Little Story 03
『くじらのうた -歯車の塔の探空士より-』
ハナ・ニシキオリがお茶当番の日は、なぜか彼女以外の乗組員全員の機嫌が良い……ような気がする。
茶葉はアキツシマから取り寄せてはいるものの並レベルの品で、もちろん誰が当番でも同じものを使用するし、特にハナが紅茶を美味しく入れられる茶器や技術を持っているわけでもない。お茶請けのスコーンの数が増えるわけでも特別に高級なクロテッドクリームが添えられるわけでもなく、紅茶の横にはヴィクトリア・シティを出る前に倉庫に詰め込んだ量産品のスコーンが一人一つと、蓋をしたままのジャムのビンがぶっきらぼうに並ぶだけだ。それなのになぜ、彼女を除く二人のメンバーはほんの少し明るい色をその表情に載せ、いそいそとこの食堂兼給湯室に現れるのだろうか。
「それは無論、ニシキオリ船員が新人だからだ。目上の者に奉仕するのは当然のことである。様式美とも言う」
メンバーの一人目——お茶の時間ぴったりに現れたこの船の自称『船長』、機械人形のアーサー・アダムスが紅茶の香りを楽しむようにカップを顔に寄せてから、多少ぎこちない(言い方を変えれば旧式のコッペリア独特の機械的な)動きでそれを傾け、口の中にザバッと紅茶を流し込んだ。
「確かに私は新人ですけど……一般的な様式の話をするなら、ここは機械人形が現代人に奉仕すべき場面だと思いますが」
「失礼であるぞ、ニシキオリ。吾輩はコッペリアではあるが、その前にこの『ジェシー・クック』艇の船長である! 最高責任者である船長に茶を入れさせようとは何事か!?」
現在では多少の市民権を得ているとはいえ、そもそも人間たちの役に立つよう作られた機械であるところのコッペリアに、なぜ作った人間の方が奉仕しなければならないのかは未だに謎だが、これ以上自称『船長』を怒らせるとせっかく決まった見習い探空士の席を奪われ、このジェシー・クック艇を追い出されることになりかねない。とりあえず、ここは我慢。——ハナは口から溢れそうになる文句をどうにか紅茶と共に呑み込んで口を閉じた。
「そこにいるクソ生意気なポチ船員ですら、ここに来た当初は自ら進んで茶を入れたものだ。見習うといい、ニシキオリ」
「だーかーらー! ポチって呼ぶな、アーサー! 俺にはポリティJr.っていう、立派な名前があるんだよっ!」
いつの間に現れたのか、メンバーの二人目——アーサーの向こう側でスコーンにかじりついていた先輩乗組員の獣人間、ポリティJr.が不名誉な呼び名に口をとがらせる。愛嬌のある薄茶色のたれ耳、そしてくるんと丸まったふわふわの尻尾を持つ犬型ファーリィなので、彼のことを『ポチ』と呼びたくなる気持ちもよくわかるし、実際小さい頃から友人や仲間にそう呼ばれる機会も多かったに違いない。……問題なのは、残念ながらそのファニーな見た目とは裏腹に、ポリティJr.氏がジョークの通じない、誇り高き性格を有しているということだ。
「俺がこの艇に来たときは、俺が一番下っ端だったから、しょうがないさ。でも、今はハナ、お前が一番新人で下っ端だ。この艇のヒエラルキーで一番下層。先輩にお茶くらい当然入れるべきだ!」
「ハイハイ。もういいですから。今日はわたしが当番なので、今日のところはきちんと責務を果たしますよ……」
暑苦しい自己主張をしだしたポリティを軽くいなして、ハナは自分の分の紅茶を愛用のマグカップに注ぎ入れた。……もう何度聞いたかわからない、古文書を読んでいる錯覚に陥りそうな主張。半分以上を完全に聞き流した状態でもわかる——この二人の乗組員は今皆が乗り込んでいるジェシー・クック艇と同じかそれ以上に古臭い、前時代的な価値観を持っている。年功序列とか、あるいは男尊女卑とか……ハナが生まれるずっと前に絶滅したはずの、その辺の悪しき体制系である、アレだ。
でもまあ、(当番の比率が明らかに不公平ではあるものの)お茶当番も掃除当番も一応三人全員に割り振られているし、ごはんが不当に少ないとか私物を汚される等の由緒正しくもくだらない嫌がらせの類は一切ない。総じてこの艇は『アタリ』なのではないかな。古いけど。まだ個室はもらえないけど。なぜかコッペリアが船長で、ファーリィの先輩が誇り高くてエラソウだけど。それからそれから……。
泡のように次々と浮かんでくるこの艇の不満を心の中で握りつぶし、ハナは手の平に包み込んでいたマグカップの中に残った紅茶を、一気にごくりと飲み下した。
——とりあえず、このジェシー・クックは『アタリ』だ。古くて個室もなくて乗組員も癖が多い感じだけれど、少なくともお茶の時間はきちんと毎日守られていて、毎回温かい紅茶とスコーンが供される。これは大事なことだ。たぶん。きっと。
それに……ここが『アタリ』だと思って頑張らないと、また自分を乗せてくれる飛空艇探しからリスタート必須。あんな大変な思いはしばらくしたくないし、この艇が受ける『仕事』の中身も嫌いじゃない。この艇ならきっとそのうち、ハナの真の専門である、この世の謎に関わる調査を受けてくれるに違いない。そう信じて頑張ろう。
堅物のコッペリアと誇り高いファーリィに対するイライラを何とか呑み込み、鼻を抜ける故郷の紅茶の香りを味わうふりで目を閉じながら、ハナはほんの少し前の過去と、ほんの少し先の未来に思いを馳せる。
——ここまでが最近の、ハナ・ニシキオリがお茶当番の日に繰り広げられる、ルーティンとも言うべき一連の所作。である。
そんなお茶当番を数回、そしてそれに伴うお茶会を当番の倍くらいの回数繰り返し——毎回小さなイライラを呑み込むハナだけでなく、そこに集うメンバー全員がその変わらぬ毎日にウンザリし始めた頃、ようやく我らのジェシー・クック艇が、いつもと少々違う動きを見せた。
おそらく目的地に到着し、ホバリングの状態に切り替えたのだろう。カクン、と小さな衝撃が来た後、エンジンのノイズが今までより小さく、低い音に変わった。思ったよりもエンジン音は大音量で周囲に響き渡っていたらしく、それが小さくなったことにより突然、膜で覆われたような静けさがハナを襲う。
自室がないため食堂(兼給湯室)で持ち込んだインテリア雑誌を眺めていたハナの前を、様子を見に来たらしいポリティがまっすぐ突っ切ってから、ハシゴの上部にある操舵室の方へ顔を向けた。
「……おい、アーサー。どうした? トラブルか? それとも目的達成か?」
声に答えて操舵室の中で、機械がガタンガタンと居場所を変える音がする。どんなに船長だと胸を張っても、旧式のコッペリアである以上、動作はそこまで滑らかに……とはいかないらしい。
「どちらかと言えば、目標達成に近い。つまり、トラブルではなく、想定の範囲内だ」
「目標達成? クジラが見つかったのか?」
いつものエンジン音がない分普通の音量で話している二人の話はテーブルに着いたままでも十分に聞こえたが、ハナはそのままハシゴを登っていくポリティに続いて自分もそれを登ることにした。一階層分上がった先は、このジェシー・クック艇御自慢の操舵室だ。
操舵室は給湯室の優に三倍の広さはあるゆったりした空間(初めて見たときから今このときまで、この空間を少し削ってハナの居室にしてくれればいいのに……という思いは消えない)で、円盤状の見張り台と合体したような、珍しい形状をしていた。きっと外から見るとこのジェシー・クック艇は、艇の前方から巨大な、分厚いパンケーキを差し込んだような格好に見えるだろう。
形状からいってもおそらく、この見張り台は後から増設されたものに違いない。艇からせり出す形で設置された見張り台の周囲には、ぐるりと270度プラス上空と下部が見渡せる形でガラス窓が設置されていた。現在はそのガラス窓を通して、仄かに灰色がかった靄の中に艇がいる様子がわかる。
ハシゴを上がってすぐの、差し込まれたパンケーキの縁当たりから操舵席の方を見ると、先に上がったポリティの背中越しに、何やら座標軸などを確認するアーサーの姿が見えた。特に慌てている素振りはない。彼の言うとおりこの唐突にも思えた進行停止は、アーサーにとって予定通りの動きなのだろう。
操舵室に上がってきたポリティとハナに気づき、アーサーはほんの少し口回りのヒンジを規定よりずらして稼働した(もしかしたら、シニカルな笑いを浮かべたつもりかもしれない)。
「二人とも来たのか。……だが、ソラクジラの到着は無論、まだだ。そう簡単に話が進むのであれば依頼など成立しない。今指定のエリアに入ったところだ。現在、消音ホバリングモードに切り替え完了。最低限の動力と音量にて、ここでソラクジラが現れるのを待つ」
「何だ。まだそんなところなら、余裕でティータイムが取れるな。……おい、ハナ」
ふた昔前の関白親父のようにハナを顎で使おうと顔を向けてきたポリティをさらりと無視して、ハナは操舵席の方へと近づく。周囲の電磁波の波形に目をやる。
「本当にこんなところに、ソラクジラが現れるんですか?」
「おい、ハナ。お茶だ」
「……わたしはお茶じゃないです。そもそも今日は当番じゃないし、そんなことをするためにこの艇に乗ったわけではありません!」
しつこいポリティを一喝して、ハナは改めて波形モニタに向き直った。
「一本取られたな、ポチ。確かにニシキオリは、この艇にお茶くみとして入ったわけではない。見習い探空士になる前の彼女の肩書は調査員だ。おそらく、この『依頼』に関して言えば、君より彼女の方が役に立つ」
こういうとき、良くも悪くもコッペリアは公平中立でありがたい。が、思いがけないアーサーのフォローを受けて、ハナはありがたいと同時に、ちょっと据わりの悪い気持ちになる。
「おっしゃるとおり以前は調査員でしたけど、今は探空士です。それに、ソラクジラのような動物は専門ではなくて、もっと『地面』に近いところが主なフィールドですね。……まあ、それはともかく」
専門の話は今は、必要ない。小さく息を吸い込んで、ハナはアーサーの方に顔を向けた。
「確か今回は、ソラクジラの、生体数の調査ですよね? でも、生体数云々の前に、こんなところにソラクジラなんて出るんですか?」
「今年に入ってから、目撃情報が出た。故に、それが迷い込んだ個体なのかここで生息している個体なのかを調査する仕事が発生した。それだけだ」
数式の解き方を説明するような、抑揚のないアーサーの声が答える。そういえば、この艇に雇い入れられる際、そんな話を聞いた……ような記憶が微かに思い出された。
ヴィクトリア・シティから通常スピードの艇で、西へ一週間ほど。おそらくもう少し進めばザ・フロンティアが見える場所まで届くあたりが、今回のジェシー・クック艇が目指していた空域だ。
比較的近い過去に見つかったこの『塔』の近くはまだいろいろと解明されていない謎も多く、研究者や冒険家注目のエリアとなっている(たぶん)。この空域でソラクジラの目撃情報があったのが、確か二カ月くらい前の話。
目撃者が体躯の小さい小人種族だったことが理由で信ぴょう性に欠ける部分もあるが、彼らの証言をそのまま借りると、この空域で出会ったソラクジラは
『今まで見たことのないレベルの大きさで、空に真黒な蓋をされたようだった』
……という話だった。
頭が良くて美しい体躯を持つソラクジラは富裕層が鑑賞するためにツアーを組むこともあるほど人気の生き物だし、それが現存種よりもずっと大きなものであるというのなら、その価値は尚更だ。その骨や革は飛空艇や塔に住処を作る際に使われることも多く、もし大きな個体のコロニーがあるのであれば、付近に落ちているそれらの資材にも期待は高まる。本当にそんなに大型のソラクジラの群れがいるのであれば、その利用価値は計り知れなかった。
そんな『金の卵』を、航空ギルドが黙って見逃すはずもない。
航空ギルドはこの、ソラクジラの調査を所属艇に依頼することにした。……とはいっても数多の探空士に場所を知られてしまっては台無しだ。航空ギルドは精査に精査を重ね、ギルドに所属する艇の中からこのジェシー・クック艇を選出した。何故彼らが選ばれたかは明るみにされていないけれど、ハナが考えるにおそらく、『船長がコッペリアで、ただ一人の船員がファーリィ』の、『悪だくみもできなさそうな戦闘能力の低い艇』だったからではないか……と思う。
秘密を分けるのに一番良い相手は誠実な友人だが、そういう人物に心当たりがないなら、次に選ぶのはできるだけ話す相手がいなさそうな人物。——これは社会を生き残るための鉄則だろう。ギルドはその法則に従ったまでだ。たぶん。
そんな一連の出来事があり、ジェシー・クック艇の船長、アーサー・アダムスはいろいろと勘繰ることなく、素直にその仕事を引き受けた。アーサーとポリティの二人だけで依頼を遂行しても良かっただろうけれど(そしてギルドとしてもできれば、余計な人員を増やしてほしくなかっただろうけれど)野生のカンとでも言うべき事象が働いた結果、アーサーは新たに探空士を雇い入れる気を起こし、結果ハナが見習いとしてメンバーに加わった。そして、現在に至る——と、そういうこと。
自身の研究のため、ハナは探空士として乗り込める飛空艇を探していた。調査員から探空士に宗旨替えしたというより、手段として艇に乗りたいから探空士になることにした……というのが正しい。
できれば戦闘力は置いておいても、艇の回りを観察できるような窓とか広い見張台とか、そういう外部を見渡す装備が充実している艇が希望だったので、このジェシー・クック艇が探空士を募集しているという話はまさに渡りに船。文字通り飛びついた次第だ。
いざ乗ってみたら狭くて空いている個室もないわ乗組員は前時代的だわで散々だが、ともかく第一優先事項の外部観察装備は叶えられている。よく話を聞くとどうしてそんな装備が充実しているのかは船長のアーサーにもよくわからないらしいけれど、旧式の艇には多かれ少なかれ、謎の装備があるものだ。多分それが取り付けられた理由は時間の経過とともにゆっくりと風化し失われ、そこには設備だけが残されたのだろう。——ハナにとっては、それで充分だった。
「それで……これからどうするんです? このまま、ただクジラを待つんですか?」
黒ずんだミルクのような濃い霧の中、ただここで艇を停めていても遠くを通るソラクジラは目視できない。センサーのようなものがあるのであればそれを駆使すれば或いは……と思いハナは水を向けてみたものの、アーサーの反応は思った以上に鈍い。
「そうだ。どうもしない。ただ待つのみ。それが仕事だ」
「マジっすか……」
そのまま天を仰ぎたかったのをグッとこらえてハシゴ近くにいるポリティに視線を移してみると、こちらはこちらで、何かくじのようなものを作っている最中だった。
「あの……ポチ先輩、それは何を?」
「ポチじゃねーよ! ……これか? いや、ここから交代で見張りするなら、順番決めした方がいいかなと思ってさ。ずーっとここで三人いても、仕方がないだろ?」
ドヤ顔のポリティを見てからゆっくり視線を外して、ハナは気づかれないようにそっとため息。——すごいな、この人たち。こんな骨董品レベルの艇に乗っているだけはある。考え方だけじゃなくて、やり方までクラシックを貫いているんだ……。
「あのー。クジラが来るのを待つだけなら、タッチセンサーの網を張っておけばいいんじゃないですか? 交代で見張り台に張り込む必要はないと思うんですけど」
「そうか! お前頭いいな、ハナ!」
「いや……頭いいって言うか……常識ですよね」
「駄目だ」
しかし。ハナが提示した妙案(というにはお粗末だが)はノータイムでアーサーに却下される。
「え、ダメって……どうしてです?」
「理由は二つ」
思わず食い下がるハナに向かって、アーサーは旧式の腕をぐいと突き出した。今ではほとんどお目にかからない、骨格標本のような、質実剛健としか表現できない指が丸いパーツから二本、天井の方へ向かって伸ばされている。
「一つ目。ソラクジラは大変、音に敏感な生物だと言われているからだ。今回は特に、今まで発見されていない亜種の可能性がある。センサーの動作音くらいなら在来種にはおなじみ故、あまり気にしないようになってきているが、亜種だとしたら、聞いたことのない音に過剰反応するかもしれない。タッチセンサーの動作音でこちらを避ける可能性がある」
「なるほど……」
「ちなみに消音ホバリングモードに切り替えたのも、音に対するできうる限りの配慮だ」
完璧な理論に、思わずうなった。確かに、ソラクジラはその発達した聴力で周囲の敵や障害物を感知し、深い霧の中でも安全に泳ぐことができると言われている。音を出すものを障害物として認識しそちらには近づかないという研究結果もあるはずで、これを逆手に取った、ソラクジラの群れが生息する空域ではわざと空砲や大きな動作音を出して避けさせるという航行法もある。——アーサーのような探空士が『ソラクジラは音がするものを避ける』と認識するのは合理的で、ある意味正解だ。それに、彼の言うとおり、今登場を待っているのは一般的なソラクジラではなく、もしかしたら今まで発見されなかった亜種。念には念を入れた方が良い。
「で、二つ目ってのは何だよ、アーサー?」
完全に置いてけぼりになったポリティがつまらなそうにフンと鼻を鳴らして、伸ばされたままのアーサーの腕パーツに目をやる。ハナの方に伸ばされたままのそれは、もちろんこの話題の間微動だにせず空中で水平の角度を保っていた。
「二つ目。こちらの方が重要だ」
効果的に一拍置いてから、重々しく旧式のコッペリアが口を開く。
「このジェシー・クック艇は旧式であるがゆえに、タッチセンサー網のパーツは装備されていない。つまり——作動させたくても、ハード不在なのだ。残念ながら」
……というわけで、消音ホバリングモードに切り替えてからさらに数日。何をするでもなく、ジェシー・クック艇とその乗組員は、未開の空域でただ、たゆたっていた。
ホバリングになってからこちら、乗組員には、ぼんやりと霧の広がる外を眺めることとお茶を飲む以外にやることがない。あまりにもやることがないからなのか、いつの間にかお茶の時間は午前と午後の二回に増えたが、ハナが追加分のお茶準備に一切関知しなかったので、結果的にお茶当番の不平等は一気に改善した。……これはいわゆる、怪我の功名というヤツだろう。
「お茶が入りましたよー」
それでもまあ、三回に一回はまわってくるのが当番というもの。
例によってごく適当なルーティンワークで茶器とお茶請けをセットし、ハナは残り二人の乗組員を呼ぶ。ちょっと声を張った程度の音量だったのに通常走行時より静かな船内に驚くほどその声は広がっていき、余韻が消えるとほぼ同時に、二人の乗組員が操舵室と居室の方からそれぞれ、ゆったりとした動きで食堂にやってきた。
「ベルを鳴らすとか、もう少し風情のある呼び方はできないのか、ニシキオリ?」
「そういうの、音域が違うし人の声より響くからダメなんですよね? そう言ったのはアーサー船長じゃないですか」
「どうでもいいよ。それよりお茶、飲もうぜ。ハナ、俺のスコーン取ってくれ」
ミスリルの外壁までは通さないだろうから、艇内の会話はまあ大丈夫だろう……という結論に達してはいるものの、ハナだけでなくアーサーとポリティの二人も、何となく声を潜めるようになっている。それまでは乱暴にガチャつかせていた茶器も音対策でていねいに扱っているので、その光景はぱっと見だけならさながら、上流サロンの交流会とも思える感じだった。
「おい、何か俺のスコーンだけ小さくないか? 持った感じがいつもより軽いんだけど! ……ハナ。お前後輩なんだから、お前のとこれ、交換しろよ!」
「もうかじったものと交換はできません!」
……まあ、ぱっと見だけなら、ではあるが。
「スコーンはどうでもいい。大人しく食べろ。次はポチが見張り当番だ」
「ポチじゃねーよ。……ところで、どうだ? クジラの影くらいは見えたのか?」
「いや。全く見えない。気づいたことがあれば報告してくれ」
ごく静かに上品に(表面上は)お茶を楽しみながら、それでも一応業務の一環として、情報交換なども行う。消音ホバリングモードになってからこれまでずっと得られない朗報を探してか、ゆっくりアーサーが頭部を右から左、ポリティの方からハナの方へと水平に回転させた。
「ニシキオリ、何か気づいたことはないか?」
「いえ、特には何も」
「気づいたことがあれば、報告してくれ」
動力を最小限に抑えているからだろう、アーサーの動きはいつも以上に機械にしか見えないものになっている。コッペリアというよりは、皿を洗ったり、工場で缶詰を作ったりする、量産型の機械。実際問題、おそらく現代ではこの目の前にいるコッペリアと同性能の機械が、各々の現場で働いているに違いない。——そういうレベルでアーサー・アダムスは、見るからに旧式のタイプだ。
そんなことを考えながらぼんやりとコッペリアの船長を眺めていたハナの目の前で、アーサーは先ほどの動きを巻き戻すように、頭部を左から右へと水平に逆回転させた。当然、その視線(というかカメラユニット)は、ハナからポリティの方へと向き直る。
「気づいたことがあれば、報告してくれ」
再度繰り返される、先ほどのセリフ。
一瞬、暴走とかエラーとかの不幸な事故がアーサーを襲ったのかと思い、ハナはまじまじと目の前の自称・船長を確認してしまった。……しかし、別にその頭部から煙が上がったり、五秒ごとに同じセリフや動きが繰り返される様子はない。最後のセリフを発した後、アーサーは完全に停止し、微動だにしなくなった(当然か)。
「あの、アーサー船長? どうかしました?」
「黙れ」
思い切って聞いてみると、切って捨てるような、いきなりの低い恫喝。
ぴしゃりと口を封じられ、それならばとアーサーの視線を追ってみる。まっすぐにポリティの方を見ているように見えるが、もしかしてその向こうにある何かを見ているのだろうか? ……とはいっても、別に珍しいものがあるわけではない。ポリティの背後には紅茶の缶や茶器をしまう小さな棚があるだけで、その向こうは艇の壁。さらにその向こうは、ミルクを流したような霧が広がっているだけのはずだ。
そこまで考えてハナは、思いがけずポリティもが真面目な顔をしていることに気づく。
「ポチ先輩?」
呼びかけに、ポリティの耳がぴくりと動いた。……いや、おそらくハナの声を受けてではない。
「聞こえる。呼んでる声だ」
いつになくていねいな動きで持っていたカップをテーブルに置き、ポリティは細心の注意を払って、音をたてないように椅子を引いた。立ち上がる。
「だんだん大きくなってるから……そろそろ、ハナの耳にも聞こえるんじゃないか?」
「……そうか。ニシキオリの耳はそこまで高性能ではなかったな」
アーサーが言葉を切ったそのとき、ハナの耳にも彼らが聞いている音がようやく届いてきた。音——というよりは弦楽器を奏でているような、柔らかな和音。繰り返し繰り返し、何度も練習するように。あるいはその音楽を習得したい生徒相手に、弾いて聞かせるときのように、よく聞くと短いメロディが、根気よく何度も繰り返されている。
「これは……?」
「ソラクジラが、仲間を呼ぶときのメロディだよ」
ゆっくりと背後を振り返りながら、ハナのつぶやきにポリティが答えた。
ポリティの視線はまっすぐ後……というよりはもう少し下。棚の中段あたりを捉えている。よく見るとアーサーの方も同じ角度まで視線を下げているので、おそらくその延長線上から、今聞こえてくるメロディは発せられているのだろう。
「いわゆる、クジラの歌ってヤツだ。結構レアなんだぜ? クジラウォッチングのポイントでは人工的に出してるところもあるみたいだけど、やっぱり本家の美しさにはかなわないな〜。……ってか、声、でかいな。こりゃかなりの大物だぞ!」
「よく聞くと、解明されているソラクジラの発音とは少し違うようだ。声も、ポチの言う通り標準よりかなり大きい。このエリアで目撃された個体は、やはり大型の亜種なのだろうか? 興味深い」
ソラクジラの前に、全てのひとは恍惚となる——そんな言葉を残したのは、ヴィクトリア・シティの古典詩人、ハロルド男爵だっただろうか。まさしくそんな名言通り、お茶を飲むまでは不機嫌そうだった二人の顔は、いつの間にか柔和な表情を浮かべるまでになっていた(アーサーに関しては想像の域を出ないが)。二人と同じようにソラクジラの歌に聞き入り、つられて微笑みを浮かべかけてから、ハナはふと嫌な予感にたどりつく。
「あのー。ソラクジラって、聴力を頼りに移動しますよね?」
「そうだよ。あの歌に呼ばれて仲間が出てくるかな? 大きな身体の大きな群れだといいな〜」
「そうじゃなくて!」
気づかず能天気なままのポリティの、その柔らかそうな茶色いたれ耳を思わず掴みかけて、すんでのところで自身の手をおしとどめた。仲間の身体の一部、あるいはパーツの一部を掴んで揺さぶる代わりに、ハナは両手で自分の腕をつかむ。湧き上がるオソロシイ想像図を振り払うように、ぎゅっと手に力を込める。
「今、この艇ってソラクジラにとって、ほぼほぼ透明なのと同じじゃないですか? だって、本艇は消音ホバリングモード中だし、なるべく音を出さないようにしているわけだし……」
「ふむ。確かにニシキオリの言うとおり。ソラクジラの方からこちらは認識できない可能性が高い」
「だったら……そんなに大きな声の大きな個体、危険ですよね? こんな小さな艇、ぶつかられたらひとたまりもないし、近くを通るだけでも気流も大きく乱れるし……」
我ながら回りくどい警告に、すうっとポリティの顔が青ざめた。アーサーの方も何かを高速で計算するのが最優先されているのか、完全に動きが止まる。
きっと、後から考えてみれば数秒ほど。でも永遠と等しく思えるほど長い数秒の後、アーサーが船長の威厳を保つためか、やけに重々しいボイスで、高らかに叫んだ。
「消音ホバリングモード解除、通常運転開始!!」
「……てか、そういう演出いいですから! さっさと始動してくださいっ!!」
今までの楚々とした動きはどこへやら、ドタンバタンと音を立てながら、乗組員たちは我先にと争って操舵室へのハシゴを登る。
「確かこのレバーですよね、エンジン出力調整。……あれ、チョークはどこだっけ?」
「始動はしてるんだから、チョークはいらねえぜ、ハナ」
「こら、ニシキオリもポチも! 勝手に操作盤をいじくるな! そういった重要な作業は船長の仕事なのだ!」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!?」
もつれあいながら操作盤の前へ。一番足の速かったハナが目の前にある、一番大きなレバーを力いっぱい奥へと押し込む。実際に飛空艇の動作系統を操作するのは初めてだが、この操作盤の配置は見たことがある。このジェシー・クックが文献に乗っているレベルの旧式で助かった。
レバーを押し上げたと同時に、ボン、という小さな爆発音があがり、獰猛な生き物が吠えるような、聞き覚えのある音が響き渡った。——消音ホバリングモード解除、無事成功だ。
消音ホバリングモード解除に伴い、天井と床と、270度ぐるりと見張り台に取り付けられたガラス窓の外側でライトがオンになり、周囲の様子が明るく浮かび上がった。
「うわっ、あれ……」
先ほど、食堂で見ていた角度と同じ方向を見ながら、ポリティが上ずった声を上げた。前方やや左下方、あるいは七時方向。彼が視線で示す先の窓に、何か大きな島のようなものが見える。
「もしかしてあれが、ザ・フロンティア? なんか岩みたいな形状の塔ですね」
「ボケてんじゃねぇぞ、ハナ。よく見ろよ」
促されて視線を向けた先で、岩のようなものは信じられないスピードで、ぐんぐんとその大きさを増していった。こちらに近づいている? と考えたと同時に、ハナの脳裏を最悪の想像が掠めて過ぎる。
「えっと……もしかしてあれが、探してたソラクジラ、だったりして?」
ハナの言葉に応えるように、また一段とメロティの音量が大きくなった。
「ヤバイヤバイヤバイ! ……全速後進!」
「こら、ポチ! そういった重要な作業は船長の仕事だと何度言ったら……」
「緊急事態だよっ! 邪魔するなっ!!」
二人で操舵を取り合った結果何とかポリティが操舵レバーを握ったらしく、ジェシー・クック艇は後方へぐわっと急発進。不測の事態にバランスを崩して床に放り出されたハナの耳に、そのとき、今まで聞いていたメロディに呼応するような、新しい音が聞こえてくる。
「何ですか、あの音? ……ほら、なんか別の音が混ざってますよね?」
ハナに聞こえるのだから、ポリティとアーサーにもちろん感知できないわけがない。
操作盤の近くで同じように転んで床に座るアーサーもポリティも、新しく出現した音に集中し、ソムリエのようにその種類を見極めているところだった。
「これは、ソラクジラの発する音ではない。彼らを見世物にする際に使用する、人工的なものだろう。しかも、程度が低い」
「ああ。それにしても、もっと精巧なのもあるだろうに、何でこんなテキトーなのを使うんだ? 安いからか? ……こんなんでクジラが騙せると思ってんなら、おめでたいぜ」
仲間の酷評を聞いても、ハナにはその新しく響いてきたメロディがそこまでひどいものだとは思えなかった。多分だが、ハナのようなただのモダンタイムズの耳にはその違いなどわからない、高度な次元の話なのだろう。ハナが聞く分には、新しく加わってきた和音は美しく響いている……ように感じられる。その程度には、それは美しいメロディだった。
「ひどいかどうかは置いておいて、一体どこから……?」
口からこぼれたハナの疑問に、ポリティがじっと彼女を見つめてから、視線で答えに誘導する。天井の、扇形のガラス窓——真上よりも少し左前方。十一時方向の霧の向こうに、点ほどのサイズの何かがぼんやり霞んで見えた。
「あれは?」
「何だろう? 調査艇にしちゃ大きいから、通りがかった商船か巡査艇かな? デカイの来るのが見えたから、援護してくれたんだろう。音は酷いけど、まあ許すか。……とにかく、助かった」
呼応する二つのメロディは、ステレオのようにジェシー・クック艇の上下から美しく響きあい、だんだんとその音量を上げていく。ソラクジラの方が少し角度を変えたようで、その影がまるで塔のように、縦に長く伸びる様子が見えた。——ソラクジラの身体の模様さえはっきりと見えないのに、ものすごく大きな個体なのがわかる。彼が角度を変えてくれて助かった。あのままこちらに突っ込んで来ていたら、確実に吹っ飛ばされて、乗務員もろともこの艇は空の藻屑だっただろう……。
誘導音を出していた艇の方も近寄ってきているらしく、その姿が次第にはっきりと見えてきた。ジェシー・クックよりは多少新しそうではあるが、あちらもそれなりに年代物と思える中型の黒っぽい艇だ。自艇とは違い、外部に砲台や火炎放射器? のようなものを装備しているその艇は、巡査艇にも商船にも見えない。何とも不思議な艇だった。
「なんかあちらさん、思ったより小さい艇ですね」
「そうだな。……ってか、あのまま呼び続けたら、あっちがヤバいんじゃないか? 尋常じゃないだろ、あのサイズ」
「仕方がない。礼かねがね、危険だと警告しておくか……」
既に耳をふさぐほどの大音量となったメロディに負けないように大声で怒鳴り合いながら、まずはアーサーが直立姿勢に自身の身体を立て直し、外部メガホン用マイクに近寄る(多分、手で耳をふさぐ必要がない分立ち上がりやすかったのだろう)。続いてポリティが、そして最後にハナがようやく身を起こし、アーサーの背後に近づいた。その間にもソラクジラと黒い艇はどんどん近づく。ソラクジラのスピードやその大きさを考えると、双方の距離はかなり危険な領域だ……。
「通信より、まずは先に音出して追い払った方がいいんじゃないですか? 空砲とか……」
「ダメだ。この艇の外部設備は、作業用のアームしかない。空砲を打ちたくとも、ハード不在なのだ。残念ながら」
「またそれですか!」
それでも何とか衝突を回避できないか……と視線で操作盤を探すハナの視界の端で、そのとき、チカリと何かが光ったような気がした。
慌ててそちらに顔を向けるのとほぼ同時に遅れて届く、ドン、と大きな太鼓を叩くような音。
「気づいたみたいだぜ。空砲撃ってる。今度は、クジラの方の旋回注意だな」
手で抑えた耳に、くぐもったポリティの声が届く。
音に反応して、ソラクジラの影が横に揺れたように見えた。角度を変えたのだろうか。ぐるりと旋回するように、ゆるい弧を描きながらクジラの影が少しだけこちらに近づき、離れていった。その一瞬、その身体に描かれた繊細な幾何学模様がガラス窓いっぱいに映る。文献上でもハナが見たことのない種類の、いかにも観光客が喜びそうな美しい模様。
「うわぁ、見事な模様ですねー。やっぱり亜種かな? 観光で見られるようになったら、人気出そう!」
思わず、ため息とともに賞賛が漏れる。両手で抑えたままの耳で自分の声を聞き、ハナはこのとき初めて、ソラクジラの歌が既に消えていることに気づいた。それなら……と両手を離しかけたその瞬間、ジェシー・クック艇の斜め上方向から、再度、太鼓を打つようなドン、という音。閃光。
「もう逃げてるのに、空砲打たなくても……」
隣で、自分と同じく歌が止んだことに気づいたらしきポリティが、そっと両手をたれ耳の上から外しながらつぶやく。小さく頷いて同意しようとしたハナの言葉をしかし、もう一人の仲間が遮った。
ごく冷静で中立的な、アーサーの声。
「今撃ったのは、本当に、空砲か?」
クジラの歌は既に止み、黒い艇からの誘導音も出ていない。周囲には黒い艇とこのジェシー・クック艇の、少々煩いプロペラとエンジンの音が響いているだけだ。――そんな、ある意味無音映画のような場面。
目前の一番大きな窓には旋回している巨大なソラクジラの背中がゆっくりと流れ過ぎていた。先程までは背中側しか見えなかったけれど、今は少し角度が変わっているらしく、幾何学模様の内側の、白い腹が半分見えている。その白い腹に流れる、赤い筋。弧を描く胴体とは別の動きで後方に細い筋を引き、その赤い筋は糸のように、ソラクジラの胴体にまとわりつきつつも、違う軌跡を描いて繋がっていた。
ドシュッ、と、今までとは違う音。
「……銛!?」
あっと思った次の瞬間には、尾に近い幾何学模様の背に何か太い金属棒のようなものが撃ち込まれるのが見えた。そのままドシュッ、ドシュッと同じ音が数回響いて、ソラクジラの背中に生える金属棒が増えていく。すべての金属棒はロープのようなもので、斜め上にいる黒い艇につながっていた。
ソラクジラの胴体がのたうつように上下に跳ねる。その動きに合わせて金属棒の根本から赤い血が、不規則な波形を描いて周囲に飛び散った。先ほどの歌とは違う、絹を裂くような悲鳴に似た音が、ソラクジラから発せられる。——仲間に危険を知らせる、ソラクジラの警戒音。
「俺たちを助けたんじゃない。あいつら、クジラが目的だったんだ。密漁艇だ!」
警戒音に負けない大声で、ポリティが怒鳴った。
「罪のないクジラに……許さん! とりあえずアイツらぶっ叩く! ハナ、月世界旅行砲、砲撃準備!」
「ダメだ。月世界旅行砲を打ちたくとも、ハード不在なのだ。残念ながら」
「それよりソラクジラを助けるのが先ですって!」
もめる三人の目前で血の糸を引きながら、巨大なソラクジラは頭を斜め下に、ゆっくりと『地上』の方へと落下していく。銛を打ち込まれただけならもう少し抵抗しそうなものだが、その前に受けた砲弾がかなりのダメージになっている様子だ。あるいは、銛に毒が仕込まれていたのだろうか? まだ辛うじて命があるため浮力は多少保たれているようだが……それも時間の問題。ソラクジラに銛で繋がれた黒い艇の方も、それに合わせてゆっくりと下降しているようだった。
許可を得ている捕鯨艇は、あの黒い艇より総じてずっと大きい。獲物より多少大きいか、少なくともソラクジラと同じくらいのサイズなので、仕留めた後はそのまま曳航するようにクジラを曳いて塔にある港まで戻る。はず。……だがこの黒い艇は獲物を曳くには小さいし、そもそも銛を打った相手が大きすぎる。——巨大な獲物を手中に入れたはいいが、斜め上に浮かぶ黒い密漁艇は、この後どう獲物を持ち帰るかの方針を決められず、困っているようにも見えた。
「ポチ先輩! ソラクジラに近づいて!」
密漁艇が方針を決める前の今なら間に合う——そう楽観的にアタリを付けて、ハナは操作盤の前にいるポリティを促す。同時に自分は、彼が操作しているのとは別サイドの操作盤に飛びついた。視線で、ボタンやレバーの配置を確認。
「アーサー船長! 外部作業用のアームはあるの? あるならどれ? 使いたくとも、残念ながらハード不在?」
ないならないで仕方がない。その場合は体当たりで銛を引き抜くかロープを切るかすればいい……そんな安直な計画だったけれど、もちろん勝算がなかったわけではない。このジェシー・クック艇には戦闘用装備は一切搭載されていないが、縁をガラスで囲われた円盤状の見張り台や通常の飛空挺ではなかなかお目にかかれないエンジンの消音設備、その他何に使うのかよくわからない設備だけはばっちり装備されている。それに先程ちらりと、作業用のアームがあると、アーサーが言っていたような記憶も。——つまりこの艇は、元々はおそらく、研究用の調査艇だ。それならきっと外部アームはそれなりに器用な設定になっているだろうし、そのアーム本体にプラス、遠隔操作で外部パーツをかませることが可能に違いない。
「スイッチは存在する。作業用アームはC群の操作盤だ。研究用の汎用品だから、見覚えがあると思われる」
思った通りアーサーからイエスの返事をもらい、ハナは示されたパネルの前に移動した。確かに旧式だが、見たことのあるタイプの操作盤だ。アームにミスリルナイフを装備し、アームの収納されたハッチを開く。
「なあハナ、これ以上近づいたら巻き込まれるぜ?」
「じゃあここで! ……アーム始動。ロープ切断!」
いくら旧式であろうとも、研究用の作業アームは自分の手を動かすようにスムースに動いた。装備したミスリルナイフの切れ味も申し分ない。撫でるように水平に旋回させるだけで、巨大なソラクジラと黒い密漁艇を繋ぐロープはすっぱりと切断された。かなり強い力で曳いていたらしく、その勢いを殺せぬまま、密漁艇は上方にスポーンと飛んでいく。
「密漁艇に告ぐ。貴艇の行動は終始記録した。無論、その記録は当局に報告する。今後同じような狼藉をこのエリアで働くのであれば、相当の覚悟を持ってせよ!」
先ほどの折に通信を試みようとメガホンを向けたままだったようで、糸の切れた風船のように飛んでいく密漁艇にアーサーがタイミングを逃さず高らかに宣言した。乗組員たちに好き勝手操作盤をいじくられたりして散々だったものの、最後の最後で船長っぽい決めゼリフを吐けたのだ。多分今回の『仕事』は彼の中で、まずまずという評価となるに違いない。
「……皆、御苦労だった。アクシデントはあったが、このエリアに巨大なソラクジラが生息していたということは判明した。記録映像もある。帰ってギルドに報告し、報酬を得よう」
案の定、そのまま帰船操作に戻ろうとポリティを押しのけるアーサーをゆっくり押し戻し、ポリティがハナの方を見た。そのアイコンタクトに、ハナも力強く頷く。口を開く。
「まだ帰還には早いですよ。とりあえず、あのソラクジラに刺さった銛を抜いてやらないと……『一頭だけ見つけましたが死にかけていました。現在の生死不明。他個体は確認できず』じゃ、向こうも報酬を出し渋りますからね、きっと」
銛を三本尾の近くに刺したまま、ゆっくりゆっくり、ソラクジラは『地上』の方へと落ちていく。巨大な羽根布団が落ちていくよりは少し速め。まだ自由落下のスピードには達していないものの、浮力を保つ力はだいぶ落ちているらしく、ゆっくりゆっくり、そのスピードは増していった。
「……どうするか? とりあえず刺さってる銛を、アームで引き抜くくらいしか打てる手はないかなって感じだけど」
ジェシー・クック艇的には自由落下としか感じられないスピードで並走しながら、ポリティがハナに方針を尋ねる。ハナの方も別に専門ではないので画期的な打開策があるわけではないのだが、少ない知識を総動員して何とかするしかない。
「そうですね。銛に返しがなければいいんですけど。あったら、少し切開の必要があるかも」
とりあえずソラクジラに近づき、銛にアームをかける。かなり弱ってはいるものの動かすと痛みを感じるらしく、ソラクジラが微かに身をよじった。……可哀想だが、深さによっては少し根元を切って取り出すしかない。暴れずに抜かせてくれるだろうか?
「痛がってるぜ? なるべく優しくやってくれよな」
「もちろん、そのつもりですよ」
まずは一番手近な一本目。これは刺さりが浅そうなのでそのままぐっと抜く。短い悲鳴と共に血が噴き出るが構わず次へ。二本目は銛の左右を少し開かないと取れなさそうだ。幸いミスリルナイフの切れ味が良いため、スッと開いて銛を抜く。一本目よりもソラクジラの抵抗が少なかったところを見ると、こちらの方が痛みは少なかったのかもしれない。それを踏まえて、最後の三本目は初めから切開した。
「よっしゃ! 処置完了! ……やったな、ハナ」
「まだだ、ポチ。傷口の処置が完了していない。……とはいえ、消毒薬のようなソフトは不在だが」
「了解です。……じゃあ船外修復用のメンディングテープを使いましょう」
本来なら傷口の消毒は必須だが、装備不在ならお手上げだ。ハナは作業用アームに補修テープを装備し直し、それで三つの傷をふさぐ。
——後は、このソラクジラの自然治癒力に任せるしかない。
「ふう。処置完了です」
額の汗を手の甲で拭い、ハナがそう宣言した直後、先ほどの美しいメロディが再度、そこにいるソラクジラの方から聞こえてきた。
「クジラの歌……?」
「銛を抜いてくれてありがとう、って言ってるんだぜ。きっと」
思わず漏れたハナのつぶやきに、自分の手柄のようなドヤ顔でポリティが口添える。
誇り高く、そして弱気を助け強気をくじく心優しいファーリィの言葉を鵜呑みにしたい気持ちは山々だったけれど、どうもハナにはそうは思えなかった。何故なら今聞こえてくるその歌は、先ほどイヤというほど繰り返し聞いた、例の『仲間を呼ぶ』メロディだったからだ。ソラクジラは、大変知能の高い動物だと言われている。警告音のような別の音階の音も出せるようだし、感謝なら感謝で、何か違う歌になるのではないだろうか?
先ほどとは逆で、ソラクジラの発するメロディはごく僅かにだが、だんだんと小さくなっている。……明らかに衰弱しているのにこんな状態でもなお、『感謝の歌』を歌うのは少し異常だ。——ハナの違和感は増すばかりだった。
「ねえ、もういいよ。感謝だったら、もう体力を使わないで。大人しくして」
スピーカーを使わなければ聞こえるはずはないし、もっと言えば伝わるはずもない。それでも自然に、懇願が口をついてこぼれる。
ソラクジラは既に、アームと接触していなかった。まだ並走はしていたものの、だんだん増していく落下スピードにそろそろついていけなくなるだろう。成す術は、近い未来に確実になくなるのが明白だった。自分の不甲斐なさに身をよじる他、ハナにできることはない。
最後の力を振り絞るように、ソラクジラが再度、『仲間を呼ぶ』メロディを歌う。
そのとき。
「……新しい、歌?」
ゆっくりと『地面』に向かって下降するソラクジラの四方八方から、湧き上がるように音楽が聞こえてきた。
初めは、先ほどのように呼応する歌だと、ハナは考えた。手負いのソラクジラが呼ぶ声が、ようやく仲間に届いたのだ、と。
傷を負い、仲間から離れ、まさに絶体絶命。こんなときに仲間を呼び、それに仲間が答える。——やはり今ソラクジラが歌っているのは『仲間を呼ぶ』歌で間違いなかったのだ。ハナたちに対する感謝より、自身の身の安全を確保したいと思うのは生物として、至極当然のことだろう。
必死で仲間を呼び、それに反応があった。ソラクジラはその歌を聞き、仲間の元に身を寄せればいい。めでたしめでたしのハッピーエンド。……のはずなのだが、そうとも言い切れない大きな違和感が、その場には大きく横たわっている。
「なんか……あの歌、ちょっと変、ですよね」
新たに加わったメロディは、明らかに、手負いのソラクジラが発する音楽と調和していなかった、のだ。
手負いのソラクジラが歌っていたものと同じく、返された歌は美しいメロディだと思う。耳障りなノイズもないし、特に変わった転調もない。四方八方からサラウンドで湧き上がってくる様などは、まさに壮観だった。——その歌を、単体で聞いているのならば。
不思議なことに周囲から返される歌は、手負いのソラクジラが歌っている歌と合わせて聞くと残念ながら不協和音、もしくは雑音にしか聞こえなくなる。発せられる『仲間を呼ぶ』歌とそれに返されている歌は、それぞれ相手の良いところを殺し合っているようにしか聞こえないのだ。
「変ではない。あれは、ああいう歌なのだ。あのソラクジラは、仲間に拒否されている」
ごく平坦な調子で、アーサーが説明する声がハナの耳に届いた。
「銛に毒が仕込まれていたか、衛生状態が悪く何らかの病原菌があの艇にあったのか。とにかく仲間は、あのソラクジラが穢れていると判断した。種の存続のため、仲間に入れられないという判断もある」
「そんな……」
言葉を失ったハナを、そして弱ったソラクジラを追い込むように、周囲のメロディは途切れずに響き続ける。水に落ちるコインのように左右にふらふらと揺れながら、手負いのソラクジラはゆっくりゆっくり、下方へと沈んでいく。
少しは、切ない思いに囚われているのだろうか——と、ハナはふと考えた。
やむにやまれぬ状況で仲間を拒否し死へと追いやるこの状況に、仲間のソラクジラはほんの少しでも胸を痛めるのだろうか? それとも、頭が良くても人類が仲間に感じるような感情は一切なく、ただ穢れた有機物として、少し前まで命の宿っていた肉体はただ事務的に破棄されるのだろうか? そして今、仲間に拒否され、確実に死と『地面』へ向かっているソラクジラは、そのことについてどんな感情を抱いているのだろうか……?
「なんかこう……ソラクジラを励ます歌みたいなのって、ないんですか?」
「何を言っているのだ、ニシキオリ? 意図が理解できない」
「何って、あのままじゃあのソラクジラが、可哀想じゃないですか!」
何かやらなければ……と考えれば考えるほどハナの頭の中は混乱し、身体は動かなくなる。足先の扇形の窓から見えるソラクジラがだんだん、だんだんと小さくなっていく。その体躯が霧に呑まれ、模様がだんだん不鮮明になっていく……。
美しい歌声も、もう途切れ途切れになっていた。泡が浮かんでくるように、切れ切れにポコン、ポコンとその切れ端が届いてくる程度の音量。それに合わせるように、周囲の『拒絶の歌』もデクレッシェンドで小さくなってきた。もうほんの少しで静寂がやってくる、そんな気配。
「……歌だ」
静寂を目の前にして、突如、ポリティが鋭く囁いた。
「えっ……?」
「歌だよ! 聞こえないか? クジラの、『仲間を呼ぶ』方の歌が」
彼の言葉の最後を待たずに、ハナの耳にもそれが聞こえてくる。途切れ途切れの歌に答える、彼を受け入れる意思を示す歌声。
「でも、いったいどこから……?」
「下だ」
ハナの言葉に、今度はアーサーが端的に回答した。——先程の感情的で抽象的な質問と違い、この問いはコッペリアにとって意図が理解できるものだったらしい。
彼の、そしてポリティの視線を追うと確かに、二人とも足先にある窓の方を見ている。消えゆくソラクジラを目で追っているのかと思っていたのだが、どうやらそればかりではないようだ。
靄の向こうのソラクジラの歌が、久しぶりにはっきりとメロディで聞こえた。
それに呼応するように、下の方から別の『仲間を呼ぶ』歌が湧き上がってくる。
そのアンサーソングがハナたちの耳に届いた直後、おそらく最後の力を振り絞り、手負いのソラクジラがぐるりと大きく旋回して、体制を整えた。——『地面』に対して水平の状態から、『地面』に対して垂直の、頭を下にした状態に。
ソラクジラの健闘を讃えるように、下からのメロディが、一層大きく響き渡る。
そして。
まるでクライマックスを盛り上げるようにクレッシェンドで大きくなる音楽の中、力強く尾びれを動かし、巨大なソラクジラは一気に『地面』の方へ向けて泳ぎ去った。
あっという間の出来事が夢でないと言い切れる唯一の証拠に、幾筋かの赤い血の糸だけを、霧の中に残して。
「お茶が入ったぞー!」
それから、どのくらい時間が経過しただろうか。
本日午後のお茶当番はポリティらしい。不愛想な呼び声に、見張り兼操舵当番のハナが操舵稈を固定し、見張り台の方からノロノロとハシゴを降りて食堂兼給湯室に向かうと、彼女が仕度するのとほぼ同じ適当な感じで、茶器とスコーンが各一、そしてテーブルの真ん中にスプーンの突っ込まれたジャムのビンが一本置かれていた。ポリティの当番だとジャムのビンを開けるサービスがある、というわけではなく、単にポリティご本人が皆の到着を待てず、先にジャムをスコーンに塗りたくったためこういう結果となったようだ。
「どうした? シケたツラして。任務終了で、後は帰って報酬もらうだけ。嬉しくないのか?」
案の定、誰よりも早く、そして誰よりも大きそうなスコーンにかぶりつきながら、あくまでも能天気にポリティがハナに声をかけてくる。
「嬉しいとか嬉しくないとか、そういう話じゃなくて。さっきの光景が、まだ目の前にちらついてて……」
「思考機関の不調か? クールダウンした方がいいぞ、ニシキオリ」
人類のアンニュイを機械の不調と同一に並べてくるアーサーを思わず睨んでから、ハナは手渡された愛用のマグカップを包み込むように両手で持った。ゆっくり、お茶を一口すする。
——確かに、クールダウンは必要かも。あの状況を理論的に説明できない。
『地面』が現在どうなっているのか、そしてその下に以前あった『土地』はどうなっているのか。……それは学生の時分から今まで、ほんの数年の間ではあるがハナの研究の対象だった。なので、普通の住民や探空士よりはその知識を持っているという自負もある。けれど今回の事象は、今まで文献で見たことも、噂で聞いたこともない。——『地面』が死にゆくソラクジラを歌で呼んだ? そんなことが実際日常的に行われているのであれば、それはどんなロジック、あるいはマジックに則っているのだろうか……?
「食欲がないのか? 大丈夫、それなら俺が、ハナの分のスコーンを食べて……」
「……よくあることなんですか、あれ?」
図々しく目の前の皿に伸びてくる右手(右前足?)を反射的にぴしゃりと払ってから、ハナは思い切ってポリティに尋ねてみた。
「あれって、さっきのクジラの、あれ? ……いや、俺は初めて見た」
あまりにも飄々としているのでよく見る事象なのかと思っていたら、ポリティの方も初見だったらしい。そのまま視線を向けてみると、その意図を感知したのか(それとも自分に向けられたコマンドだと認識していたのか)珍しく正面から文章にして聞く前に、アーサーが口を開く。
「吾輩は、過去に見たことがある。ポチ、君の父親がまだこの艇にいた頃のことだ」
「うわ、それって何年前だよ? ……ってか俺はポチじゃねーって!」
いつものように口を尖らせるポリティを完全に無視して、アーサーはいつものように紅茶の香りを楽しむようにカップを顔に寄せてから、それを傾けて口の中にザバッと紅茶を流し込んだ。
「ニシキオリ、君は『地面』の研究が専門だと言っていたが、あの事象を初めて見たのか?」
「はい」
素直に頷くハナに目を向け、アーサーは一瞬動きを止めてから、ほんの少し口回りのヒンジを規定よりずらして稼働した。……前にも一度見たことがある。おそらくは、シニカルな笑いを浮かべたつもりの動き。
「吾輩は今の今まで、調査員は探空士と比較して、知識も経験も上だと認識していたが……一概にそうとも言えないのだな。つまり、調査員より探空士が上位。そしてヒラの探空士より船長が上位。故に吾輩がこの艇での最上位というわけだ。Q.E.D.」
「……その前にコッペリアは、人類の小間使いだろ?」
ご立派な演説はあっという間にポリティに台無しにされたが、アーサーがへこたれる様子はない。
「うるさい、ポチ」
「犬みたいに言うな! 俺は犬っころじゃない! ファーリィだ!」
ひとしきりいつもの言い争いをした後、一気にカップの紅茶を飲み干してからポリティがハナの方に視線を向け、ニヤリとした。
「どうだい、新米探空士さん? 調査員の頃と比べて、色々面白いことがあるだろう? まあ、危険なこともあるけど……どっちにせよ、まだ序の口だ。どうだ、怖いか?」
間を取るためか、ポリティは再度、手にしていたカップに口を付ける。上目遣いにハナの目を見る。
芝居がかったわかりやすいアイコンタクトに、思わず、ハナは小さく吹き出した。
「大丈夫です。逃げ出したくはなっていません。まだ出会えない謎に、もっともっと出会っていきたい。まだ見習いですが……これからも、よろしくお願いします!」
「そうか。それなら良かった。ではハナ・ニシキオリ、本日をもって見習い終了だ。君を本日より正式採用とする」
重々しい声で高らかに宣言するアーサーの言葉に、目を丸くしたのはポリティだ。
「えっ? ハナは今まで見習いってことは、仮採用だったのか? ……何だ、それならそうと言ってくれればお茶当番は全部任せたし、スコーンは二分の一個の支給にしたのに!」
「なんですかそれ!? 不平等すぎるでしょ!」
「不平等とかそういう次元の話じゃない! 現に今、お茶の回数が増えたから、スコーンが足りなくなりそうなんだよ。この際、当番はこのままでいいから、スコーンの配分だけは新入りとして遠慮しろよ。わかったな?」
「イヤです」
「何でだよ? 俺は先輩だぞ! 面倒見てやっただろう? 敬うべきだろ? 楽しい冒険が望みだろ? それには艇と仲間が必要なんだぞ?」
無駄にすごむポリティを一瞥してから、ハナは両手で包むように持ったマグカップからこくりと一口、まだ温かい紅茶を飲む。
——この艇は、多分『アタリ』だ。古くて個室もなくて乗組員も癖が多い感じだけれど、少なくともお茶の時間はきちんと毎日守られていて、毎回温かい紅茶とスコーンが供される。これは大事なことだ。それに……。
それにおそらく、このジェシー・クック艇には珍しい事象に当たる『運』がある。
引退まで波風立てず平穏に生きていくのが望みというタイプには不都合かもしれないが、ハナのような調査員兼探空士にとって、こんなに都合が良く、楽しい艇はない。この艇に乗っているだけで、ハナが知りたい謎が向こうからやってくる確率がほんのわずかでも上がるのなら、大歓迎だ!
「はい。……でも、それとこれとは別なので、私の権利は死守します」
ハッキリきっちり宣言してから手始めにハナはこれ見よがしに大きな口を開け、目の前のスコーンにがぶりとかみついて、その所有権を明確にした。
茶葉はアキツシマから取り寄せてはいるものの並レベルの品で、もちろん誰が当番でも同じものを使用するし、特にハナが紅茶を美味しく入れられる茶器や技術を持っているわけでもない。お茶請けのスコーンの数が増えるわけでも特別に高級なクロテッドクリームが添えられるわけでもなく、紅茶の横にはヴィクトリア・シティを出る前に倉庫に詰め込んだ量産品のスコーンが一人一つと、蓋をしたままのジャムのビンがぶっきらぼうに並ぶだけだ。それなのになぜ、彼女を除く二人のメンバーはほんの少し明るい色をその表情に載せ、いそいそとこの食堂兼給湯室に現れるのだろうか。
「それは無論、ニシキオリ船員が新人だからだ。目上の者に奉仕するのは当然のことである。様式美とも言う」
メンバーの一人目——お茶の時間ぴったりに現れたこの船の自称『船長』、機械人形のアーサー・アダムスが紅茶の香りを楽しむようにカップを顔に寄せてから、多少ぎこちない(言い方を変えれば旧式のコッペリア独特の機械的な)動きでそれを傾け、口の中にザバッと紅茶を流し込んだ。
「確かに私は新人ですけど……一般的な様式の話をするなら、ここは機械人形が現代人に奉仕すべき場面だと思いますが」
「失礼であるぞ、ニシキオリ。吾輩はコッペリアではあるが、その前にこの『ジェシー・クック』艇の船長である! 最高責任者である船長に茶を入れさせようとは何事か!?」
現在では多少の市民権を得ているとはいえ、そもそも人間たちの役に立つよう作られた機械であるところのコッペリアに、なぜ作った人間の方が奉仕しなければならないのかは未だに謎だが、これ以上自称『船長』を怒らせるとせっかく決まった見習い探空士の席を奪われ、このジェシー・クック艇を追い出されることになりかねない。とりあえず、ここは我慢。——ハナは口から溢れそうになる文句をどうにか紅茶と共に呑み込んで口を閉じた。
「そこにいるクソ生意気なポチ船員ですら、ここに来た当初は自ら進んで茶を入れたものだ。見習うといい、ニシキオリ」
「だーかーらー! ポチって呼ぶな、アーサー! 俺にはポリティJr.っていう、立派な名前があるんだよっ!」
いつの間に現れたのか、メンバーの二人目——アーサーの向こう側でスコーンにかじりついていた先輩乗組員の獣人間、ポリティJr.が不名誉な呼び名に口をとがらせる。愛嬌のある薄茶色のたれ耳、そしてくるんと丸まったふわふわの尻尾を持つ犬型ファーリィなので、彼のことを『ポチ』と呼びたくなる気持ちもよくわかるし、実際小さい頃から友人や仲間にそう呼ばれる機会も多かったに違いない。……問題なのは、残念ながらそのファニーな見た目とは裏腹に、ポリティJr.氏がジョークの通じない、誇り高き性格を有しているということだ。
「俺がこの艇に来たときは、俺が一番下っ端だったから、しょうがないさ。でも、今はハナ、お前が一番新人で下っ端だ。この艇のヒエラルキーで一番下層。先輩にお茶くらい当然入れるべきだ!」
「ハイハイ。もういいですから。今日はわたしが当番なので、今日のところはきちんと責務を果たしますよ……」
暑苦しい自己主張をしだしたポリティを軽くいなして、ハナは自分の分の紅茶を愛用のマグカップに注ぎ入れた。……もう何度聞いたかわからない、古文書を読んでいる錯覚に陥りそうな主張。半分以上を完全に聞き流した状態でもわかる——この二人の乗組員は今皆が乗り込んでいるジェシー・クック艇と同じかそれ以上に古臭い、前時代的な価値観を持っている。年功序列とか、あるいは男尊女卑とか……ハナが生まれるずっと前に絶滅したはずの、その辺の悪しき体制系である、アレだ。
でもまあ、(当番の比率が明らかに不公平ではあるものの)お茶当番も掃除当番も一応三人全員に割り振られているし、ごはんが不当に少ないとか私物を汚される等の由緒正しくもくだらない嫌がらせの類は一切ない。総じてこの艇は『アタリ』なのではないかな。古いけど。まだ個室はもらえないけど。なぜかコッペリアが船長で、ファーリィの先輩が誇り高くてエラソウだけど。それからそれから……。
泡のように次々と浮かんでくるこの艇の不満を心の中で握りつぶし、ハナは手の平に包み込んでいたマグカップの中に残った紅茶を、一気にごくりと飲み下した。
——とりあえず、このジェシー・クックは『アタリ』だ。古くて個室もなくて乗組員も癖が多い感じだけれど、少なくともお茶の時間はきちんと毎日守られていて、毎回温かい紅茶とスコーンが供される。これは大事なことだ。たぶん。きっと。
それに……ここが『アタリ』だと思って頑張らないと、また自分を乗せてくれる飛空艇探しからリスタート必須。あんな大変な思いはしばらくしたくないし、この艇が受ける『仕事』の中身も嫌いじゃない。この艇ならきっとそのうち、ハナの真の専門である、この世の謎に関わる調査を受けてくれるに違いない。そう信じて頑張ろう。
堅物のコッペリアと誇り高いファーリィに対するイライラを何とか呑み込み、鼻を抜ける故郷の紅茶の香りを味わうふりで目を閉じながら、ハナはほんの少し前の過去と、ほんの少し先の未来に思いを馳せる。
——ここまでが最近の、ハナ・ニシキオリがお茶当番の日に繰り広げられる、ルーティンとも言うべき一連の所作。である。
*
そんなお茶当番を数回、そしてそれに伴うお茶会を当番の倍くらいの回数繰り返し——毎回小さなイライラを呑み込むハナだけでなく、そこに集うメンバー全員がその変わらぬ毎日にウンザリし始めた頃、ようやく我らのジェシー・クック艇が、いつもと少々違う動きを見せた。
おそらく目的地に到着し、ホバリングの状態に切り替えたのだろう。カクン、と小さな衝撃が来た後、エンジンのノイズが今までより小さく、低い音に変わった。思ったよりもエンジン音は大音量で周囲に響き渡っていたらしく、それが小さくなったことにより突然、膜で覆われたような静けさがハナを襲う。
自室がないため食堂(兼給湯室)で持ち込んだインテリア雑誌を眺めていたハナの前を、様子を見に来たらしいポリティがまっすぐ突っ切ってから、ハシゴの上部にある操舵室の方へ顔を向けた。
「……おい、アーサー。どうした? トラブルか? それとも目的達成か?」
声に答えて操舵室の中で、機械がガタンガタンと居場所を変える音がする。どんなに船長だと胸を張っても、旧式のコッペリアである以上、動作はそこまで滑らかに……とはいかないらしい。
「どちらかと言えば、目標達成に近い。つまり、トラブルではなく、想定の範囲内だ」
「目標達成? クジラが見つかったのか?」
いつものエンジン音がない分普通の音量で話している二人の話はテーブルに着いたままでも十分に聞こえたが、ハナはそのままハシゴを登っていくポリティに続いて自分もそれを登ることにした。一階層分上がった先は、このジェシー・クック艇御自慢の操舵室だ。
操舵室は給湯室の優に三倍の広さはあるゆったりした空間(初めて見たときから今このときまで、この空間を少し削ってハナの居室にしてくれればいいのに……という思いは消えない)で、円盤状の見張り台と合体したような、珍しい形状をしていた。きっと外から見るとこのジェシー・クック艇は、艇の前方から巨大な、分厚いパンケーキを差し込んだような格好に見えるだろう。
形状からいってもおそらく、この見張り台は後から増設されたものに違いない。艇からせり出す形で設置された見張り台の周囲には、ぐるりと270度プラス上空と下部が見渡せる形でガラス窓が設置されていた。現在はそのガラス窓を通して、仄かに灰色がかった靄の中に艇がいる様子がわかる。
ハシゴを上がってすぐの、差し込まれたパンケーキの縁当たりから操舵席の方を見ると、先に上がったポリティの背中越しに、何やら座標軸などを確認するアーサーの姿が見えた。特に慌てている素振りはない。彼の言うとおりこの唐突にも思えた進行停止は、アーサーにとって予定通りの動きなのだろう。
操舵室に上がってきたポリティとハナに気づき、アーサーはほんの少し口回りのヒンジを規定よりずらして稼働した(もしかしたら、シニカルな笑いを浮かべたつもりかもしれない)。
「二人とも来たのか。……だが、ソラクジラの到着は無論、まだだ。そう簡単に話が進むのであれば依頼など成立しない。今指定のエリアに入ったところだ。現在、消音ホバリングモードに切り替え完了。最低限の動力と音量にて、ここでソラクジラが現れるのを待つ」
「何だ。まだそんなところなら、余裕でティータイムが取れるな。……おい、ハナ」
ふた昔前の関白親父のようにハナを顎で使おうと顔を向けてきたポリティをさらりと無視して、ハナは操舵席の方へと近づく。周囲の電磁波の波形に目をやる。
「本当にこんなところに、ソラクジラが現れるんですか?」
「おい、ハナ。お茶だ」
「……わたしはお茶じゃないです。そもそも今日は当番じゃないし、そんなことをするためにこの艇に乗ったわけではありません!」
しつこいポリティを一喝して、ハナは改めて波形モニタに向き直った。
「一本取られたな、ポチ。確かにニシキオリは、この艇にお茶くみとして入ったわけではない。見習い探空士になる前の彼女の肩書は調査員だ。おそらく、この『依頼』に関して言えば、君より彼女の方が役に立つ」
こういうとき、良くも悪くもコッペリアは公平中立でありがたい。が、思いがけないアーサーのフォローを受けて、ハナはありがたいと同時に、ちょっと据わりの悪い気持ちになる。
「おっしゃるとおり以前は調査員でしたけど、今は探空士です。それに、ソラクジラのような動物は専門ではなくて、もっと『地面』に近いところが主なフィールドですね。……まあ、それはともかく」
専門の話は今は、必要ない。小さく息を吸い込んで、ハナはアーサーの方に顔を向けた。
「確か今回は、ソラクジラの、生体数の調査ですよね? でも、生体数云々の前に、こんなところにソラクジラなんて出るんですか?」
「今年に入ってから、目撃情報が出た。故に、それが迷い込んだ個体なのかここで生息している個体なのかを調査する仕事が発生した。それだけだ」
数式の解き方を説明するような、抑揚のないアーサーの声が答える。そういえば、この艇に雇い入れられる際、そんな話を聞いた……ような記憶が微かに思い出された。
◇
ヴィクトリア・シティから通常スピードの艇で、西へ一週間ほど。おそらくもう少し進めばザ・フロンティアが見える場所まで届くあたりが、今回のジェシー・クック艇が目指していた空域だ。
比較的近い過去に見つかったこの『塔』の近くはまだいろいろと解明されていない謎も多く、研究者や冒険家注目のエリアとなっている(たぶん)。この空域でソラクジラの目撃情報があったのが、確か二カ月くらい前の話。
目撃者が体躯の小さい小人種族だったことが理由で信ぴょう性に欠ける部分もあるが、彼らの証言をそのまま借りると、この空域で出会ったソラクジラは
『今まで見たことのないレベルの大きさで、空に真黒な蓋をされたようだった』
……という話だった。
頭が良くて美しい体躯を持つソラクジラは富裕層が鑑賞するためにツアーを組むこともあるほど人気の生き物だし、それが現存種よりもずっと大きなものであるというのなら、その価値は尚更だ。その骨や革は飛空艇や塔に住処を作る際に使われることも多く、もし大きな個体のコロニーがあるのであれば、付近に落ちているそれらの資材にも期待は高まる。本当にそんなに大型のソラクジラの群れがいるのであれば、その利用価値は計り知れなかった。
そんな『金の卵』を、航空ギルドが黙って見逃すはずもない。
航空ギルドはこの、ソラクジラの調査を所属艇に依頼することにした。……とはいっても数多の探空士に場所を知られてしまっては台無しだ。航空ギルドは精査に精査を重ね、ギルドに所属する艇の中からこのジェシー・クック艇を選出した。何故彼らが選ばれたかは明るみにされていないけれど、ハナが考えるにおそらく、『船長がコッペリアで、ただ一人の船員がファーリィ』の、『悪だくみもできなさそうな戦闘能力の低い艇』だったからではないか……と思う。
秘密を分けるのに一番良い相手は誠実な友人だが、そういう人物に心当たりがないなら、次に選ぶのはできるだけ話す相手がいなさそうな人物。——これは社会を生き残るための鉄則だろう。ギルドはその法則に従ったまでだ。たぶん。
そんな一連の出来事があり、ジェシー・クック艇の船長、アーサー・アダムスはいろいろと勘繰ることなく、素直にその仕事を引き受けた。アーサーとポリティの二人だけで依頼を遂行しても良かっただろうけれど(そしてギルドとしてもできれば、余計な人員を増やしてほしくなかっただろうけれど)野生のカンとでも言うべき事象が働いた結果、アーサーは新たに探空士を雇い入れる気を起こし、結果ハナが見習いとしてメンバーに加わった。そして、現在に至る——と、そういうこと。
自身の研究のため、ハナは探空士として乗り込める飛空艇を探していた。調査員から探空士に宗旨替えしたというより、手段として艇に乗りたいから探空士になることにした……というのが正しい。
できれば戦闘力は置いておいても、艇の回りを観察できるような窓とか広い見張台とか、そういう外部を見渡す装備が充実している艇が希望だったので、このジェシー・クック艇が探空士を募集しているという話はまさに渡りに船。文字通り飛びついた次第だ。
いざ乗ってみたら狭くて空いている個室もないわ乗組員は前時代的だわで散々だが、ともかく第一優先事項の外部観察装備は叶えられている。よく話を聞くとどうしてそんな装備が充実しているのかは船長のアーサーにもよくわからないらしいけれど、旧式の艇には多かれ少なかれ、謎の装備があるものだ。多分それが取り付けられた理由は時間の経過とともにゆっくりと風化し失われ、そこには設備だけが残されたのだろう。——ハナにとっては、それで充分だった。
「それで……これからどうするんです? このまま、ただクジラを待つんですか?」
黒ずんだミルクのような濃い霧の中、ただここで艇を停めていても遠くを通るソラクジラは目視できない。センサーのようなものがあるのであればそれを駆使すれば或いは……と思いハナは水を向けてみたものの、アーサーの反応は思った以上に鈍い。
「そうだ。どうもしない。ただ待つのみ。それが仕事だ」
「マジっすか……」
そのまま天を仰ぎたかったのをグッとこらえてハシゴ近くにいるポリティに視線を移してみると、こちらはこちらで、何かくじのようなものを作っている最中だった。
「あの……ポチ先輩、それは何を?」
「ポチじゃねーよ! ……これか? いや、ここから交代で見張りするなら、順番決めした方がいいかなと思ってさ。ずーっとここで三人いても、仕方がないだろ?」
ドヤ顔のポリティを見てからゆっくり視線を外して、ハナは気づかれないようにそっとため息。——すごいな、この人たち。こんな骨董品レベルの艇に乗っているだけはある。考え方だけじゃなくて、やり方までクラシックを貫いているんだ……。
「あのー。クジラが来るのを待つだけなら、タッチセンサーの網を張っておけばいいんじゃないですか? 交代で見張り台に張り込む必要はないと思うんですけど」
「そうか! お前頭いいな、ハナ!」
「いや……頭いいって言うか……常識ですよね」
「駄目だ」
しかし。ハナが提示した妙案(というにはお粗末だが)はノータイムでアーサーに却下される。
「え、ダメって……どうしてです?」
「理由は二つ」
思わず食い下がるハナに向かって、アーサーは旧式の腕をぐいと突き出した。今ではほとんどお目にかからない、骨格標本のような、質実剛健としか表現できない指が丸いパーツから二本、天井の方へ向かって伸ばされている。
「一つ目。ソラクジラは大変、音に敏感な生物だと言われているからだ。今回は特に、今まで発見されていない亜種の可能性がある。センサーの動作音くらいなら在来種にはおなじみ故、あまり気にしないようになってきているが、亜種だとしたら、聞いたことのない音に過剰反応するかもしれない。タッチセンサーの動作音でこちらを避ける可能性がある」
「なるほど……」
「ちなみに消音ホバリングモードに切り替えたのも、音に対するできうる限りの配慮だ」
完璧な理論に、思わずうなった。確かに、ソラクジラはその発達した聴力で周囲の敵や障害物を感知し、深い霧の中でも安全に泳ぐことができると言われている。音を出すものを障害物として認識しそちらには近づかないという研究結果もあるはずで、これを逆手に取った、ソラクジラの群れが生息する空域ではわざと空砲や大きな動作音を出して避けさせるという航行法もある。——アーサーのような探空士が『ソラクジラは音がするものを避ける』と認識するのは合理的で、ある意味正解だ。それに、彼の言うとおり、今登場を待っているのは一般的なソラクジラではなく、もしかしたら今まで発見されなかった亜種。念には念を入れた方が良い。
「で、二つ目ってのは何だよ、アーサー?」
完全に置いてけぼりになったポリティがつまらなそうにフンと鼻を鳴らして、伸ばされたままのアーサーの腕パーツに目をやる。ハナの方に伸ばされたままのそれは、もちろんこの話題の間微動だにせず空中で水平の角度を保っていた。
「二つ目。こちらの方が重要だ」
効果的に一拍置いてから、重々しく旧式のコッペリアが口を開く。
「このジェシー・クック艇は旧式であるがゆえに、タッチセンサー網のパーツは装備されていない。つまり——作動させたくても、ハード不在なのだ。残念ながら」
*
……というわけで、消音ホバリングモードに切り替えてからさらに数日。何をするでもなく、ジェシー・クック艇とその乗組員は、未開の空域でただ、たゆたっていた。
ホバリングになってからこちら、乗組員には、ぼんやりと霧の広がる外を眺めることとお茶を飲む以外にやることがない。あまりにもやることがないからなのか、いつの間にかお茶の時間は午前と午後の二回に増えたが、ハナが追加分のお茶準備に一切関知しなかったので、結果的にお茶当番の不平等は一気に改善した。……これはいわゆる、怪我の功名というヤツだろう。
「お茶が入りましたよー」
それでもまあ、三回に一回はまわってくるのが当番というもの。
例によってごく適当なルーティンワークで茶器とお茶請けをセットし、ハナは残り二人の乗組員を呼ぶ。ちょっと声を張った程度の音量だったのに通常走行時より静かな船内に驚くほどその声は広がっていき、余韻が消えるとほぼ同時に、二人の乗組員が操舵室と居室の方からそれぞれ、ゆったりとした動きで食堂にやってきた。
「ベルを鳴らすとか、もう少し風情のある呼び方はできないのか、ニシキオリ?」
「そういうの、音域が違うし人の声より響くからダメなんですよね? そう言ったのはアーサー船長じゃないですか」
「どうでもいいよ。それよりお茶、飲もうぜ。ハナ、俺のスコーン取ってくれ」
ミスリルの外壁までは通さないだろうから、艇内の会話はまあ大丈夫だろう……という結論に達してはいるものの、ハナだけでなくアーサーとポリティの二人も、何となく声を潜めるようになっている。それまでは乱暴にガチャつかせていた茶器も音対策でていねいに扱っているので、その光景はぱっと見だけならさながら、上流サロンの交流会とも思える感じだった。
「おい、何か俺のスコーンだけ小さくないか? 持った感じがいつもより軽いんだけど! ……ハナ。お前後輩なんだから、お前のとこれ、交換しろよ!」
「もうかじったものと交換はできません!」
……まあ、ぱっと見だけなら、ではあるが。
「スコーンはどうでもいい。大人しく食べろ。次はポチが見張り当番だ」
「ポチじゃねーよ。……ところで、どうだ? クジラの影くらいは見えたのか?」
「いや。全く見えない。気づいたことがあれば報告してくれ」
ごく静かに上品に(表面上は)お茶を楽しみながら、それでも一応業務の一環として、情報交換なども行う。消音ホバリングモードになってからこれまでずっと得られない朗報を探してか、ゆっくりアーサーが頭部を右から左、ポリティの方からハナの方へと水平に回転させた。
「ニシキオリ、何か気づいたことはないか?」
「いえ、特には何も」
「気づいたことがあれば、報告してくれ」
動力を最小限に抑えているからだろう、アーサーの動きはいつも以上に機械にしか見えないものになっている。コッペリアというよりは、皿を洗ったり、工場で缶詰を作ったりする、量産型の機械。実際問題、おそらく現代ではこの目の前にいるコッペリアと同性能の機械が、各々の現場で働いているに違いない。——そういうレベルでアーサー・アダムスは、見るからに旧式のタイプだ。
そんなことを考えながらぼんやりとコッペリアの船長を眺めていたハナの目の前で、アーサーは先ほどの動きを巻き戻すように、頭部を左から右へと水平に逆回転させた。当然、その視線(というかカメラユニット)は、ハナからポリティの方へと向き直る。
「気づいたことがあれば、報告してくれ」
再度繰り返される、先ほどのセリフ。
一瞬、暴走とかエラーとかの不幸な事故がアーサーを襲ったのかと思い、ハナはまじまじと目の前の自称・船長を確認してしまった。……しかし、別にその頭部から煙が上がったり、五秒ごとに同じセリフや動きが繰り返される様子はない。最後のセリフを発した後、アーサーは完全に停止し、微動だにしなくなった(当然か)。
「あの、アーサー船長? どうかしました?」
「黙れ」
思い切って聞いてみると、切って捨てるような、いきなりの低い恫喝。
ぴしゃりと口を封じられ、それならばとアーサーの視線を追ってみる。まっすぐにポリティの方を見ているように見えるが、もしかしてその向こうにある何かを見ているのだろうか? ……とはいっても、別に珍しいものがあるわけではない。ポリティの背後には紅茶の缶や茶器をしまう小さな棚があるだけで、その向こうは艇の壁。さらにその向こうは、ミルクを流したような霧が広がっているだけのはずだ。
そこまで考えてハナは、思いがけずポリティもが真面目な顔をしていることに気づく。
「ポチ先輩?」
呼びかけに、ポリティの耳がぴくりと動いた。……いや、おそらくハナの声を受けてではない。
「聞こえる。呼んでる声だ」
いつになくていねいな動きで持っていたカップをテーブルに置き、ポリティは細心の注意を払って、音をたてないように椅子を引いた。立ち上がる。
「だんだん大きくなってるから……そろそろ、ハナの耳にも聞こえるんじゃないか?」
「……そうか。ニシキオリの耳はそこまで高性能ではなかったな」
アーサーが言葉を切ったそのとき、ハナの耳にも彼らが聞いている音がようやく届いてきた。音——というよりは弦楽器を奏でているような、柔らかな和音。繰り返し繰り返し、何度も練習するように。あるいはその音楽を習得したい生徒相手に、弾いて聞かせるときのように、よく聞くと短いメロディが、根気よく何度も繰り返されている。
「これは……?」
「ソラクジラが、仲間を呼ぶときのメロディだよ」
ゆっくりと背後を振り返りながら、ハナのつぶやきにポリティが答えた。
ポリティの視線はまっすぐ後……というよりはもう少し下。棚の中段あたりを捉えている。よく見るとアーサーの方も同じ角度まで視線を下げているので、おそらくその延長線上から、今聞こえてくるメロディは発せられているのだろう。
「いわゆる、クジラの歌ってヤツだ。結構レアなんだぜ? クジラウォッチングのポイントでは人工的に出してるところもあるみたいだけど、やっぱり本家の美しさにはかなわないな〜。……ってか、声、でかいな。こりゃかなりの大物だぞ!」
「よく聞くと、解明されているソラクジラの発音とは少し違うようだ。声も、ポチの言う通り標準よりかなり大きい。このエリアで目撃された個体は、やはり大型の亜種なのだろうか? 興味深い」
ソラクジラの前に、全てのひとは恍惚となる——そんな言葉を残したのは、ヴィクトリア・シティの古典詩人、ハロルド男爵だっただろうか。まさしくそんな名言通り、お茶を飲むまでは不機嫌そうだった二人の顔は、いつの間にか柔和な表情を浮かべるまでになっていた(アーサーに関しては想像の域を出ないが)。二人と同じようにソラクジラの歌に聞き入り、つられて微笑みを浮かべかけてから、ハナはふと嫌な予感にたどりつく。
「あのー。ソラクジラって、聴力を頼りに移動しますよね?」
「そうだよ。あの歌に呼ばれて仲間が出てくるかな? 大きな身体の大きな群れだといいな〜」
「そうじゃなくて!」
気づかず能天気なままのポリティの、その柔らかそうな茶色いたれ耳を思わず掴みかけて、すんでのところで自身の手をおしとどめた。仲間の身体の一部、あるいはパーツの一部を掴んで揺さぶる代わりに、ハナは両手で自分の腕をつかむ。湧き上がるオソロシイ想像図を振り払うように、ぎゅっと手に力を込める。
「今、この艇ってソラクジラにとって、ほぼほぼ透明なのと同じじゃないですか? だって、本艇は消音ホバリングモード中だし、なるべく音を出さないようにしているわけだし……」
「ふむ。確かにニシキオリの言うとおり。ソラクジラの方からこちらは認識できない可能性が高い」
「だったら……そんなに大きな声の大きな個体、危険ですよね? こんな小さな艇、ぶつかられたらひとたまりもないし、近くを通るだけでも気流も大きく乱れるし……」
我ながら回りくどい警告に、すうっとポリティの顔が青ざめた。アーサーの方も何かを高速で計算するのが最優先されているのか、完全に動きが止まる。
きっと、後から考えてみれば数秒ほど。でも永遠と等しく思えるほど長い数秒の後、アーサーが船長の威厳を保つためか、やけに重々しいボイスで、高らかに叫んだ。
「消音ホバリングモード解除、通常運転開始!!」
「……てか、そういう演出いいですから! さっさと始動してくださいっ!!」
今までの楚々とした動きはどこへやら、ドタンバタンと音を立てながら、乗組員たちは我先にと争って操舵室へのハシゴを登る。
「確かこのレバーですよね、エンジン出力調整。……あれ、チョークはどこだっけ?」
「始動はしてるんだから、チョークはいらねえぜ、ハナ」
「こら、ニシキオリもポチも! 勝手に操作盤をいじくるな! そういった重要な作業は船長の仕事なのだ!」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!?」
もつれあいながら操作盤の前へ。一番足の速かったハナが目の前にある、一番大きなレバーを力いっぱい奥へと押し込む。実際に飛空艇の動作系統を操作するのは初めてだが、この操作盤の配置は見たことがある。このジェシー・クックが文献に乗っているレベルの旧式で助かった。
レバーを押し上げたと同時に、ボン、という小さな爆発音があがり、獰猛な生き物が吠えるような、聞き覚えのある音が響き渡った。——消音ホバリングモード解除、無事成功だ。
消音ホバリングモード解除に伴い、天井と床と、270度ぐるりと見張り台に取り付けられたガラス窓の外側でライトがオンになり、周囲の様子が明るく浮かび上がった。
「うわっ、あれ……」
先ほど、食堂で見ていた角度と同じ方向を見ながら、ポリティが上ずった声を上げた。前方やや左下方、あるいは七時方向。彼が視線で示す先の窓に、何か大きな島のようなものが見える。
「もしかしてあれが、ザ・フロンティア? なんか岩みたいな形状の塔ですね」
「ボケてんじゃねぇぞ、ハナ。よく見ろよ」
促されて視線を向けた先で、岩のようなものは信じられないスピードで、ぐんぐんとその大きさを増していった。こちらに近づいている? と考えたと同時に、ハナの脳裏を最悪の想像が掠めて過ぎる。
「えっと……もしかしてあれが、探してたソラクジラ、だったりして?」
ハナの言葉に応えるように、また一段とメロティの音量が大きくなった。
「ヤバイヤバイヤバイ! ……全速後進!」
「こら、ポチ! そういった重要な作業は船長の仕事だと何度言ったら……」
「緊急事態だよっ! 邪魔するなっ!!」
二人で操舵を取り合った結果何とかポリティが操舵レバーを握ったらしく、ジェシー・クック艇は後方へぐわっと急発進。不測の事態にバランスを崩して床に放り出されたハナの耳に、そのとき、今まで聞いていたメロディに呼応するような、新しい音が聞こえてくる。
「何ですか、あの音? ……ほら、なんか別の音が混ざってますよね?」
ハナに聞こえるのだから、ポリティとアーサーにもちろん感知できないわけがない。
操作盤の近くで同じように転んで床に座るアーサーもポリティも、新しく出現した音に集中し、ソムリエのようにその種類を見極めているところだった。
「これは、ソラクジラの発する音ではない。彼らを見世物にする際に使用する、人工的なものだろう。しかも、程度が低い」
「ああ。それにしても、もっと精巧なのもあるだろうに、何でこんなテキトーなのを使うんだ? 安いからか? ……こんなんでクジラが騙せると思ってんなら、おめでたいぜ」
仲間の酷評を聞いても、ハナにはその新しく響いてきたメロディがそこまでひどいものだとは思えなかった。多分だが、ハナのようなただのモダンタイムズの耳にはその違いなどわからない、高度な次元の話なのだろう。ハナが聞く分には、新しく加わってきた和音は美しく響いている……ように感じられる。その程度には、それは美しいメロディだった。
「ひどいかどうかは置いておいて、一体どこから……?」
口からこぼれたハナの疑問に、ポリティがじっと彼女を見つめてから、視線で答えに誘導する。天井の、扇形のガラス窓——真上よりも少し左前方。十一時方向の霧の向こうに、点ほどのサイズの何かがぼんやり霞んで見えた。
「あれは?」
「何だろう? 調査艇にしちゃ大きいから、通りがかった商船か巡査艇かな? デカイの来るのが見えたから、援護してくれたんだろう。音は酷いけど、まあ許すか。……とにかく、助かった」
呼応する二つのメロディは、ステレオのようにジェシー・クック艇の上下から美しく響きあい、だんだんとその音量を上げていく。ソラクジラの方が少し角度を変えたようで、その影がまるで塔のように、縦に長く伸びる様子が見えた。——ソラクジラの身体の模様さえはっきりと見えないのに、ものすごく大きな個体なのがわかる。彼が角度を変えてくれて助かった。あのままこちらに突っ込んで来ていたら、確実に吹っ飛ばされて、乗務員もろともこの艇は空の藻屑だっただろう……。
誘導音を出していた艇の方も近寄ってきているらしく、その姿が次第にはっきりと見えてきた。ジェシー・クックよりは多少新しそうではあるが、あちらもそれなりに年代物と思える中型の黒っぽい艇だ。自艇とは違い、外部に砲台や火炎放射器? のようなものを装備しているその艇は、巡査艇にも商船にも見えない。何とも不思議な艇だった。
「なんかあちらさん、思ったより小さい艇ですね」
「そうだな。……ってか、あのまま呼び続けたら、あっちがヤバいんじゃないか? 尋常じゃないだろ、あのサイズ」
「仕方がない。礼かねがね、危険だと警告しておくか……」
既に耳をふさぐほどの大音量となったメロディに負けないように大声で怒鳴り合いながら、まずはアーサーが直立姿勢に自身の身体を立て直し、外部メガホン用マイクに近寄る(多分、手で耳をふさぐ必要がない分立ち上がりやすかったのだろう)。続いてポリティが、そして最後にハナがようやく身を起こし、アーサーの背後に近づいた。その間にもソラクジラと黒い艇はどんどん近づく。ソラクジラのスピードやその大きさを考えると、双方の距離はかなり危険な領域だ……。
「通信より、まずは先に音出して追い払った方がいいんじゃないですか? 空砲とか……」
「ダメだ。この艇の外部設備は、作業用のアームしかない。空砲を打ちたくとも、ハード不在なのだ。残念ながら」
「またそれですか!」
それでも何とか衝突を回避できないか……と視線で操作盤を探すハナの視界の端で、そのとき、チカリと何かが光ったような気がした。
慌ててそちらに顔を向けるのとほぼ同時に遅れて届く、ドン、と大きな太鼓を叩くような音。
「気づいたみたいだぜ。空砲撃ってる。今度は、クジラの方の旋回注意だな」
手で抑えた耳に、くぐもったポリティの声が届く。
音に反応して、ソラクジラの影が横に揺れたように見えた。角度を変えたのだろうか。ぐるりと旋回するように、ゆるい弧を描きながらクジラの影が少しだけこちらに近づき、離れていった。その一瞬、その身体に描かれた繊細な幾何学模様がガラス窓いっぱいに映る。文献上でもハナが見たことのない種類の、いかにも観光客が喜びそうな美しい模様。
「うわぁ、見事な模様ですねー。やっぱり亜種かな? 観光で見られるようになったら、人気出そう!」
思わず、ため息とともに賞賛が漏れる。両手で抑えたままの耳で自分の声を聞き、ハナはこのとき初めて、ソラクジラの歌が既に消えていることに気づいた。それなら……と両手を離しかけたその瞬間、ジェシー・クック艇の斜め上方向から、再度、太鼓を打つようなドン、という音。閃光。
「もう逃げてるのに、空砲打たなくても……」
隣で、自分と同じく歌が止んだことに気づいたらしきポリティが、そっと両手をたれ耳の上から外しながらつぶやく。小さく頷いて同意しようとしたハナの言葉をしかし、もう一人の仲間が遮った。
ごく冷静で中立的な、アーサーの声。
「今撃ったのは、本当に、空砲か?」
クジラの歌は既に止み、黒い艇からの誘導音も出ていない。周囲には黒い艇とこのジェシー・クック艇の、少々煩いプロペラとエンジンの音が響いているだけだ。――そんな、ある意味無音映画のような場面。
目前の一番大きな窓には旋回している巨大なソラクジラの背中がゆっくりと流れ過ぎていた。先程までは背中側しか見えなかったけれど、今は少し角度が変わっているらしく、幾何学模様の内側の、白い腹が半分見えている。その白い腹に流れる、赤い筋。弧を描く胴体とは別の動きで後方に細い筋を引き、その赤い筋は糸のように、ソラクジラの胴体にまとわりつきつつも、違う軌跡を描いて繋がっていた。
ドシュッ、と、今までとは違う音。
「……銛!?」
あっと思った次の瞬間には、尾に近い幾何学模様の背に何か太い金属棒のようなものが撃ち込まれるのが見えた。そのままドシュッ、ドシュッと同じ音が数回響いて、ソラクジラの背中に生える金属棒が増えていく。すべての金属棒はロープのようなもので、斜め上にいる黒い艇につながっていた。
ソラクジラの胴体がのたうつように上下に跳ねる。その動きに合わせて金属棒の根本から赤い血が、不規則な波形を描いて周囲に飛び散った。先ほどの歌とは違う、絹を裂くような悲鳴に似た音が、ソラクジラから発せられる。——仲間に危険を知らせる、ソラクジラの警戒音。
「俺たちを助けたんじゃない。あいつら、クジラが目的だったんだ。密漁艇だ!」
警戒音に負けない大声で、ポリティが怒鳴った。
「罪のないクジラに……許さん! とりあえずアイツらぶっ叩く! ハナ、月世界旅行砲、砲撃準備!」
「ダメだ。月世界旅行砲を打ちたくとも、ハード不在なのだ。残念ながら」
「それよりソラクジラを助けるのが先ですって!」
もめる三人の目前で血の糸を引きながら、巨大なソラクジラは頭を斜め下に、ゆっくりと『地上』の方へと落下していく。銛を打ち込まれただけならもう少し抵抗しそうなものだが、その前に受けた砲弾がかなりのダメージになっている様子だ。あるいは、銛に毒が仕込まれていたのだろうか? まだ辛うじて命があるため浮力は多少保たれているようだが……それも時間の問題。ソラクジラに銛で繋がれた黒い艇の方も、それに合わせてゆっくりと下降しているようだった。
許可を得ている捕鯨艇は、あの黒い艇より総じてずっと大きい。獲物より多少大きいか、少なくともソラクジラと同じくらいのサイズなので、仕留めた後はそのまま曳航するようにクジラを曳いて塔にある港まで戻る。はず。……だがこの黒い艇は獲物を曳くには小さいし、そもそも銛を打った相手が大きすぎる。——巨大な獲物を手中に入れたはいいが、斜め上に浮かぶ黒い密漁艇は、この後どう獲物を持ち帰るかの方針を決められず、困っているようにも見えた。
「ポチ先輩! ソラクジラに近づいて!」
密漁艇が方針を決める前の今なら間に合う——そう楽観的にアタリを付けて、ハナは操作盤の前にいるポリティを促す。同時に自分は、彼が操作しているのとは別サイドの操作盤に飛びついた。視線で、ボタンやレバーの配置を確認。
「アーサー船長! 外部作業用のアームはあるの? あるならどれ? 使いたくとも、残念ながらハード不在?」
ないならないで仕方がない。その場合は体当たりで銛を引き抜くかロープを切るかすればいい……そんな安直な計画だったけれど、もちろん勝算がなかったわけではない。このジェシー・クック艇には戦闘用装備は一切搭載されていないが、縁をガラスで囲われた円盤状の見張り台や通常の飛空挺ではなかなかお目にかかれないエンジンの消音設備、その他何に使うのかよくわからない設備だけはばっちり装備されている。それに先程ちらりと、作業用のアームがあると、アーサーが言っていたような記憶も。——つまりこの艇は、元々はおそらく、研究用の調査艇だ。それならきっと外部アームはそれなりに器用な設定になっているだろうし、そのアーム本体にプラス、遠隔操作で外部パーツをかませることが可能に違いない。
「スイッチは存在する。作業用アームはC群の操作盤だ。研究用の汎用品だから、見覚えがあると思われる」
思った通りアーサーからイエスの返事をもらい、ハナは示されたパネルの前に移動した。確かに旧式だが、見たことのあるタイプの操作盤だ。アームにミスリルナイフを装備し、アームの収納されたハッチを開く。
「なあハナ、これ以上近づいたら巻き込まれるぜ?」
「じゃあここで! ……アーム始動。ロープ切断!」
いくら旧式であろうとも、研究用の作業アームは自分の手を動かすようにスムースに動いた。装備したミスリルナイフの切れ味も申し分ない。撫でるように水平に旋回させるだけで、巨大なソラクジラと黒い密漁艇を繋ぐロープはすっぱりと切断された。かなり強い力で曳いていたらしく、その勢いを殺せぬまま、密漁艇は上方にスポーンと飛んでいく。
「密漁艇に告ぐ。貴艇の行動は終始記録した。無論、その記録は当局に報告する。今後同じような狼藉をこのエリアで働くのであれば、相当の覚悟を持ってせよ!」
先ほどの折に通信を試みようとメガホンを向けたままだったようで、糸の切れた風船のように飛んでいく密漁艇にアーサーがタイミングを逃さず高らかに宣言した。乗組員たちに好き勝手操作盤をいじくられたりして散々だったものの、最後の最後で船長っぽい決めゼリフを吐けたのだ。多分今回の『仕事』は彼の中で、まずまずという評価となるに違いない。
「……皆、御苦労だった。アクシデントはあったが、このエリアに巨大なソラクジラが生息していたということは判明した。記録映像もある。帰ってギルドに報告し、報酬を得よう」
案の定、そのまま帰船操作に戻ろうとポリティを押しのけるアーサーをゆっくり押し戻し、ポリティがハナの方を見た。そのアイコンタクトに、ハナも力強く頷く。口を開く。
「まだ帰還には早いですよ。とりあえず、あのソラクジラに刺さった銛を抜いてやらないと……『一頭だけ見つけましたが死にかけていました。現在の生死不明。他個体は確認できず』じゃ、向こうも報酬を出し渋りますからね、きっと」
*
銛を三本尾の近くに刺したまま、ゆっくりゆっくり、ソラクジラは『地上』の方へと落ちていく。巨大な羽根布団が落ちていくよりは少し速め。まだ自由落下のスピードには達していないものの、浮力を保つ力はだいぶ落ちているらしく、ゆっくりゆっくり、そのスピードは増していった。
「……どうするか? とりあえず刺さってる銛を、アームで引き抜くくらいしか打てる手はないかなって感じだけど」
ジェシー・クック艇的には自由落下としか感じられないスピードで並走しながら、ポリティがハナに方針を尋ねる。ハナの方も別に専門ではないので画期的な打開策があるわけではないのだが、少ない知識を総動員して何とかするしかない。
「そうですね。銛に返しがなければいいんですけど。あったら、少し切開の必要があるかも」
とりあえずソラクジラに近づき、銛にアームをかける。かなり弱ってはいるものの動かすと痛みを感じるらしく、ソラクジラが微かに身をよじった。……可哀想だが、深さによっては少し根元を切って取り出すしかない。暴れずに抜かせてくれるだろうか?
「痛がってるぜ? なるべく優しくやってくれよな」
「もちろん、そのつもりですよ」
まずは一番手近な一本目。これは刺さりが浅そうなのでそのままぐっと抜く。短い悲鳴と共に血が噴き出るが構わず次へ。二本目は銛の左右を少し開かないと取れなさそうだ。幸いミスリルナイフの切れ味が良いため、スッと開いて銛を抜く。一本目よりもソラクジラの抵抗が少なかったところを見ると、こちらの方が痛みは少なかったのかもしれない。それを踏まえて、最後の三本目は初めから切開した。
「よっしゃ! 処置完了! ……やったな、ハナ」
「まだだ、ポチ。傷口の処置が完了していない。……とはいえ、消毒薬のようなソフトは不在だが」
「了解です。……じゃあ船外修復用のメンディングテープを使いましょう」
本来なら傷口の消毒は必須だが、装備不在ならお手上げだ。ハナは作業用アームに補修テープを装備し直し、それで三つの傷をふさぐ。
——後は、このソラクジラの自然治癒力に任せるしかない。
「ふう。処置完了です」
額の汗を手の甲で拭い、ハナがそう宣言した直後、先ほどの美しいメロディが再度、そこにいるソラクジラの方から聞こえてきた。
「クジラの歌……?」
「銛を抜いてくれてありがとう、って言ってるんだぜ。きっと」
思わず漏れたハナのつぶやきに、自分の手柄のようなドヤ顔でポリティが口添える。
誇り高く、そして弱気を助け強気をくじく心優しいファーリィの言葉を鵜呑みにしたい気持ちは山々だったけれど、どうもハナにはそうは思えなかった。何故なら今聞こえてくるその歌は、先ほどイヤというほど繰り返し聞いた、例の『仲間を呼ぶ』メロディだったからだ。ソラクジラは、大変知能の高い動物だと言われている。警告音のような別の音階の音も出せるようだし、感謝なら感謝で、何か違う歌になるのではないだろうか?
先ほどとは逆で、ソラクジラの発するメロディはごく僅かにだが、だんだんと小さくなっている。……明らかに衰弱しているのにこんな状態でもなお、『感謝の歌』を歌うのは少し異常だ。——ハナの違和感は増すばかりだった。
「ねえ、もういいよ。感謝だったら、もう体力を使わないで。大人しくして」
スピーカーを使わなければ聞こえるはずはないし、もっと言えば伝わるはずもない。それでも自然に、懇願が口をついてこぼれる。
ソラクジラは既に、アームと接触していなかった。まだ並走はしていたものの、だんだん増していく落下スピードにそろそろついていけなくなるだろう。成す術は、近い未来に確実になくなるのが明白だった。自分の不甲斐なさに身をよじる他、ハナにできることはない。
最後の力を振り絞るように、ソラクジラが再度、『仲間を呼ぶ』メロディを歌う。
そのとき。
「……新しい、歌?」
ゆっくりと『地面』に向かって下降するソラクジラの四方八方から、湧き上がるように音楽が聞こえてきた。
初めは、先ほどのように呼応する歌だと、ハナは考えた。手負いのソラクジラが呼ぶ声が、ようやく仲間に届いたのだ、と。
傷を負い、仲間から離れ、まさに絶体絶命。こんなときに仲間を呼び、それに仲間が答える。——やはり今ソラクジラが歌っているのは『仲間を呼ぶ』歌で間違いなかったのだ。ハナたちに対する感謝より、自身の身の安全を確保したいと思うのは生物として、至極当然のことだろう。
必死で仲間を呼び、それに反応があった。ソラクジラはその歌を聞き、仲間の元に身を寄せればいい。めでたしめでたしのハッピーエンド。……のはずなのだが、そうとも言い切れない大きな違和感が、その場には大きく横たわっている。
「なんか……あの歌、ちょっと変、ですよね」
新たに加わったメロディは、明らかに、手負いのソラクジラが発する音楽と調和していなかった、のだ。
手負いのソラクジラが歌っていたものと同じく、返された歌は美しいメロディだと思う。耳障りなノイズもないし、特に変わった転調もない。四方八方からサラウンドで湧き上がってくる様などは、まさに壮観だった。——その歌を、単体で聞いているのならば。
不思議なことに周囲から返される歌は、手負いのソラクジラが歌っている歌と合わせて聞くと残念ながら不協和音、もしくは雑音にしか聞こえなくなる。発せられる『仲間を呼ぶ』歌とそれに返されている歌は、それぞれ相手の良いところを殺し合っているようにしか聞こえないのだ。
「変ではない。あれは、ああいう歌なのだ。あのソラクジラは、仲間に拒否されている」
ごく平坦な調子で、アーサーが説明する声がハナの耳に届いた。
「銛に毒が仕込まれていたか、衛生状態が悪く何らかの病原菌があの艇にあったのか。とにかく仲間は、あのソラクジラが穢れていると判断した。種の存続のため、仲間に入れられないという判断もある」
「そんな……」
言葉を失ったハナを、そして弱ったソラクジラを追い込むように、周囲のメロディは途切れずに響き続ける。水に落ちるコインのように左右にふらふらと揺れながら、手負いのソラクジラはゆっくりゆっくり、下方へと沈んでいく。
少しは、切ない思いに囚われているのだろうか——と、ハナはふと考えた。
やむにやまれぬ状況で仲間を拒否し死へと追いやるこの状況に、仲間のソラクジラはほんの少しでも胸を痛めるのだろうか? それとも、頭が良くても人類が仲間に感じるような感情は一切なく、ただ穢れた有機物として、少し前まで命の宿っていた肉体はただ事務的に破棄されるのだろうか? そして今、仲間に拒否され、確実に死と『地面』へ向かっているソラクジラは、そのことについてどんな感情を抱いているのだろうか……?
「なんかこう……ソラクジラを励ます歌みたいなのって、ないんですか?」
「何を言っているのだ、ニシキオリ? 意図が理解できない」
「何って、あのままじゃあのソラクジラが、可哀想じゃないですか!」
何かやらなければ……と考えれば考えるほどハナの頭の中は混乱し、身体は動かなくなる。足先の扇形の窓から見えるソラクジラがだんだん、だんだんと小さくなっていく。その体躯が霧に呑まれ、模様がだんだん不鮮明になっていく……。
美しい歌声も、もう途切れ途切れになっていた。泡が浮かんでくるように、切れ切れにポコン、ポコンとその切れ端が届いてくる程度の音量。それに合わせるように、周囲の『拒絶の歌』もデクレッシェンドで小さくなってきた。もうほんの少しで静寂がやってくる、そんな気配。
「……歌だ」
静寂を目の前にして、突如、ポリティが鋭く囁いた。
「えっ……?」
「歌だよ! 聞こえないか? クジラの、『仲間を呼ぶ』方の歌が」
彼の言葉の最後を待たずに、ハナの耳にもそれが聞こえてくる。途切れ途切れの歌に答える、彼を受け入れる意思を示す歌声。
「でも、いったいどこから……?」
「下だ」
ハナの言葉に、今度はアーサーが端的に回答した。——先程の感情的で抽象的な質問と違い、この問いはコッペリアにとって意図が理解できるものだったらしい。
彼の、そしてポリティの視線を追うと確かに、二人とも足先にある窓の方を見ている。消えゆくソラクジラを目で追っているのかと思っていたのだが、どうやらそればかりではないようだ。
靄の向こうのソラクジラの歌が、久しぶりにはっきりとメロディで聞こえた。
それに呼応するように、下の方から別の『仲間を呼ぶ』歌が湧き上がってくる。
そのアンサーソングがハナたちの耳に届いた直後、おそらく最後の力を振り絞り、手負いのソラクジラがぐるりと大きく旋回して、体制を整えた。——『地面』に対して水平の状態から、『地面』に対して垂直の、頭を下にした状態に。
ソラクジラの健闘を讃えるように、下からのメロディが、一層大きく響き渡る。
そして。
まるでクライマックスを盛り上げるようにクレッシェンドで大きくなる音楽の中、力強く尾びれを動かし、巨大なソラクジラは一気に『地面』の方へ向けて泳ぎ去った。
あっという間の出来事が夢でないと言い切れる唯一の証拠に、幾筋かの赤い血の糸だけを、霧の中に残して。
*
「お茶が入ったぞー!」
それから、どのくらい時間が経過しただろうか。
本日午後のお茶当番はポリティらしい。不愛想な呼び声に、見張り兼操舵当番のハナが操舵稈を固定し、見張り台の方からノロノロとハシゴを降りて食堂兼給湯室に向かうと、彼女が仕度するのとほぼ同じ適当な感じで、茶器とスコーンが各一、そしてテーブルの真ん中にスプーンの突っ込まれたジャムのビンが一本置かれていた。ポリティの当番だとジャムのビンを開けるサービスがある、というわけではなく、単にポリティご本人が皆の到着を待てず、先にジャムをスコーンに塗りたくったためこういう結果となったようだ。
「どうした? シケたツラして。任務終了で、後は帰って報酬もらうだけ。嬉しくないのか?」
案の定、誰よりも早く、そして誰よりも大きそうなスコーンにかぶりつきながら、あくまでも能天気にポリティがハナに声をかけてくる。
「嬉しいとか嬉しくないとか、そういう話じゃなくて。さっきの光景が、まだ目の前にちらついてて……」
「思考機関の不調か? クールダウンした方がいいぞ、ニシキオリ」
人類のアンニュイを機械の不調と同一に並べてくるアーサーを思わず睨んでから、ハナは手渡された愛用のマグカップを包み込むように両手で持った。ゆっくり、お茶を一口すする。
——確かに、クールダウンは必要かも。あの状況を理論的に説明できない。
『地面』が現在どうなっているのか、そしてその下に以前あった『土地』はどうなっているのか。……それは学生の時分から今まで、ほんの数年の間ではあるがハナの研究の対象だった。なので、普通の住民や探空士よりはその知識を持っているという自負もある。けれど今回の事象は、今まで文献で見たことも、噂で聞いたこともない。——『地面』が死にゆくソラクジラを歌で呼んだ? そんなことが実際日常的に行われているのであれば、それはどんなロジック、あるいはマジックに則っているのだろうか……?
「食欲がないのか? 大丈夫、それなら俺が、ハナの分のスコーンを食べて……」
「……よくあることなんですか、あれ?」
図々しく目の前の皿に伸びてくる右手(右前足?)を反射的にぴしゃりと払ってから、ハナは思い切ってポリティに尋ねてみた。
「あれって、さっきのクジラの、あれ? ……いや、俺は初めて見た」
あまりにも飄々としているのでよく見る事象なのかと思っていたら、ポリティの方も初見だったらしい。そのまま視線を向けてみると、その意図を感知したのか(それとも自分に向けられたコマンドだと認識していたのか)珍しく正面から文章にして聞く前に、アーサーが口を開く。
「吾輩は、過去に見たことがある。ポチ、君の父親がまだこの艇にいた頃のことだ」
「うわ、それって何年前だよ? ……ってか俺はポチじゃねーって!」
いつものように口を尖らせるポリティを完全に無視して、アーサーはいつものように紅茶の香りを楽しむようにカップを顔に寄せてから、それを傾けて口の中にザバッと紅茶を流し込んだ。
「ニシキオリ、君は『地面』の研究が専門だと言っていたが、あの事象を初めて見たのか?」
「はい」
素直に頷くハナに目を向け、アーサーは一瞬動きを止めてから、ほんの少し口回りのヒンジを規定よりずらして稼働した。……前にも一度見たことがある。おそらくは、シニカルな笑いを浮かべたつもりの動き。
「吾輩は今の今まで、調査員は探空士と比較して、知識も経験も上だと認識していたが……一概にそうとも言えないのだな。つまり、調査員より探空士が上位。そしてヒラの探空士より船長が上位。故に吾輩がこの艇での最上位というわけだ。Q.E.D.」
「……その前にコッペリアは、人類の小間使いだろ?」
ご立派な演説はあっという間にポリティに台無しにされたが、アーサーがへこたれる様子はない。
「うるさい、ポチ」
「犬みたいに言うな! 俺は犬っころじゃない! ファーリィだ!」
ひとしきりいつもの言い争いをした後、一気にカップの紅茶を飲み干してからポリティがハナの方に視線を向け、ニヤリとした。
「どうだい、新米探空士さん? 調査員の頃と比べて、色々面白いことがあるだろう? まあ、危険なこともあるけど……どっちにせよ、まだ序の口だ。どうだ、怖いか?」
間を取るためか、ポリティは再度、手にしていたカップに口を付ける。上目遣いにハナの目を見る。
芝居がかったわかりやすいアイコンタクトに、思わず、ハナは小さく吹き出した。
「大丈夫です。逃げ出したくはなっていません。まだ出会えない謎に、もっともっと出会っていきたい。まだ見習いですが……これからも、よろしくお願いします!」
「そうか。それなら良かった。ではハナ・ニシキオリ、本日をもって見習い終了だ。君を本日より正式採用とする」
重々しい声で高らかに宣言するアーサーの言葉に、目を丸くしたのはポリティだ。
「えっ? ハナは今まで見習いってことは、仮採用だったのか? ……何だ、それならそうと言ってくれればお茶当番は全部任せたし、スコーンは二分の一個の支給にしたのに!」
「なんですかそれ!? 不平等すぎるでしょ!」
「不平等とかそういう次元の話じゃない! 現に今、お茶の回数が増えたから、スコーンが足りなくなりそうなんだよ。この際、当番はこのままでいいから、スコーンの配分だけは新入りとして遠慮しろよ。わかったな?」
「イヤです」
「何でだよ? 俺は先輩だぞ! 面倒見てやっただろう? 敬うべきだろ? 楽しい冒険が望みだろ? それには艇と仲間が必要なんだぞ?」
無駄にすごむポリティを一瞥してから、ハナは両手で包むように持ったマグカップからこくりと一口、まだ温かい紅茶を飲む。
——この艇は、多分『アタリ』だ。古くて個室もなくて乗組員も癖が多い感じだけれど、少なくともお茶の時間はきちんと毎日守られていて、毎回温かい紅茶とスコーンが供される。これは大事なことだ。それに……。
それにおそらく、このジェシー・クック艇には珍しい事象に当たる『運』がある。
引退まで波風立てず平穏に生きていくのが望みというタイプには不都合かもしれないが、ハナのような調査員兼探空士にとって、こんなに都合が良く、楽しい艇はない。この艇に乗っているだけで、ハナが知りたい謎が向こうからやってくる確率がほんのわずかでも上がるのなら、大歓迎だ!
「はい。……でも、それとこれとは別なので、私の権利は死守します」
ハッキリきっちり宣言してから手始めにハナはこれ見よがしに大きな口を開け、目の前のスコーンにがぶりとかみついて、その所有権を明確にした。
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