Little Story 06
『ねずみとフィルムとはざま【後編】 -魔道書大戦RPG マギカロギアより-』
昔と同じように、全員が満腹するだけの食事ではなかったもののそれなりの夕餉を済ませた後、珍しく兄たちがユキに声をかけてくる。
「雪が止んだ後は、星がよく見えるんだ。見に行くか?」
もちろん、ユキに断る理由はない。今までそういうお楽しみには『まだ小さいから』という理由でユキは一人家に置いて行かれ、寂しい思いをしていた。数えで七歳にもなれば、こういうときに置いて行かれることもないんだなあ……と、ユキは心底嬉しく思う。
「行くよ! ユキも連れてって、にいちゃん」
二つ返事でわら靴を履き、どてらを羽織ってユキは冬の夜へと飛び出した。雪の積もった後の世界はしんと静まりかえり、刺すような冷気が子どもたちを襲うように覆い被さってくる。それでもユキは兄姉に遅れないよう、わら靴を履いた足を頑張って前へ踏み出し、ずんずん歩いた。そして。
「ここで寝っ転がると、星が動くのが見えるんだ。兄ちゃんたち、包まる藁を持ってくるから、ユキ、お前は先にここで寝っ転がって見てな。じきに、大きな赤い星が上ってくるから」
「わかった。待ってるね、にいちゃん」
言われたとおり、ユキはその場に一人でごろりと横たわる。
目前に、降ってきそうなほどの星空が広がっていた。思わずぽっかりと口を開け、ユキは吸い込まれそうな夜空に見入る。月が出ていないので、新月の夜だったのだろう。月の明かりがない分、星は驚くほどキラキラと輝き、深い藍色の夜空にちりばめられていた。
「きれい……」
白いため息と共に、思わずつぶやきが漏れる。
自分の七つのお祝いに、にいちゃんたちはこの夜空を見せてくれたのだ。——そう、直感的にユキは感じた。
今まで、特に構ってくれたり、ましてやかわいがってくれたりしたことは殆どない。でもそれは昔から言うとおり、七つまで子どもは神様の子で、いつ神様に返せと言われても文句が言えないとわかっていたから……なのだろう(実際、ユキの前に生まれた兄姉の中にも、七つまで生きずに神様に取り戻された子がいるらしい)。きっと。
でも、この正月でユキは七つになって、神様の呪縛から離れた。だから、ここで初めて自分たちの妹になったユキに美しいものを見せてやろうと、兄姉たちはここに連れてきてくれたのだ!
考えただけで、ふふっと口元から笑みがこぼれる。
——ああ、はやく、にいちゃんたちとねえちゃんたち、戻ってこないかなあ。はやく、ありがとうって伝えたい。にいちゃんもねえちゃんも、それからとうちゃんもかあちゃんも大好き! ユキのこと、大切にしてくれてありがとう。ユキも、にいちゃんねえちゃん、とうちゃんかあちゃんのこと、これから大事にするから。もう神様の子じゃなくなったから、これからはとうちゃんとかあちゃんの子ども。それから、にいちゃんとねえちゃんの妹になる。だから……これからも仲良く、一緒にがんばって、生きていこうね……!
こんなに嬉しいのに、不思議と、何だか眠たくなってきた。
家にある自分の薄い布団で寝ているより、この新雪の布団の方がふかふかで心地よい。兄姉たちが早く来ないかな……と思うこと自体も、おっくうになってきた。
あらがえず、ユキは目を閉じる。
——大丈夫。すぐににいちゃんやねえちゃんが来てくれて、ユキが寝てたら起こしてくれる。持ってきた藁を身体に巻いてくれる。それで、みんなで満天の星を見るんだ。ユキが、みんなの本当の妹になった夜に。きっと今夜は、ユキにもみんなにも、一生記憶に残る夜になるんだ……!
ゆっくりと薄れていく意識の中、近づいてくる足音を聞いたような気がした。雪を踏む、大人のものではない軽い足音。こちらを覗き込む、複数の影。
あと少し。もう少し近づいて来たら、誰だかわかる。彼らの発する声が聞こえる。あとほんの数刻なのに、ユキは自分の意識が遠のいていくのを感じた。
満天の星を遮って、複数の影が視界に差し込まれる。こちらを覗き込んでいる……。
バツン!
少女が、そして後方から彼女とスクリーンを見守っていたはざまが息を呑んだその次の瞬間、ものすごい音がして、いきなり画面が真っ白になった。
続けて、カラカラカラカラ……という、今までの幻灯機の作動音とは異なる、何かが空回りするような音。
「……えっ? 何、何? 何がどうなったの?」
前屈みになって大人しく画面を見つめていた少女が、それでもビロウドの椅子に座ったまま、きょろきょろと周りを見回す。
「市田さん、すみません。とりあえずお客様を劇場の外へ誘導してください」
はざまも客人と同様パニックになりかけていたが、後方から聞こえてくる上野の声で我に返り、ビロウドの椅子の方へと駆け寄った。
「お客様、申し訳ありません。幻灯機のトラブルがあったようです。ひとまず、ロビーの方へお越しください」
「あっ、〈幻惑館〉のおねえさん! ……はい。わかりました。ありがとうございますっ!」
少女は素直にはざまの誘導に従い、劇場からロビーの方へと出た。扉のすぐ外側に待機していたレンズにつまずきかけ、慌ててたたらを踏む。
「あー、さっきの猫ちゃん! 猫ちゃんも、映像を見ていたの? びっくりしたよね。大丈夫だったー?」
「心配には及ばぬ」
少女に宛てられた念話だったが、音量が小さく聞こえなかったのか意味がわからなかったのか、彼女がそれに反応することはなかった。何かフォローをするべきだろうか……と、はざまが口を挟むよりも早く、『関係者控室』の方から、上野が手にマドレーヌを持って現れる。
「お客様、大変失礼いたしました。なにぶん古いフィルムでしたので、ねずみにかじられたようで……途中で切れてしまったようです。申し訳ありません」
「そっか。そうなんだぁ」
少女に向かって深々と頭を下げる上野を、頭を下げられた張本人はちょっと驚いたような顔で見つめていた。その表情には、悲しみとか怒りとか、そういったマイナスの感情は見受けられない。
「ねずみなら、しょうがないですね。……あ、大丈夫。あたしが見たいところまでは、ちゃーんと見れたんで、別に謝らないでくださいっ!」
言いながら、思い出したように少女は、ぶんぶんと高速で両手を横に振る。
「あの、でも、お言葉ですが、あの時点ですと近寄ってきた人たちの顔までは確認できなかったように感じたのですが……」
「あっ、うん。そうです。見えなかった。でも……顔は見えなかったけど、あれはにいちゃんとねえちゃんでしょ? わかりますよぉ。もうすぐ七歳ですもん、あたしも」
念のために確認したはざまにも、少女は曇りのない笑顔を向けてきた。
「そっか……ちっちゃい頃から、力を認めてくれる人もいて、にいちゃんやねえちゃんにも可愛がってもらって……幸せだったんだな、あたし」
「………」
「そうですね。幸せでしたね。……この時点で魔法使いとしての力が発現されていましたから、また新たな身体を得て、生まれ変わってくることもできましたしね」
言葉を失ったはざまの前に割り込み、上野が優しく少女に声をかけ、にっこりと笑う。
「若くして転生する魔法使いは、いろいろな種類の能力を平行して持てるようになると言います。ユキさん……いえ、今のお名前は存じませんが、この先あなたは、魔法使いとして大成されると思いますよ」
「えっと、ありがとうございますっ」
ここに来たときと同じように、上野の言葉に少女は、最敬礼よりも深くぴょこんと頭を下げた。
「あたしの名前、ユキナって言います。冬生まれで、生まれたのが雪が降る日だったからユキナなんだって。……そういうのも、前の人生と似るのかなあ? 不思議」
不思議、というよりは、おそらく嬉しいと思っている、ユキナの顔。
「そうでしたか。……ともかく、本日は失礼いたしました。ご要望にお応えできたということであれば良かったですが、ミスはミス。お詫びにしてはお粗末ですけれど、こちらをお納めください。お帰りの道中、お召し上がりになると良いでしょう」
上野から差し出されたマドレーヌを受け取り、ユキナは再度嬉しそうに笑う。
「ありがとうございますっ! じゃあ……あたし、帰りますね」
「あの、お客様」
もちろん、このまま彼女を帰途につかせるのが最良の流れだろう。しかし、そのまま〈幻惑館〉を飛び出して行きそうな勢いのユキナに、気がついたときにはすでに、反射的にはざまは声をかけていた。
「あの……本日、記憶の糸は掴めましたでしょうか?」
はざまの言葉が空気を振るわせ、空間に漂う。
見えないその言葉の残像を、全員が目で追っているような錯覚に陥りそうだ。
そして——しばらく時間が経過した後。
「えっと。うまく言えないんだけど」
沈黙を破ってようやく口を開いた少女は、ちょっとだけ照れくさそうに笑って、はざまの方をまっすぐに見返した。
「今日は来て、良かったです。前の両親も兄弟もきっと、もう生きてないトシだと思うんだけど……あの。魔法使いが死んだ後って、誰もそのこと、覚えてないんですよね?」
「左様です。以前のご両親もご兄弟も、あなたのことは覚えておられないでしょう。七番目の女の子は、残念ですが彼らにとっては、一番初めからいなかったことになるでしょうね」
はざまが答えなければならない質問だったが、代わりに横から、上野の穏やかな声が少女に答えてくれる。
上野の言葉に、少女はホッとした表情をその顔に浮かべた。
「うん。なら、悲しんでないかなーとかは心配しなくて大丈夫だね! じゃあ……あたしが死んじゃった後、ごはんを取り合う人数が減って、そのおかげでみんなの食べられるごはんが増えてたら、それでいいかな」
そして、そのまま遠くを見て——大人のような、全てを達観した笑みを、一瞬だけ。
「えっと。じゃあ、帰ります。今日はありがとうございましたっ! お菓子も嬉しいです。後で食べますねっ!」
そんな笑みを、次に浮かべた天真爛漫な笑顔でかき消して、少女は大きく手を振ってから、目前に広がる霧の中へと姿を消した。
ユキナという名の少女を呑み込んだ霧は、そのまま、その濃さをゆっくりと増していく。
「あのフィルムって、どうなるんですか?」
その後。
ユキナが帰ってからいつものように上野が煎れてくれたお茶を飲みながら、ふと思い立ってはざまは、先ほどから少し気になっていたことを聞いてみた。
「フィルム? ……ああ、先ほどの切れたフィルムについてですか」
幻灯機もフィルムも形あるものである以上、壊れることもあるだろう。デジタルデータに近い、魔法の力による代替え品が用意されているのかもしれないと少しだけ考えていたけれど、ユキナへの対応を見る限り、すぐに用意できる予備のデータは存在しない気がする。今回のような事故は多くないとしても、こんな風に物理的に失われた場合、その魔法使いの記憶の記録はどうなるのだろう? ——研修で来ているのだ。はざまがここ〈幻惑館〉の内情について尋ねるのは、別に悪いことではないと思った。……だから、聞いてみた。それだけ。
「あれなら、修復しますよ。無論」
上野は端的にそう答えると、カップをソーサーに置き、ふいと席を立つ。
どうしたのだろうと見守るはざまを置いて奥に消えてから数分の後。上野はいつもの丸い銀盆ではなく、木の四角いトレイのようなものを持って現れた。その上に乗っていたのは学校で使うような大きなサイズの紙綴器のようなものとフィルムのリールが入っていると思われる紙の箱。それからおまけで、マドレーヌの二つ入った小さなカゴも。
「お、マドレエヌではないか。ワシに一つくれ」
「わかっていますよ。少し待ってくださいね、レンズ」
目ざとく大好物の焼き菓子を見つけたレンズを優しく制してから、上野は茶器を少しどかして、持ってきたトレイごと乗っていた道具たちを丸テーブルの上へ載せた。紙の箱を開き、中に入っていたリールと、その下に置かれていたらしいリールを二本、はざまの目の前に並べる。
「これが、先ほどユキナさんがご覧になっていたフィルムです。このように切れてしまった部分を、先ほどまっすぐ切って整えておきました。それを、これで」
……と、紙綴器のようなものを手前に引き寄せ。
「これはテープスプライサーと言って、フィルムを切ったり、切れたフィルムを繋いだりするものです」
自分では一応博識のつもりだったが、はざまがそのテープスプライサーなる機械を見るのは初めてだった。どうやって使うのかと見守るはざまの目前で、上野は左右から切れたフィルムテープの端をたぐり寄せてテープスプライサーなる機械に乗せ、ちょうど紙を綴じる要領で中央のハンドルをガッチャン、と引いて下ろす。ぐっと更に一度押してから、押し上げるようにハンドルを戻す。
「……はい。こんな風にくっつけられます。あとで一応、きちんと上映できるか確認して、仕舞っておきましょう」
「えっ? もうこれで完成……なんですか?」
目の前の光景が、一概には信じられなかった。
……もちろん、これでフィルムがくっつくことが信じられないわけではない。こんなに短時間で修復ができるのに、上野が、あのユキナという少女をそのまま帰してしまったという事実が、だ。——何故上野は最後までユキナに記憶の記録を見せることなく、霧の中に彼女を送り出してしまったのだろうか?
「このフィルムですが……この後、一日糊が乾くまで置いておかないと見られないとか、そういうことがあるのでしょうか?」
「少しは時間を置いた方がいいですが、テープのようなもので貼ってあるので、そんなに時間はかかりませんよ。そうですね……レンズがマドレーヌを食べている間、待つくらいで大丈夫でしょう」
こともなげにそう告げて、上野はマドレーヌのカゴをトレイの横に下ろし、その中の一つをレンズの前にある皿にころりと入れてから、修復したフィルムとテープスプライサーを乗せたトレイを持って、再度部屋の奥へと消えた。上野としては単に、お茶の時間に相応しくないものを片付けてきただけだろう。しかしはざまの目から見れば、あまり人目に触れさせたくないものを慌てて隠してきた……と言う風にも取れる行動だ。
「フィルムが切れたのも、その前にねずみが箱をかじったのも、大いなるものの意思じゃと思うぞ」
モヤモヤした気持ちのまま上野が去って行った台所の方を睨むような目で見続けるはざまに、ようやく手に入れたマドレーヌにかぶりつきながら、猫のレンズが歌うような調子の念話で語りかけてくる。
「何を言っているの。おまえがパトロールをサボったから、ねずみに入り込まれたのでしょう? その所為で、フィルムが切れてしまったのよ、きっと」
「だから、そういった四角四面な理由ばかりでないのが、この〈幻惑館〉での出来事なのじゃ。いろいろな理由があり、そして結果がある」
念話というのは便利なもので、ゆったりとはざまに語りかけながら、レンズはマドレーヌをガツガツと食べ続けていた。言葉を切ると同時に焼き菓子を食べ終え、満足そうにくるりと一回前足で顔を洗ってから、淡い琥珀色の猫は刺すような視線で、テーブルに着く矢絣の着物に袴姿の少女を見る。
「理由があって彼女は最後までフィルムを見ることが叶わず、しかし満足してここを去った」
レンズによる、事象の提示。
そんなこと、言われなくてもわかっている……とはざまが口を開きかけたそのとき、台所の方からフィルムを片付けてきたらしき上野が、いつもの矍鑠とした動きでこちらに戻ってきた。
にらみ合うレンズとはざまを不思議そうに見比べてから、上野はそんなことを気にも留めない様子で、ゆっくりと猫足のテーブルへと歩み寄る。優しく、はざまに微笑みかける。
「今から、フィルムに問題がないか確認するため先ほどのフィルムを上映しますが、市田さん、ご覧になりますか?」
「えっ……いいんですか? 私が見ても」
記憶の記録を持つ当人であるユキナが最後まで見られなかったフィルム。そのフィルムを、はざまに鑑賞しないかと彼は言っている。
思いがけない上野の提案に、思わずぽかんとしてしまうはざまをテーブルから見上げ、レンズは面倒くさそうにぱたりと一回しっぽを振って、フンと鼻から息を吐いた。
「そして……理由があればそのフィルムを、別の者が見ることもある。それが、〈幻惑館〉なのじゃ」
上野が茶器を片付けてくれるのを待ち、二人と一匹は台所の関係者通路から、先ほどまでユキナが座っていた劇場の方へと向かった。
「テンションがかかることによって切れては台無しですので、少しゆっくり目に回していきます」
客人用のビロウドの椅子に座るのもはばかられ、その近くに突っ立ったままのはざまに、幻灯機の方に回った上野が声をかけてくる。
「少し、音声がもったりした感じになりますが、フィルムの状況を確認するための上映で鑑賞が主たる目的ではないため、ご理解ください」
「わかっています。大丈夫です」
はざまが答えると、了解、という言葉の代わりに劇場の灯りがすうっと落とされ、いつものカウントダウンなしにいきなり映像が始まった。
満天の星。背には柔らかな雪。吐く息が白い。
……さむい。
多分、ユキが最後に考えたのは、そんな簡単で単純なことだっただろう。
彼女の意識が遠ざかっていくのと同じ速度で彼女に近づいてきたのは、ユキナの言っていたとおり、ユキの兄姉たちだった。そして……その後ろからやってきたのは、ユキの力に興味を持って、頻繁に彼女を訪ねてきていた、あの女だ。
「こっち! こっちだよ、早く、早く」
言葉では『早く』と言っているのに、その速度がやけにもったりと遅いのはもちろん回転速度を下げてフィルムを回しているからなのだが、まるでコントか何かのようで苦笑が漏れてしまう。この言葉を発しているのは、ユキの兄だか姉だかのはず……だけれど、スロー再生になっている音声では、男の声か女の声かまでは良くわからなった。
「これ以上は無理だよ。雪で、足を取られちまって」
呼びかけに顔を上げ、ユキを構いに来ていた女が口をとがらせて文句を言う。
「それより、ちゃーんと、逃げないように縛ってあるのかい?」
「縛ってはいない。でも、大丈夫。凍えているから、早くは走れないから」
目的語は略されていても、彼らが話をしているのはユキについてだ。それは、はっきりとわかった。
「あの不思議な力を見世物に使うから、あの子を買いたいってお客がいるんだよ。逃がしたら、承知しないよ」
「父ちゃんにも言ってある。女手も足りてるし、どっちにしろ、あいつはもう少し大きくなったら口減らしに出すって言ってた。少し早くても、問題ないって」
こんなにはっきりと指し示しているのに、それでも彼女の名前を誰も口にしないのは……もしかしたらその名を口にしたら、あの不思議な力で呪われるのではないかと誰もが恐れているから。なのかもしれない。
あるいは——ほんのひとかけらの、罪悪感ゆえか。
「いたいた。ここだ。……おい、寝るなよ。起きろ、ユキ」
ようやくユキを寝かせていた場所まで戻ってきた兄たちが末妹の身体を揺さぶり、少し強めに頬を叩く。
「寝たら死ぬぞ。起きろ。……さあ、あったかい藁に、毛布も持ってきてやったから」
「ユキちゃん、こんばんは。おまえさんの力を見たいって、私の友達がいてね。お父さんたちには言ってあるから、このまま、私と出かけよう? ね?」
この記憶の記録があるということは、まだユキはこの時点で存命だということだ。しかし……既に彼女の意識はなく、彼らが自分にかけてくる声を聞いていたとしても、反応することはできない。
「ユキ! ユキ! ……どうしよう、死んじゃったかな?」
「死んでたら、もう要らないよ。あんたたちが勝手にどうにかしておくれ」
「ちょっと! まだ約束の金をもらってないよ」
「死んだ子に、金なんか払えるもんかい。……ああ、もちろん、支度金で渡した金も返してもらうからね!」
しばらく兄姉と女はユキを囲んで何のかんの言っていたが、女の「金を返せ」という言葉に、そこにいた子らは全員、蜘蛛の子を散らしたように逃げ去った。女は慌ててよろけながら立ち上がり、おぼつかない足取りで一番足の遅そうな子を追いかけていく。
いつの間にか、また雪が降り出していた。
ゆっくりゆっくり、横たわるユキの身体が新しい雪の布団に隠れ、見えなくなっていく。
まずはわら靴。そしてどてらの裾。髪がほぼ白く覆われても、体温の残っていたと思われる笑みを浮かべた顔は、最後までうっすらと、その輪郭を覗かせていた。
ゆっくりゆっくり、雪は降り積もる。
ゆっくりゆっくり、そこにある全てを白く呑み込んで。
「問題なさそうですね」
そして。
言葉を失って真っ白い画面を見つめていたはざまの耳に、穏やかな上野の声が聞こえてきた。同時に部屋がフッと淡く明るくなり、視界の中に赤っぽいビロウドの椅子と、その上で香箱を組む薄茶色の猫が現れる。
どこまでがユキの記憶の記録で、どこからがフィルムの余白部分だったのかはわからない。どちらにせよ、確認は済んだようだ。ぱちり、と何かのスイッチを入れる音がして、キュルキュルキュルキュル……とフィルムを巻き戻す音が聞こえ始める。この作動音は今まで何度か聞いたことがあるが、再生と同じように巻き戻しも、いつもの速度より緩めで行っているらしい。いつもよりも動きの柔らかい、もったりとした感じの音になっていた。
「どうした、はざま。ボケっとして」
客人用の椅子に図々しく乗ったまま、猫のレンズが念話ではざまに尋ねてくる。
「これが……あの子の、前世のときの記憶?」
「うむ」
口の悪い猫に嫌味を返す代わりに、はざまはぽこんと泡のように湧いてきた疑問を口の端に乗せた。念話ではないその言葉に猫は小さく頷き、フィルムを巻き終えた上野はそのリールを箱にしまいながら、穏やかな声で答える。
「ユキさんは雪の下で冷たくなり、皆の記憶から姿を消しました。見世物小屋に売られるよりは、穏やかで幸せな人生だったことでしょう」
「でも……」
でも。
ユキは信用していた兄姉に裏切られ、自分を見込んでくれていると思っていた人物に金に換えられようとしていた。ここで凍死しなかったとしても、満足のいく幸せな人生とは思えない。なのに途中までこのフィルムを見て、兄姉にもあの女にも愛され、評価されていたとユキナは信じ、幸せだったのだと喜んで帰った。——彼女をこの〈幻惑館〉は、結果的に騙すことになったのではないだろうか?
「現世の彼女——ユキナさんは、現代日本で、ある夫婦の第四子として生まれました。現代においては、まあまあ子沢山の家とも言えるかもしれません」
いろいろな思いが押し寄せ、言葉を失うはざまに、上野が世間話でもするような軽い感じで言葉をかけてくる。
「そんなに裕福なおうちではない、とは言ってもごく普通。一般的の範疇で、毎日の食べ物に困るほどではないようですし、学校に入るような時には、お下がりかもしれませんがそれなりの支度を調え、可愛らしくなるよう髪に手をかけてやることもできるような環境です」
「はい……」
上野の言葉で、はざまは先ほどやってきた少女の格好を思い返した。
使用感もあり少し大きめだったが、柔らかそうな生地の紺色のワンピース。ベロア素材の黒いハイカットシューズ。長い髪はきれいに編み込まれ、可愛らしいピンや髪ゴムで飾られていたっけ。
「彼女は〈学院〉に入学するにあたり、いつからこの力を自分が持っているのか、知りたかったのだと思います。その疑問は解決された。彼女は今の生を受ける前……我々の今の格好が主流だった頃に生まれ、そこで力を得たことを知りました」
「はい」
上野の言うことは間違いなく正論だ。それはわかる。
でも。それでもはざまには、素直にそれを肯定できない。
引っかかるのだ。彼女の中の、処理しきれない感情の部分が。
「謎は解消され、彼女はこれから〈学院〉所属の魔法使いとなり、力をつけていく。前途洋々です。……市田さん、あなたのように」
言葉にできない感情を前に押し黙ったはざまの頭の上を、穏やかな上野の言葉が滑っていく。言葉自体に、魔法が含まれているようだった。心地よく、言われたとおりあの少女が幸せだと、信じられるようになる魔法。
「でも……」
でも。
はざまくらいの年齢になれば嫌でもわかる。
そんな風に自分が幸せだと信じ切れるのは、本当に幼い間の短い時間だけだ。ちょうどあの、ほとんどフィルム長のない、巻きの小さなテープのように。
「でもこの先、あのユキナさんが今日のことを思い返して、もしかしたらあの記憶の時の自分は幸せじゃなかったかもとふと気づいたら、その時はどうなるんですか? ユキナさんはどうやって、真相を探せばいいんですか?」
「そのときは、また、ここに来れば良いだけじゃ」
感情を抑えきれず、強い調子で尋ねるはざまに答えたのは、頭に響く猫の念話だった。
「今はあそこまでで良い。そう〈幻惑館〉が判断したから、ねずみがかじり、フィルムは切れた。じゃが、上野の尽力により、フィルムは修復され、今は繋がっておる。あの娘が再度、過去の記憶の続きを求めてやってきたら、先ほどおまえが見た、物語の続きを見せてやることができる」
一拍置いて、レンズは顔を上げ、まっすぐはざまの目を見る。射貫くような視線。
「記憶の記録を求めてやってきた魔法使いに言ってやる、ぴったりの台詞があるじゃろう? 教えてやったはずだ。……言ってみろ、はざま」
念話は続けて、記憶を手助けするようにゆっくりと、求める答えを語りかけてきた。促されるまま、はざまはその文言を、頭の中に響く声に続いて読み上げる。
「探す者が真に必要としていれば、そのとき、〈幻惑館〉は霧の中から現れます」
「はい。その通りです」
静かに成り行きを見守っていた上野が、はざまの言葉に、薄く笑みを浮かべて小さく頷いた。
そして、また朝がやってくる。
目を覚ますと、目の前にはまた、古びた下がり天井があった。
……つまり今日も、ここ〈幻惑館〉の屋根裏部屋で目を覚ましたということだ。
すでに『知らない』と切って捨てるには馴染みすぎたその風景を見て、はざまは小さく伸びをしてからベッドの上に起き上がる。文机の上を確認。……今日は何もない。つまり、客人はここを訪れないということだ。まだぼんやりする頭に言い聞かせるように「今日は客人なし」と独り言をつぶやいてから、はざまは自前の、〈学院〉の制服とローブを身につけた。
「おはようございます、市田さん。今日は〈学院〉の制服ですね、良くお似合いです」
「おはようございます。……ありがとうございます」
階下に降り、上野といつもの会話を交わして。
いつものようにはざまの前には茶器と砂糖壺。上野の茶器の近くにはミルクの入った深皿。皿がセットされたタイミングで、図々しく猫のレンズがテーブルの上に飛び乗ってくるのもいつも通りだ。
「お。今日はざまは制服か。となると、客人はなしじゃな。……良かったの、はざま。屋根裏部屋で一日、ゆっくり自習ができるぞ」
レンズの念話が言うとおり、客人の来ない日に限って、はざまは屋根裏部屋で〈学院〉の課題を自習することが許されている。今までであれば、自慢のポーカーフェイスが笑みで緩んでしまうほどの幸運だ。しかし。
「今日はもう、誰も来ないのでしょうか。〈学院〉に、ゆかりのあるお客様も?」
ポーカーフェイスを崩さぬまま上野にそう聞いた自分に、実は一番驚いたのははざま自身だ。……しかし頑張って平静を装いつつ、はざまはそのまま上野に視線を送る。
「それは……どうでしょうか。市田さんは、〈学院〉ゆかりのお客様がいらっしゃる、と、何故そう思われるのですか?」
上野の方もはざまに答え、穏やかに笑みを浮かべたいつもの状態で口を開いた。が、目元のあたりに少し驚きの色を浮かべている。
「時代服が用意されていないということは、わたしが〈学院〉の制服を着るということですので、そういう側面があるのかと考えた次第です。つまり、別に、お客様にいらして欲しいとか、そういう話ではなくて。でも、その……何て言うか……」
口先だけで会話を続けながら、はざまは適切な言葉を探した。——真意が伝わって、簡潔で……おまけに、『好きでここにいるわけではない』という姿勢を保ちたい、はざまのささやかなプライドを保ってくれるような、そんな言葉を。
不自然に見えないぎりぎりの間を空けてから、はざまは無表情のまま上野に向き直って、心の中で厳選した台詞を口にする。
「なるべく早く研修を終わらせたいので、なるべく早く彼女にまた、来て欲しいんです。
ユキナさんが本当に全部、記憶の記録を見た後どう感じるのか……後学のため、彼女の口から聞いてみたいので」
「雪が止んだ後は、星がよく見えるんだ。見に行くか?」
もちろん、ユキに断る理由はない。今までそういうお楽しみには『まだ小さいから』という理由でユキは一人家に置いて行かれ、寂しい思いをしていた。数えで七歳にもなれば、こういうときに置いて行かれることもないんだなあ……と、ユキは心底嬉しく思う。
「行くよ! ユキも連れてって、にいちゃん」
二つ返事でわら靴を履き、どてらを羽織ってユキは冬の夜へと飛び出した。雪の積もった後の世界はしんと静まりかえり、刺すような冷気が子どもたちを襲うように覆い被さってくる。それでもユキは兄姉に遅れないよう、わら靴を履いた足を頑張って前へ踏み出し、ずんずん歩いた。そして。
「ここで寝っ転がると、星が動くのが見えるんだ。兄ちゃんたち、包まる藁を持ってくるから、ユキ、お前は先にここで寝っ転がって見てな。じきに、大きな赤い星が上ってくるから」
「わかった。待ってるね、にいちゃん」
言われたとおり、ユキはその場に一人でごろりと横たわる。
目前に、降ってきそうなほどの星空が広がっていた。思わずぽっかりと口を開け、ユキは吸い込まれそうな夜空に見入る。月が出ていないので、新月の夜だったのだろう。月の明かりがない分、星は驚くほどキラキラと輝き、深い藍色の夜空にちりばめられていた。
「きれい……」
白いため息と共に、思わずつぶやきが漏れる。
自分の七つのお祝いに、にいちゃんたちはこの夜空を見せてくれたのだ。——そう、直感的にユキは感じた。
今まで、特に構ってくれたり、ましてやかわいがってくれたりしたことは殆どない。でもそれは昔から言うとおり、七つまで子どもは神様の子で、いつ神様に返せと言われても文句が言えないとわかっていたから……なのだろう(実際、ユキの前に生まれた兄姉の中にも、七つまで生きずに神様に取り戻された子がいるらしい)。きっと。
でも、この正月でユキは七つになって、神様の呪縛から離れた。だから、ここで初めて自分たちの妹になったユキに美しいものを見せてやろうと、兄姉たちはここに連れてきてくれたのだ!
考えただけで、ふふっと口元から笑みがこぼれる。
——ああ、はやく、にいちゃんたちとねえちゃんたち、戻ってこないかなあ。はやく、ありがとうって伝えたい。にいちゃんもねえちゃんも、それからとうちゃんもかあちゃんも大好き! ユキのこと、大切にしてくれてありがとう。ユキも、にいちゃんねえちゃん、とうちゃんかあちゃんのこと、これから大事にするから。もう神様の子じゃなくなったから、これからはとうちゃんとかあちゃんの子ども。それから、にいちゃんとねえちゃんの妹になる。だから……これからも仲良く、一緒にがんばって、生きていこうね……!
こんなに嬉しいのに、不思議と、何だか眠たくなってきた。
家にある自分の薄い布団で寝ているより、この新雪の布団の方がふかふかで心地よい。兄姉たちが早く来ないかな……と思うこと自体も、おっくうになってきた。
あらがえず、ユキは目を閉じる。
——大丈夫。すぐににいちゃんやねえちゃんが来てくれて、ユキが寝てたら起こしてくれる。持ってきた藁を身体に巻いてくれる。それで、みんなで満天の星を見るんだ。ユキが、みんなの本当の妹になった夜に。きっと今夜は、ユキにもみんなにも、一生記憶に残る夜になるんだ……!
ゆっくりと薄れていく意識の中、近づいてくる足音を聞いたような気がした。雪を踏む、大人のものではない軽い足音。こちらを覗き込む、複数の影。
あと少し。もう少し近づいて来たら、誰だかわかる。彼らの発する声が聞こえる。あとほんの数刻なのに、ユキは自分の意識が遠のいていくのを感じた。
満天の星を遮って、複数の影が視界に差し込まれる。こちらを覗き込んでいる……。
バツン!
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少女が、そして後方から彼女とスクリーンを見守っていたはざまが息を呑んだその次の瞬間、ものすごい音がして、いきなり画面が真っ白になった。
続けて、カラカラカラカラ……という、今までの幻灯機の作動音とは異なる、何かが空回りするような音。
「……えっ? 何、何? 何がどうなったの?」
前屈みになって大人しく画面を見つめていた少女が、それでもビロウドの椅子に座ったまま、きょろきょろと周りを見回す。
「市田さん、すみません。とりあえずお客様を劇場の外へ誘導してください」
はざまも客人と同様パニックになりかけていたが、後方から聞こえてくる上野の声で我に返り、ビロウドの椅子の方へと駆け寄った。
「お客様、申し訳ありません。幻灯機のトラブルがあったようです。ひとまず、ロビーの方へお越しください」
「あっ、〈幻惑館〉のおねえさん! ……はい。わかりました。ありがとうございますっ!」
少女は素直にはざまの誘導に従い、劇場からロビーの方へと出た。扉のすぐ外側に待機していたレンズにつまずきかけ、慌ててたたらを踏む。
「あー、さっきの猫ちゃん! 猫ちゃんも、映像を見ていたの? びっくりしたよね。大丈夫だったー?」
「心配には及ばぬ」
少女に宛てられた念話だったが、音量が小さく聞こえなかったのか意味がわからなかったのか、彼女がそれに反応することはなかった。何かフォローをするべきだろうか……と、はざまが口を挟むよりも早く、『関係者控室』の方から、上野が手にマドレーヌを持って現れる。
「お客様、大変失礼いたしました。なにぶん古いフィルムでしたので、ねずみにかじられたようで……途中で切れてしまったようです。申し訳ありません」
「そっか。そうなんだぁ」
少女に向かって深々と頭を下げる上野を、頭を下げられた張本人はちょっと驚いたような顔で見つめていた。その表情には、悲しみとか怒りとか、そういったマイナスの感情は見受けられない。
「ねずみなら、しょうがないですね。……あ、大丈夫。あたしが見たいところまでは、ちゃーんと見れたんで、別に謝らないでくださいっ!」
言いながら、思い出したように少女は、ぶんぶんと高速で両手を横に振る。
「あの、でも、お言葉ですが、あの時点ですと近寄ってきた人たちの顔までは確認できなかったように感じたのですが……」
「あっ、うん。そうです。見えなかった。でも……顔は見えなかったけど、あれはにいちゃんとねえちゃんでしょ? わかりますよぉ。もうすぐ七歳ですもん、あたしも」
念のために確認したはざまにも、少女は曇りのない笑顔を向けてきた。
「そっか……ちっちゃい頃から、力を認めてくれる人もいて、にいちゃんやねえちゃんにも可愛がってもらって……幸せだったんだな、あたし」
「………」
「そうですね。幸せでしたね。……この時点で魔法使いとしての力が発現されていましたから、また新たな身体を得て、生まれ変わってくることもできましたしね」
言葉を失ったはざまの前に割り込み、上野が優しく少女に声をかけ、にっこりと笑う。
「若くして転生する魔法使いは、いろいろな種類の能力を平行して持てるようになると言います。ユキさん……いえ、今のお名前は存じませんが、この先あなたは、魔法使いとして大成されると思いますよ」
「えっと、ありがとうございますっ」
ここに来たときと同じように、上野の言葉に少女は、最敬礼よりも深くぴょこんと頭を下げた。
「あたしの名前、ユキナって言います。冬生まれで、生まれたのが雪が降る日だったからユキナなんだって。……そういうのも、前の人生と似るのかなあ? 不思議」
不思議、というよりは、おそらく嬉しいと思っている、ユキナの顔。
「そうでしたか。……ともかく、本日は失礼いたしました。ご要望にお応えできたということであれば良かったですが、ミスはミス。お詫びにしてはお粗末ですけれど、こちらをお納めください。お帰りの道中、お召し上がりになると良いでしょう」
上野から差し出されたマドレーヌを受け取り、ユキナは再度嬉しそうに笑う。
「ありがとうございますっ! じゃあ……あたし、帰りますね」
「あの、お客様」
もちろん、このまま彼女を帰途につかせるのが最良の流れだろう。しかし、そのまま〈幻惑館〉を飛び出して行きそうな勢いのユキナに、気がついたときにはすでに、反射的にはざまは声をかけていた。
「あの……本日、記憶の糸は掴めましたでしょうか?」
はざまの言葉が空気を振るわせ、空間に漂う。
見えないその言葉の残像を、全員が目で追っているような錯覚に陥りそうだ。
そして——しばらく時間が経過した後。
「えっと。うまく言えないんだけど」
沈黙を破ってようやく口を開いた少女は、ちょっとだけ照れくさそうに笑って、はざまの方をまっすぐに見返した。
「今日は来て、良かったです。前の両親も兄弟もきっと、もう生きてないトシだと思うんだけど……あの。魔法使いが死んだ後って、誰もそのこと、覚えてないんですよね?」
「左様です。以前のご両親もご兄弟も、あなたのことは覚えておられないでしょう。七番目の女の子は、残念ですが彼らにとっては、一番初めからいなかったことになるでしょうね」
はざまが答えなければならない質問だったが、代わりに横から、上野の穏やかな声が少女に答えてくれる。
上野の言葉に、少女はホッとした表情をその顔に浮かべた。
「うん。なら、悲しんでないかなーとかは心配しなくて大丈夫だね! じゃあ……あたしが死んじゃった後、ごはんを取り合う人数が減って、そのおかげでみんなの食べられるごはんが増えてたら、それでいいかな」
そして、そのまま遠くを見て——大人のような、全てを達観した笑みを、一瞬だけ。
「えっと。じゃあ、帰ります。今日はありがとうございましたっ! お菓子も嬉しいです。後で食べますねっ!」
そんな笑みを、次に浮かべた天真爛漫な笑顔でかき消して、少女は大きく手を振ってから、目前に広がる霧の中へと姿を消した。
ユキナという名の少女を呑み込んだ霧は、そのまま、その濃さをゆっくりと増していく。
*
「あのフィルムって、どうなるんですか?」
その後。
ユキナが帰ってからいつものように上野が煎れてくれたお茶を飲みながら、ふと思い立ってはざまは、先ほどから少し気になっていたことを聞いてみた。
「フィルム? ……ああ、先ほどの切れたフィルムについてですか」
幻灯機もフィルムも形あるものである以上、壊れることもあるだろう。デジタルデータに近い、魔法の力による代替え品が用意されているのかもしれないと少しだけ考えていたけれど、ユキナへの対応を見る限り、すぐに用意できる予備のデータは存在しない気がする。今回のような事故は多くないとしても、こんな風に物理的に失われた場合、その魔法使いの記憶の記録はどうなるのだろう? ——研修で来ているのだ。はざまがここ〈幻惑館〉の内情について尋ねるのは、別に悪いことではないと思った。……だから、聞いてみた。それだけ。
「あれなら、修復しますよ。無論」
上野は端的にそう答えると、カップをソーサーに置き、ふいと席を立つ。
どうしたのだろうと見守るはざまを置いて奥に消えてから数分の後。上野はいつもの丸い銀盆ではなく、木の四角いトレイのようなものを持って現れた。その上に乗っていたのは学校で使うような大きなサイズの紙綴器のようなものとフィルムのリールが入っていると思われる紙の箱。それからおまけで、マドレーヌの二つ入った小さなカゴも。
「お、マドレエヌではないか。ワシに一つくれ」
「わかっていますよ。少し待ってくださいね、レンズ」
目ざとく大好物の焼き菓子を見つけたレンズを優しく制してから、上野は茶器を少しどかして、持ってきたトレイごと乗っていた道具たちを丸テーブルの上へ載せた。紙の箱を開き、中に入っていたリールと、その下に置かれていたらしいリールを二本、はざまの目の前に並べる。
「これが、先ほどユキナさんがご覧になっていたフィルムです。このように切れてしまった部分を、先ほどまっすぐ切って整えておきました。それを、これで」
……と、紙綴器のようなものを手前に引き寄せ。
「これはテープスプライサーと言って、フィルムを切ったり、切れたフィルムを繋いだりするものです」
自分では一応博識のつもりだったが、はざまがそのテープスプライサーなる機械を見るのは初めてだった。どうやって使うのかと見守るはざまの目前で、上野は左右から切れたフィルムテープの端をたぐり寄せてテープスプライサーなる機械に乗せ、ちょうど紙を綴じる要領で中央のハンドルをガッチャン、と引いて下ろす。ぐっと更に一度押してから、押し上げるようにハンドルを戻す。
「……はい。こんな風にくっつけられます。あとで一応、きちんと上映できるか確認して、仕舞っておきましょう」
「えっ? もうこれで完成……なんですか?」
目の前の光景が、一概には信じられなかった。
……もちろん、これでフィルムがくっつくことが信じられないわけではない。こんなに短時間で修復ができるのに、上野が、あのユキナという少女をそのまま帰してしまったという事実が、だ。——何故上野は最後までユキナに記憶の記録を見せることなく、霧の中に彼女を送り出してしまったのだろうか?
「このフィルムですが……この後、一日糊が乾くまで置いておかないと見られないとか、そういうことがあるのでしょうか?」
「少しは時間を置いた方がいいですが、テープのようなもので貼ってあるので、そんなに時間はかかりませんよ。そうですね……レンズがマドレーヌを食べている間、待つくらいで大丈夫でしょう」
こともなげにそう告げて、上野はマドレーヌのカゴをトレイの横に下ろし、その中の一つをレンズの前にある皿にころりと入れてから、修復したフィルムとテープスプライサーを乗せたトレイを持って、再度部屋の奥へと消えた。上野としては単に、お茶の時間に相応しくないものを片付けてきただけだろう。しかしはざまの目から見れば、あまり人目に触れさせたくないものを慌てて隠してきた……と言う風にも取れる行動だ。
「フィルムが切れたのも、その前にねずみが箱をかじったのも、大いなるものの意思じゃと思うぞ」
モヤモヤした気持ちのまま上野が去って行った台所の方を睨むような目で見続けるはざまに、ようやく手に入れたマドレーヌにかぶりつきながら、猫のレンズが歌うような調子の念話で語りかけてくる。
「何を言っているの。おまえがパトロールをサボったから、ねずみに入り込まれたのでしょう? その所為で、フィルムが切れてしまったのよ、きっと」
「だから、そういった四角四面な理由ばかりでないのが、この〈幻惑館〉での出来事なのじゃ。いろいろな理由があり、そして結果がある」
念話というのは便利なもので、ゆったりとはざまに語りかけながら、レンズはマドレーヌをガツガツと食べ続けていた。言葉を切ると同時に焼き菓子を食べ終え、満足そうにくるりと一回前足で顔を洗ってから、淡い琥珀色の猫は刺すような視線で、テーブルに着く矢絣の着物に袴姿の少女を見る。
「理由があって彼女は最後までフィルムを見ることが叶わず、しかし満足してここを去った」
レンズによる、事象の提示。
そんなこと、言われなくてもわかっている……とはざまが口を開きかけたそのとき、台所の方からフィルムを片付けてきたらしき上野が、いつもの矍鑠とした動きでこちらに戻ってきた。
にらみ合うレンズとはざまを不思議そうに見比べてから、上野はそんなことを気にも留めない様子で、ゆっくりと猫足のテーブルへと歩み寄る。優しく、はざまに微笑みかける。
「今から、フィルムに問題がないか確認するため先ほどのフィルムを上映しますが、市田さん、ご覧になりますか?」
「えっ……いいんですか? 私が見ても」
記憶の記録を持つ当人であるユキナが最後まで見られなかったフィルム。そのフィルムを、はざまに鑑賞しないかと彼は言っている。
思いがけない上野の提案に、思わずぽかんとしてしまうはざまをテーブルから見上げ、レンズは面倒くさそうにぱたりと一回しっぽを振って、フンと鼻から息を吐いた。
「そして……理由があればそのフィルムを、別の者が見ることもある。それが、〈幻惑館〉なのじゃ」
*
上野が茶器を片付けてくれるのを待ち、二人と一匹は台所の関係者通路から、先ほどまでユキナが座っていた劇場の方へと向かった。
「テンションがかかることによって切れては台無しですので、少しゆっくり目に回していきます」
客人用のビロウドの椅子に座るのもはばかられ、その近くに突っ立ったままのはざまに、幻灯機の方に回った上野が声をかけてくる。
「少し、音声がもったりした感じになりますが、フィルムの状況を確認するための上映で鑑賞が主たる目的ではないため、ご理解ください」
「わかっています。大丈夫です」
はざまが答えると、了解、という言葉の代わりに劇場の灯りがすうっと落とされ、いつものカウントダウンなしにいきなり映像が始まった。
*
満天の星。背には柔らかな雪。吐く息が白い。
……さむい。
多分、ユキが最後に考えたのは、そんな簡単で単純なことだっただろう。
彼女の意識が遠ざかっていくのと同じ速度で彼女に近づいてきたのは、ユキナの言っていたとおり、ユキの兄姉たちだった。そして……その後ろからやってきたのは、ユキの力に興味を持って、頻繁に彼女を訪ねてきていた、あの女だ。
「こっち! こっちだよ、早く、早く」
言葉では『早く』と言っているのに、その速度がやけにもったりと遅いのはもちろん回転速度を下げてフィルムを回しているからなのだが、まるでコントか何かのようで苦笑が漏れてしまう。この言葉を発しているのは、ユキの兄だか姉だかのはず……だけれど、スロー再生になっている音声では、男の声か女の声かまでは良くわからなった。
「これ以上は無理だよ。雪で、足を取られちまって」
呼びかけに顔を上げ、ユキを構いに来ていた女が口をとがらせて文句を言う。
「それより、ちゃーんと、逃げないように縛ってあるのかい?」
「縛ってはいない。でも、大丈夫。凍えているから、早くは走れないから」
目的語は略されていても、彼らが話をしているのはユキについてだ。それは、はっきりとわかった。
「あの不思議な力を見世物に使うから、あの子を買いたいってお客がいるんだよ。逃がしたら、承知しないよ」
「父ちゃんにも言ってある。女手も足りてるし、どっちにしろ、あいつはもう少し大きくなったら口減らしに出すって言ってた。少し早くても、問題ないって」
こんなにはっきりと指し示しているのに、それでも彼女の名前を誰も口にしないのは……もしかしたらその名を口にしたら、あの不思議な力で呪われるのではないかと誰もが恐れているから。なのかもしれない。
あるいは——ほんのひとかけらの、罪悪感ゆえか。
「いたいた。ここだ。……おい、寝るなよ。起きろ、ユキ」
ようやくユキを寝かせていた場所まで戻ってきた兄たちが末妹の身体を揺さぶり、少し強めに頬を叩く。
「寝たら死ぬぞ。起きろ。……さあ、あったかい藁に、毛布も持ってきてやったから」
「ユキちゃん、こんばんは。おまえさんの力を見たいって、私の友達がいてね。お父さんたちには言ってあるから、このまま、私と出かけよう? ね?」
この記憶の記録があるということは、まだユキはこの時点で存命だということだ。しかし……既に彼女の意識はなく、彼らが自分にかけてくる声を聞いていたとしても、反応することはできない。
「ユキ! ユキ! ……どうしよう、死んじゃったかな?」
「死んでたら、もう要らないよ。あんたたちが勝手にどうにかしておくれ」
「ちょっと! まだ約束の金をもらってないよ」
「死んだ子に、金なんか払えるもんかい。……ああ、もちろん、支度金で渡した金も返してもらうからね!」
しばらく兄姉と女はユキを囲んで何のかんの言っていたが、女の「金を返せ」という言葉に、そこにいた子らは全員、蜘蛛の子を散らしたように逃げ去った。女は慌ててよろけながら立ち上がり、おぼつかない足取りで一番足の遅そうな子を追いかけていく。
いつの間にか、また雪が降り出していた。
ゆっくりゆっくり、横たわるユキの身体が新しい雪の布団に隠れ、見えなくなっていく。
まずはわら靴。そしてどてらの裾。髪がほぼ白く覆われても、体温の残っていたと思われる笑みを浮かべた顔は、最後までうっすらと、その輪郭を覗かせていた。
ゆっくりゆっくり、雪は降り積もる。
ゆっくりゆっくり、そこにある全てを白く呑み込んで。
*
「問題なさそうですね」
そして。
言葉を失って真っ白い画面を見つめていたはざまの耳に、穏やかな上野の声が聞こえてきた。同時に部屋がフッと淡く明るくなり、視界の中に赤っぽいビロウドの椅子と、その上で香箱を組む薄茶色の猫が現れる。
どこまでがユキの記憶の記録で、どこからがフィルムの余白部分だったのかはわからない。どちらにせよ、確認は済んだようだ。ぱちり、と何かのスイッチを入れる音がして、キュルキュルキュルキュル……とフィルムを巻き戻す音が聞こえ始める。この作動音は今まで何度か聞いたことがあるが、再生と同じように巻き戻しも、いつもの速度より緩めで行っているらしい。いつもよりも動きの柔らかい、もったりとした感じの音になっていた。
「どうした、はざま。ボケっとして」
客人用の椅子に図々しく乗ったまま、猫のレンズが念話ではざまに尋ねてくる。
「これが……あの子の、前世のときの記憶?」
「うむ」
口の悪い猫に嫌味を返す代わりに、はざまはぽこんと泡のように湧いてきた疑問を口の端に乗せた。念話ではないその言葉に猫は小さく頷き、フィルムを巻き終えた上野はそのリールを箱にしまいながら、穏やかな声で答える。
「ユキさんは雪の下で冷たくなり、皆の記憶から姿を消しました。見世物小屋に売られるよりは、穏やかで幸せな人生だったことでしょう」
「でも……」
でも。
ユキは信用していた兄姉に裏切られ、自分を見込んでくれていると思っていた人物に金に換えられようとしていた。ここで凍死しなかったとしても、満足のいく幸せな人生とは思えない。なのに途中までこのフィルムを見て、兄姉にもあの女にも愛され、評価されていたとユキナは信じ、幸せだったのだと喜んで帰った。——彼女をこの〈幻惑館〉は、結果的に騙すことになったのではないだろうか?
「現世の彼女——ユキナさんは、現代日本で、ある夫婦の第四子として生まれました。現代においては、まあまあ子沢山の家とも言えるかもしれません」
いろいろな思いが押し寄せ、言葉を失うはざまに、上野が世間話でもするような軽い感じで言葉をかけてくる。
「そんなに裕福なおうちではない、とは言ってもごく普通。一般的の範疇で、毎日の食べ物に困るほどではないようですし、学校に入るような時には、お下がりかもしれませんがそれなりの支度を調え、可愛らしくなるよう髪に手をかけてやることもできるような環境です」
「はい……」
上野の言葉で、はざまは先ほどやってきた少女の格好を思い返した。
使用感もあり少し大きめだったが、柔らかそうな生地の紺色のワンピース。ベロア素材の黒いハイカットシューズ。長い髪はきれいに編み込まれ、可愛らしいピンや髪ゴムで飾られていたっけ。
「彼女は〈学院〉に入学するにあたり、いつからこの力を自分が持っているのか、知りたかったのだと思います。その疑問は解決された。彼女は今の生を受ける前……我々の今の格好が主流だった頃に生まれ、そこで力を得たことを知りました」
「はい」
上野の言うことは間違いなく正論だ。それはわかる。
でも。それでもはざまには、素直にそれを肯定できない。
引っかかるのだ。彼女の中の、処理しきれない感情の部分が。
「謎は解消され、彼女はこれから〈学院〉所属の魔法使いとなり、力をつけていく。前途洋々です。……市田さん、あなたのように」
言葉にできない感情を前に押し黙ったはざまの頭の上を、穏やかな上野の言葉が滑っていく。言葉自体に、魔法が含まれているようだった。心地よく、言われたとおりあの少女が幸せだと、信じられるようになる魔法。
「でも……」
でも。
はざまくらいの年齢になれば嫌でもわかる。
そんな風に自分が幸せだと信じ切れるのは、本当に幼い間の短い時間だけだ。ちょうどあの、ほとんどフィルム長のない、巻きの小さなテープのように。
「でもこの先、あのユキナさんが今日のことを思い返して、もしかしたらあの記憶の時の自分は幸せじゃなかったかもとふと気づいたら、その時はどうなるんですか? ユキナさんはどうやって、真相を探せばいいんですか?」
「そのときは、また、ここに来れば良いだけじゃ」
感情を抑えきれず、強い調子で尋ねるはざまに答えたのは、頭に響く猫の念話だった。
「今はあそこまでで良い。そう〈幻惑館〉が判断したから、ねずみがかじり、フィルムは切れた。じゃが、上野の尽力により、フィルムは修復され、今は繋がっておる。あの娘が再度、過去の記憶の続きを求めてやってきたら、先ほどおまえが見た、物語の続きを見せてやることができる」
一拍置いて、レンズは顔を上げ、まっすぐはざまの目を見る。射貫くような視線。
「記憶の記録を求めてやってきた魔法使いに言ってやる、ぴったりの台詞があるじゃろう? 教えてやったはずだ。……言ってみろ、はざま」
念話は続けて、記憶を手助けするようにゆっくりと、求める答えを語りかけてきた。促されるまま、はざまはその文言を、頭の中に響く声に続いて読み上げる。
「探す者が真に必要としていれば、そのとき、〈幻惑館〉は霧の中から現れます」
「はい。その通りです」
静かに成り行きを見守っていた上野が、はざまの言葉に、薄く笑みを浮かべて小さく頷いた。
*
そして、また朝がやってくる。
目を覚ますと、目の前にはまた、古びた下がり天井があった。
……つまり今日も、ここ〈幻惑館〉の屋根裏部屋で目を覚ましたということだ。
すでに『知らない』と切って捨てるには馴染みすぎたその風景を見て、はざまは小さく伸びをしてからベッドの上に起き上がる。文机の上を確認。……今日は何もない。つまり、客人はここを訪れないということだ。まだぼんやりする頭に言い聞かせるように「今日は客人なし」と独り言をつぶやいてから、はざまは自前の、〈学院〉の制服とローブを身につけた。
「おはようございます、市田さん。今日は〈学院〉の制服ですね、良くお似合いです」
「おはようございます。……ありがとうございます」
階下に降り、上野といつもの会話を交わして。
いつものようにはざまの前には茶器と砂糖壺。上野の茶器の近くにはミルクの入った深皿。皿がセットされたタイミングで、図々しく猫のレンズがテーブルの上に飛び乗ってくるのもいつも通りだ。
「お。今日はざまは制服か。となると、客人はなしじゃな。……良かったの、はざま。屋根裏部屋で一日、ゆっくり自習ができるぞ」
レンズの念話が言うとおり、客人の来ない日に限って、はざまは屋根裏部屋で〈学院〉の課題を自習することが許されている。今までであれば、自慢のポーカーフェイスが笑みで緩んでしまうほどの幸運だ。しかし。
「今日はもう、誰も来ないのでしょうか。〈学院〉に、ゆかりのあるお客様も?」
ポーカーフェイスを崩さぬまま上野にそう聞いた自分に、実は一番驚いたのははざま自身だ。……しかし頑張って平静を装いつつ、はざまはそのまま上野に視線を送る。
「それは……どうでしょうか。市田さんは、〈学院〉ゆかりのお客様がいらっしゃる、と、何故そう思われるのですか?」
上野の方もはざまに答え、穏やかに笑みを浮かべたいつもの状態で口を開いた。が、目元のあたりに少し驚きの色を浮かべている。
「時代服が用意されていないということは、わたしが〈学院〉の制服を着るということですので、そういう側面があるのかと考えた次第です。つまり、別に、お客様にいらして欲しいとか、そういう話ではなくて。でも、その……何て言うか……」
口先だけで会話を続けながら、はざまは適切な言葉を探した。——真意が伝わって、簡潔で……おまけに、『好きでここにいるわけではない』という姿勢を保ちたい、はざまのささやかなプライドを保ってくれるような、そんな言葉を。
不自然に見えないぎりぎりの間を空けてから、はざまは無表情のまま上野に向き直って、心の中で厳選した台詞を口にする。
「なるべく早く研修を終わらせたいので、なるべく早く彼女にまた、来て欲しいんです。
ユキナさんが本当に全部、記憶の記録を見た後どう感じるのか……後学のため、彼女の口から聞いてみたいので」
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