4.恐喝屋
弓師街は商店や酒場、宿屋が立ち並ぶ繁華街だが、その頭には〝いかがわしい〟が付く。
日が落ちてからも開いている――どころか日が落ちてから開くような店も山ほどあり、客引きが通行人をひっきりなしに呼び止め、袖をつかんで脂ぎった笑みを浮かべていた。
表通りでこれだから、裏通りに入れば雑踏を避けられる代わりに、雰囲気はいっそう怪しくなる。まるで火の点いた街灯や店先のランタンは自分専用の照明だと言わんばかりに、ひとつの明かりの下にひとりの間隔で立ちんぼが並んでいた。そうして並ぶ街娼に腕を引かれ、宿や路地に消える男たちもいる。誰もいなくなった明かりの下に、また別の街娼が立つ。昨今の流行色は紫のようで、さすがに全身をそれで装う姿はまれだったが、春をひさぐ者らは服や装身具のどこかしらに紫をあしらっていた。
また、時には賭博場の黒い扉から叩き出されて、地べたに転がる客を見ることもある。扉から半身を覗かせて、二度と面ァ見せんな! と尻餅をついた客に追い打ちの怒声を浴びせるのは、ギラついた目をした、人相の悪い用心棒だ。賭博場は表通りにもあるが、裏通りのそれは市の認可を受けていないもぐりで、貴族までもがお忍びで通うという高級店では法外な金額が動くともっぱらの評判だった。
そんな弓師街での商いの多くは、この街の悪党一家のどれかに繋がっている。密造酒、博打、売春、麻薬、その他諸々の悪事に携わる一家は、極々小さなものも含めれば十数は下らないという。〝どもり〟のアーティ一家も、そのうちのひとつだ。
ケイは表通りの青果店に足を運んだ。
アーティの〝どもり〟と異なる二つ名は〝果物屋〟である。脅迫者の世間向けの顔はその店主だ。至極真っ当な商売で評価も高い。夜遅くまで開いているのは不埒なことをしているわけではなく、不意に訪れた上客の酒席を華やかにしたい酒場の店員や、馴染みの娼婦への手土産を求める男どもが夜半過ぎても果物を買いに来るからだ。少なくとも表向きは。
「アーティの旦那はいるかい」
「はい。どんな御用で?」
そばかす顔の若者――いや、まだ十代の少年だろう――が元気よく答えた。
「ケイが仕入れの話に来たと伝えてくれ」
少年は小走りにカウンターへ向かい、その影に座っていた者と囁きを交わした。そして、そのまま店の裏手に引っ込んだ。
少年は自分の雇い主の正体を知らないだろう。ここいらでもちょっと知られた、愛想がよくて、賃金の払いもよい店主だと思っているはずだ。それは間違いではない。ただ、アーティは〝ちょっと〟どころか、一部では〝とてもよく〟知られているというだけだ。
客はケイひとり。少年がいなくなった代わりに、カウンターの影に隠れていた店員が、今は立って姿を見せている。さすがに店内を客だけにしないか……。店員は痩せて背の高い、おでこに大きなおできがある男だ。こちらは少年とは違い、その筋の者と見て間違いない。視線を向けているわけではないが、ケイに注意を払っている。
アーティの店は青果店と言いながら、入って右手に並んでいるのはドライフルーツやジャムの瓶詰めだ。〈王都〉では林檎とベリーを除けば生の果物は高価なので当然そうなる。それでも左手にはベリー各種だけでなく林檎や葡萄やオレンジ、数は少ないがパイナップルまで陳列されていた。日中は雨天でなければ店頭のワゴンにも果物が積まれ、エプロン姿の女の子がその場でカット売りもしてくれる。オレンジはいかが? 食べやすい大きさに切って差し上げますよ。
ケイは甘い匂いの果物たちを眺めた。陳列ひとつひとつに品名と売り文句を添えた値札が付けられている。
〝芳醇な香りと酸味〟
〝産地直送で新鮮〟
〝パイでも、そのままでも!〟
値札はどれもアーティ自身が書いたものだ。アーティの更に別の二つ名は〝下町の能書家〟である。この店の主は文字が読めるだけでなく、金持ちの客が感心するほど美しい字を書けるのだ。実際、達筆すぎてケイには読めない値札もあった。
〈王都〉にはろくすっぽ読み書きできない者が多い。そのためアーティは代読人、代書人としても近隣住民に重宝されており、店の副収入源にもなっている。そもそもアーティは代書で店を開く資金を稼いだのだという話もあり、それは真実味のある説だった――手紙の代書で弱みを握られ、金を搾り取られた奴は何人いる?
「アーティさんがお会いになるそうです」
そばかすの少年が戻ってきた。
ケイは少年の案内で店の裏手に入り、階段を上る。
アーティは店の者に、自分のことを「主人」とか「旦那様」とは呼ばせない。必ず「アーティさん」だ。これは一家の手下に対しても変わらなかった。
青果店の二階は思いのほか質素だ。窓辺に特段の装飾はなく、明るい黄土色の壁紙も模様なし。絨毯の代わりに安物のラグが敷かれている。
少年は執務室の扉をノックし、ケイを連れて来たことを告げた。扉越しに「入ってもらって」と声がする。
どうぞ、と扉を開いて脇に身を寄せる少年は、どこか誇らしげだ。雇い主からさぞかし目をかけられているのだろう――それは店員としてなのか、未来の手下としてなのかはわからない。
アーティはどっしりした机の向こうで、真鍮の籠から出した小鳥に餌をやっていた。少年が一礼して扉を閉めて立ち去り、チチチと鳴く小鳥を籠に戻すと、ケイのほうに頭を巡らせる。
「や、やあ、ケイ。ちゃんと食べてる、かい?」
短躯で丸顔、太鼓腹の〝果物屋〟は手を差し伸べて椅子を示した。アーティの言う「食べてるか」は、稼いでいるか? という意味だ。
「まあな」
ケイは腰を下ろした。
「こっちもね、ま、まあまあ、かな。実りはなかなかだよ。こ、こうなると、人手があと何人か、欲しいかもしれないね」
アーティも机の後ろの席に着き、小さな目を細めて微笑んだ。壮年の篤実な商人。そういう顔だ。その顔で〝どもり〟のアーティは恐喝の獲物はもちろん、稼業に都合の悪い邪魔者も皆、地獄に叩き落としてきた。そして困ったように、こう言うのだ――仕方ないんだよねぇ、こういうばやい。
籠の小鳥がさえずった。
「今の子もね、こ、この春に雇ったばかりなんだけど、働き者だよ。いい子さ。ただ、わ、若すぎるよねえ。それに力仕事には、む向かないと――」
「百天秤街の店の裏帳簿があったら買うか?」
そう言ってケイがアーティのお喋りを遮ると、アーティはきょとんとして小さな目を瞬かせた。
「そりゃ、ね。い、幾らで?」
「あったらの話だ」
唇を尖らせ、肩をすくめた〝果物屋〟に、ケイは言葉を続ける。
「値付けは任せる。こっちも多少は意見させてもらうが」
アーティは、ふうっと大きく息を吐いて、頭のてっぺんにだけ残った、燃え滓から弱々しく立ち昇る煙のような灰色の髪を右手で撫でた。そうやって気乗りしない素振りを見せながら、同時に左手で素早く〝いいよ〟と信号を送ってくる。
「し、仕入れはどこだい?」
「石工ヶ辻」
ケイの答えに、アーティは少し身を乗り出した。
「ハーウェル区の? じゃ、じゃあ、高い買い物になり、そうだなあ」
「欲しくないのか?」
「いやいや! そうじゃ、そうじゃなくて――」
打ち上げられた鯉のように口をパクパクさせる。
狼狽――しているふりだ。アーティは駆け引きを好む。互いに手札を読み合うような駆け引きを。
「――衛士隊のね、動きがちょっと、あわ、慌ただしいんだよ、今のハーウェル区」
衛士隊?
〝どもり〟のアーティが出す札はいつも伏せられている。申告どおりの札だという保証はない。表にするのは金を受け取った時だが、そういう右から左の売り買いにアーティは飽き飽きしていて、札は場に伏せたままで話を長引かせる癖があった。
「あんたのとこの若いのが、何かやらかしたんだろう」
ケイが笑うと、アーティは丸い顔を赤くした。
とにかくハーウェル管轄の衛士隊がピリピリしている。夜回りの数が増えたわけじゃないし、表向きは変わりない。でも……とアーティはもたもたした口調で弁明した。うちがやらかしたわけじゃないよ、と。
いや、これはやらかしたな、とケイは思った。
それはハーウェル区内で、まさに石工ヶ辻だったかもしれない。アーティの手下が恐喝の材料をつかもうとして派手に立ち回りすぎたか、脅した相手に衛士隊の詰所に駆け込まれたか。ケイがそう思っていることは、アーティもお見通しだろう。アーティは、ケイが裏帳簿を盗る当てがあって言っているのか、ハーウェル区の動向をどこまで把握しているのかを知りたい。ケイは、ベスの話の出どころを確かめたかったし、ついでに情報通なアーティから仕事に役立ちそうな情報を引き出せるだけ引き出したかった。
この様子だと、アーティの手下があのへんで仕事をしていたのは間違いないようだ。ならばベスの話と辻褄は合う。連中ならホーラーの金の臭いを嗅ぎつけていてもおかしくなかった。
しかし、衛士隊とはね! 〈王都〉の治安を守る――そういうことになっている――衛士隊が、理由はどうあれ警戒を強めているとすれば、〝壁抜け〟などよりずっと厄介この上ない。仕入れた品の売り値は吊り上げてしかるべきだ。
――それが真実なら。
ここでケイが銀貨で三シェールも出せば、伏せた札を表にして嘘か真かを明かしてくれるだろうが、アーティは喜ばない。それに、もし金を出したら、ケイは仕事の安全をはした金で買う奴だと脅迫者に弱みを見せることになる。この男に迷いやためらいをさらすのは御免だ。できれば〝壁抜け〟がハーウェル区に現れるという噂はないか? と尋ねてみたくもあったが、それは止めた。欲張ってあれもこれも確かめようとすると、こちらの手札を見透かされやすくなる。
また小鳥がチチチと鳴いた。
奥の壁際の本棚には、動物や植物に関する立派な装丁の本が揃いでずらりと並んでいる。アーティの趣味だ。弓師街の〝果物屋〟は上流階級出身で大学も出ているというまことしやかな噂は本当なのかもしれない。
「仕入れはする。もう決めたことだ」
裏帳簿云々はケイのはったり。あったら売るつもりなのは言ったとおりだが、ホーラーがそれを別邸に隠し持っている確証はない。あるとわかっていて売り込みに来たのではないか――と考えるのは、どうぞご自由に。
「ねぇ、ケイ」
アーティは椅子の背もたれに深く身を沈めた。
「し、心配してるんだよ。もちろん売ってくれたら、う、嬉しいけども」
心配? 何を? 盗賊風情が下手を打って、自分の畑を荒らす恐れがあることか? そうではない。ケイのことが心配だと言っている。
〝どもり〟のアーティは真面目に他人の身を案じることのできる人物だが、同時に相手を陥れる隙を狙うことにも余念がなく、どちらの振る舞いにも嘘はなかった。
そこが面倒だ。単純に損得で本音と建前を使い分ける、ぺてん師のほうがはるかに御しやすい。この悪党の最大の強みは正直だという点にある。
ケイが立ち上がると、アーティは呼び鈴を鳴らし、少年に見送りをさせた。
執務室を出て、階段を降りる前にチップを渡す。ポケットから取り出した銀貨を一枚――この子には大金だろうが、多からず少なからず、だ。
「ありがとうございます!」
そばかすの少年は笑顔で銀貨を受け取る。
こんな時間に弓師街で働くのだ。ことさら弾んでやるつもりはないが、チップが銅貨では張り合いがないだろう。それにアーティと話したことは、まあまあ有意義だった。たとえ真の稼業を知らない立場だとしても、この子も店主の働きから少しはおこぼれに与るべきだ。
ケイは夜の表通りを歩く。
賑やかだ――大勢の男女が行き交い、酒場に酔っぱらいが出入りする。今からアーティの店に飛び込んで、果物を買う客も多いに違いない。
せいぜい気をつけて、こっちも稼ぐことにしよう。
日が落ちてからも開いている――どころか日が落ちてから開くような店も山ほどあり、客引きが通行人をひっきりなしに呼び止め、袖をつかんで脂ぎった笑みを浮かべていた。
表通りでこれだから、裏通りに入れば雑踏を避けられる代わりに、雰囲気はいっそう怪しくなる。まるで火の点いた街灯や店先のランタンは自分専用の照明だと言わんばかりに、ひとつの明かりの下にひとりの間隔で立ちんぼが並んでいた。そうして並ぶ街娼に腕を引かれ、宿や路地に消える男たちもいる。誰もいなくなった明かりの下に、また別の街娼が立つ。昨今の流行色は紫のようで、さすがに全身をそれで装う姿はまれだったが、春をひさぐ者らは服や装身具のどこかしらに紫をあしらっていた。
また、時には賭博場の黒い扉から叩き出されて、地べたに転がる客を見ることもある。扉から半身を覗かせて、二度と面ァ見せんな! と尻餅をついた客に追い打ちの怒声を浴びせるのは、ギラついた目をした、人相の悪い用心棒だ。賭博場は表通りにもあるが、裏通りのそれは市の認可を受けていないもぐりで、貴族までもがお忍びで通うという高級店では法外な金額が動くともっぱらの評判だった。
そんな弓師街での商いの多くは、この街の悪党一家のどれかに繋がっている。密造酒、博打、売春、麻薬、その他諸々の悪事に携わる一家は、極々小さなものも含めれば十数は下らないという。〝どもり〟のアーティ一家も、そのうちのひとつだ。
ケイは表通りの青果店に足を運んだ。
アーティの〝どもり〟と異なる二つ名は〝果物屋〟である。脅迫者の世間向けの顔はその店主だ。至極真っ当な商売で評価も高い。夜遅くまで開いているのは不埒なことをしているわけではなく、不意に訪れた上客の酒席を華やかにしたい酒場の店員や、馴染みの娼婦への手土産を求める男どもが夜半過ぎても果物を買いに来るからだ。少なくとも表向きは。
「アーティの旦那はいるかい」
「はい。どんな御用で?」
そばかす顔の若者――いや、まだ十代の少年だろう――が元気よく答えた。
「ケイが仕入れの話に来たと伝えてくれ」
少年は小走りにカウンターへ向かい、その影に座っていた者と囁きを交わした。そして、そのまま店の裏手に引っ込んだ。
少年は自分の雇い主の正体を知らないだろう。ここいらでもちょっと知られた、愛想がよくて、賃金の払いもよい店主だと思っているはずだ。それは間違いではない。ただ、アーティは〝ちょっと〟どころか、一部では〝とてもよく〟知られているというだけだ。
客はケイひとり。少年がいなくなった代わりに、カウンターの影に隠れていた店員が、今は立って姿を見せている。さすがに店内を客だけにしないか……。店員は痩せて背の高い、おでこに大きなおできがある男だ。こちらは少年とは違い、その筋の者と見て間違いない。視線を向けているわけではないが、ケイに注意を払っている。
アーティの店は青果店と言いながら、入って右手に並んでいるのはドライフルーツやジャムの瓶詰めだ。〈王都〉では林檎とベリーを除けば生の果物は高価なので当然そうなる。それでも左手にはベリー各種だけでなく林檎や葡萄やオレンジ、数は少ないがパイナップルまで陳列されていた。日中は雨天でなければ店頭のワゴンにも果物が積まれ、エプロン姿の女の子がその場でカット売りもしてくれる。オレンジはいかが? 食べやすい大きさに切って差し上げますよ。
ケイは甘い匂いの果物たちを眺めた。陳列ひとつひとつに品名と売り文句を添えた値札が付けられている。
〝芳醇な香りと酸味〟
〝産地直送で新鮮〟
〝パイでも、そのままでも!〟
値札はどれもアーティ自身が書いたものだ。アーティの更に別の二つ名は〝下町の能書家〟である。この店の主は文字が読めるだけでなく、金持ちの客が感心するほど美しい字を書けるのだ。実際、達筆すぎてケイには読めない値札もあった。
〈王都〉にはろくすっぽ読み書きできない者が多い。そのためアーティは代読人、代書人としても近隣住民に重宝されており、店の副収入源にもなっている。そもそもアーティは代書で店を開く資金を稼いだのだという話もあり、それは真実味のある説だった――手紙の代書で弱みを握られ、金を搾り取られた奴は何人いる?
「アーティさんがお会いになるそうです」
そばかすの少年が戻ってきた。
ケイは少年の案内で店の裏手に入り、階段を上る。
アーティは店の者に、自分のことを「主人」とか「旦那様」とは呼ばせない。必ず「アーティさん」だ。これは一家の手下に対しても変わらなかった。
青果店の二階は思いのほか質素だ。窓辺に特段の装飾はなく、明るい黄土色の壁紙も模様なし。絨毯の代わりに安物のラグが敷かれている。
少年は執務室の扉をノックし、ケイを連れて来たことを告げた。扉越しに「入ってもらって」と声がする。
どうぞ、と扉を開いて脇に身を寄せる少年は、どこか誇らしげだ。雇い主からさぞかし目をかけられているのだろう――それは店員としてなのか、未来の手下としてなのかはわからない。
アーティはどっしりした机の向こうで、真鍮の籠から出した小鳥に餌をやっていた。少年が一礼して扉を閉めて立ち去り、チチチと鳴く小鳥を籠に戻すと、ケイのほうに頭を巡らせる。
「や、やあ、ケイ。ちゃんと食べてる、かい?」
短躯で丸顔、太鼓腹の〝果物屋〟は手を差し伸べて椅子を示した。アーティの言う「食べてるか」は、稼いでいるか? という意味だ。
「まあな」
ケイは腰を下ろした。
「こっちもね、ま、まあまあ、かな。実りはなかなかだよ。こ、こうなると、人手があと何人か、欲しいかもしれないね」
アーティも机の後ろの席に着き、小さな目を細めて微笑んだ。壮年の篤実な商人。そういう顔だ。その顔で〝どもり〟のアーティは恐喝の獲物はもちろん、稼業に都合の悪い邪魔者も皆、地獄に叩き落としてきた。そして困ったように、こう言うのだ――仕方ないんだよねぇ、こういうばやい。
籠の小鳥がさえずった。
「今の子もね、こ、この春に雇ったばかりなんだけど、働き者だよ。いい子さ。ただ、わ、若すぎるよねえ。それに力仕事には、む向かないと――」
「百天秤街の店の裏帳簿があったら買うか?」
そう言ってケイがアーティのお喋りを遮ると、アーティはきょとんとして小さな目を瞬かせた。
「そりゃ、ね。い、幾らで?」
「あったらの話だ」
唇を尖らせ、肩をすくめた〝果物屋〟に、ケイは言葉を続ける。
「値付けは任せる。こっちも多少は意見させてもらうが」
アーティは、ふうっと大きく息を吐いて、頭のてっぺんにだけ残った、燃え滓から弱々しく立ち昇る煙のような灰色の髪を右手で撫でた。そうやって気乗りしない素振りを見せながら、同時に左手で素早く〝いいよ〟と信号を送ってくる。
「し、仕入れはどこだい?」
「石工ヶ辻」
ケイの答えに、アーティは少し身を乗り出した。
「ハーウェル区の? じゃ、じゃあ、高い買い物になり、そうだなあ」
「欲しくないのか?」
「いやいや! そうじゃ、そうじゃなくて――」
打ち上げられた鯉のように口をパクパクさせる。
狼狽――しているふりだ。アーティは駆け引きを好む。互いに手札を読み合うような駆け引きを。
「――衛士隊のね、動きがちょっと、あわ、慌ただしいんだよ、今のハーウェル区」
衛士隊?
〝どもり〟のアーティが出す札はいつも伏せられている。申告どおりの札だという保証はない。表にするのは金を受け取った時だが、そういう右から左の売り買いにアーティは飽き飽きしていて、札は場に伏せたままで話を長引かせる癖があった。
「あんたのとこの若いのが、何かやらかしたんだろう」
ケイが笑うと、アーティは丸い顔を赤くした。
とにかくハーウェル管轄の衛士隊がピリピリしている。夜回りの数が増えたわけじゃないし、表向きは変わりない。でも……とアーティはもたもたした口調で弁明した。うちがやらかしたわけじゃないよ、と。
いや、これはやらかしたな、とケイは思った。
それはハーウェル区内で、まさに石工ヶ辻だったかもしれない。アーティの手下が恐喝の材料をつかもうとして派手に立ち回りすぎたか、脅した相手に衛士隊の詰所に駆け込まれたか。ケイがそう思っていることは、アーティもお見通しだろう。アーティは、ケイが裏帳簿を盗る当てがあって言っているのか、ハーウェル区の動向をどこまで把握しているのかを知りたい。ケイは、ベスの話の出どころを確かめたかったし、ついでに情報通なアーティから仕事に役立ちそうな情報を引き出せるだけ引き出したかった。
この様子だと、アーティの手下があのへんで仕事をしていたのは間違いないようだ。ならばベスの話と辻褄は合う。連中ならホーラーの金の臭いを嗅ぎつけていてもおかしくなかった。
しかし、衛士隊とはね! 〈王都〉の治安を守る――そういうことになっている――衛士隊が、理由はどうあれ警戒を強めているとすれば、〝壁抜け〟などよりずっと厄介この上ない。仕入れた品の売り値は吊り上げてしかるべきだ。
――それが真実なら。
ここでケイが銀貨で三シェールも出せば、伏せた札を表にして嘘か真かを明かしてくれるだろうが、アーティは喜ばない。それに、もし金を出したら、ケイは仕事の安全をはした金で買う奴だと脅迫者に弱みを見せることになる。この男に迷いやためらいをさらすのは御免だ。できれば〝壁抜け〟がハーウェル区に現れるという噂はないか? と尋ねてみたくもあったが、それは止めた。欲張ってあれもこれも確かめようとすると、こちらの手札を見透かされやすくなる。
また小鳥がチチチと鳴いた。
奥の壁際の本棚には、動物や植物に関する立派な装丁の本が揃いでずらりと並んでいる。アーティの趣味だ。弓師街の〝果物屋〟は上流階級出身で大学も出ているというまことしやかな噂は本当なのかもしれない。
「仕入れはする。もう決めたことだ」
裏帳簿云々はケイのはったり。あったら売るつもりなのは言ったとおりだが、ホーラーがそれを別邸に隠し持っている確証はない。あるとわかっていて売り込みに来たのではないか――と考えるのは、どうぞご自由に。
「ねぇ、ケイ」
アーティは椅子の背もたれに深く身を沈めた。
「し、心配してるんだよ。もちろん売ってくれたら、う、嬉しいけども」
心配? 何を? 盗賊風情が下手を打って、自分の畑を荒らす恐れがあることか? そうではない。ケイのことが心配だと言っている。
〝どもり〟のアーティは真面目に他人の身を案じることのできる人物だが、同時に相手を陥れる隙を狙うことにも余念がなく、どちらの振る舞いにも嘘はなかった。
そこが面倒だ。単純に損得で本音と建前を使い分ける、ぺてん師のほうがはるかに御しやすい。この悪党の最大の強みは正直だという点にある。
ケイが立ち上がると、アーティは呼び鈴を鳴らし、少年に見送りをさせた。
執務室を出て、階段を降りる前にチップを渡す。ポケットから取り出した銀貨を一枚――この子には大金だろうが、多からず少なからず、だ。
「ありがとうございます!」
そばかすの少年は笑顔で銀貨を受け取る。
こんな時間に弓師街で働くのだ。ことさら弾んでやるつもりはないが、チップが銅貨では張り合いがないだろう。それにアーティと話したことは、まあまあ有意義だった。たとえ真の稼業を知らない立場だとしても、この子も店主の働きから少しはおこぼれに与るべきだ。
ケイは夜の表通りを歩く。
賑やかだ――大勢の男女が行き交い、酒場に酔っぱらいが出入りする。今からアーティの店に飛び込んで、果物を買う客も多いに違いない。
せいぜい気をつけて、こっちも稼ぐことにしよう。
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