#05_1 アタラシイバショ
本気で、ニャムが何を言っているのかわからなかった。
灼熱の野球場応援席。狭い階段を降りている途中で投げつけられた言葉を初めて聞いたとき、ダンこと神尾聡史はそれを、毒をふんだんにはらんだ、彼独特のいつもの軽口と判断して聞き流した。が、ニャムと自分の間に立っていたチアダンサーがその言葉を聞いて顔色を失い、彼女の信頼する唯一の友人によって自分たちから遠ざけられたのを見て、何かが違うとようやく気づく。
「……ハァ? どういうことだよ? ちゃんと説明しろ」
「説明も何も、今、言ったとおりだよ〜」
退場した女子たちを見送って以降、ニャムは背後に用事がなくなったのか、こちらの方を振り向きすらしない。かといって目前で展開されている高校野球の勝負が気になるわけでもないらしく、狭くて急なコンクリートの階段を降りながら器用にスマホを操作し、動画か何かを眺めている。
「タケシの話だとさ〜、メイちゃんはダンに取り上げられたダンス連動画が原因で、学校のダンス部を追い出されたんでしょ〜? 今日見てても、明らかに他メンからハブられてるしさぁ」
明らかに、と言われても、言われるまで聡史自身はそのことに全く気づかなかった。そもそも、メイ以外のメンバーのダンスはあまり琴線に引っかかってこない……というか、『力』を感じないので、興味がない。興味がないので、メイ以外のダンスに関しては目に映らなかった。重ねて言えば、ダンスを見る目的以外にチアダンサーを眺める理由など聡史にはない。踊っていないときの彼女たちは、踊っているとき以上に興味のない対象なので、踊っていないときに展開されていたらしい、部内の人間関係など完全に守備範囲外だ。
「もしかしてダン、メイちゃんハブられてるの気づかなかったとか〜? いやぁ、そりゃニブすぎじゃね? 人間関係の構築、ニガテなんだっけ〜?」
言葉を失う聡史に気づき、ようやくニャムが階段の数段下からこちらを振り返る。
「そんなんで、ダンスなんて踊れんの〜? てかその前に、高校生活ハードモードじゃね?」
「別に」
今見ていたメイたちのようなグループダンスとは違い、聡史が踊っているのはヒップホップ系のダンスだ。その中でも特に最近はアクロバティックな技を突き詰めているため、以前よりずっと、他者に関わらなくても済むようになっている。もちろん、仕事としてダンサーをやるには難しい部分もあるだろう。でも高校生という今の立場なら、そのレベルの『好き勝手』は許されるハズ……と思うのだが。
「ダン、友達いなそ〜」
薄く笑いながら的確に急所を突いてくるニャムの言葉にかぶせるように、その時、高い金属音が球場を貫いた。一拍置いて、ワッと沸き上がるような歓声。
グラウンドの方に目を向けると、セカンドベース上で選手が小さくガッツポーズをしているのが見える。先ほどから攻守が交代しているので、相手チームのヒットだ。グラウンドの向こう岸には、盛り上がって更に熱量を上げる相手チーム応援団。芽衣たちとは違う色のポンを振る、相手チームのチアダンサーが飛び跳ねて喜んでいるのがこの距離からでも確認できた。対して、こちら側のM高応援団は、皆神妙な顔をして静かに状況を見守っているという状況だ。
「ピンチの後はチャンスか〜。それとも、神様はちゃんと見てるってことかねぇ〜」
ニャムの毒舌が突如、聡史から試合の展開へと矛先を変える。
聡史の肩越しに、彼は先ほどまで座っていたあたりを見ているようだった。座っていたあたり——つまりおそらくメイや、彼女を攻撃してきたチームメイトがいたあたり。チアダンサー二人が抜けた穴はさすがに隠しきれず、その部分だけ明らかに欠員があるのが丸見えになっている。聡史に言わせれば、アクシデントでメンバーが抜けた場所を他から補充したりして咄嗟にカバーしないあたりも、チームワークの悪さというか程度の低さを感じるダメポイントだ。
「ダンの言うとおり、メイちゃんのダンスはすごかったね〜。でも、周りがコレじゃ、せっかくのパワーも使い切れないんじゃないかな〜? チームメイトに追い払われたら踊れないもんね。こうやって相手にまくられて、はい、おしま〜いってカンジ〜?」
まだ、試合は終わっていない。もっと言えばM高は現在ピンチではあるものの、1点差で今のところ勝っている。そんなM高を、愛校心を支えに応援する観客席のど真ん中で容赦なく罵るニャムに、当然ながら周囲の視線は痛いほどに集まっていたが、当の本人は全く意に介さず、軽い足取りで急な階段を降りきり、外通路へ続くゲートの向こうに消えていった。それを追いかける聡史が続いて通路の日陰に入ったタイミングで、先ほどと同じような高い金属音。一拍置いて、歓声とため息が混ざった轟音が湧き上がる。
おそらく、今日のこの試合最大の見せ場。しかし、目の前を歩く背中も聡史自身も、グラウンドの方は振り返らなかった。
——聡史が今日、目当てにして足を運んだその対象は、既にこの場を去っている。
*
芽衣が救護室で休ませて貰っている間に試合は大きく動き、結局逆転負けでM高夏の高校野球大会予選は幕を閉じた。
例によって女子ダンス部の面々でなく試合に出場していた鈴木涼真から連絡を受け、一番はじめに芽衣の心に浮かんだ感情は、純粋な安堵だ。……これでもう、しばらく野球部の応援に行かなくていい。涼真がそこにいて芽衣にかまってくる状況でさえなければ、シャイニング子1号の猛攻も、少しは収まることだろう。
「でもさあ。今実は、部活自体はあるんじゃね? メイちゃんに連絡来ないだけでさー」
「あー、多分ねー」
連絡が来ないのを良いことにすっかりダラけて夏休みを謳歌している芽衣に、ちょっと呆れた……というか、どちらかというと困った顔で彩花が視線を向ける。
「メイママは何か言ってこないの?」
「大丈夫。ちょこちょこ部活のフリして出かけてるから。今日もほら、これ」
……と、手にしていた部活着の入ったバッグを彩花に見せてから、芽衣は小さくため息。
「だってもう、完全フルシカトなんだもん。行ったって多分、透明人間レベルのガン無視だよ。そんなん、心折れるって」
「デスヨネー」
芽衣と彩花がいるのはいつものスタバでなく、そこから数駅離れた、とある住宅地。二人は、先日芽衣がニャムと出会った公園に向かって住宅地を歩いていた。じりじりと刺さるような午後の日差しが容赦なく二人の腕や顔を焼いていく。M高野球部全国大会出場の夢は潰えたとはいえ、まだまだ夏も夏休みも真っ盛りだ。
「で、今日はここで何があるの?」
「詳しくは聞いてないんだけど、シャチョーにメイちゃん連れてきてって言われててさ……あ、おつかれさまでーす」
てっきり例の小さなステージあたりまで行くのかと思っていたのに、公園の入り口付近に社長とダンの姿を見つけ、芽衣は少々驚く。
「あ、おつかれー。スマイルちゃん、この前大丈夫だった?」
「えっと、ハイ、少し休んだら良くなりました」
営業スマイルで愛想良く話しかけてくる社長とは裏腹に、横で立っているダンの方は相変わらずの仏頂面。呼び出されたのが件の公園でメンバーにダンがいるということはダンスがらみの何かだとは思うのだけれど、用件に全く想像が付かない。
「じゃあ、そんな感じで。スマイルちゃん、またね」
「えっと、ハイ……?」
そんな状況でいきなり社長から手を離され、芽衣の混乱は更に度合いを増した。隣の彩花を見ると、どうやら彼女にも話は通っていなかったようで、こちらもきょとんとした顔をしている。
「あの。彼女に、何か用事があるって話じゃなかったでしたっけ?」
「うん。あるって。ダンが。……スマイルちゃん、確かダンと話したいって言ってたよね? だからちょうどいいかなと思ってさ」
そう水を向けられ、芽衣は記憶の糸を辿る。と、確かに以前、『ふぉーぱーそん』の会社に怒鳴り込んだとき、「ダンを出せ」と言ったような言ってないような……。しかしもちろん、それは「ダンと膝をつき合わせて話がしたい」という意味ではない。ハイどうぞとばかりに二人で会うことをセッティングされても対応に困るだけだ。
「あ。じゃあ私も」
「ブレインちゃんは待って。オレの方でブレインちゃんに話があるんだ。……大丈夫。こっちも社会的立場があるから、コンプライアンスは守りますって」
有無を言わさぬ圧力を営業スマイルのガワで覆って、社長が彩花に一歩近づいた。同時に、隣にいたダンが、芽衣の腕をぐっと掴んで引っ張ってくる。
「アンタはこっち。行くぞ」
「ちょ! 知らない仲じゃないんで今回だけは大目に見ますけど、コレ、フツーに通報案件なんで! そこのところ、ちゃんと自覚してくださいよ?」
背後で文句を言う彩花の鋭い声が聞こえたが、ダンの方は自分に言われている自覚がないのか、芽衣の腕を掴んだまま駅とは反対方面にずんずん歩き出した。
彩花の言うとおり、よく知らない人相手ならかなり危険な状況だが……と、ここまで考えて、芽衣は自分のモノローグに苦笑する。自分の腕を引っ張って歩く田町蓮似のイケメンは、まだ数度しか会ったことのない、正真正銘の『良く知らない人』だ。なのに彼に対して、不思議と何をされるかわからないという方面の恐怖は感じられなかった。何故だかは芽衣本人にもよくわからない。もしかしたら最近の流れを受けてヤケクソになっているだけかもしれないし、無意識のうちに彼に安心する何かを感じ取っているのかもしれない。ただひとつ言えることは——初めて会ったとき見たダンのダンスは凄かった、ということだけ。だからもしかしたら、芽衣はその事実によって「彼は大丈夫」と、生物の授業で習ったアヒルのように刷り込みされているだけなのかもしれない。
結果として芽衣はリードを引かれる犬よろしく、ダンに腕を取られたまま住宅地の仲を歩いた。そして。
*
「ここの2階」
しばらく進んだ後、ダンは大通り沿いの建物の前で芽衣の腕から手を離す。
中くらいのコンビニサイズの建物で、1階は車庫だろうか。シャッターが降りていた。その横にある外階段をダンがスタスタと登っていくので、芽衣もそれに続く。
外階段の突き当たり、小さな踊り場に面して取り付けられている扉にかかった扉を、ダンは自分の家のように手慣れた動きで開けた。そのまま中に入っていくダンに続いて室内に入りながら、芽衣は横目で扉にかかっていたプレートを見る。
「中野ダンススクール」
……どうやらここは、ダンススクールらしい。ダンススクール、と一口に言ってもその種類はチアダンスからソシアルダンス、レベルに至っては幼稚園児のおけいこからプロの養成所まで千差万別だ。そういった意味では現時点でほぼ情報はないに等しいのだけれど、ダンが出入りしているスクールであれば、その広大な選択肢からある程度までは絞っていくことができる。
「お、サトシ。お疲れ」
しかも、この声。そして『中野』という名字。この二つに、芽衣は聞き覚えがあった。
「ちっす」
「今日早いな。あ、夏休みか。……って、あれ?」
入り口近くにいた男性を見て、芽衣の推測は確信へと変わる。
「サナのところの、えーと、メイちゃんだっけ? 久しぶりだね。元気だった?」
「はい。お久しぶりです」
そこにいたのは、芽衣たちドリームズが出演するチアイベントによく来てくれた『サナ先生の旦那さん』だ。動画を撮影してくれたりしたので、芽衣も顔は知っている。旦那さんの方もダンス関係の仕事をしていると聞いたことがある気もするが、具体的なことまで聞いたことはなかった。
「あの、ここは?」
「メイちゃんは来たことなかったよね。ちょっとチアとはジャンルが違うけど、ここもダンス教室。あ、でもサナのところの子で、ここにも習いに来てくれてる子もいるよ」
中野先生の説明によると、ここではちょうど、サナ先生のチアダンスチーム・ドリームズと同じ年齢層の子たちに、ヒップホップダンスを教えるダンススクールなのだそうだ。近年ではオリンピック等の影響もあってかアクロバットの技を習いたいという要望も多く、そちらの指導もしているという。「サナのところの子」は多分、ステージダンスでアクロバットを担当している、キッズクラスの子たちのことだ。芽衣たちの卒業と前後して、アクロバットを取り入れたステージ構成になることもあったような気がする。
「それで? 今日はどうしたの?」
「えーっと……私にも、ちょっとわかんないカンジなんですが……」
来訪の理由を聞かれても、事前に芽衣に説明があったわけでもない。ちょっと困ってダンの方を見ると、彼は面倒くさそうに芽衣を見返してから中野先生に視線を移した。
「暇そうだから、手伝わせようと思って連れてきた。初心者クラス、振り替えで今日人数多いから」
「ああ、そうなんだ? ありがとう、メイちゃん」
「え? あ、あの……」
高校1年生の芽衣は、後輩にダンスの指導すらしたことがない。中学にダンス部はなかったし、サナ先生のところでもせいぜい、イベントで小さな子たちの面倒を見たことがあるくらいだ。一方的にチアダンスを習ってきただけの経験で、子どもにダンスの指導など果たしてできるのだろうか?
「大丈夫。ヒップホップは、いろいろなダンスを取り入れて楽しむダンスだから。そんなに気負わなくても、いつもみたいに楽しく踊ってくれたら、それでいいから!」
中野先生に軽い感じでそう言われ、なんだかよくわからないまま、芽衣は部活を偽装するため持ってきていた練習着に着替えた。『M高女子ダンス部』の文字が入った水色のTシャツを見て、ダンが自分のバッグから黒い無地のTシャツを出し、芽衣の鼻先に突き出す。
「上。これに着替えろよ」
「え? ……あ、もしかして動画撮るとか? 撮るだけならともかく、配信とか、そういうのちょっと困るんですけど!」
M高の部活着が(映り込みレベルででも)配信されることで、またネットで騒ぎになってはたまらない。この期に及んでこれ以上の状況悪化は想像もつかないけれど、きっと良くないことには底などないだろう。
しかし、芽衣の言葉にダンは意外な答えを返してきた。
「動画は撮らない。レッスンの手伝いだから、撮るならアンタが撮影係だ。映り込むこともない」
「それなら別にこれでも問題な」
申し出をやんわりと断りかけた芽衣の方に、ダンは一歩踏み出す。ぐいと強い力で、Tシャツを押しつけてくる。
「いいから、着ろよ。……もう、そんなトコに縛られんな」
*
その後、15時の幼児クラスを皮切りに10人くらいのグループが入れ替わり立ち替わり現れ、状況がまだはっきりとは飲み込めないまま、芽衣は彼らと一緒に柔軟運動をしたり、リズムを取って簡単なステップを踏んだりした。中野先生の言う通り特に難しいこともないし、何ならダンスの経験がなくても手伝えそうな内容だという気もする。
今までの経験は特に評価されず、ダンの言葉通り「暇そうだから手伝わせようと思って」呼ばれたのかなと芽衣が考え始めた頃。18時30分からスタートした小学校高学年くらいのアクロバットクラスのレッスンで突然、ダンがごく軽い口調で、こんなことを言い出した。
「じゃあ、メイ。ちょっと側宙やって見せてやって」
「……は?」
側宙、すなわち側方宙返りとは、サイドから回る宙返りのこと。回るタイミングで空中に身体が浮く、高難易度の技だ。いきなり「やって」と言われても、そう簡単にできるものではない。
「いや、できないし。そっちがやって見せればいいじゃん」
慌てて拒否すると、ダンは純粋な驚きを薄く顔に浮かべた。どうやらからかったわけではなく、本気で芽衣は側宙ができると信じていた様子だ。
「回ってるのを見せて説明したかったんだ。……まあいいや。じゃあ側転は?」
「側転くらいならできるけど」
「うん。じゃあそれで」
側転はできる、とは言ったが、最後回ったのは一体いつのことだっただろうか。最近は練習不足だし、きちんと回れる自信はなかった。それでも「できる」と言ってしまった以上引っ込みがつかず、生徒6人が見守る前で、芽衣は小さく助走をつけてから1回転だけ気持ちゆっくり目の側転で回る。……よし。足も伸びていたし、ジャンプも高かった。ゆっくり目に回ったから、これなら目で追いやすかっただろう。成功……だと思う。
「見えたか? こんな風に足を伸ばすこと。視線を下に向けること。踏みきる足は強めに。この辺は基本だな。……で」
生徒たちと一緒に芽衣の側転を眺めていたダンは(おそらく)教科書通りの解説をした後、スマートスピーカーに時刻を聞くようにさらりと、芽衣に新たな注文を出してくる。
「今度はもうちょっとジャンプ高く踏切強めに、高速でやって。あまり手に頼らずに」
「あ、ハイ」
言われたとおりスピードを上げ、先ほどと同じ位置で踏み切って回転。今回はスピードとジャンプを意識したため手があまり上手につけなかったが、ダンの方がそこに言及する気配はない。
「オッケー。……じゃ、まずはこのくらいのスピードを目指して少し練習。で……メイ、もっかいやって」
言われるまま再度芽衣がスタート位置から走り出し、踏み切るタイミングで突然、ダンが芽衣の腰を背後から掴んだ。同時に鋭く叫ぶ。
「腕引け!」
言われるままに腕を身体の方に引いた結果、ダンに支えられた腰を中心に身体が空中で回り、着地する。小学校のとき先生に支えられてぐるりと回ることができた、逆上がりの練習のような感触。
「……こんな感じで補助つけるから、腕引いて。うまく回れれば、それが側宙な」
観客の生徒たちから「おお〜」と小さく歓声が上がった。が、それより誰よりびっくりして感動しているのは芽衣自身だ。側転のようなアクロバット技は完全に独学というか見よう見まねで、きちんとレッスンを受けたことは今までに一度もない。『アクロバット隊』としてチーム内で選抜され技を見せていた子たちと、チアダンスしかできない自分たちは、完全に手持ちのカードが違うと思っていた。そのアクロバットの技が、こんな風に少し手を貸して貰うだけでできてしまうとは。……何というか、魔法みたいだ。
「おい、メイ。呆けてないで、補助手伝え」
「あの、今のって側宙、だよね?」
「そうだけど」
「こんな簡単にできちゃうなんて、信じられない……」
まだ夢見心地の芽衣に対して、ダンはあくまでも仏頂面のまま冷静に答える。
「信じられないなら、もいっかい回れば?」
促されるまま、芽衣は再度ダンの補助をアテにして踏み切った。「腕!」という声に腕をクロスさせ、身体の方に引き寄せる。回転。着地。……あれ?
「ちょっとー! 補助は?」
「一人で回れるヤツに、補助はいらねーよ」
腕こそ前ならえのように差し出す形にしていたけれど、ダンは結局、芽衣には一切触れなかった。……今度はアレだ。「支えてるよー」と言いながら、お父さんがいつの間にか車体から手を離していた、自転車の練習の感触?
「ひど。怪我したらどうするよ?」
「怒る前に、感謝しろよ。技増えただろ」
「ハイ。ソウデスネ。アリガトウゴザイマシタ」
「何だそれ。スマートスピーカーか」
ようやくごく薄い笑顔を浮かべたダンを見て、芽衣の方も苦笑交じりの笑顔になる。久しぶりに「チアダンサーの笑顔」でなく、本当の笑顔になったような気がした。
すごく、いい気分だった。
*
アクロバットクラスが本日最後のクラスということだったので、このレッスンで芽衣たちの手伝いも終了。
「今日はありがとう。また遊びにおいで。サトシ、ちゃんと送れよ」
……と中野先生に見送られ、芽衣とダンはようやく暗くなり始めた住宅街へと出てきた。まだまだ外気は生暖かく、エアコンの効いていた室内から出たその瞬間から、じわじわと体力が削がれていく気がする、
よく聞くとダンは、このダンススクールでアシスタントのバイトをしているという。なので本来ならこの後片付けなどの作業があるのだろうが、中野先生の計らいで本日は免除になったようだ。
薄闇の中を、二人並んで歩く。まっすぐ駅に向かうつもりでいたので、公園入り口でダンが進路を変更したのに芽衣は少々戸惑った。付いてこない芽衣に気づく様子もなく、ダンはスタスタと公園の中へ進んでいく。その背中が闇に溶けそうになり、慌てて芽衣は彼を追った。
そのまま入り口近くにある売店の横まで歩き、そこにあった自動販売機でダンは飲み物を買う。追いついてきた芽衣の鼻先に、買ったうちの1本を突きつけて。
「コレ。バイト代にしては安いけど、一応」
「あ……ありがと」
芽衣がペットボトルを受け取ったことで空いた手で、ダンはそのまま自分のペットボトルの蓋を開けた。そのまま流れるようにその場でペットボトルを口に運ぶダンに倣い、芽衣も受け取った天然水の蓋を開け、その場で立ち飲みする。水は冷たく、とても美味しく感じられた。
「アンタは軸がしっかりしてるからアクロバットに適性があるし、ダンスの基礎はきっちり入ってる。子どもに教えるくらいは問題なくできるはず。そう思って連れてきた」
前振りなく、ダンがいきなり話し始める。
「えっ? あ、ハイ」
内容的に褒められている気はしたが、彼の言葉の意図がつかめず、芽衣は何と答えていいのかわからなかった。結果、何となく間が抜けた返しになってしまう。
「アクロバットはチアでも重宝されるんだろ? 側転もきれいだったし、側宙ができるのは武器になる。きっと、その辺の高校ダンス部なんかじゃエース候補だろうな」
ぼんやりと明るい自動販売機のディスプレイに照らされたダンは、芽衣の方を見てはいなかった。一旦言葉を切り、彼は公園の奥の方の闇を見つめる。そんなダンの横顔を黙って見守りながら、芽衣はゆっくりと、その言葉を反芻した。
——確かに、アクロバットは大きな武器になる。宙返り系は特に華やかな演出になり、チームダンスを盛り上げる要素として有用だ。でも、部活の試合での応援ならともかく、今の女子ダンス部で、芽衣がチームダンスを踊ることなんてあるのだろうか。メンバーから完全にハブられている、この状況で。
「ごめんな」
闇を見つめたまま、沈黙を破り、ダンが口を開く。
「ニャムから聞いた。あのダンス添削が原因で、アンタがダンス部でうまく行ってないって」
「あ、でも、それは」
確かに、部活から追い出されなければここまで亀裂は大きくならなかったかもしれない。でも何となく、うまく行かなくなるのは時間の問題だったような気もする。そもそも、シャイニング子たちが芽衣を目の敵にする理由が、ダンではないことだけは明らかだ。
最初は本当にむちゃくちゃ腹が立ったけれど、多少親しくなることで、ダンに悪気がなかったことだけはよくわかった。だから、もういい。——そう、伝えたかった。でも、そんな主張をできる雰囲気ではなかったので、仕方なく芽衣は沈黙を守る。
「コーチから声かけられて足運んだ、何かのイベントでアンタのダンスを見た。すごく、イイと思った。だから動画で取り上げたんだ。ホントそれだけで、他意はなかった」
闇から視線を動かさず一気に言葉を吐き出してから、ダンがようやく、芽衣の方を向いた。
「だから、アンタには踊って欲しい。俺のせいで場所を奪われたなら、俺が何とかする。だから、踊り続けて欲しい。ずっと、見ていたいんだ。アンタを」
強い視線。そして、強い言葉。ダンは少しも動いていないのに、ぐっと押されるような圧。その圧に胸を押され、うまく言葉が出てこない。
それでも何とか、芽衣はダンにこくりと頷く。
「大丈夫。ハブられても、力の限り、踊り続けるよ。好きだから」
……そうだ。大丈夫。学校に味方がいなくても、こんな風にごく近くで力を貸してくれる人たちがいる。だから頑張れる。——そんな風に心を決め、思いを口に出した。
そんな決意表明を間近で聞き、ダンは胸を張る芽衣をまじまじと見つめる。何か言葉を探すように視線をさまよわせ、手にしていたペットボトルの中身を飲む。困ったように、ちょっとだけ笑う。
「いや、だからさ……そうじゃねーよ。もうやめろって言ってんだよ。学校のダンスはさ。くだらねー」
柔らかく優しいダンの声音とその内容がちぐはぐで、今度は芽衣の方が、状況を理解するのに時間を要した。内容が頭にしみこむのと同じスピードで、思い切り勘違いしてドヤった恥ずかしさに、頬が熱くなってくるのが自分でもわかる。
「あ、そういうカンジ?」
「そ。そういうカンジ」
見つめ合い、思わずお互い照れ笑いしてから、芽衣は再度ダンの瞳をのぞき込んだ。
「あの、でも、なら具体的にはどんな感じで踊り続ければいいんだろう? サナ先生のところは中学生までの教室だし、今さら他の学校に転校も難しいし……」
「その辺は、多分今兄貴とアンタの友達が相談してると思う」
……なるほど。今日彩花が社長に呼ばれたのはそういう理由か。
思った以上に『ふぉーぱーそん』の面々の間では、芽衣の処遇についての話し合いは進んでいるらしい。
「えっと……つまりはこの先、『ふぉーぱーそん』がらみで踊る流れが想定されてるってこと?」
「その辺は、まだちょっと未定だけど」
単刀直入に聞いてみたところ、その返答は思ったよりも煮え切らない感じだ。が、芽衣の不安をよそに、ダンは本当に嬉しそうにニヤリと笑う。
「動画にはできないかもしれないけど、面白い企画があるんだ。アンタがアクロバット技を披露できるのが条件だったんだけど、何とかなりそうだし……」
「アクロバット技を入れるってことは、イベントステージかな?」
「あたり。でもこれ以上の話は、アンタがM高女子ダンス部を辞めてきてから話す」
何とかヒントを得ようと水を向けても、思いがけずダンの口は堅い。
一抹の不安がないわけではないけれど、ダンが差し出してきた新しい可能性に賭けてみたかった。——何より、あのダンス部で耐え忍ぶよりも数倍、こちらの方が面白そう!
「わかった。なる早で辞めてくるから、ちゃんと説明して」
小さく深呼吸してから、なるべく何でもない風に聞こえるよう頑張って、芽衣はダンにそう答えた。
*
その翌日。
確実に上級生が登校してきている朝を狙って芽衣は久しぶりに女子ダンス部部室に出向き、退部する旨を伝えた。
1年生の事情を詳しく知らない、2年生の次期ダンスリーダーからは「もう少し、せめてダンスコンクール予選まで頑張ってみたら?」と引き留められたが、きっぱりと断る。コンクールメンバーになるための部内オーディションに応募する気もなかったし、そもそもだが、おそらく応募したとしても、同級生であるシャイニング子たちの妨害で上手くいかない公算大だ。
ダンスのことをよくわかっていて技術も高いはずの次期ダンスリーダーから、退部を引き留められる程度には認められていたということがわかっただけで、芽衣としては充分だった。
「ありがとうございます。でも今後は、別のメンバーと踊りたいと思っているので」
そんな芽衣の決意表明を次期ダンスリーダー伝に聞き、きっとシャイニング子たちは内心ホクホクだったことだろう。芽衣の方からメッセージグループを抜けるより先に、芽衣を除くメンバー全員が『女子ダンス部1年』グループを退出していたことからも、同学年メンバーが芽衣を疎ましく思っていたことは明らかだ。
そのことをスタバ会議で彩花に話したところ、彼女は本当に嬉しそうに「お疲れさまだったねー」と笑って、キャラメルフラペチーノを1杯ご馳走してくれた。代わりに女ダンの練習用Tシャツが欲しいというので洗濯済みのものを1枚渡す。何に使うのか聞いてみたところ、彼女は笑って、こんな風に答えた。
「ギッタンギッタンに切り刻むか、呪いをかける道具に使うか……まだ迷ってるけど、ちゃんと決まるまでは、私の夏の部屋着になるかなー。Tシャツとしてはスポーツ用で、上質だしね」
始まる前は、運動部の応援ラッシュを考えるだけで暗澹たる気持ちになっていた夏休みも、この日を境に飛ぶように過ぎ去っていく。
気がつけば夏休みもおしまい。運動部が出場する夏の大会も大体が終了し、大会を終えた運動部所属の3年生も引退。ようやくM高全体が落ち着きを取り戻し始めた。
——秋に全国大会予選のある、女子ダンス部を除いて。
メッセージを送る!
