超獣バウト:ハートに火をつけて

2.古い記憶の夢

 激怒した水牛のような顔に、酸素供給パイプの付いたマスクを被せられ、俺は爪先から角の生えた頭のてっぺんまで回復槽ヴァットに浸かった。
 薬臭ぇ。
 とはいえ、俺みてぇなデカブツは地上にいるより液体の中のほうが楽だ。
 超獣ギガの重量は、同じサイズの動物に想定される体重の三分の二以下だ。でなけりゃ、地上で立って自由に動くのはとうてい無理。クジラみてぇに海中を優雅に泳いでるしかねぇ。俺たちの見た目以上の軽さや機動力は機械の骨格や関節、装甲、さらに筋力増強、動力追加のおかげってわけだが、それでも数十トンあって当たり前の肉体は重力の影響をモロに受けちまう。
 だから集中治療時は液中に沈んだ負荷が少ない状態にして、薬の効果全開で、ちぎれた筋肉や壊れた組織を短い日数で回復させる。

〈メンテナンスモードに移行〉

 半覚醒のスリープモードから、俺はそのまま眠りに落ちた。
 たぶん、これが人間の睡眠に一番近い状態だろう。スリープモードはほとんど体を動かせないが、周りを見ることも聞くことも、何かが触れれば感じることもできる。メンテで眠れば、それはねぇ。感じるのは薬のせいなのか、体がチクチクするような、ごくごくわずかなむず痒さのようなものだけだ。
 ――そして、夢を見る。
 夢は嫌いだ。
 バウトの他に考えねぇ超獣ギガの生体脳が見せる夢なんて、だいたい気分のいいもんじゃねぇからな。
 中身は十中八九、まともに攻撃を食らった時の苦痛や恐怖、追い込まれた時のゲロを吐きそうな焦燥感のぶり返しよ。たいていは直前の試合マッチを反芻するようなもんで、そりゃ勝ちの興奮がよみがえることもあるっちゃあるが、俺はそういう人格パターンなのか、痛みや焦りを見るほうが多かった。
 他の超獣ギガはどうなんだろうな?
 ひょっとしたら、デビューから勝ち星を重ねてスターダムを駆け上がったスーパーチャンピオン超獣ギガなら、もうちょい栄光に包まれた夢を見るのかもしれねぇ。
「ジミー、次の試合マッチはいつだ?」
 格納庫ケージ内の操作卓コンソールに陣取って、モニターを見つめたまま、ヘンリーが言った。
 もちろん、これは夢だ。
 また、ずいぶん古い記憶メモリーがほじくり返されたな。バウトの夢じゃねぇのは幸いってとこか。
 後ろを通りすぎようとしていたジミーは足を止め、
「カーンのか? もう少し待っていろ。今、各方面と交渉中だ」
 と返す。
「それより二週間後のメイン・イベントに集中してくれ。こいつは勝ってもらわなきゃならん」
 ああ、これはグリズリー・パンツァーのデビュー戦前だ。
 確か、こんなやり取りがあった気がする。グリズリーはジミーの会社、レムリ・プロモーションが鳴り物入りで売り出した超獣ギガで、タイトルをもぎ取った実力者だ。いいバウトしてたぜ。ヤツのサバ折りに耐えられる超獣ギガはそういねぇ。もう引退したがね。
 ヤツのデビューってことは……やっぱりな、お嬢もいる。
 お嬢は飛んだり跳ねたりがちっとはできるようになったばかりで、この頃が一番、父親に連れてこられていた。ベビーシッターに預ける時期はすぎたが、まだ誰かがずっと見ててやらなきゃいけねぇ。母親がいりゃ、世話なかったんだろうがよ。いねぇから、父親が職場に連れてくる。
 ヘンリーの妻、シェリーはお嬢を産んで、亡くなった。
 お嬢も死産になると危ぶまれたそうだが、何とか持ち直した。
 人間は大変だな!
 俺たちは設計されて、培養された生体部品と機械を組み合わせて完成だ。まれにうまくいかないこともあるがね。それでも獣よりもはるかに、人間と比べてもずっと、新生時の死亡率は低いし、端っからデカく生まれる。
 今もお嬢はちいせぇが、こん時ゃ、まるで豆ツブだ。
 それから十数年で背丈は伸びて、頭も口も回るようになった。
 “育つ”ってぇのは、大したもんだぜ。超獣ギガは改造や改良されることはあっても、体の発育や成長はねぇからな。かく言う俺も二十年やってるから、あちこち手が入っちゃいるんだが、基本は何も変わらねぇ。でも、お嬢は今と昔じゃ丸っきり別の生き物だ。
 自分が三年ほど先に生まれてるからって、兄貴ぶるわけじゃねぇが、お嬢は髪も伸びて、母親似の美人になった。
「グリズリーは勝つさ。期待してくれていいぜ、ジミー。初戦でいいバウトのデータも取らせてやる。
 俺じゃなくても、ハートのあるセコンドなら、誰でも勝てる超獣ギガに仕上がるようにな!」
 ヘンリーは不敵に笑った。
「はっ! ぜひとも、そうして欲しいもんだ!」
 呆れながら、ジミーも口の端を上げて笑っている。
 ヘンリーは振り向いて右の拳を突き出し、ジミーもそれに右の拳を突き合わせ、互いにグッグッと押し合った。ふたりが約束を交わすサインだ。身長百九十センチオーバーで筋肉ゴリラのヘンリーと、洒落者気取りでちびのジミーは、いいコンビだった。
「メイン・イベントは俺も顔を売るチャンスだ。結果は出す。その代わり――」
 拳を引っ込めて、操作卓コンソール超獣ギガとのリンクに用いる白竜パイロンシステムの設定をいじるのに戻りながら、ヘンリーは言った。
「――カーンの試合マッチも頼むぜ。
 誰が相手でもかまわねぇ。俺とカーンが何とかする。どう転んでも損はさせねぇよ」
 ジミーは天を仰ぎ、苦笑した。
「お前の超獣ギガだ。好きにしろ」
 そして古風なソフト帽を被り直し、お嬢の後ろ姿を眺めて呟いた。
「稼がなくっちゃだからな、嬢ちゃんのためにも」
 その時、小さなお嬢はポカンと口を開けて、俺を見上げていた。そうやってしばらく、スリープモードで半分閉じた俺の金色の目を不思議そうに見つめていたが、ふいっと横を向くと、そっちに何があるのか、走り出した。
 いったい、何が見えてるんだろうな? 人間の子供ってのは。
 どう見ても何もないところに駆け寄っていく。そこでじっとしていたり、声をかけてきた大人相手にニコニコしていたりしたかと思うと、また意味もなく――そういうふうにしか思えねぇ――あらぬ方向にゴムまりみてぇに跳ねていく。はしゃぎながら、かっ飛んでくるお嬢に、ジミーのスタッフが驚かされるのはおなじみの光景だった。
「こらこら、走っちゃダメだぞ!」
 そう叱りながら、みんな笑顔だ。
 お嬢はこの職場のアイドルで、生まれてすぐに命を落としかけたのを誰もが知っていた。それが元気に走り回ってんだ。文句を言うヤツぁいねぇよ。
 だが、まぁ、あんまり走り回ると――ほら、転んだ。
 うつ伏せに倒れたお嬢は、きょとんとした顔をしていたが、みるみる目に涙が溜まって泣きだした。間の悪いことに、エンジニアたちも別の格納庫ケージに行っていて、今ここにいるのはヘンリーとジミー、そして俺だけだ。
 ジミーがあわてて駆け寄ろうとするのを、ヘンリーが止めた。
「よせ、ジミー。自分で立たなきゃ意味がねぇ」
「スパルタか? 今どき流行らん――」
 ヘンリーはジミーの抗議を無視して大声を張り上げた。
「立て、エルザ!」
 お嬢は父親が起こしにこないとわかると、涙でぐしゃぐしゃの顔を俺のほうに向けた。
 俺は動けねぇよ!
 動けたとしても、リンクしたセコンドに指示されなきゃいけねぇ。
 バウトに必須の挙動以外は自発的にやれねぇんだ。それに指示があったところで、お嬢をプチッと潰しちまう。そういうのはもっと小型の、軽作業用とか救助用の機獣メガがやることだ。
 お嬢は頼りない手足を、もぞもぞと動かした。
 ほら、立てよ。
 両手両足を突いたまま、ふんばって体を床からフラフラと持ち上げる。
 危ねぇなぁ! なんで先に膝を突いて上半身を起こさねぇんだよ。また、そのままコロンと倒れそうじゃねぇか。
 ――って言えりゃいいんだがな。
 あいにく、そいつぁ無理な相談だ。それに、しゃべれねぇならしゃべれねぇで、あれこれ細けぇことを言葉以外で伝える方法を思いついて、試せりゃいいんだが、超獣ギガの生体脳はそんなふうに設計されてねぇ。バウト専用の脳ミソは人間みてぇには融通が効かねぇのよ。
 おかげでもどかしいし、実際ヒヤヒヤするんだが、お嬢は倒れなかった。
 はいつくばった状態から、じわじわと腰を上げ、前屈して両手を床に突いたような姿勢になる。
 そして上半身を起こして、しっかり直立した。
 やりゃ、できるじゃねぇか。
 立つと、お嬢はどういうつもりなのか、俺を見て、まっすぐ高く右手を挙げた――誇らしげに。
 何だそりゃ?
 この問題がわかるひと、手を挙げて。
 はいっ、先生! ってか。
「いい子だ、よくやった!」
 ヘンリーがお嬢を後ろから抱き上げる。お嬢は笑い声を上げ、父親にしがみついた。
 ジミーは少し離れたところから、腰に手を当てて、ほっとした様子でそれを見ている。
 ――まるで、おとぎ話みてぇな時間。
 数年経つと、お嬢は学校に通うようになって、あまり顔を出さなくなった。
 たまにやってくるたびに、すくすく育ってるもんだから、俺も、ジミーやスタッフたちも驚かされた。俺から見たら当然として、周りの大人から見ても、小さく細いまんまではあったがね。豆ツブから、ちびた鉛筆くらいにゃなったな。それに何より賢くなった。
 礼儀正しくて、学業優秀で、地元で一番の名門ハイスクールに入学した。
 そんな矢先に、ヘンリーが死んだ。
 クモ膜下出血で、あっけなく――。

 生前、ヘンリーはよく言っていた。
超獣ギガバウトはメンタル・コントロールのスポーツだ」
ってな。
 回復槽ヴァットに浸かった俺が見る、また別の夢の中でも、ヘンリーはそんなご高説を垂れていた。
「自分は動かねぇ、リンクしてても体は痛まねぇからって、バイタル――超獣ギガの体力さえ尽きなけりゃ、何ラウンドでも戦えると思ってる馬鹿が多すぎる」
 ヘンリーはデリバリーの紙容器に入ったクンパオチキンにフォークを突き刺して口に放り込み、缶ビールをがぶ飲みした。
「そもそもワールドクラスでも最大十二ラウンドしか許されてねぇ。それでいて全ラウンドが終了しても勝敗決さず、ドローになる試合マッチはバウトじゃまれだ。なんでそうなるか? って、ちったぁ考えりゃわかることさ。
 気力がもたねぇんだよ!
 ダメージの苦痛や恐怖はもちろん、調子ぶっこいた攻勢で熱狂するんでも気力はごりごり削れる。我に返ったら超獣ギガもセコンドもへとへとで、倒れたら最後、もう立ち上がれねぇのさ。これ以上は危ねぇって、強制でスリープやメンテナンスに移行しなくってもな!」
 それを聞きながら、ジミーはえっちらおっちら運んできた折りたたみテーブルを広げて呟いた。
「“世紀のドロー”……バスター・ウルフとクラーケン・クラックのタイトルマッチも、最終十二ラウンドにダブル・ノックダウンだった。最後までもつれ込んで、結局どっちの超獣ギガも立っていて煮え切らないまま終わる試合マッチはまずない。
 そこもバウトの魅力だが――」
 ジミーは手のひらでテーブルを叩く。
「――操作卓コンソールの上に食い物を置くな! こっちに載せろ。ビールもだ!」
 そして折りたたみの椅子を開いて座り、小言を続けた。その口調には不満がにじんでいる。
「で、そのいつものバウト論が、ラッシン・ライノを売ってカーンを残した理由か?
 ライノは看板を張れる、いい超獣ギガだ。お前がセコンドに就いてればランキング上位、いや、タイトル奪取も夢じゃない。売るなら旧型で勝ったり負けたりのカーンじゃないか?
 カーンもライノもオーナーはお前だ。好きにすればいいし、止めはせんが、プロモートする側としちゃ納得はできん」
 ヘンリーはクンパオチキンとビールをテーブルに移して苦笑した。
「ま、ライノを売る理由は端的に言や、金さ。エルザをいい学校に入れてやりてぇ。いろいろと物入りなんだ」
「そういうことなら――」
 ジミーの言葉の先を制して、ヘンリーは言った。
「金の貸し借りは極力しない主義でね。カーンを買う時に頭金を出してもらった。それで充分だ。
 ライノはいい超獣ギガだから売り時だった。実際、高く売れた。そういうことさ」
 ヘンリーはクンパオチキンのナッツを指でつまんで口に運び、噛み砕く。
「売ってもカーンにはロクな値段が付かねぇだろ。
 それに、こいつは特別なんだ。買い手がいても俺は売らねぇよ」
 ジミーは顔をしかめて腕組みした。
「これまでカーンが稼いでくれたことは認める。
 今どきの繊細な高性能超獣ギガじゃ考えられんほど頑丈で、構造がシンプルなぶん回復も早い。派手に負けてなんぼの咬ませ犬アンダードッグ扱いでもへこたれない上に、勝てる試合マッチにはしっかり勝つ。だが、この先、対戦相手との地力の差は開くばかりだぞ? そろそろ見切りをつけなきゃいかん」
「それは今じゃねぇさ。カーンはまだまだ稼げる。ひょっとすりゃ、潮時が来るのはずっと先かもな。
 売りのタフネスは図体のおかげばかりじゃねぇ……特別なのは、別のところよ」
 ヘンリーはニヤリと笑って、フォークの先で自分の頭を指した。
「カーン・ベヒモスはクレバーなファイターで、高度なメンタル・コントロールが可能な超獣ギガだ。
 セコンドの俺にゃわかる。こいつは――」
 頭上の俺の顔に向けてフォークを振る。
「――自分の苦痛やプレッシャーがリンクを介してセコンドに伝わる前に、うまいこと抑えたり散らしたりしてやがる。お互いの気力が無駄に削れねぇようにしてんだ。
強いストレスを超獣ギガから渡されても冷静さを保ち、次の一手を示して鼓舞するのはセコンドの務めだ。しくじってセコンドが動揺すれば、それは超獣ギガに伝わる。伝わった動揺は超獣ギガのストレスになって、またセコンドに……行ったり来たりする精神的な負荷は雪だるま式にデカくなるんだ! これが始まったら、簡単にゃ止められねぇ。
 それを知ってか知らずか、こいつはその悪循環にハマるのを避けてるのさ」
「ふん、小難しく言っちゃいるが、要するにカーンならバウト中、ガス欠にならずに限界いっぱい戦えるってことだな。おまけに、そんな無茶をしてもボディは頑丈でぶっ壊れない。勝負が長引いて大怪我してもリカバリしやすい。咬ませ犬アンダードッグにはうってつけの性能だ」
「それだけじゃねぇ。気力が尽きずに粘りに粘れるからこそ、並のこっちゃ勝てるはずがねぇ相手に大番狂わせを起こせる! まあ、そういつも都合よくはいかねぇけどよ」
 ヘンリーは豪快に笑った。
 一方、ジミーはいぶかしげな表情のままだ。
「しかし、にわかには信じられん。
 超獣ギガの生体脳はバウトに全力を尽くすが、メンタル・コントロールなんて器用なことができるように設計されちゃおらん。戦う頭脳ブレイン筋肉ブローンはあってもハートはセコンド持ち――。
 あれだ、白竜パイロンシステムのフィルタリングがうまくいってるだけじゃないか?」
「違うな。
 これでも俺はかなり神経を使って、毎回の試合展開を予想してフィルターの強度を設定し直す。ところが、いざ本番になると想定よりも確実に負荷が下がる。今じゃ俺はカーンが苦痛やプレッシャーをさばくこと前提で調整してるぜ」
 少し黙って、ヘンリーは缶ビールをあおった。
「システムでリンクしてると、感じるんだよ。
 カーンの金色の目が俺を見ている……調子はどうなんだ? まだやれんのか? あと何発食らっても潰れない? ってな」
 ジミーは辟易したように頭を振った。
「まるでオカルトだ! 特定個人専用に、厳選した人材群からデータをとった特注の人格パターンならそういうことも、ひょっとすればあるかもしれない。
 だが、カーンの人格パターンは誰がセコンドになってもいいように、十把一絡げの雑なデータをラーニングして組んだだけの代物にすぎん」
 ずいぶんな言い草だが、そのとおりさ。
 超獣ギガの脳ミソに組み込まれる人格パターンは本物の個性パーソナリティじゃねぇ。
 どっかの誰か、それもたいていは大人数から寄せ集めたデータを基に、バウトにいらない要素を削って組んだものを脳に学習させる。雑だからこそ、元データの些末な知識や性質が残って個体差が生まれるんだが、あくまで用途に合わせて作られた人工物なんだよ。
 それを承知の上で、なおヘンリーは譲らなかった。
「雑なラーニングに奇跡が起きたのかもしれねぇぜ?
 何にせよ、俺は自分が感じたことを信じる。他はともかく、バウト中に感じたことはな!」
 ――そうさ。
 ヘンリーは間違っちゃいなかった。
 俺はずっとヘンリーを見ていた。
 あとどのくらいダメージに耐えられんのか、どこまでプレッシャーで潰れねぇのか、まだ攻撃に転じるガッツはあんのか……。
 だから、俺はこいつが無理してるのを知っていた。
 お嬢がちっとは大きくなったあたりから、ヘンリーは少しでも金を稼ごうと、ジミーに頼み込んで自己所有の俺やライノだけじゃなく、レムリ・プロモーション所属の他の超獣ギガのセコンドも驚くほどハイペースでこなしていた。もともとバウト馬鹿だから試合マッチのスケジュールを詰め込みがちだったが、もし超獣ギガバウトに年間最多出場賞があったら、文句なしで受賞していただろう。それをジミーは、
「少しは考えろ! お前がいくら体力ゴリラでも限度ってものがある!」
 と口を酸っぱくしてとがめるのだが、お嬢のためだとわかっているだけに、結局、止められやしなかった。
 で、俺はと言えば、ある時からバウト中に伝わってくるヘンリーの意思や感覚に、わずかな違和感を覚えるようになっていた。
 じわじわと疲労が蓄積してるのは明らかだが、それだけじゃねぇ。「ガードを固めろ」とか「攻勢に出ろ」といった指示や、呼吸を整えて怒りや焦りを抑えようとしている感覚に、小さなトゲが指先に当たるような、神経を逆なでする何かが混ざっていた。
 今思えば、それはヘンリーの頭ン中で血管のこぶが破裂する前触れだったんだろう。
 俺は見ていて、気づいていた――が、気づいただけだ。
 それをヘンリーやジミーに伝える方法はないし、伝達手段を考えることすらできなかった。
 俺に医療検査メディカル・プローブ警告アラートの機能があれば、早々に違和感の原因が病気だって判断して、赤ランプをピカピカさせたはずだ。もちろん、そんな機能やランプが付いてる超獣ギガはいねぇ。セコンドの心身状態はバウト関係者に義務づけられてる、年に一度の健康診断で診るもんだ。
 不穏なものを感じながら、俺にやれんのは、試合マッチでの苦痛をできるだけヘンリーに渡さないことだけだった。
 俺から何かを渡すことはできねぇが、渡しちゃマズいものを渡さねぇようにするのは、何とかできる。
 ――痛みを無視しろ。効かなかった。今、食らった攻撃は俺にゃ効かなかったんだ! この程度はピンチじゃねぇ。カーン様にとっちゃ平常運転よ。
 こんなふうにバウト中、のべつ幕なしに軽口を叩きまくって、本当は効いちまったダメージを、さも効かなかったようにごまかす。これがヘンリー言うところの「高度なメンタル・コントロール」の正体さ。
 ようは強がりのやせ我慢、“効いてないふり”だ。
 バウト以外に能がない俺は、それでうまくやれてるつもりだった。
 結局、そんなんじゃ帰宅途中の路上で深夜、ヘンリーが倒れ、手遅れになるのを防げやしなかったのに――。
 そしてヘンリーの葬儀から一年も経った頃、お嬢が俺のセコンドになろうとレムリ・プロモーションの門を叩くなんて、思いもよらなかったし、止めようもなかった。
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