を下げても、リンクを介してセコンドが痛みそのものを感じることはねぇ。だが、強度を下げきってるところにスキッドほどの超獣が一撃で沈むダメージが入りゃ、並のヤツなら、その激烈な精神的負荷で目ン玉ひんむいて卒倒したっておかしくねぇのに……。こいつ、化け物だよ。
「そうですね、スチュワートさん! 最後の一瞬まで、完全にスキッドとパヤクァルンがペースを握っていました」
パッキーはそそくさと伝説の名セコンドに迎合する。
「しかしカーンはダウンから立ち直り、ブースターを噴かして落下してくるスキッドに掌底のカウンターを放ちました!
これはチャンスを狙っていたのでしょうか。私はもう、カーンは終わったものかと――」
「終わっていましたよ」
と、フレッド翁は静かに言った。
「左目を潰され、倒された直後、カーン・ベヒモスはすでに折れ、終わっていました。
ですが、セコンドが終わることを許さなかった。
よく言われるように、超獣は戦うための頭脳と筋肉を備えますが、ハートはセコンド持ちです。どこまで戦えるのかを決めるのは超獣ではなく、究極的にはシステムの判定ですらありません。終わりはセコンドの戦う意志が決めるのです」
まるで孫を見る祖父のようにフレッド翁は満足げに微笑んだ。
「いいバウトを、いいハートを見せてもらいました」
歓声と拍手が鳴り止まねぇ。
お客さんが叫んでるのは、俺の名前か?
カーン・ベヒモス! “金目の狂牛”!
そうだ、それが俺の名だ。
ワールドクラスで勝ったり負けたりの現役二十年選手。したり顔で、ただの咬ませ犬だっていうヤツもいる……。
東西のゲートから、両陣営のキャリアとサポートカーがなだれ込んでくる。
俺もスキッドもメチャクチャだからな。おかしな形に曲がったスキッドもひでぇもんだが、立って意識があるってだけで、俺のダメージのほうが深刻かもしれねぇ。両腕、両肩、腰、両膝、それに両足首も……どこもかしこも、イッちまったよ。
潰れた左目からは、止めどもなく血があふれてくる。
立ったまま動けねぇ俺を、どうやってキャリアに載せんのか、緊急搬送前の応急手当をどうすんのか、腕の見せどころだな、ジミー。
エンジニアたちにも、めいっぱい世話かけちまうな。
レティアは会場のどこかで見ていて、ほら、やっぱりミス・カーロフは負けっぱなしじゃなかった、と安堵して微笑んでるんだろうが、後で忙しくなるぞ。こんな派手な勝ち方したら、取材やら何やら殺到するだろ。そういうのをさばいて、レムリ・プロモーションの利益につなげんのは、シニア・マネージャーのあんたの仕事だからな。
――そして、お嬢はブースの中で泣いていた。
これまで俺はずっと、何を見て、何に気づいたところで、超獣はそれをセコンドに伝えられねぇと思い込んでいた。
渡せるものは何もねぇ、渡さねぇことならできるってな。
だが、違ったぜ。
わかってみりゃ、簡単なことだった。
たかだか三年先に生まれたくらいで兄貴ヅラせず、お嬢を信じて、自分の感じたままを、救いを求める叫びを、渡すべき時は素直に渡しゃよかったんだ。
そうすりゃ、少なくともそれは、ちゃんと伝わる――。
お嬢はぐしゃぐしゃにした顔で、俺を見ている。
その涙で濡れた黒い瞳の奥に星が、大きく、強く、輝いていた。
見えるか、お嬢。
俺はカーン・ベヒモス――エルザ・カーロフの超獣だ。
スリープモードに移る直前、俺は残った力で挙げたままの右手を握った。
だから――次はパンチを打たせてくれ。
メッセージを送る!
