7.好事魔多し
――空き部屋。
そうとしか言いようのない空間だった。
もぬけの殻ではないが殺風景だ。絨毯が敷かれていなかったら、もっと惨めな有り様だったかもしれない。扉を背に奥の壁には窓があり、カーテンは閉じている。左右の壁には戸棚や衣装箪笥が押しつけられ、中央には小さな丸テーブル。そして片隅には馬車に積み込む旅行用の頑丈そうな木製の櫃が置かれていた。
木の櫃の蓋を開く。中に何もなくても、ケイは落胆しなかった。
あるわけがない。鍵をかけない部屋の収納に金を隠すような奴は救いようのない馬鹿だ。ホーラーがそうなら、百天秤街の店はとっくの昔に潰れている。戸棚や箪笥の中も、見込みは薄いだろう。まめな清掃を心がけている使用人が出入りしても、まず手を回さない場所――隠すならそこだ。
中身がないのはともかく、この木の櫃が時々動かされていることは見逃せない。どうやら放ったらかしにされていたわけではないらしい。絨毯にわずかだが、それを示す跡が残っている。だとすると――。
蝋燭立てを高く掲げて、ケイは天井を見た。
あった。
右奥隅に屋根裏に続く正方形の跳ね上げ戸。しかし金持ちの家がたいていそうであるように天井は高く、たとえ丸テーブルの上に乗ったとしても戸には手が届かない。にもかかわらず室内に梯子は見当たらなかった。
ならば、こうするのが正解だ。
蝋燭立てを椅子に置き、丸テーブルを跳ね上げ戸の下に運んで、その上に木の櫃を置く。これの上に立てば、手が届いて戸を開けられる。ケイは慎重に戸を跳ね上げ、口を開いた闇の中に手を差し入れた。
――そういうことか、ホーラー。
指に当たった物をつかんで引っ張ると、それははらりと落ちて垂れ下がった。
縄梯子だ。蝋燭立てを先に入れて素早く登り、屋根裏に上がると、眼の前にひと抱えほどの大きさの、木彫りの装飾が施された箱があった。屋根裏の空気は埃っぽく、少々黴臭くもあったが気にならない。それはいつものごとく鼻から顎まで濃い焦げ茶色の布で覆っているからではあるが、はやる心のせいでもあった。
ケイは箱の前に膝を突き、ゆっくりと開く。
紫色のベルベット。分厚いそれを指で摘んでめくると、几帳面に積まれた硬貨が現れた。
金貨だ――三百、いや四百枚はある!
儲けているとは知っていたが、絨毯商人は想像以上に貯め込んでいた。これは新たな商売の元手だろうか。若く、野心に満ちた商人ならさもあろう。
あるいは、ひょっとするとホーラーは貴族の娘とでも婚姻を考えていて、これは持参金なのかもしれない。多少なりとも財を築いて名を上げ、称賛を受けるようになると、次は地位や称号が欲しくなる。ひとかどの人物になろうとか、盗賊のケイにはよくわからない心性ではあるが、大枚をはたいてでも何者かになりたいといった手合いは〈王都〉にも少なくなかった。入り婿? いい話じゃないか。
腰の袋の口を開いて屋根裏の床に広げ、できるだけ音を立てないように箱の中のクロン金貨を移す。袋はふたつ。両方を合わせると結構な重さだ。腰の左右に吊るした時を考えて、できるだけ均等に金貨の枚数を分けた。
ベルベットを拝借して包み、ひとまとめに背負い袋に入れてもいいのだが、半分に分けておけば逃走時、袋のひとつをベスに任せられる。それに硬くて重い物を腰の袋に入れておくと別の使い方ができることもあった――振り回して行く手を塞ぐ面倒な奴をぶん殴るとか。
淀みなく手を動かすうちに、ケイの脳裏に先ほどとは別の筋書きが浮かんだ。
真っ当な商人が売上から抜いて、親にも伏せておく金の使い途は犯罪絡みとは言わないまでも、もう少し影のあるものではないだろうか。〝どもり〟のアーティのような恐喝屋に脅されて渡す金ならご愁傷様だが、たとえばホーラーには馴染みの娼婦がいて、それを身請けする金が必要なのだとしたら? ご承知でしょうけれど、リル(またはリリー)はうちの一番人気なんですよ。ですから、このくらいは出していただかないと、到底及びませんことよ……と業突張りな女主人に吹っかけられたわけだ。身請けしたらしたで、囲った愛人のために(すまないが妻にはしてやれないんだ)大金を用意しておかなければ! 蘭の花の壁紙を貼った、洒落た小さな家を買ってやろう。女のために金がいるなら、男爵だ子爵だと爵位欲しさの貴族への持参金よりも、こちらのほうがずっといい。
残念だったな、ホーラー。こいつはいただいておく。
袋の口を絞り、ベルトに巻きつけるようにして、まず右に、そして左にも吊るした。すべて金貨だから、その重みはずしりとくる。充分すぎる稼ぎだ。目玉が飛び出るような最低賭け金額と配当倍率の闇賭博にうつつを抜かすといった愚かなまねをしなければ、当分遊んで暮らせる。仕事に便利な隠れ家を一軒、調達してもいいかもしれない。この別邸のような立地と建物は――金の他にも信用とかいろいろ必要だから――無理だとしても下町の平屋ならば、いやベスも取り分から金を出してくれれば二階建てだって余裕だろう。まあ、そういう先行投資にベスが興味を示すかどうかはわからないが……。
ケイは静かに屋根裏から降り、縄梯子を戻して戸を閉じ、櫃と丸テーブルも元の位置に運んだ。
お次は裏帳簿だ。
ホーラーの隠し金はベスと折半の約束だが、裏帳簿をアーティに売って得る金はケイの総取りである。ただし、ここにあるかないかは五分五分。繁盛している店は、商人が蛇蝎のように嫌う〝吸血鬼〟――つまり徴税吏が舌舐めずりして詮索する対象だ。人の生き血を啜る悪鬼どもに収支をくり返し調整していることを気取られまいと、ホーラーが裏の帳簿も付けて表と辻褄を合わせ、税務対策しているのはほぼ確実である。しかし、その裏帳簿が別邸にあるかどうかは話が別だ。絨毯店のほうにあって、地下のどこかに秘匿されていてもおかしくなかった。あるいは本宅の自室に隠しているのか。
ここにあるとすれば執務室……重厚な事務机の、鍵がかかっていて、念入りに隠しをあつらえられた引き出しの中だろうか。今回の仕事は図に当たり続けているから、この調子で首尾よく仕入れできるかもしれない。
ケイは丸テーブルのそばから離れ、軽い足取りで扉に向かい、真鍮のノブに手をかけた。
様子からしてホーラーは不在。
ベスとの連携もつつがなく進行中。
さらに金は見込んだ部屋に隠されていた。
袋に詰め込んだのは大金だ! 順風満帆と言える。
こういうのを〝ご隠居〟は何と言っていたか――。
好事魔多し。
そういえば最近〝ご隠居〟の姿を見ないが、ついに牢にぶち込まれたという話は聞かない。さすがに寄る年波には勝てず、足を洗ったのではないだろうか。
世に盗賊の哀れな末路を語った物語――〝干物ドノバン〟もそのひとつ――は掃いて捨てるほどあるが、〝ご隠居〟の行状録はそれらとはまったく異なる幕を迎えそうだった。こうして盗賊は好々爺になって家族に囲まれ、時々、孫が台所の棚からお菓子を素早くくすねるのを眺め、猛禽のような目を細めて微笑むのでした。めでたし、めでたし。
そんな幸せな結末に至れたのは、〝ご隠居〟が手練れ中の手練れだということもあるが、懐に余裕のある変わり種だったことも大きい。この老人ほどの者であっても、過去に何度かお縄の憂き目に遭っている。だが〝ご隠居〟は抜け目なく、捕まりそうな時は必ず衛士に捕まるように立ち回っていた。奴らには袖の下が利く。〝ご隠居〟は苦もなく賄賂を出せて、交渉上手でもあった。おまけにめぼしい区の衛士隊長や下級判事への季節ごとの付け届けも忘れていない。何も知らない下っ端衛士が生真面目に賄賂を受け取らず捕らえたところで、老人の性分はあっさり見逃され、その夜のうちに……遅くとも翌日には無罪放免になるのだった。
これを知って〝ご隠居〟のことを「金で万事解決の銭ばらまき」と影で腐す者もいる。とんだ心得違いだ。この元会計は老いてもなお、そうまでして盗みたいのだ。いつまでも盗み続けるためにこそ、能う限りを尽くし、研鑽を積んできた。敬服する他にない。ケイは老盗賊の経験と、それに根差した立ち振る舞いを重く見ていた。
好事魔多し――うまくいきすぎは疑え。
〝ご隠居〟はそう言っている。
ケイは蝋燭の火を吹き消した。最大限に神経を張り詰めさせる。疑え、疑え。何でも疑うのはいいことだ。つい数秒前までの、ホーラーの金の用途を夢想するような浮かれた気分は瞬く間にしぼんだ。
冷たい真鍮のノブをじわじわと回す。
ケイは息を殺して跪き、右手を床に突き、ほんの少しだけ開けた扉の隙間から右耳を出す。
音とも言えない、空気の微かな響き。
床から手のひらにも感じる……誰かがこちらに向かって来ている!
ベスではない。ベスが来るのは脱出を余儀なくされた時だ。その時は誰に見つかろうともお構いなしで、脇目も振らずに階段を駆け上がるはず。こんなに静かなわけがない。
もしかしてベスは捕まったのか?
一瞬、慄然としたが、ケイはすぐにそれを打ち消した。それなら下で騒ぎになっているだろう。ベスは無事だ。ならば何者が?
目ざといベスが見逃すとは考えにくいが、状況から一番ありそうなのは使用人夫妻のどちらか、または両方。まさか、こんな深夜になってホーラーが本宅から帰ってきたのだろうか。それとも……。
音を立てるな。こっちには気づいていないはずだ。
しゃがんだままの窮屈な姿勢で細く開いた扉をくぐり廊下に出る。腰の袋が扉に当たりそうになって、さすがに肝が冷えた。
退室してひと呼吸する間にも、ケイは素早く幾重にも思考を巡らせ、広げていた。何かが起きている。なのに、この段に至るまで、驚くほど順調に事が運んでいたのはなぜか。
それは事前の情報に間違いがなかったからだ。情報に間違いがなく、ひとつも当てが外れなかった。
ひとつも――そんなことがあるだろうか。
〈王都〉の闇の中、そんなことがあるとすれば、あらかじめそうなるようになっていた時だけだ。
ホーラーの寝室の扉とは反対側の奥、突き当たりの出窓のあたりがぼうっと明るくなり、形の判然としない薄っすらとした影がカーテンに踊るのを見て、ケイは自分の考えが正解だと悟った。
三階に上がってくる何者かが明かりを手にしているのは別に不思議ではない。だが影の数は一、二、三……。おそらく五人! そして衣擦れとは違った、革鎧の耳障りなくぐもった擦過音がした。
――衛士隊だ。
ケイは低い姿勢のまま、小走りに妹用の寝室――最初に窓から入った部屋――の扉の前まで移動した。
そうやって雑に動けば、どうしても袋の中の金貨が音を立てる。だとしても今更、気にしたところで何の意味もなかった。すでに衛士たちは階段を上り切って振り返り、ひとりが手にしたランタンでこちらを照らそうとしているのだから。
「動くな!」
先頭に立つ衛士が静寂を破る。
なぜ、こいつらはいつも同じことを命じるのか――従うはずもないのに。
どうする? ケイは腰の左から金貨が入った袋を取り、手にしていた。方法を選んでいる場合ではない。だが、衛士たちのど真ん中に突っ込むつもりはなかった。強行突破するには道を塞いでいる人数が多すぎる。
袋の底のあたりをつかんで大きく振り回す。
大量の金貨がランタンに照らされて火花のように散らばり、金と金が打ち合わされる、涼しくて魅惑的な音が廊下に響き渡った。
突進しかけていた衛士たちの気が一瞬削がれる。
その隙にケイは控えの寝室に飛び込み、扉の鍵をかけた。これしかない。何重にも広げた思考が導いた結論だ。逃げおおせるための〝術式〟は廊下に出た時から組み立てている。〈王都〉の盗賊は一度にふたつもみっつも考えられなきゃやっていけない。
ケイは慌ただしくカーテンを、そして窓も勢いよく開けた。
――聞こえてるか? 衛士の犬ども。俺は窓から逃げるぞ。
扉の向こうは大騒ぎになっていた。馬鹿、何を拾ってるんだ! 後にしろ、後に! クソッ、鍵をかけやがった。使用人を呼んでこい。いいから叩き起こせ! ここを開けさせろ!
――聞こえてないな。まあ、いい。
左の肩から鉤縄を降ろし、窓の下枠に鈎を引っかけて縄を夜の闇の中に放った。上に――隣家の屋根めがけて投げてかけられればよかったのだが、残念だがここからの角度では無理だ。もう少し建物と建物の間隔が開いていれば……。
愚痴はよそう。
扉越しに聞こえる衛士たちの声や扉を叩く音が小さくなったということは、猶予はほとんどない。奴らは使用人がこの寝室の鍵を持ってくるのを待っている。肩を痛めるのを覚悟でマホガニーの扉に体当たりとか、馬鹿なまねをしなくてもよいのだ。真っ青な顔で三階に上がってくる使用人――夫のほうだろう――に開けさせればいい。すぐに開く。衛士たちは焦れながらも落ち着いて待ち、何人かはその間にこっそり金貨を一枚、懐に収めるかもしれない。後でばれたら不正行為で失職はもちろん、百シェール以上の窃盗の罪で裁かれるのを恐れなければではあるが、それでもやる奴はやる。捕り物の現場で自分の俸給とは比較にならない大金や財宝を見て、悪党に賄賂次第で逃がしてやると提案するだけでは飽き足らず、火事場泥棒に鞍替えする衛士はごまんといた。
心臓が早鐘のように打つ。
ケイは開いた窓の下枠に足をかけて乗った。
外の空気はぬるく、風はわずか。
ここから上には行けない。それなら縄で下に降りる他にないだろう。幸い、窓の真下に衛士はいない。いれば降ろされた縄を見て声を上げ、仲間に知らせるはずだ。
とはいえ、すでに隣家との間の路地の出入り口には衛士たちが目を光らせている可能性が高かった。降りて路地から出た途端に、待ち伏せていた衛士の手で御用となってもおかしくない。奴らを甘く見たら後悔する。盗みが盗賊の領分であるように、捕り物は衛士の領分だ。上は不可能、下も最善の道ではない。
だとしたら――。
前だ。
窓の下枠を思い切り蹴って、闇の中に身を投げ出す。そしてあわや体が隣家の煉瓦壁に激突せんとする刹那、ケイは呟いた。
「フリンジ」
――壁に吸い込まれるようにケイは消えた。
使用人が扉の鍵を開けたのは、それと同時だった。控えの寝室に突入した衛士隊が見たものは、開いたカーテンと窓、そして窓から下がった鉤縄だけだった。
そうとしか言いようのない空間だった。
もぬけの殻ではないが殺風景だ。絨毯が敷かれていなかったら、もっと惨めな有り様だったかもしれない。扉を背に奥の壁には窓があり、カーテンは閉じている。左右の壁には戸棚や衣装箪笥が押しつけられ、中央には小さな丸テーブル。そして片隅には馬車に積み込む旅行用の頑丈そうな木製の櫃が置かれていた。
木の櫃の蓋を開く。中に何もなくても、ケイは落胆しなかった。
あるわけがない。鍵をかけない部屋の収納に金を隠すような奴は救いようのない馬鹿だ。ホーラーがそうなら、百天秤街の店はとっくの昔に潰れている。戸棚や箪笥の中も、見込みは薄いだろう。まめな清掃を心がけている使用人が出入りしても、まず手を回さない場所――隠すならそこだ。
中身がないのはともかく、この木の櫃が時々動かされていることは見逃せない。どうやら放ったらかしにされていたわけではないらしい。絨毯にわずかだが、それを示す跡が残っている。だとすると――。
蝋燭立てを高く掲げて、ケイは天井を見た。
あった。
右奥隅に屋根裏に続く正方形の跳ね上げ戸。しかし金持ちの家がたいていそうであるように天井は高く、たとえ丸テーブルの上に乗ったとしても戸には手が届かない。にもかかわらず室内に梯子は見当たらなかった。
ならば、こうするのが正解だ。
蝋燭立てを椅子に置き、丸テーブルを跳ね上げ戸の下に運んで、その上に木の櫃を置く。これの上に立てば、手が届いて戸を開けられる。ケイは慎重に戸を跳ね上げ、口を開いた闇の中に手を差し入れた。
――そういうことか、ホーラー。
指に当たった物をつかんで引っ張ると、それははらりと落ちて垂れ下がった。
縄梯子だ。蝋燭立てを先に入れて素早く登り、屋根裏に上がると、眼の前にひと抱えほどの大きさの、木彫りの装飾が施された箱があった。屋根裏の空気は埃っぽく、少々黴臭くもあったが気にならない。それはいつものごとく鼻から顎まで濃い焦げ茶色の布で覆っているからではあるが、はやる心のせいでもあった。
ケイは箱の前に膝を突き、ゆっくりと開く。
紫色のベルベット。分厚いそれを指で摘んでめくると、几帳面に積まれた硬貨が現れた。
金貨だ――三百、いや四百枚はある!
儲けているとは知っていたが、絨毯商人は想像以上に貯め込んでいた。これは新たな商売の元手だろうか。若く、野心に満ちた商人ならさもあろう。
あるいは、ひょっとするとホーラーは貴族の娘とでも婚姻を考えていて、これは持参金なのかもしれない。多少なりとも財を築いて名を上げ、称賛を受けるようになると、次は地位や称号が欲しくなる。ひとかどの人物になろうとか、盗賊のケイにはよくわからない心性ではあるが、大枚をはたいてでも何者かになりたいといった手合いは〈王都〉にも少なくなかった。入り婿? いい話じゃないか。
腰の袋の口を開いて屋根裏の床に広げ、できるだけ音を立てないように箱の中のクロン金貨を移す。袋はふたつ。両方を合わせると結構な重さだ。腰の左右に吊るした時を考えて、できるだけ均等に金貨の枚数を分けた。
ベルベットを拝借して包み、ひとまとめに背負い袋に入れてもいいのだが、半分に分けておけば逃走時、袋のひとつをベスに任せられる。それに硬くて重い物を腰の袋に入れておくと別の使い方ができることもあった――振り回して行く手を塞ぐ面倒な奴をぶん殴るとか。
淀みなく手を動かすうちに、ケイの脳裏に先ほどとは別の筋書きが浮かんだ。
真っ当な商人が売上から抜いて、親にも伏せておく金の使い途は犯罪絡みとは言わないまでも、もう少し影のあるものではないだろうか。〝どもり〟のアーティのような恐喝屋に脅されて渡す金ならご愁傷様だが、たとえばホーラーには馴染みの娼婦がいて、それを身請けする金が必要なのだとしたら? ご承知でしょうけれど、リル(またはリリー)はうちの一番人気なんですよ。ですから、このくらいは出していただかないと、到底及びませんことよ……と業突張りな女主人に吹っかけられたわけだ。身請けしたらしたで、囲った愛人のために(すまないが妻にはしてやれないんだ)大金を用意しておかなければ! 蘭の花の壁紙を貼った、洒落た小さな家を買ってやろう。女のために金がいるなら、男爵だ子爵だと爵位欲しさの貴族への持参金よりも、こちらのほうがずっといい。
残念だったな、ホーラー。こいつはいただいておく。
袋の口を絞り、ベルトに巻きつけるようにして、まず右に、そして左にも吊るした。すべて金貨だから、その重みはずしりとくる。充分すぎる稼ぎだ。目玉が飛び出るような最低賭け金額と配当倍率の闇賭博にうつつを抜かすといった愚かなまねをしなければ、当分遊んで暮らせる。仕事に便利な隠れ家を一軒、調達してもいいかもしれない。この別邸のような立地と建物は――金の他にも信用とかいろいろ必要だから――無理だとしても下町の平屋ならば、いやベスも取り分から金を出してくれれば二階建てだって余裕だろう。まあ、そういう先行投資にベスが興味を示すかどうかはわからないが……。
ケイは静かに屋根裏から降り、縄梯子を戻して戸を閉じ、櫃と丸テーブルも元の位置に運んだ。
お次は裏帳簿だ。
ホーラーの隠し金はベスと折半の約束だが、裏帳簿をアーティに売って得る金はケイの総取りである。ただし、ここにあるかないかは五分五分。繁盛している店は、商人が蛇蝎のように嫌う〝吸血鬼〟――つまり徴税吏が舌舐めずりして詮索する対象だ。人の生き血を啜る悪鬼どもに収支をくり返し調整していることを気取られまいと、ホーラーが裏の帳簿も付けて表と辻褄を合わせ、税務対策しているのはほぼ確実である。しかし、その裏帳簿が別邸にあるかどうかは話が別だ。絨毯店のほうにあって、地下のどこかに秘匿されていてもおかしくなかった。あるいは本宅の自室に隠しているのか。
ここにあるとすれば執務室……重厚な事務机の、鍵がかかっていて、念入りに隠しをあつらえられた引き出しの中だろうか。今回の仕事は図に当たり続けているから、この調子で首尾よく仕入れできるかもしれない。
ケイは丸テーブルのそばから離れ、軽い足取りで扉に向かい、真鍮のノブに手をかけた。
様子からしてホーラーは不在。
ベスとの連携もつつがなく進行中。
さらに金は見込んだ部屋に隠されていた。
袋に詰め込んだのは大金だ! 順風満帆と言える。
こういうのを〝ご隠居〟は何と言っていたか――。
好事魔多し。
そういえば最近〝ご隠居〟の姿を見ないが、ついに牢にぶち込まれたという話は聞かない。さすがに寄る年波には勝てず、足を洗ったのではないだろうか。
世に盗賊の哀れな末路を語った物語――〝干物ドノバン〟もそのひとつ――は掃いて捨てるほどあるが、〝ご隠居〟の行状録はそれらとはまったく異なる幕を迎えそうだった。こうして盗賊は好々爺になって家族に囲まれ、時々、孫が台所の棚からお菓子を素早くくすねるのを眺め、猛禽のような目を細めて微笑むのでした。めでたし、めでたし。
そんな幸せな結末に至れたのは、〝ご隠居〟が手練れ中の手練れだということもあるが、懐に余裕のある変わり種だったことも大きい。この老人ほどの者であっても、過去に何度かお縄の憂き目に遭っている。だが〝ご隠居〟は抜け目なく、捕まりそうな時は必ず衛士に捕まるように立ち回っていた。奴らには袖の下が利く。〝ご隠居〟は苦もなく賄賂を出せて、交渉上手でもあった。おまけにめぼしい区の衛士隊長や下級判事への季節ごとの付け届けも忘れていない。何も知らない下っ端衛士が生真面目に賄賂を受け取らず捕らえたところで、老人の性分はあっさり見逃され、その夜のうちに……遅くとも翌日には無罪放免になるのだった。
これを知って〝ご隠居〟のことを「金で万事解決の銭ばらまき」と影で腐す者もいる。とんだ心得違いだ。この元会計は老いてもなお、そうまでして盗みたいのだ。いつまでも盗み続けるためにこそ、能う限りを尽くし、研鑽を積んできた。敬服する他にない。ケイは老盗賊の経験と、それに根差した立ち振る舞いを重く見ていた。
好事魔多し――うまくいきすぎは疑え。
〝ご隠居〟はそう言っている。
ケイは蝋燭の火を吹き消した。最大限に神経を張り詰めさせる。疑え、疑え。何でも疑うのはいいことだ。つい数秒前までの、ホーラーの金の用途を夢想するような浮かれた気分は瞬く間にしぼんだ。
冷たい真鍮のノブをじわじわと回す。
ケイは息を殺して跪き、右手を床に突き、ほんの少しだけ開けた扉の隙間から右耳を出す。
音とも言えない、空気の微かな響き。
床から手のひらにも感じる……誰かがこちらに向かって来ている!
ベスではない。ベスが来るのは脱出を余儀なくされた時だ。その時は誰に見つかろうともお構いなしで、脇目も振らずに階段を駆け上がるはず。こんなに静かなわけがない。
もしかしてベスは捕まったのか?
一瞬、慄然としたが、ケイはすぐにそれを打ち消した。それなら下で騒ぎになっているだろう。ベスは無事だ。ならば何者が?
目ざといベスが見逃すとは考えにくいが、状況から一番ありそうなのは使用人夫妻のどちらか、または両方。まさか、こんな深夜になってホーラーが本宅から帰ってきたのだろうか。それとも……。
音を立てるな。こっちには気づいていないはずだ。
しゃがんだままの窮屈な姿勢で細く開いた扉をくぐり廊下に出る。腰の袋が扉に当たりそうになって、さすがに肝が冷えた。
退室してひと呼吸する間にも、ケイは素早く幾重にも思考を巡らせ、広げていた。何かが起きている。なのに、この段に至るまで、驚くほど順調に事が運んでいたのはなぜか。
それは事前の情報に間違いがなかったからだ。情報に間違いがなく、ひとつも当てが外れなかった。
ひとつも――そんなことがあるだろうか。
〈王都〉の闇の中、そんなことがあるとすれば、あらかじめそうなるようになっていた時だけだ。
ホーラーの寝室の扉とは反対側の奥、突き当たりの出窓のあたりがぼうっと明るくなり、形の判然としない薄っすらとした影がカーテンに踊るのを見て、ケイは自分の考えが正解だと悟った。
三階に上がってくる何者かが明かりを手にしているのは別に不思議ではない。だが影の数は一、二、三……。おそらく五人! そして衣擦れとは違った、革鎧の耳障りなくぐもった擦過音がした。
――衛士隊だ。
ケイは低い姿勢のまま、小走りに妹用の寝室――最初に窓から入った部屋――の扉の前まで移動した。
そうやって雑に動けば、どうしても袋の中の金貨が音を立てる。だとしても今更、気にしたところで何の意味もなかった。すでに衛士たちは階段を上り切って振り返り、ひとりが手にしたランタンでこちらを照らそうとしているのだから。
「動くな!」
先頭に立つ衛士が静寂を破る。
なぜ、こいつらはいつも同じことを命じるのか――従うはずもないのに。
どうする? ケイは腰の左から金貨が入った袋を取り、手にしていた。方法を選んでいる場合ではない。だが、衛士たちのど真ん中に突っ込むつもりはなかった。強行突破するには道を塞いでいる人数が多すぎる。
袋の底のあたりをつかんで大きく振り回す。
大量の金貨がランタンに照らされて火花のように散らばり、金と金が打ち合わされる、涼しくて魅惑的な音が廊下に響き渡った。
突進しかけていた衛士たちの気が一瞬削がれる。
その隙にケイは控えの寝室に飛び込み、扉の鍵をかけた。これしかない。何重にも広げた思考が導いた結論だ。逃げおおせるための〝術式〟は廊下に出た時から組み立てている。〈王都〉の盗賊は一度にふたつもみっつも考えられなきゃやっていけない。
ケイは慌ただしくカーテンを、そして窓も勢いよく開けた。
――聞こえてるか? 衛士の犬ども。俺は窓から逃げるぞ。
扉の向こうは大騒ぎになっていた。馬鹿、何を拾ってるんだ! 後にしろ、後に! クソッ、鍵をかけやがった。使用人を呼んでこい。いいから叩き起こせ! ここを開けさせろ!
――聞こえてないな。まあ、いい。
左の肩から鉤縄を降ろし、窓の下枠に鈎を引っかけて縄を夜の闇の中に放った。上に――隣家の屋根めがけて投げてかけられればよかったのだが、残念だがここからの角度では無理だ。もう少し建物と建物の間隔が開いていれば……。
愚痴はよそう。
扉越しに聞こえる衛士たちの声や扉を叩く音が小さくなったということは、猶予はほとんどない。奴らは使用人がこの寝室の鍵を持ってくるのを待っている。肩を痛めるのを覚悟でマホガニーの扉に体当たりとか、馬鹿なまねをしなくてもよいのだ。真っ青な顔で三階に上がってくる使用人――夫のほうだろう――に開けさせればいい。すぐに開く。衛士たちは焦れながらも落ち着いて待ち、何人かはその間にこっそり金貨を一枚、懐に収めるかもしれない。後でばれたら不正行為で失職はもちろん、百シェール以上の窃盗の罪で裁かれるのを恐れなければではあるが、それでもやる奴はやる。捕り物の現場で自分の俸給とは比較にならない大金や財宝を見て、悪党に賄賂次第で逃がしてやると提案するだけでは飽き足らず、火事場泥棒に鞍替えする衛士はごまんといた。
心臓が早鐘のように打つ。
ケイは開いた窓の下枠に足をかけて乗った。
外の空気はぬるく、風はわずか。
ここから上には行けない。それなら縄で下に降りる他にないだろう。幸い、窓の真下に衛士はいない。いれば降ろされた縄を見て声を上げ、仲間に知らせるはずだ。
とはいえ、すでに隣家との間の路地の出入り口には衛士たちが目を光らせている可能性が高かった。降りて路地から出た途端に、待ち伏せていた衛士の手で御用となってもおかしくない。奴らを甘く見たら後悔する。盗みが盗賊の領分であるように、捕り物は衛士の領分だ。上は不可能、下も最善の道ではない。
だとしたら――。
前だ。
窓の下枠を思い切り蹴って、闇の中に身を投げ出す。そしてあわや体が隣家の煉瓦壁に激突せんとする刹那、ケイは呟いた。
「フリンジ」
――壁に吸い込まれるようにケイは消えた。
使用人が扉の鍵を開けたのは、それと同時だった。控えの寝室に突入した衛士隊が見たものは、開いたカーテンと窓、そして窓から下がった鉤縄だけだった。
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